第八話 新年プラスワン(前)
年末年始なので前後編。
というわけで、年越し編をお送りします。
年末年始は、家にこもって日頃の疲れを癒す。
今年の誠司は、そんな年の瀬とはほど遠い状況にあった。
「頑張ってください、セージさん!」
「ああ……」
原因は、対面式キッチンの向こうで声援を送る異世界の王女にあると、言っていいだろう。
ウェーブのかかった美しい銀髪に、サファイア色の瞳。そして、それ自体がひとつの財宝と呼ぶべき美貌。
まだ幼さが残るものの、それは将来を想像する余地を残しているということでもある。
朗らかで、快活。見る者を笑顔にさせる、陽性の美しさ。
それは、外面的な美しさだけでは生まれない。ミューラの天真爛漫で純真無垢な精神があってこそ。
シルヴァラッド森林王国第三王女ミューラ・シルヴァラッドは、そんな少女だった。
「まあ、普通にな」
しかし、180cmほどある長身を折り曲げてレンコンを切る誠司は、それに感銘を受けた様子はない。
ミューラが美しいのは知っているが、まあ、それはそれ。だからどうしたというものでもない。
ゆえに、滅多にいない美少女の声援を受けても、そのテンションは変わらず低空飛行。料理の邪魔にならない程度に伸びた黒髪が邪魔で、その表情を窺うこともできない。
ただ、それは誠司を知る者にとっては大した問題ではなかった。
なぜなら、見えようと見えまいと、表情が変わることはまずないのだから。
「普通って、もう。セージさんはセージさんなんですから。たまには、『ミューラのために、美味しいおせちを作ってやるぜ』みたいな気概が……あったらビックリですね!?」
「自ら答えを得たようで、なによりだ」
そもそも、誠司は今まで頑張ったことなど一度もない。
自分がやるべきことを、できる範囲でやるだけ。
それでできないのならば、端から無理な話なのだ。頑張るという言葉自体が、無意味である。
そして、このおせち料理作りも、誠司にとっては自分がやれることを、できる範囲でやっているだけ。
ただし、その頭には『ミューラのために』という但し書きが付く。
石仏の如く不変の誠司に訪れた変化があるとしたら、まさに、その点だろう。
「ところで、今作っているのは煮物ですか?」
「ああ。正月には煮物を食べるのが決まりだからな」
「煮物ですかー」
目に見えてテンションが下がるミューラ。
しかし、そこに不満があるわけではなかった。
居候の身として、そんな畏れ多いことを考えるはずもない。それに、一度だけ作ってもらったことがある。野菜がたっぷりで、鶏肉が美味しかった。
鶏肉が。
ただ、なんというか――
「地味だなと思っているな?」
「ええっ!? そんなことありま――」
「ありま?」
「――すぅ」
ベテラン刑事に凄まれた犯人のように、ミューラはあっさりと自白した。
せっかくの新年なのだからと、もっと豪勢なのを期待していたのだ。あの幸せだったクリスマスから、一週間しか経っていないのだから。
「やっぱり、セージさんは魔法を使える人なのでは?」
「秘密だ」
肯定しても否定しても後の展開が面倒になりそうだったので、どちらも行わない。
それに、ミューラが考えていることなど顔を見れば分かる……という生活の裏技は、できれば最後まで秘匿しておきたかった。
そのため、作業に集中する振りをして話を流す。
「なんだか、さくっさくって楽しい音がしますね」
「……穴が空いてるからだろうな」
言われてみると、他の野菜と違って小気味の良い音がする。指摘されるまで、まったく気にしてなどいなかった。
これが感受性というものかと、誠司は感心する。
「レンコンさん、なかなかのアーティストですね」
この程度で喜ぶミューラにほほえましさを感じつつ、切ったレンコンは変色を防ぐため水にさらした。
酢水でさらしたほうがいいという話も聞くが、普通の水でやっても変わらなかったため、お酢は使っていない。
続けて、サトイモの皮をむく。
そう。誕生日に贈られた、あの皮むき用手袋を使って。
両手にオレンジ色のゴム手袋をはめた誠司が、やや緊張しつつサトイモを握った。
「おお……」
一気にずるっと……とはいかないが、包丁で少しずつ皮をむくよりもずっと効率的だ。
「かなり力を入れなきゃいけないが、楽でいいな……」
「ああ、あのセージさんが笑ってるだなんて。複雑ですぅ……」
手編みの手袋やマフラーよりも喜んでいるかもしれない。
プレゼントが役に立っているのは嬉しいが、有朱と一緒に頑張った日々が否定されているかのようでもあった。
実際のところ、誠司は手編みの手袋やマフラーに感謝している。毎日、身につけて事務所やコタロウの散歩へ行っているのがその証拠。
だから、そんな複雑な感情を抱くことはないのだが……。
誠司がフォローをすることも、また、あり得なかった。
「他の作業をするときは、外さなくちゃいけないのが難点だな」
「あっ、手伝います!」
ぴっちりとした皮むき手袋を前に苦戦する誠司
二人の共同作業により、なんとか手袋は抜けた。
「ありがとう。助かった。」
そう言いながら、皮をむいたサトイモを塩もみしてぬめりを洗い流す。
その他、ニンジン、タケノコ、ゴボウ、コンニャクなどの食材も下ごしらえを進めていった。
それが終わったら、実際の調理開始。
まず、水にさらしていたレンコンやタケノコなどを下ゆで。
次に、ニンジンとゴボウからサラダ油で炒め、少ししてからタケノコやサトイモ、鶏肉などを加えていった。
「こんなところか」
ある程度炒まったところで、用意していた、だし汁――今日はとんでもない量を使用するので、昨日から鍋一杯に準備している――と、醤油、みりん、砂糖。それに塩をひとつまみ足して落としぶたをする。
このまま10分ほど煮てから、鶏肉を戻して完成だ。
あとは、それを待つだけ――とはならない。
「次は、伊達巻きを作る」
「伊達巻きですか?」
「まあ、ふんわりした卵焼きみたいな……。お菓子に近いかもな」
「ほうほうほうほう」
梟の鳴き声のような声をあげたミューラは、期待にサファイア色の瞳を輝かせていた。
恐らく、完成品の想像はできていないだろうが、「ふんわりした卵焼き」、「お菓子」というワードだけで美味しい物だと判断したのだろう。
しかし、誠司の調理手順は、その期待に波紋を投げかけかねないものだった。
煮物を作っている横で、フライパンを温めだしたのは理解できる。
だが……。
「セージさん、その白いのはなんです?」
「はんぺん……魚のすり身を蒸した……んじゃなくて、茹でた物だな」
「お魚……? すり身……?」
ティアラの代わりに疑問符を頭上に浮かべたミューラを尻目に、誠司は、はんぺんをフードプロセッサーにかける。
子供の頃は、そんなものはなく兄と一緒にすり鉢ですっていた。なかなかの重労働だったが、フードプロセッサーにかければ一瞬。文明の利器は素晴らしい。
珍しく思い出に浸る誠司を、珍しいものでも見るかのように眺めるミューラ。実際に珍しいので、不躾だが、その視線は正しい。
「ああ。それで、フードプロセッサーにかけたはんぺんを、タマゴと混ぜる」
さらに、煮物にも使っただし汁と、その倍ほどの砂糖もボウルに入れていく。
「本当に、容赦なくお砂糖を使いますねぇ」
「やっぱり、そっちじゃ砂糖は高いのか?」
「普通の人でも少し贅沢すれば買える……という程度ではありますが、やっぱり貴重品扱いですよ」
「そうか。だが、こっちでは、好きなだけ使えるんだ」
そう言って、見せつけるように砂糖を大さじで投下した。
伊達巻きは、一日一本計算であと二本は作らなくてはならない。以前作った、栗きんとんも砂糖を使うし、このままだと砂糖の使用量に関して感覚が麻痺してしまいそうだった。
それはともかく、伊達巻きの素はこれで完成。
油を薄く馴染ませてから、卵液を入れ、ごく弱火で熱を入れていく。
こうなると、あとは蓋をするだけ。破らずにフライパンから上げられるか、ちゃんと巻き簀で巻けるかなど心配事はあるが、今できることはない。
「焼き上がりが楽しみですね!」
「一回ぐらい失敗したほうが、ミューラとコタロウは喜びそうだが」
「はい! 失敗したら、食べてもいいんですよね? って、そ、そんなことはありませんよぅ……?」
見事に自白――あるいは、自爆か――したミューラに一瞥だけくれて、誠司は一息つく。
巻き簀を準備し、あとは焼き上がりを待つだけ……だが、その間に、煮物が完成する。本当に、一息つく暇しかなかった。
「味見! 味見が必要ですよね!」
「コタロウですら諦めたのに、ずっと狙ってたのか……」
誠司がキッチンに立つと、なにかもらえると信じて入り口でスフィンクスの如く待ち受けるのが、いつものコタロウ。
しかし、今日はいつになく忙しなく、また長時間であるため、さすがのコタロウも音を上げた。
今はコタツの側でごろりと横になっている。
献上品を待つスタイルであった。
そのコタロウに見つからないようこっそりと、煮物の鍋から鶏肉をつまんでミューラに食べさせてやる。
「あふっ、あっふぅっ」
それを眺めながら、ふと思い出したように誠司が言う。
「そう言えば、ミューラには謝らなくちゃいけないことがある」
「……なんれふか?」
少し緊張した面持ちで、ミューラが聞き返した。
なにを言われると思ったのか、先ほど味見をねだった少女と同一人物とは思えない。
そこまで深刻な話じゃないけどと思いつつ、セージはもったいぶらずに話を切り出す。
「おせち料理は、さすがに全部手作というわけにはいかない」
「……それが、謝らなくちゃいけないことですか?」
「ああ。つまり、正月に食べるものは、手作と既製品を切っただけの物が混在することになるわけだ」
「それで、味の感じ方が違うのが混ざって、わたしが困るんじゃないかって言いたいんですね?」
ミューラが、少しだけ先回りをして結論を口にする。
珍しく彼女の聡明さが発揮されているが、その言葉に誠司は違和感を憶えた。
「……もしかして、そんなことないのか」
「はい」
ミューラの返答は、短く誤解の余地もない。
「もちろん、セージさんが丹精込めて――」
「――いや、そこまでは頑張ってない」
「丹精込めて作ってくれたお料理は、それはもう、美味しくて幸せですが!」
「ああ、うん」
「だからといって、セージさんがわたしのために切り分けてくれた既製品に劣るかというと……ちょっと違いますけど、どっちも嬉しいんですよ」
そんなに気にしなくて大丈夫ですと、ミューラが透明感のある笑顔を浮かべる。
どんな邪念も浄化されそうなほどだ。
「そうか……」
誠司も感じ入ったようにつぶやく。
「なら、普通のハムだけで、鶏ハムまで作る必要はなかったか……」
「両方で! 両方でお願いします!」
不死鳥のように蘇った両方という選択肢は、年末も大活躍だ。
「まあ、正月だからな……」
仕方がないと、誠司はうなずく。甘いと言われてしまいそうだが、許容範囲内だ。
なにしろ、この後、栗きんとんに煮豚にと、まだまだ作らなければならない料理が控えているのだ。一品程度増えても、どうということもない。
さあ、次は伊達巻きを実際に巻き簀で巻かなくては。
こうして、誠司は大晦日――今年最後の一日を、朝から夕方までキッチンで過ごすことになった。
――だからといって、夜も立たないわけではない。
なんとかおせち料理を作り終えた――ちなみに、伊達巻きは失敗しなかった――誠司は、年越しそばの準備に取りかかっていた。
明日は、あの本を再読しよう。昔に一度読んで、恐怖すら感じて再読できなかったあの本を。
それを心の支えにして、今年最後の料理を作る誠司。
「どうして、一年の最後におそばなんです?」
「諸説あるらしいが……そばが細く長いことから、長寿を願ったという説が一番有名だな」
油揚げを半分に切りながら、誠司が一般的な知識を披露する。
おせち料理もそうだが、語呂合わせというか、ほとんど駄洒落の世界だ。
これを、多少オブラートに包んで表現すると――
「昔の人は、言葉遊びが好きだったんだな。言霊信仰と関係があったのかもしれない」
――ということになる。
「でも、それならおうどんやラーメンでもいいのでは?」
「もうひとつ。そばは、そのうどんなんかよりも切れやすいので、今年の悪い運や縁を来年に持ち越さずに済むという説がある」
他にも金運や健康にまつわる説など、諸説あるのは、この手の伝統行事のお約束のようなものだ。
「なるほどー。しかし、魔法もないのに、そんな呪術的な発想が今でも信じられているなんて……。いえ、ないからこそなんでしょうか?」
「そこは分からないが、なんとなく、気分が良くなるんだろ」
伝統行事など、その程度で充分だと誠司は言った。
「セージさんでも、ですか?」
「ああ……。いや、そうだな」
「なんです?」
「献立を考えるのが楽だからかな」
「……毎日毎日、お世話になっておりますぅ」
対面式キッチンの向こうで、深々と頭を下げるミューラ。
特に苦労とは思っていないが、面白いので、そのままにしておくことにした。
それに、お湯が沸いたので作業をしなければならない。
「ミューラ、2分ぐらい経ったら教えてくれ」
「了解しましたっ」
誠司は少しだけ口の端を上げてから、沸騰したお湯に先ほど切った油揚げを入れた。
その間に、油揚げを煮るだし汁の準備。
途中で追加しておいただし汁から500ミリリットルほど小鍋に移し、そこへ薄口醤油と大量の砂糖を投下。100グラムほどだが、もう、これくらい普通の量に感じる。
「セージさん! 2分経ちましたよ!」
軽くうなずいてから、火を止め油揚げをざるに上げて水に浸し、冷めたらぎゅっと水気を絞り出す。
その油揚げを、今度は先ほどのだし汁へ。
中火でしばらく煮て、沸騰してきたら弱火に変えて落としぶたをする。
きつねうどんの油揚げを煮るときには、多めの出汁でじっくり炊きあげるのがいい。
次に、誠司はそばを茹でるお湯を火にかけさせ、ネギを刻み始めた。
「相変わらず、次から次に作業しますね……」
「完成から逆順でやっていっているだけだ」
「それは、完全にできる人の台詞です。アリスちゃんも言ってました」
「そんなものかな?」
よく分からないと、刻んだネギを皿に移動させると、今度は常温に戻していた鴨肉を薄くスライスする。
「……セージさん?」
「なんだ?」
「甘いおあげと、鴨のお肉ってあわないんじゃないです?」
「俺もそう思う」
不思議そうにするミューラを置き去りに、鴨肉を切り終えた誠司は、そばつゆの準備に取りかかる。
大量に作っただし汁の残りをベースに、みりんと醤油で味付け。一煮立ちしたところで先ほどの鴨を加え、完全に火が通る前にコンロの火を止めた。このタイミングで、ネギも入れておく。あとは、余熱でちょうど良くなるはずだ。
その頃には、そばを茹でるお湯の準備もできている。
二人分の生麺をぐらぐらと煮立った鍋へ入れ、そのまま強火で1分半ほど、箸は必要以上に入れず、鍋を泳がすように茹でた。
茹で上がったら、こちらもざるに上げて冷水であら熱を取る。切れてしまった分など、一部はコタロウのために選り分けた。
そのそばを器に盛って、そばつゆを注いで完成だ。
油揚げを煮ていた鍋の火を止め、誠司は二人前のソバをコタツへ運んだ。
「あのー。おあげは?」
「どうせ二杯ぐらい食べるだろ?」
後ろを追いかけながら首を傾げていたミューラの疑問が、誠司のその一言で氷解した。
一杯目は鴨のおそば。二杯目はおあげを載せたおそば。
つまり、こういうことなのだ。
「もちろんです。でも、二杯じゃなくても構わないんでしょう……?」
「ほどほどにな」
そう言って二人でコタツに入ると、むくりと起き上がったコタロウが、後ろ足だけで立ち上がって誠司の方に前足を置く。
そして、ひっかくようにしてアピールを始めた。
「アンアンッ! アンアンッ! アンアンッ!」
「ああ、分かった分かった」
すべての犬がそうなのかは分からないが、そばはコタロウの大好物だ。
そのじれったいという声に負けて、誠司はコタロウの分のそばを取りにキッチンへ戻る。
もう一人、待ちきれない異世界の王女に声をかけてから。
「伸びるから、先に食べてていいぞ」
「じゃあ、いただきます!」
許しを得たミューラが、箸を手にしてそばをたぐる。
銀髪の王女がずずっと音を立ててソバを啜る様は、なんともシュール――文字通り、異世界人ガイルという点で超現実的――だが、本人はとても幸せそうだ。
「やっぱり、ずずっと音を立てて食べるのが美味しいですね。喉ごしもいいです!」
当初はあったためらいも、今ではすっかりなくなった。
それどころか、柔らかめのソバと、ネギのしゃきしゃきとした食感が奏でるシンフォニーにうっとりとしている。
「次は……」
満を持して鴨肉だ。肉だ。
一切れ箸でつまんで噛みしめると、鴨肉のジューシーな旨味が口の中に広がる。
これ以上煮たら、堅くなる。その寸前で止められた、絶妙な歯ごたえだった。鶏肉とは違う味わいに、ミューラは酔いしれる。
「鴨のお肉って、独特ですけど美味しいですよねぇ……」
「そうだな気に入ってくれたようで良かった」
戻ってきた誠司が、まず自分のそばをくちにしてから、手のひらにそばを載せてコタロウに食べさせてやる。
「アンアンッ!」
喜び勇んでそばを食べるコタロウ。
鼻がくすぐったいが、一生懸命食べる様を見るのは楽しい。まるで、ミューラが二人に増えたかのようだ。
「いや、逆か……」
増えたのは、ミューラではなくコタロウか。
口には出せないことを考えていた誠司へ、コタロウ……ではなくミューラから抗議の声が飛ぶ。
「あー。セージさん、ずるいです!」
「なにがだ」
「わたし、わたしもコタロウちゃんにおそばあげたいです!」
「麺が伸びるぞ」
「セージさんだってそうじゃないですか」
「俺は、柔らかめのほうが好きだ」
あーもー。ああ言えばこう言うんですから! とは、思ったが口にしないミューラ。そうするぐらいなら、食べるために口を動かす。
そして、一気にそばを食べきると、コタロウ用のそばを入れた皿を手に取った。
「江戸っ子だな」
妙な感心をした誠司が、コタロウを抱き上げてミューラの近くへ移動させる。こうなったら、白旗を揚げるしかない。
「はい、おそばですよー」
「アンアンッ! アンアンッ!」
誠司とは違い、そばを蜘蛛の糸のように垂らして、コタロウに食べさせようとするミューラ。
下から順番に食べるのを想像したのだろうが、現実は違った。
コタロウは、再び後ろ足だけで立ち上がり、上を狙う。
「ああっ、わたしの指を食べちゃダメですよぅ」
「そう来たか」
大元を狙う戦術眼に、誠司は感心する。下克上のスタイルだった。
「うう。コタロウちゃん、ひどいですぅ……」
「アンアンッ! アンアンッ!」
そんなことより、そば寄越せ。そば持ってるんだろうなぁと吠え立てるコタロウに、ミューラは白旗を揚げた。
結局は、誠司と同じように手のひらに載せて食べさせたが……。
「あはは。コタロウちゃん、くすぐったいですよ」
それはそれでご満悦だった。
そんなミューラを眺めながらそばを食べていた誠司は、頃合いかなと口を開く。
「そろそろ二杯目――」
「――行きます」
食べますじゃなくて、行きますと来たかと、独り言を言った誠司がコタツからキッチンへと移動する。
そして、数分後。
二杯のきつねそばを持って、誠司がコタツに戻ってきた。
「いただきます!」
「どうぞ」
またもや食欲を爆発させて、しかし、今回はほぼ同時にそばを口にする。
先ほどの鴨南蛮のストレートでクリアな味わいに比べて、少しぼやけた、でも、優しい味がした。
「これは、このおあげですね」
そばを一口啜ったミューラが、満を持してふっくらと煮上がった油揚げにかぶりついた。
「あっふふふ」
だが、甘くて美味しい。噛みしめれば噛みしめただけ、中から甘くて美味しいだし汁が溢れてくる。それが残っているうちにそばをすすれば、やって来るのは至福。
きつねそばは、鴨南蛮とは、趣が違う。
もっとジャンクで、もっと親しみやすい味だ。油揚げの甘さが、ほっとする。
「なんかこう、懐かしい味がします」
「……日本語で、お袋の味と言うやつだな」
「じゃあ、これはセージさんのお母様のレシピなんですか!?」
「いや、そういうわけじゃないけどな」
「紛らわしくないですぅ!?」
二杯目も、賑やかに食べ進められる。
結局、三杯目に行ったのはミューラ一人で、さすがの彼女もそこが限界だった。
「なんだかこう、長生きとか悪縁を絶つとか、そんなこと関係なく普通に食べちゃいましたね」
「まあ、美味かったのならそれでいいさ」
食器を片付けなければならないのだが、しばらく動く気になれない。
食後特有の幸せな倦怠感。
付けっぱなしにしていたテレビからは、よく知らないアイドルのよく知らない曲が流れている。
それを見るとはなしに見ていた誠司だったが、なにか雰囲気が変わったような気がして、ミューラへと視線を移動させた。
「セージさん」
その直感は正解だった。
少しだけ不格好な正座をして、真剣な眼差しで誠司を見つめるミューラ。
いつになく、威厳と気品に溢れた表情。
誠司でも、どきりとするほど美しい。
「今年は、本当にお世話になりました。セージさんがいなかったら、セージさんじゃなかったら。わたしは、こんな幸せを感じることはなかったと思います。いえ、ありませんでした」
「それは、まあ、客観的にはそうなるのかな」
その雰囲気に威圧され、誠司は頭も舌も回らない。
「来年も一年、よろしくお願いします」
「一年にはならないと思うが……」
「そういうことは言わなくていいんですぅ」
野暮な誠司に頬を膨らませ、「もう、セージさんはセージさんなんですから」と、小さく拳を振る。
やはり、ミューラはこのほうがいい。
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
「ほら、コタロウちゃんも、『来年もよろしくだワン』って言ってますよ」
「言ってはいないと思うが……」
特に、語尾の『ワン』は。
しかし、ここで意固地になるのも大人げない。
来年ずっとというわけではないはずだが、年が明けてもしばらくは一緒に過ごすはずなのだから。
「まあ、そうだな。来年もよろしく、ミューラ」
「はい!」
気付けば、ミューラのほうが余程可愛いアイドルは、いつの間にか画面から退場していた。
例年より一人多い年越しまで、あと少しだった。
続きは明日投稿予定です。
今年は、ご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。




