第一話 雪の夜のみぞれ鍋
お待たせいたしました、更新再開です。
「セージさん、雪ですよ! 雪!」
「寒いと思ったら、降り始めたか……」
「積もるといいですね、積もりますよね?」
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
ちらちらと降り始めた雪をリビングのガラス窓越しに眺めつつ、はしゃぐミューラとコタロウ。
それに合わせて、長く美しい銀髪が揺れる。もちろん揺れるのはそれだけではなかったが、誠司はそっと目を逸らした。
サファイア色の瞳には、邪な心を浄化してしまいそうな純真な光が宿っている。
今日のミューラは、黒のセーターに同色のタイトスカートという出で立ちだ。それに、目の細かいストッキングと、さらに室内用の靴下を履いている。
くっきりと体の線が出ているファッションだが、ミューラは恥ずかしがりもせず堂々としており、それがさらに美しさを強調している。
これはもちろん、誠司が――そして、ミューラが――選んだ服ではない。
有朱が似合いそうだからと購入してきており、ミューラのクローゼットは充実しつつあった。それに反比例して誠司の財布は軽くなっているのだが、問題視するほどでもない。
今は、まだ。
「かなり、降ってきてるなぁ……」
タブレットをこたつの上に置き、誠司がソファから窓の外を見やる。
目にかかるほど長い前髪の奥に、表情は容易にうかがえない。しかし、180cmはある大柄な体の動きは緩慢で、見るからに物憂げ。
誠司にとって、雪自体に驚きはない。天気予報で、それこそ一週間は前から警告されていたことだ。雪に備えて、多めに買い物もしてある。
しかし、表情はいつも通り変わらないものの、少し困ったような声音だった。誠司にしては、非常に珍しいことだ。
「ええー? なんでそんなにテンション低いんですか、セージさん! 雪ですよ! 雪!」
リビングのソファから移動しようとしない誠司の手を引き、ミューラが無理矢理窓際へと移動させた。元気な少女と怠惰な大人の組み合わせは、見ようによっては微笑ましい。
小さなポメラニアンが、その足下にまとわりついているとなると、なおさら。
「ふあぁ……。雪って、実在したんですね。おとぎ話の中だけの存在かと思っていました」
「……そうか。ミューラの国は、南の方にあったんだったか」
異世界にそのまま当てはめていいのか分からないが――地球上ですら、当てはまらない地域もあるのだから――気付いてしかるべきだったと、誠司は自らの不明を恥じる。
だが、それとこれとは話が別。
「雪なんて、寒いだけだろう。傾向的に、うちの辺りだと積もらずに溶けるしな」
「ええー? なんでですか?」
「海沿いは、風で雪が飛ばされたりして積もらないんだよ」
このように、はっきりと降っているのが見えるほどの雪は珍しいが、皆無でもない。年に一回ぐらいは、派手な降雪に遭遇する。
それが休日だったのは、幸運だった。こんな天候で通勤など、悪夢以外のなにものでもない。こんな日は、暖房を効かせた部屋で大人しくしているに限る。
「むしろ、雪は残らず、路面が凍結するだけというオチもある」
「……セージさん、雪嫌いなんですか?」
「文明の発展には、温暖な気温が必要だ。今は否定されているが、四大文明のいずれも寒冷な気候ではないことが証明しているだろう」
「否定されているのに、証明っておかしくないですか?」
「まあ、そうだが……。四大文明と誤認するほど栄えた地域に寒冷な気候が含まれないというのが、俺の主張のメインだ」
「セージさん、寒いの嫌いなんですか?」
「俺はフィンランド人じゃないからな」
誠司は、ミューラが理解できるはずもない言い回しで肯定する。
「寒いと、本を読む手もかじかむからな」
「あ、すごい納得しました」
腑に落ちたとは、まさにこのことだろう。曇りのない笑顔で、ミューラはぽんと手を叩いた。
「じゃあ、コタロウちゃんのお散歩も今日はお休みですね」
「……いや」
やや曖昧な否定の言葉を口にした誠司は、ミューラから目を逸らす。
すると、コタロウと目が合った。
窓際でぴちっとお座りをして、誠司をつぶらな瞳――年のせいでやや白くなっているが――で見上げるコタロウと。
そこには無邪気なまでの信用と、全幅の信頼。そして、積もった雪よりも深い期待があった。
今からか、これからなのか。コタロウのやる気がみなぎっているのが、手に取るように分かった。
「たぶん、すぐに帰ることになるとは思うけど、行くよ」
「すぐに帰ってくるんだったら、寒いですし止めたほうが?」
「俺もそう思うんだが、実感しないと、コタロウが納得しないんだ」
犬種にもよるのだろうが、少なくとも、コタロウは雪が降っても喜んで駆け回ったりはしない。その代わり、どんな天気だろうと絶対に、散歩には行きたがる。
これは、雪だけでなく台風などでも変わらない。
だから、犬用のレインコートを着せて、散歩には行くのだ。
そして、10分もせずコタロウは「こりゃ、無理ですわ」と、こちらを見上げて散歩は終了となる。
「コタロウちゃん、欲望のまま生きてますね……」
さすがにあきれたミューラが、お座りをし続けているコタロウを背後から抱き上げ、「もー。わがままさんですね」と、白い頬を顔に擦り付けた。
「ミューラに言われるのは、コタロウも不本意だろうな」
「どういう意味ですか、セージさん。ひどくないです?」
「正月に言っていた、料理をするという話は、その後どうなったんだ?」
「そ、その点に関してはアリスちゃんと鋭意協議中と申しますか……あっ、雪が、さっきより強くなってませんか?」
コタロウの前肢を掴んで窓の外を指し示すミューラ。
誠司としても、絶対に進めて欲しいというわけでもないので、そのごまかしに乗ることにした。
それよりも、コタロウの散歩のほうが、目下の懸案。
しかし、まさか深夜に散歩へ出かけることになるとは、このときの誠司は想像もしていなかった。
「あイタッ……。うう……。至る所に本が……。というか、本しかないですぅ」
人も草木もすっかり寝静まった時刻。
誠司の部屋に、一人の少女が侵入した。
「セージさん」
どうにか壁際のベッドまで到達した少女――ミューラが、きっちり肩まで布団をかぶった青年の名を耳元でささやく。
だが、反応はなかった。
誠司は、異常に寝相がいい。むしろ、本当に生きているのか心配になるほどだ。
「……セージさん、セージさん」
今度は、ミューラが――少しだけ躊躇してから――誠司の肩を揺すった。
「起きてください、セージさん」
「なにが……」
ようやくというべきか、誠司の目がわずかに開いた。しかし、完全には覚醒していないようで、惚けたまま。
「寝起きのセージさん、かわいいですね。って、ゲーム機で写真を――」
「――それは止めろ」
寝起き特有のしゃがれた、不機嫌そうな声。
それに驚き、ミューラがびくっと震えた。
しかし、驚いたのは誠司も同じだった。
「いや、悪い。怒っているわけじゃない。俺でも予想外な厳しい声だった」
それはどうでもいい。問題は、こんな時間に起こされたこと。それ自体にあった。
「なにか起こったのか?」
「雪が、どんどん降っているんです」
「……それで?」
マンションだから、雪が降ったぐらいでどうにかなることもない。
なにが問題なのかと、誠司はミューラを鋭い視線で射抜いた。
「せっかくなので、お外に出てみたいんですが……ダメ……でしょうか?」
「…………」
それは予想外の申し出だった。
しばし、誠司は黙考する。
無言の圧力に晒され、神妙にしつつも毅然と顔を向けるミューラ。
「分かった」
「やっぱりダメですよね……って、分かった!?」
「この時間なら、最低限のカモフラージュでいけるだろ」
ベッドから起き出そうとした誠司に場所を譲るため、ミューラは後ろに下がった……が、スムーズにとはいかない。
「あいたっ。もう、誠司さん、本多すぎですぅ。いつか、床が抜けちゃいますよ!」
「本望だ」
本の山が崩れていないことを確認した誠司は、覚悟を完了させた表情と口調でミューラに言う。
「それよりも、雪を見に行くんだろ?」
「はっ。セージさんの気が変わらないうちに、準備をしてきます!」
「風邪を引かないように厚着でな」
「はい!」
飛び上がるようにして部屋から出て行くミューラ。その後ろ姿が見えなくなったのを確認し、誠司は厚手のコートを引っ張り出した。
あとは、ミューラと有朱から贈られた手袋とマフラーで準備完了。
「キュゥゥン……」
自室から廊下に出た誠司の足下から、甘えるような声がした。外出の気配を察して目を覚ましたのだろうか。
コタロウが、置いていかないでと誠司の足に体を擦り付ける。
「……一緒に行くか」
「ゥワンッッ! ゥワンッッ!」
「え? コタロウちゃんも一緒ですか!」
防寒具を用意したミューラが、諸手を挙げて歓迎した。サファイア色の瞳は、喜びに輝いている。
「深夜だから、静かにな」
誠司としては、もう、それぐらいしか言えない。
コタロウにレインコートを着せると、そのまま抱き上げて外に出た。傘は、ミューラが手にしている。
「……やっぱり止めようとか言いませんよね?」
「言っても聞かないだろ?」
玄関を開けた瞬間の冷気にも負けず、マンションの敷地内にある広場へと向かった。
雪がしんしんと降る深夜。当然ながら、人影はおろか近くの国道を車が走る音も聞こえない。これなら、外見をごまかしたり、存在感を消す呪文なども必要ないだろう。
痛いほどの静寂が誠司とミューラ。それに、コタロウを包みこんでいた。
「ふわわっ。積もってますね!」
積もっていると言っても、精々、5mmか1cm程度だろうか。
それでも、広場はまっさらに雪化粧が施されていた。
「セージさん、先に行きます!」
我慢できないと、傘を差したままミューラが走り出す。それを追ってコタロウも。道に、一人と一匹の足跡が刻まれる。
それを追うことは、誠司にはできなかった。
風は冷たく、切るような寒さだ。
思わず首をすくめると、手編みのマフラーに顔の半分が隠れてしまう。手袋もそうだが、この冬はかなり快適に過ごすことができた。感謝もしている。
けれど、ここまでの寒さは許容範囲を超えていた。
猫背気味に身をすくめながら遅れて誠司が広場に到着すると、ミューラが身を屈めて積もった雪に手を伸ばしていた。コタロウは、やはり駆け回ったりはせず、マイペースで周辺の匂いをふんふんとかいでいる。
「冷たっっ。ほんとに冷たいんですねぇ」
嬉しそうにこちらを見上げてくるミューラを、街灯が淡く照らし出す。
誠司の言いつけを守ったようで、黒いセーターの上にはカーディガンを着込んでおり、長い袖が手袋の代わりになっていた。
時折息を吐いて手を温めている様は、実に可愛らしい。
ミューラの現実離れした美貌と相まって、まるで雪の妖精のようだった。そういえばと、初めて見たときは北欧辺りの人間ではないかと想像していたことを思い出す。
「なんですか、セージさん。ずっと、こっちを見て。もしかして、わたしに見とれちゃいましたか?」
「そうだな。雪の妖精みたいだなって思ってたよ」
「分かってますよ。コタロウちゃんが可愛いかったってオチなんですよね……って、えええええ!?」
まさに、驚天動地。
しゃがみ込んだまま、これは夢ではないかと、ミューラは目をぱちくりとさせる。
「そんな、セージさん。ええ? いきなり告白してきてどうしたんですか? ついに、ついにデレ期ですか? デレ期到来ですね!?」
「いや、客観的に感想を述べただけだ。そこに、特別な感情は微塵もない」
デレ期とはなんなのか。
多少疑問に思わないでもなかったが、確認してもろくなことにはならないだろうとスルーする。
「微塵も!? いえいえいえ、そこは、特別な感情を抱いてくださいよ!」
「……難しいな」
「それはこっちの台詞ですぅ。もう、セージさんのバカ!」
可愛らしい罵詈雑言とともに、ミューラが手にした雪を投げる……が、シャーベットに近く遥か手前で落下してしまう。
「えいっ!」
気合いを入れてもう一度雪を投げるが、結果は同じだった。
「もう、こうなったら直接攻撃です!」
おもむろに立ち上がると、ミューラが手を伸ばして誠司目がけて走り出した。どうやら、冷え切った手で誠司にお仕置きをするつもりのようだ。
「ゥワンッッ!」
それに気付いたコタロウが、嬉しそうにミューラを追いかける。
「ちょっと、コタロウちゃん!? なんで、わたしを追いかけるんです!?」
「ゥワンッッ!」
当初のコースを逸れ、広場をぐるぐると駆け回る王女様と小型犬。誠司の存在は捨て置かれ、一人と一匹の足跡が、広場に刻まれていった。
「雪と、足跡か……」
ミューラとコタロウの追いかけっこを眺めつつ、傘を差した誠司は一人つぶやく。
その組み合わせで誠司が思い出すのは『白い僧院の殺人』だ。
作者は、カーター・ディクスン。
カーター・ディクスンは「密室の帝王」ジョン・ディクスン・カーの別ペンネームだが、エラリィ・クイーンにおけるドルリー・レーンのように、作品の根幹に関わるため別ペンネームにしたわけではない。
簡単にいってしまえば、契約の問題だ。
カーは『夜歩く』でデビューしたのだが、契約で、年に出せる本の冊数が決まっていた。
しかし、創作意欲に溢れ――そして、より多くの収入も得たい――カーは、別名で出版することを選んだ。別名がほとんど変わらないのは予定外のアクシデントだったようだが、元々、隠す気があったのかは疑わしい。
それほど、探偵役であるヘンリー・メリヴェール卿とフェル博士のキャラは似ていた。スターシステムと考えたほうが自然なぐらいだ。
ヘンリー・メリヴェール卿は、体重100kgの巨漢で、禿頭。しかも、目は鋭く、眼鏡がずり落ちる低い鼻で、お世辞にも美男子とは言えない。その上、口からはちょっとしたことで罵詈雑言が飛び出る、ものぐさな人物。
だが、一度犯罪捜査に参加すれば、雰囲気は一変。神の如き智謀で不可能犯罪を解決する名探偵だ。
ウィンストン・チャーチルをモデルにしたと言われており、名前が長いため作中ではH・M卿と省略されている。
ホームズやエラリー、ファイロ・ヴァンスに比べるとどうしても癖があるため誠司はあまり好きになれなかったのだが、年を重ねるにつれ印象が変わっていった。
ミューラや有朱を観察していて分かったのだが、どうやら若いうちは基本的に綺麗で格好良い物に惹かれるようだ。
年を経て柔軟になっていく……というよりは、潔癖さを失っていくのだろう。やはり、成長と劣化は同義であるようだ。
そのH・M卿が活躍する『白い僧院の殺人』は、いわゆる「足跡のない殺人」に分類され――ミステリィの世界では、広義の密室殺人だ。
ある雪の夜。大女優マーシャ・テートが、「女王の鏡」という、ある屋敷の別館で殺された。
「女王の鏡」に宿泊していたのは、彼女一人。
明らかに他殺であったが、雪が降り積もった「女王の鏡」の周辺には、第一発見者の足跡しか存在しなかった。
犯人は、いかにして殺害現場に侵入し、脱出したのか。この謎に、H・M卿が挑む――というのが、『白い僧院の殺人』のあらすじだ。
「密室の王者」と呼ばれるほど密室を愛し、『三つの棺』では後世に影響を与えた密室講義を披露してもいるカー。
加えて、カーといえば怪奇趣味がちりばめられていることでも有名だが、『白い僧院の殺人』では、珍しく鳴りを潜めている。
それはやはり、雪の密室というある種開放的なシチュエーションに依るのだろう。
誠司としては、正直なところ、雪の密室はトリックが限定されるため、ロジックがあまり美しくないと思っている。
どうしても、道具に頼らざるを得ないことが多く、また、偶然を必要とする部分も大きくなってしまうからだ。
しかし、実際に雪を前にしてみると、意見も変わってくる。
誠司は、おもむろに一歩足を踏み出した。
当然、降り始めた薄い雪に足跡が残る。これを残さないと――あるいは、消さなければ――「足跡のない殺人」は成立しない。
ただ、状況が限定されるだけに、トリックの難易度も一段階上がる。
「セージさん」
陳腐だが、竹馬やロープを渡すなどして、物理的に足跡を残さない方法が考えられる。
あとは、加害者ではなく被害者を移動させる方法か。開放的な密室である雪の密室ならではのトリックだ。好感度が高い。
「セージさん?」
それとも、バックトラックをして足跡をごまかすか。
殺害時間を偽装するのもよくある手段だ。これで、足跡の問題は簡単に解決できる。ただ、そうなると第一発見者が犯人という、フーダニットの部分では肩すかしになってしまう諸刃の剣でもある。
そういえば、性別を誤認させるため、あえて足跡を残したというトリックは、なんの作品だったか……。あれも、カーだっただろうか……。
「セージさん!」
「……ああ。どうかしたか?」
「どうかしたかじゃありませんよ。深刻な顔で下を見てたら、驚くじゃないですか」
どうやら、鬼ごっこは終了していたらしい。気付けば、足下にコタロウもいた。
「いや、どうやったら足跡を残すことなく人を殺せるか考えていた」
「物騒!?」
確かに、普通ではない。
ただ、誠司に恥じ入る様子はまったくなかった。なにしろ、ミステリィマニアとしては一般的な思考なので、体裁が悪いとは微塵も思わない。
とはいえ、世間的には非常識な発言だったという自覚はある。適度に、方向転換が必要だろう。
「昔、諏訪……といっても、分からないか。まあ、よく雪が降る地域に旅行に行ったことがある」
「セージさんでも、旅行とか行くんですね」
「家族旅行だから、断れなかっただけだがな」
大河ドラマで、その辺りの地域が舞台になって両親が企画したんだったか……と懐かしむと言うよりは、事実を思い出すようにつぶやく誠司。
その前の会話は、かなり失礼なやり取りのはずだが、二人ともまったく気にしていなかった。
「宿に入るまでは寒いだけだったんだけどな。夜、いきなり雪が降り始めたんだ。見たことがないほど、猛烈にな」
王族だけに、家族旅行など外交訪問ぐらいしか経験がないのだろう。
興味津々といった様子で、ミューラは誠司の言葉に耳をかたむける。
「天気予報を見ながら、朝には止むだろうなんて言ってたら……」
「予報が外れて、降り続けてたんですか?」
「いや、止んだ」
「じゃあ、いいじゃないですか」
ミューラが、なにがいけないんですかと、可愛らしく小首を傾げて聞く。
「代わりに、一面真っ白の銀世界だった。歩くと、ぎゅむって感触があるぐらいのな」
たったの一晩で、景色が一変していた。
その変わり様に、誠司は兄と一緒に驚いたことを思い出す。車の上に積もった雪で、兄と遊んだぐらいだから、相当なものだったのだろう。
「そういう、些細な思い出って素敵ですね」
「あとは……そうだな。当然、車にチェーンなんか載っけてなくて、かなりスリリングだった」
「スリリングって……」
「カーブを曲がり切れそうになくて、『ああ、これは死んだな』って思ったことが何度か」
「あーあーあー。怖い話、止めてくださいよぅ!」
両手で耳を塞ぎ、ぶんぶんと首を振るミューラ。
「なので、既にそのとき死んでいるのかもしれない。じゃあ、ここにいる俺は、なんなんだろうな?」
「無理矢理ホラーに持っていくのも禁止ですぅ!」
実力行使で誠司を止めようと、ミューラが冷え切った手をマフラーの中に突っ込もうとする。さっきやろうとしたことを、思い出したのかもしれない。
そのとき、くぅと可愛らしくお腹が鳴った。
「…………」
「…………」
二人の刻が止まり、ただ、雪だけが変わらず降り続ける。
「家に帰って、夜食でも食べるか。幽霊の料理でよければだけど」
「そこは大丈夫です。食べ物に貴賎はありません。出されたものは、必ず食べます。食べてみせます」
「それは、とても日本人的でいいな」
そう言って、誠司は優しく笑った。
「はああぁぁ……。ごくらくごくらくですぅ……」
洗面所でコタロウの足を洗い終えたミューラは、雪で濡れた髪を拭くのもそこそこに、こたつに直行して魂からの声をあげた。
湯たんぽ、否、コタロウを抱きかかえた、完全な待ちの体勢。
一方の誠司は、コートをエプロンに着替えてキッチンに立っていた。
こんな時間に非常識な……という思いはある。だが、今は、その非常識な時間に料理をするという背徳感のほうが勝っていた。
だしは、時間がない――正確には、ミューラが待ちきれない――ので、顆粒の出汁を使う。今は、巧遅よりも拙速だ。
そのだし汁に、酒、みりん、醤油。それに、塩少々で味付けして火にかける。
「っと、こいつも入れるか」
味付けをしたばかりのだし汁に、正月の残り物の餅を、ひとつずつ投下した。残り物が出た理由は簡単で、当初用意していた分では足りなかったので買い足したら、今度は余っただけだ。
計画性がないというよりは、ミューラの食欲が想定以上だったのだ。それなのに、体型も顔の輪郭も一切変わっていないのだから、有朱がどんよりするのも仕方がない。
そんなことを考えながら、誠司は包丁を手にする。
雪ということで買い溜めしていた、ハクサイ、ネギ、エノキといった野菜類も手早く切っては鍋の中へ。ただ、ハクサイの芯の部分だけはコタロウにやるため取り分けておく。
それが煮えるのを待つ間に、大根の皮をピーラーで剥いて、大根おろしを作る。がっ、がっ、と音がするほど、乱雑に荒く。
そうしている間に、鍋も煮立ってきたようだ。
ほのかな醤油の香りが漂ってくる。
ハクサイの煮え具合を確認してから、大根おろしの水気を軽くきって、軽く煮る。それから、火を止めて二分ほどして器によそった。
「熱いから、気をつけるように」
「うわっ。白いお雑煮ですね?」
餅を見て判断したのだろう。
誠司としては、雪にちなんでみぞれ鍋のつもりだったのだが、そういう解釈もできる。
「ところで、この白いのはなんですか?」
「大根おろしだな。消化を助ける力があるそうなので、夜食にはいいだろう」
「なるほどー。では、いただきます!」
さすがセージさん、物知りですと、素直な賞賛を送りつつ、椀を手にしたミューラの……動きが止まった。
「セージさん」
「なんだ?」
「これ、お肉がないんですけど……」
「安心していい。俺の分にもないぞ」
「なんて……こと……」
絶望。
ミューラが、絵画であれば――安易だが――そう名付けられたであろう、表情を浮かべる。
しかし、この絵画は連作だった。
「この暖かさが、ごちそうですね!」
ずっと一口スープを啜った瞬間、その表情は歓喜に彩られた。
滋味豊かなスープが、口から喉。喉から胃へと染み渡っていく。それは、幸福に他ならなかった。
「はあぁ……。スープ、本当に美味しいですぅ……」
珍しく具に手を付けず、ミューラはもう一口スープを啜る。
しかし、思っていたよりもずっと複雑な味わいだった。本来は存在しないはずのわずかな辛味。それが食欲をかき立てているのだ。
「この大根おろし、雪に見立てているだけじゃないですね。すごくさっぱりとしていて、どんどん食べられちゃいます」
「たくさん食べさせるつもりで作ったんじゃないんだけどな」
裏目に出たと、誠司もみぞれ鍋もどきに口を付ける。
「……いいな」
自画自賛だが、さっぱりしたおろしと旨みが溶け出たスープが奏でるハーモニーは絶妙だ。即席で作った割には、いいできだ。
柔らかく煮え、スープをたっぷりと吸ったハクサイもいい。しゃきしゃきとしたエノキの歯触りも癖になりそう。ネギの、火傷のリスクとバーターでもたらされるとろっとした甘みも最高だ。
そして、肉不足の椀でエースを張るのが餅。
「んにゅ~。はぐはぐはぐ。ううん~~~。お餅! 食べ飽きたと思っていましたが、まだこんな食べ方があっただなんて」
柔らかく、輪郭がとろけた餅。焼いていないため香ばしさはないが、とろっとした食感も、また素晴らしかった。
一噛みごとに、幸せを運んでくる。
しかし、誠司の反応は鈍い。
「そうか。良かったな」
ミューラに抱かれたままだったコタロウに、ハクサイを与えるのに忙しかったからだ。
「良し」
号令一下、コタロウがハクサイにかぶりつく。芯の硬い部分をシャリシャリといい音を立てて、必死に食べる様は決して見目麗しいものではない。
「コタロウちゃん、一生懸命ですね」
「葉っぱの部分は、食べないんだよな」
けれど、少なくとも誠司とミューラの目には愛らしく映っていた。
「歯ごたえがいいんでしょうか?」
「でも、茹でたそばも食べるしなぁ」
「謎ですねぇ」
しばし、その光景を眺めていたが、唐突にミューラが居住まいを正した。
「セージさん、本当にありがとうございます。今日は、わたしのわがままに付き合ってもらって」
突然の、真剣な感謝の言葉。
それに虚を突かれて、誠司はしばし言葉を失った。
「……別に、構わないさ」
コタロウも喜んでいたし、明日も休みだ。
そう続けるつもりだったが、なぜか言葉が出ない。それでも、ぶっきらぼうすぎるかと口を開こう――としたところで、ニヤニヤするミューラに気がついた。
「分かりました、分かりましたよセージさん」
みなまで言うなと、椀をコタツに置いたミューラがうなづく。
「それは、雪の妖精みたいなわたしが見られたから、差し引きで言えばプラスってことなんですね?」
違う。
擦ってもいない。
「困っちゃいましたね。アリスちゃんに報告したら、嫉妬されちゃいます」
特別な感情はないと説明したにもかかわらず、その点は完全に抜け落ちていた。もしかすると、寝ぼけているからかもしれない。
それでも、誠司は否定をしなかった。
決して、認めたわけではないはずだ。
あるいはそれは、否定した場合と現状を秤にかけて、どちらなら差し引きで言えばプラスになるか熟考した結果かもしれなかった。
翌朝。
「うう。外は晴れて、雪も止んでいるのに寒いですよ……」
雪は止んだどころか溶けて液状化してしまい、昨夜の痕跡はほとんど残っていなかった。
それでも、底冷えするような寒さだけはしっかりと残っている。
「そりゃ、そういうもんだろ」
天気に文句を言っても仕方がない。誠司はそう言って取り合わないが、ミューラは納得いかないようだった。
「こんなに寒いんだったら、雪がじゃんじゃん降ってくれないと損じゃないですか!」
損得の問題だろうかと誠司は疑問に思うが、雪でも降れば、まだ、この寒さを許容できるという精神的な意味合いかとすぐに納得する。
であれば、寒さをしのげれば問題はなくなるはずだ。
「昨日のみぞれ鍋、材料を足してもう一回作るか?」
「…………」
食べ物で釣られるほど、安い女じゃありません。
そう言わんばかりに、ミューラはつんと唇を尖らせて顔を背けた。
しかし、その程度で動じる誠司ではない。
「確か、豚バラ肉が残ってたはずだが……」
「食べます!」
あっさりと釣れた。
純粋でいいことだ。
純粋ならそれでいいのかと聞かれたら、返答に困っただろうが。




