第七話 クリスマスのコタロウ
タイトルほど、コタロウは活躍しませんのでご注意ください。
あと、今回2万文字越えました。
三浦家の愛犬コタロウ。
犬種はポメラニアン。
体毛はオレンジで、腹の部分は白い。ふわふわとした毛質で、特にひだ襟状になった首の周りや尻尾の毛は豊富だ。それだけに、定期的なブラッシングは欠かせない。
年齢は12歳。人間換算では60歳以上となるが、活発で年齢を感じさせない。心臓に軽い持病を抱えてはいるものの、これはポメラニアンにはありがちなこと。食欲もあるし、一日二回の散歩も嬉しそうにこなす。
性格は人懐っこく、相手が人でも犬でも、尻尾を振って寄っていく。
だが、犬よりも人間のほうが好きなのか、散歩の途中、別の犬の飼い主に甘えて、その犬から嫉妬で吼えられるのもしばしば。
最近、彼の群れに新たなメスが加わった。
異世界の王女ミューラ・シルヴァラッドだ。
歩く度に長い銀髪が揺れ、思わず飛びかかってみたくなる。
サファイア色の瞳で覗き込まれると、なかなかにいい匂いがした。
容姿も、悪くはない。群れのリーダーである誠司の番であろうが、なかなかお似合いではないか。特に、若いところがいい。
若ければ、自分とは違って、すぐに死ぬことはないだろう。
そうでなくとも、大好きだった家族が、一人減り、また一人いなくなり、最終的に誠司だけになった。群れの数が減るのは、とても哀しいことだ。
その誠司も、日中は家にいない。
代わりにいてくれるようになったミューラは、コタロウにとって得がたい存在だった。
今もコタツでテレビを見ながら自らの膝に乗せ、その白く小さな手で撫でている。
最初はただ自分が撫でたいという自己満足が強かったが、最近は奉仕の精神に目覚めたようだ。なかなか気持ちよく、ツボを突いた撫で方をするようになった。
悪くない。
「フゥゥゥン……」
コタロウは気持ちよさそうに目を細めながら、二人の会話をBGMに大きく口を開いてあくびをした。
クリスマスを数日後に控えた、三浦家は、平和そのものだった。
「セージさん、この国の王様は皆さんに慕われているんですねぇ」
テレビのニュースを見ながら、ミューラがにこにこと嬉しそうに言った。別の国……どころか別の世界だが、同じ王族が敬われているのは嬉しいものらしい。
ちなみに、視線はテレビに向いているが、手はコタロウを無意識に撫で続けている。もはや、無意識だ。
「王様……? ああ……」
ミューラがなにを言っているのか分からなかった誠司が、一瞬遅れて理解に達する。理解が妨げられた原因は、タブレット端末で本を読んでいたからだけではない。
ニュースは、間近に迫ったクリスマスイルミネーションの中継だったからだ。
「でも、どうしてクリスマスのニュースでそんな話に?」
「どうしてって……。はっはあぁん。分かりました。私を試しているんですね、セージさん」
「違うけど、とりあえず話を聞く準備はある」
タブレット端末をスリープ状態にし、こたつの上に置いた。恐らく、突飛すぎて片手間では理解できない話になるはずだ。
「クリスマスは、偉い人のお誕生日なんですよね?」
「ああ……。有朱から聞いたのか」
中途半端に……とまでは言わず、とりあえず、ミューラの確認にうなずきを返す。
「そして、カレンダーに書かれている『天皇誕生日』の文字。即ち、数日後に訪れるクリスマスとは、この国の王様の誕生を祝うお祭りに違いありません」
Quod Erat Demonstrandum――Q.E.D.とでも言いたげに、ミューラは二重の意味で大きく胸を張る。
一分の隙もない論理展開だった。
「なるほど。一理あるな」
前提が間違っていることを別にすれば。
「だが、違う。クリスマスはキリスト教の祝祭で、救世主イエス・キリストの誕生を祝う祭りだ」
「はい……?」
誠司にバツを付けられたミューラは、思わず呆然としてしまった。コタロウを撫でていた手も止まる。
わけが分からなかった。どういうことなのか。おかしい。ありえない。
「キリスト教って、アーサー様たちが信仰する……。外国の宗教では?」
「そうだな」
あっさりと肯定されて、ミューラはますます混乱する。
そんなミューラの気持ちなど知らず、膝の上にいたコタロウが、「休むな、手を動かせ」と言わんばかりに、尻尾を振った。
それを受けて反射的に手の動きだけは再開したが、ミューラは納得できない。
「なんで、異教のお祭りをこんな盛大に祝うんです? むしろ、なんで自分の国の王様の誕生日を祝わないんです?」
「その……なんだ……。すまん……」
言われてみればその通りなので、誠司としては謝ることしかできなかった。
「その代わり、プレゼントをくれるサンタクロースのベースは、キリスト教の聖人だぞ」
「許します」
救世主や覚者もかくやといった勢いと思いきりの良さで、ミューラが許しを与えた。さすがに、王族は威厳がある。
……けれど、それも長くは続かなかった。
プレゼントの魅力には抗えなかったようで、美しい相貌をにへらと崩し、あれこれと想像を巡らす。
「プレゼントですかー。そういう行事があるって、アリスちゃんから聞いていますよ。セージさんから、なにをいただけるんでしょう」
先週執り行われた誠司の誕生日会。その後、誠司の家でクリスマスパーティをやることが決まっていた。いや、有朱の中では、ずっと前では決まっていたはずだ。
断られないタイミングを待っていただけ。
その甲斐あって、誠司も不承不承ではあるが許可を出した。期待と不安で満ちたミューラの瞳を向けられては、勝てない。
「そうだな。もう買ってあるんだが――」
「わーわーわーわーわー」
これ以上はやらせないと、ミューラが両手を振り乱して誠司の言葉を遮った。
何事かと、コタロウが膝の上で立ち上がり……バランスが悪いため、軽くジャンプして床に降り立つ。そのまま、コタツの周りを移動し、誠司の足下でごろんと寝転がる。
「なんだ、いきなり大声を出して。コタロウが驚いてるじゃないか」
そのコタロウを抱え上げながら、誠司はミューラを非難するかのように言った。自分が悪いなどとは、欠片も考えていない口調だ。
「そっち!? いえいえいえ、セージさん。もっと他に言うべきことがあるでしょう?」
「ないな」
「即答!?」
信じられないとミューラがサファイア色の瞳を大きく見開く。
相変わらずオーバーなリアクションだなと、誠司は対照的に目を細めた。
この世に、驚くべきことなどなにもないというのに。
「どうして、当日のお楽しみをばらそうとするんですか。平然と、当たり前のように」
「どうせミューラの物になるんだから、遅いか早いかというだけだろう。なんなら、今渡しても構わないが」
「ダ・メ・で・す・よ」
スタッカートで強調し、誠司の暴挙を食い止めるミューラ。もう、台無しにされては敵わないと、必死だ。
「それじゃ、感動がないじゃないですか、感動が」
「感動な……」
当日のその瞬間まで取っておきたいという気持ちは分かる。
分かるのだが……。
同時に、そんなに期待されても困ってしまう。喜ばれる自信はあるが、感動させられるかというと、甚だ疑問だ。
「やっぱり、先に渡しておこうか」
「ダ・メ・で・す・ってぇ! なんで、セージさんは、こうもセージさんなんですか!」
ぷんぷんと首と手を振るミューラ。
それをなだめるでもなく、誠司はタブレットを手にしてスリープを解除する。今プレゼントを渡すという提案が受け入れられなかった以上、話はこれで終わりだ。
「セージさん、今日という今日は言わせていただきますからね。ええ。居候の身で僭越ではありますが、これは見過ごせません」
「当然の権利ではあるな。受け入れられるかどうかは別にして」
賑やかで華やかになったリビング。
主に抱かれたコタロウは、少しずつ、ずり落ちるようにして眠りに落ちていった。
賑やかで華やかで、しかし穏やかな日常は、クリスマスまで続いた。
「ハッピー・ホリデーズ!」
「ワゥン! ワゥン!」
玄関のドアが開くと同時に、侵入者の気配を感じ――というよりは、オートロックが鳴った時点で待機していたのだが――コタロウが吠え立てた。
今日はクリスマスだというのに、遠慮も配慮もない。
「もー。アタシだって分かってるのに、なんでそう攻撃的なのよ」
「嫌われているんだろうな」
金髪をツインテールにした美少女が、玄関で仁王立ちになってヘイゼルの瞳をコタロウへと向けた。誠司の台詞は、とりあえず無視する。
美少女が動物に嫌われるなど、あり得ないのだ。
しかし、人間なら気圧されるか魅了されるかという視線を受けても、コタロウは牙をむいて吼えるのを止めない。
「ワゥン! ワゥン!」
「ちょっと、セージくん並は無理にしても、ミューラとも対応違くない?」
「やっぱり、気にくわないなにかがあるんじゃないか?」
それは単に、有朱がコタロウから警戒を受けているからである。
隙あらば攻撃――有朱としては、少しちょっかいを出しているという程度なのだが――してくるし、誠司にも生意気な態度を取る。
群れの最下層のくせに生意気なこと、この上なしだ。
それでも誠司がなにも言わないのは、教育を任せているからに他ならない。
ミューラに比べると出来が悪いが、これでも誠司の番候補だ。見捨てるわけにもいかなかった。
しかし、有朱がそんなコタロウの親心を知るはずもない。大きなトートバッグを肩にかけ、勝手知ったるとばかりに家へと上がり込んだ。
「セージくん、タマゴ常温に戻しておいてくれた?」
「ああ。大丈夫だ。しかし、そんなに荷物を持って大変だっただろう」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。下まで、パパが送ってくれたから」
「先輩が……」
「ママとのデートのついでだけどね」
「なるほど」
「なんで、二人とも明日の昼過ぎまで帰ってこないから。今日は、セージくんの家にお泊まりね」
「……は?」
そんな話は聞いてない……と抗議する暇もなく、有朱はずんずんとキッチンへと進んでいく。
そもそも、明日は平日だ。それなのに、明日の昼過ぎまでいないとは、どういうことなのか。
「心配ありませんよ、セージさん。アリスちゃんは、わたしと同じお布団ですから。でも、一応、セージさんの部屋の鍵は閉めておいてくださいね」
ようやくコタツから這い出してきたミューラが、当然のような顔をして言った。どうやら、共謀していたらしい。
こうなると、諦めるしかなかった。誠司の意思など路傍の石に等しい。
「それにしても、心配しかないんだが……」
「さっ、セージくん。そんなことより、さっさと準備を始めましょ」
「……そうだな」
問題を先送りにした――というよりは、時間がないのはその通りなので、誠司もあっさりと同意した。
なにしろ、これからクリスマスケーキを作らなくてはならないのだ。
「それにしても、ケーキを作っちゃうなんてすごいですね。そう思いません、コタロウちゃん」
「ゥワンッ!」
コタロウを抱えたミューラが、対面式キッチンの向こうから感心したように言った。
地に足がつかない状態になると、コタロウも基本的には大人しい。今日は、珍しく身をよじって束縛を逃れようとしていたが、それもわずかな間だった。
「別に、ミューラのためじゃないわよ。セージくんへのポイント稼ぎでやってるんだから」
「それが照れ隠しじゃなくて本音なのが、逆にすごいですよね」
一番凄いのは、それを真っ向から宣言することではないかと思ったが、誠司は心の中だけに留める。有朱が持ち込んだお菓子作り道具を並べるのに忙しかったからだ。電動泡立て器に、粉ふるい、ケーキの金型など、誠司の家にはない物を持ってきてくれている。
ミューラの相手を有朱に任せられて楽だからとか、そんな理由ではない。ただ、逆立ちしても社交的とは言えないセージからすると、会話をしなくて済むのは楽で良かった。
「さあ、早速始めましょ」
エプロンを身につけた有朱も、指を一本ずつ曲げ伸ばしする準備運動を終え、集中力が高まっている。誠司にいいところが見せられるのだから、気合いも入るというものだ。
「じゃあ、粉ふるいは俺が」
「アタシは、泡立てをやるわね」
誠司は、有朱が家から持ってきた粉ふるい――柄の付いたざるのようだが、網の部分が二重になっている――を手元に用意しつつ、まず、小麦粉を計量する。
お菓子作りの経験がない誠司だったが、分量が命ということは知識として知っていた。そのため、分量が狂わないようにキッチンペーパーの角を折り曲げ、その中で粉をふるう。
その横で、有朱が湯煎のため水を温めつつ、電子レンジでバターと牛乳も加熱した。電子レンジは、このあとオーブンに切り替え、予熱をしておかねばならない。
下準備は更に続き、有朱は片手でタマゴを割ってボウルへ入れていく。
スポンジで一番重要なのは、意外かもしれないが、小麦粉ではなくタマゴだ。
誠司が用意したタマゴは、その点、申し分ない。白身がこんもりとしており、普段使うタマゴとは質も値段も違う。だいぶ、奮発したようだ。
思わず、隣で一心不乱に粉をふるう誠司を見上げると――なにしろ、身長差がかなりある――ちょうど、目が合ってしまった。
「普通にケーキを買う値段と手間に比べたら、どうということはない」
「セージくん、こういうところだけ鋭いんだから」
「ただの消去法だ」
つまり、今の流れで話題になるとしたら、タマゴのことしかないと判断したらしい。その判断力と推理力を日常生活にも生かして欲しいんだけどと、有朱は思う。
なんのために、推理小説ばっかり、あんなに読んでいるのか。
「俺は驚きたくてミステリィを読んでるんだ。読者への挑戦もスルーする。というか、役に立つ本なんか、読みたくない」
「……声に出てた?」
「いや、当てずっぽうだ」
そうこうしているうちに、湯煎の準備が完了した。
「遠慮なくお砂糖を使えるのって、テンション上がるわね」
「分かります、分かります」
対面式キッチンの向こうで同意するミューラの視線を感じながら、砂糖を90グラム。きっちり計量してタマゴのボウルへ。
それを、湯煎しながら電動泡立て器で攪拌していく。
「キャウン! キャウン!」
その音と振動に、コタロウが真っ先に反応した。けたたましく吼え、ミューラの胸の中で暴れる。というより、コタロウにぶつかって、ミューラの胸も暴れる。
「はいはーい。コタロウちゃん、大丈夫ですよー。いざとなったら、わたしがアリスちゃんをなんとかしますからねー」
「キュウゥゥン……」
「あ、鳴き止んだ。ミューラの言うことは聞くんだ。後から来たミューラがコタロウに好かれてるの、ずるくない?」
「そう思うんなら、不意打ちで攻撃するの止めたらどうだ」
「攻撃って、ただのデコピンなのに……」
そう、桜色の唇を尖らせながらも、有朱は手元に集中する。
元がタマゴだったとは思えないほど白くなっていき、少し粘りが出てきて手応えが重く感じる。
いわゆる、「もったり」とした状態だ。
ここで泡立て器を低速に落とし、さらに生地を混ぜていった。今度は、徐々にきめ細やかになっていく。
なかなか大変な作業だが、気を抜くわけにはいかない。ここで失敗したら、せっかくのクリスマスパーティが台無しになってしまう。
「ミューラのため、ミューラのため。セージくんじゃなくて、ミューラのため……」
「……気持ちは分かったから、少し肩の力を抜こうか」
このままエスカレートすると、呪いの儀式に変化する可能性が高い。そう危惧した誠司が、泡立て器を握る有朱の手に手を重ねる。
だが、逆効果だった。
「セージくんのため、セージくんのため……」
「セージさん! アリスちゃん!」
思わぬスキンシップに有朱は真っ白な肌を紅潮させ、頭が沸騰しかける。
え? え? え? どういうこと? 夢?
口には出さないが、表情と瞳に驚きと困惑と嬉しさ溢れ出す。
「……どうすれば良かったんだ」
あわてて手を離した誠司が、誤算に天を仰ぐ。
この前、散歩へ行く前にミューラの手を振り払ったとき抗議を受けたので考えを改めたのだが、今回も失敗してしまったようだ。
実際のところ、方法も、時と場合も。すべてが悪かったとしか言えない。
「……慣れないことはするもんじゃないな」
「どうするんです、セージさん。このままでは、ケーキが美味しい砂に……」
「ふふふふふ。ミューラにも、少しは幸せを分けてあげないとね」
「そういう気遣いはイヤですぅ……。あと、うらやましいので、わたしにもあとでやってください」
しかし、せっかくの手作りケーキが台無し――ミューラにとってだが――になっては目も当てられない。ミューラは手を出せないので、運を天に任せるしかなかった。
「有朱、そろそろ粉を足していいんじゃないか?」
「はっ、そうね」
正気に戻った有朱が、電動泡立て器のスイッチをオフにした。そして、ゴムべらに持ち替える。ここは集中しなければならない。
「いいわよ、セージくん。ちょっとずつお願いね」
「ああ」
誠司が何度かに分けて、ふるった粉をボウルに入れる。
その度に、有朱は、混ぜ過ぎないように気をつけながら、優しく素早く切るようにしてゴムべらで混ぜていく。
傍目には仲が良さそうに見える、二人の協同作業。
それを、うらやましそうに見つめるミューラ。だが、ここで自分がわがままを言っても仕方がないと、ぐっと我慢する。
「セージくん、ストップ。粉を全部入れる前に、バターを足すわね」
「これだな」
先に温めておいたバターを、そのまま生地に流し込む――のではなく、バターのほうに生地の一部を加えてから、また電動泡立て器で混ぜる。
こうしてから、生地に足したほうが馴染みやすくなる。いわゆる、乳化だ。
「ふう……。これで、たぶん大丈夫」
「お疲れ様」
「アリスちゃん、すごいですね!」
「まあね。でも、これからよ」
小悪魔的……というには自信がありすぎる笑顔を浮かべた有朱は、生地を焼き型に流し込んだ。
「……アリスちゃん。なんか、量が少なくありません?」
「焼いたら膨らむのよ」
「えぇー? 本当ですかぁー?」
「有朱の言う通りだ。仮に膨らまなかったら失敗なので、現時点で心配する必要はないな」
「それ、心配を通り越して不安になるんですけど……」
最後に、焼き型を何度か調理台に打ち付けて気泡を失くす。その度に、コタロウが「キャン! キャン!」と吼え、笑いを誘われた。
「コタロウちゃんには、なにをやっているように見えるんでしょうね」
「敵からの攻撃だと思ってるのかもよ?」
「それだと、アリスちゃんがコタロウちゃんの敵になりますが……」
「コタロウの敵は、俺の敵だな」
「セージくん、大人げなくない!?」
――たびたび事故を起こしがちな会話以外は、順調そのもの。
最後まで責任を持つという心意気なのか、有朱が200度に予熱したオーブンに生地を入れ、焼き上げていく。
「あとは、オーブンにお任せで25分ね」
そう。ケーキが焼き上がるまで、時間がかかるのだ。
その上……。
「25分経ったら食べられるわけじゃないぞ。焼き上がってからも、しばらく冷まさないといけないからな」
期待に胸を膨らませるミューラへ、誠司が冷や水を浴びせかけた。
カステラなどもそうらしいのだが、焼きたてはあまりおいしくないそうだ。しばらく時間をおくことで、しっとりするらしい。
それは、スポンジケーキでも同じこと。
クリスマスパーティは夜と聞いていたのに、二人ともやけに急いでいた。
その理由を知ってミューラは、いろいろと腑に落ちた。
しかし、理屈は正しいとしても、感情が受け入れるとは限らない。
「生殺しですか? いじめですか? あっ、そうです。ここに、焼き上がった生地がありますって出てくるんですよね?」
「あったら、最初からそれを使っているだろうな」
「正論なんて、聞きたくないですぅ」
コタロウを盾のように使って、現実から目を逸らそうとするシルヴァラッド森林王国の第三王女がそこにいた。
「まあ、このまま待ってても仕方ないし、先にプレゼントを渡そうか」
「プレゼントですか!?」
コタロウの盾を掲げながら、ミューラがその場でそわそわとする。
一方、功労者である――まだ、作業は残っているが――有朱は浮かぬ顔。
「う~ん。ほんとは、お酒とか飲みながら、いい雰囲気になったところで渡して欲しかったんだけど」
「それじゃ、渡せないな。年明けに宅配便でいいか?」
「……うう。『じゃあ、五年後だな』って言われるのを期待してたのに」
有朱は、言質を取ろうとしていたらしい。
油断も隙もないなと顔をしかめたが、宅配便などと言い出した誠司も相当だ。
そんな会話などなかったかのように、誠司はリビングへと移動し、用意していたプレゼントの包みを取り出した。
それに合わせて、なぜかミューラと有朱がコタツの側に正座する。緊張する二人が、なんだか面白い。
だが、それを堪能する余裕は、誠司にもなかった。
「え~と。こっちがミューラで、こっちが有朱か。まあ、受け取ったあとは自由に使ってくれ」
やはり、コタツの側に座った誠司がテーブルの上にプレゼントを並べた。
「あっ。照れてますね、セージさん?」
「やっぱり? やっぱりそうよね?」
そのらしくない様子に、プレゼントを受け取るよりも先にミューラと有朱がからかいだした。
しかし、この程度で機嫌を損ねるような誠司ではない。
否定するよりも先に、他人からはそう見えるのかと、自己分析を試みる。
そして、結論。
「まあ今までプレゼントを渡すような経験がないから、照れているのかもしれないな。まあ、次からは平常心で渡せるだろう」
「認めちゃうんですか、セージさん……」
「堂々としてるけど、なんかなんなの……って感じよね」
そう言われると、からかい甲斐がない。
しかし、プレゼントを受け取る準備が整ったとも言える。
「ありがとうございます」
「ありがと」
ミューラは、今にも土下座しそうなほど深くお辞儀をして。有朱も、花がほころぶような笑顔で感謝を伝えてプレゼントを受け取った。
それで肩の荷が下りたのか、誠司は緊張を解きながらソファに身を沈める。
「ああ。さっきも言ったが、あとは使うなり捨てるなり好きにしてくれ」
「捨てませんよぅ」
もうわたしのですと言わんばかりに、ミューラはプレゼント包装を開封する。これでもう、誠司も手出しできない。いや、手出ししてくれるなら、それはそれで歓迎なのだが。
「これは……!」
包みを丁寧に開いたミューラが、驚きの声をあげた。
「……なんでしょうか?」
「なんで分かんないのよ! この前、うちで見たでしょ?」
「ああ。ゲームの機械ですね! だって、箱は見なかったじゃないですか」
ミューラには、携帯ゲーム機一式。ソフトも、適当に見繕ってある。
早速パッケージを開けて、説明書を読み始めた。
「……セージくん、これ、本当にいいの?」
その一方で、プレゼントの包みを開けた有朱は当惑気味だった。
嬉しいけど、信じられない。
まさか、誠司が。あの誠司が、クリスマスにアクセサリ――イヤリングだが――を贈るだなんて。
「これはプロポーズよね?」
「違う。まあ、中学生にはあれかとも思ったけどな」
有朱は、手の中のイヤリングをじっと見る。
確かに、中学生が身につけるには高級すぎるように思えた。
「これ、高かったんじゃないの?」
「金額で、ミューラと差は付けていない」
「そう言われると、なんかびみょー」
ゲーム機が悪いわけではない。
悪いわけではないが、もう少し、言い方というものがあるのではないか。
「セージくんだから、仕方ないか。でも、ほんとにセージくんが選んだの?」
「ああ。まあ、ネットの力は借りたが」
シルバーとイエローゴールドの涙滴型のイヤリング。イエローゴールドの部分が三日月型になっている、大人っぽいデザイン。
だが、妙に有朱とマッチしていた。
いそいそとイヤリングをつけると、意味ありげに誠司を見る。
「なかなかいいイヤリングだ。モデルがいいお陰だな」
「ほめるの、そっち!?」
まったくまったくまったくもうと、顔を真っ赤にする有朱。
そんなモデル兼声優の少女へ、コタロウが飛びかかっていった。
「ゥワンッ! ゥワンッ!」
「なんでこっちに来るのよ! まあ、いいけど」
コタロウの鼻先を押さえ、微妙な駆け引きを始める有朱。だいぶ、テンションが高くなっているようだ。
「たぶん、揺れてるイヤリングが気になるんじゃないか」
「うらやましいのね……って、そうだ」
なにかを思いついたらしい有朱が、コタロウを誠司に押しつける。
それから、見せびらかすように、ゲーム機の説明書に夢中なミューラに顔を近づけた。
「へへへー。どうよ、ミューラ」
「あっ、充電しておかないと、ゲームできませんね!」
「聞きなさいよ!」
子供たちは楽しそうでいい。
それでこそ、クリスマスだ。
とりあえず、気に入ってもらえたようだと安堵する誠司。息を吐きながら、静かに目をつぶった。
「はい、セージさん」
「これは、アタシたちからよ」
その誠司に、二人が近づき首になにかを巻き付けた。
絞殺される……と思ったわけではないが、思わず身を縮ませる。
もちろんそれは杞憂。
「マフラーか……」
誠司の首に巻かれているのは、ブラウニーの落ち着いたマフラー。フリンジも付いて、編み目もしっかりとしている。
「……手袋だけじゃなかったのか」
「あれはいわば、前振り」
「二段構えのプレゼントです!」
それにどんな意味があるかは分からなかったが、驚いたのは確か。
誕生日の直後だけに、
「ってことは、これも手編みか」
「頑張りました! セージさんがいない間に!」
「お金を出したのはアタシよ!」
「え? そこを強調したら――」
「そうか。二人で協力したんだな」
「――逆効果ではないんですね。さすがセージさん……」
奥が深いと、ミューラが二度三度とうなずく。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
相変わらず表情は一切変わらない誠司だったが、その声音に嘘は感じられなかった。
ミューラの心配もなんのその。
しっかりと膨らんだスポンジは完全に冷めてからラップに包まれ、冷蔵庫へ入れられた。
そのとき、冷蔵庫にしまわれていたもうひとつのケーキの箱を見て、有朱はにんまりと微笑んだ。
「セージくんも、大概甘いわよね」
「一人だけ除け者は、可哀想だろう」
それから約二時間。
陽も沈んだ頃、ついに、最後のデコレーションが始まった。
「生クリームの泡立ては、こんなもんでいいでしょ」
「角が立っているってやつだな」
「え? オーガですか、業魔ですか」
「よく分かんないけど、違うと思うわよ、それ」
スポンジを半分に切って、泡立てた生クリームを塗る。その上に、誠司と有朱でカットしたイチゴを並べ、さらに生クリームを塗ってスポンジを重ねる。
「ほうほうほうほうほう」
王女様からの感嘆の声を聞きつつ、次は生クリームを絞っていく。有朱が家から持ってきた口金はその威力を発揮し、スポンジは素人目にはなかなか悪くない装飾を纏っていった。
「上手いもんだな」
「ん~。でも、なんか歪んでない」
「イチゴを置けば見えないだろ」
飾り付け、有朱。ごまかし、誠司。そして、応援ミューラ、コタロウという役割分担で進める。これが最も適材適所だったようで、作業は順調に進んだ。
最後に、サンタとツリーを象ったデコレーションピックを刺し、シュガーパウダーを降らせて完成だ。
「やりましたね! すごい。すごいです!」
「ま、ざっとこんなもんでしょ」
「綺麗ですねぇ、美味しそうですねぇ」
「食べるのは、食後だけどな」
「おごごごご……」
「今、王女様が出しちゃいけない声が聞こえたんだけど」
誠司は、ノーコメントを貫いた。肯定すると面倒だし、かといって否定は不可能。
有朱も同意見だったのだろう。ケーキをダイニングテーブルへと運ぶと、スマートフォンを取り出し、何枚か角度を変えて撮影を始めた。
「この写真を、お兄ちゃんやお友達と一緒のクリスマスパーティですって、ブログにアップするわけよ」
「お兄ちゃんな……」
有朱が言うには、業界では兄弟とは恋人を意味するらしい。
ハロウィンのときにも思ったが、そんな事実はないので、ファン――恐らくたくさんいるのだろう――には、安心して欲しいと心の底から願う誠司だった。
「さて、そろそろご飯にするか」
自作のクリスマスケーキを冷蔵庫へしまいながら、誠司がつぶやくように宣言した。
「そういえば、今日のご飯はなんなのでしょう?」
それは、食い意地が張っているから発せられたというだけではない。
サラダやスープを作ったり、ご飯を炊いたりはしているものの、肝心の主菜が見当たらないのだ。
これでは、ミューラならずとも、疑問に思わざるを得ない。
「今日は、ステーキだ」
「ステーキ!」
「ホットプレートで焼く予定」
「ホットプレートで!」
「ゥワンッ! ゥワンッ! ゥワンッ! ゥワンッ!」
その会話になにかを感じ取ったのか、コタロウが飛び上がりながら吠え立てた。
「分かった、分かった。今日はコタロウの分もあるから」
「ゥワンッ! ゥワンッ! ゥワンッ! ゥワンッ!」
「あー、もう。コタロウちゃん、大人しくしなきゃダメですよぅ」
さらに興奮するコタロウをミューラがなだめている間に、誠司はキッチンへ舞い戻った。いろいろ準備をしなければならない……といっても、調理はサラダとスープを作る程度。
ソースとして用意したポン酢はとっくに準備ができているし、あとは常温に戻したステーキをカットし、黒胡椒を振るだけ。
「セージさん、ホットプレートは、おこたのほうでいいですか?」
「ああ、頼む」
ホットケーキを作ったことがあるので、ミューラはホットプレートをしまっている場所も、どういうものかも把握している。
ミューラが嬉々として準備をしている間に、有朱も飲み物を出したり皿を用意したりして、クリスマスディナー――と言うほど、大層な物ではないが――の準備は整った。
「さて、それじゃ始めるか」
と言っても、乾杯も気の利いた前口上もない。
誠司の性格からすると求めること自体が間違いだし、とある参加者の目つきが妖しいので、さっさと始めたほうが良い。
「ちょっと、ミューラの目が怖いんだけど……」
「気にするな。俺は、気にならなくなった」
「それもどうなの?」
どうしようもないのだ。
「あと、コタロウもすごいことになってるんだけど」
「それも、いつものことだ」
すまし顔で、しかし、カットされた霜降りの肉から視線を外さないミューラ。サラダやスープ――奇しくも、地球で初めて食べたものと同じ――には、見向きもしない。
その隣で、コタロウも自主的にお座りをしていた。行儀良く座りながら、同時にぷるぷると体を震わせている。興奮が極限に達すると、こうなってしまうのだ。
けれど、見ているのは卓上の肉ではなく、誠司だ。食事は、誠司から与えられるのである。であるならば、そちらを観察すればいつもらえるのか分かる。非常に合理的な話だ。
そんな王女と愛犬を前にして、誠司は調理を始めた。
ホットプレートは、最も強い火力に上げてある。そこへ、ステーキに付いてきた牛脂を置くと、じりじりと脂が溶け、ジュワッと広がっていった。
「脂が溶けてますねぇ……」
「食べるなよ」
「食べませんよ!」
わたしはお肉が好きなのであって、脂だけが好きなわけではないのです。
そう言って、心外だとミューラが頬を膨らませた。
「それは済まなかった」
「うわぁ、めちゃくちゃ心がこもってなーい」
「そ、そんなことはないですよね?」
「そろそろだな」
真相を藪に押し込み、誠司は肉に塩を振った。塩を振ると水分が出るので、焼く直前がベストなのだ。そして、肉を菜箸で掴んで、ホットプレートの中心へ。
合計で5切れ――一枚分の霜降り肉がジュージューと軽快な音を立て、溶けた牛脂の中で踊る。
「美味しそうな音ですねぇ……」
それだけで陶然とするミューラ。
このとき、『先に、ミューラに食べさせる』というコンセンサスが、誠司と有朱の間で瞬時に形成された。
この日のために用意したのは、霜降りが美しいブランド牛。普段は買うことはおろか、目にすることさえない高級品だ。
庶民である誠司からすると、買うのにも勇気が要る……どころか、普段は目にすることもない別次元の存在。本来であれば選択肢にすらならない。
しかし、今回は特別だ。それに、こういう行為が、経済を回すのである。
「セージさん、もういいんじゃないですか?」
「そうだな」
焼き時間は、30秒ほどだろうか。
菜箸で一切れずつひっくり返していくと、綺麗な焼き色が露わになった。
これだけで、食欲をかき立てられる。
なのに、ミューラは露骨に失望したような顔を見せる。
「セージくん! この娘、裏も焼かずに食べようとしてたわよ」
「そそそ、そんなことありませんもん?」
そんなミューラを見て見ぬふりをする情が、誠司にも存在した。
「もういいかな。そのままでも、おろしポン酢でも好きなほうで」
「はい! はい!」
威勢良く手を挙げたミューラには三切れ。大きめの一切れを有朱の取り皿へ。
そして、一切れ分は脇に避けてコタロウの分として確保。
続けざまに、誠司は二枚目を焼き始める。銀髪と金髪の美少女たちが、美味しそうに食べるのを横目に。
「おいしーい!」
喜色満面の有朱が、思わず感嘆の声をあげた。
「今まで生きてきた中で、一番美味しいお肉かも」
「それは良かった……」
有朱の言葉に、誠司はほっと胸を撫で下ろす。喜んでくれたのなら、それでいい。
しかし……。
肝心のミューラがからの反応がなかった。
心配になって、肉を焼きつつそちらを見ると……。
「セージさん」
「……なんだ?」
「ご飯を、ください」
「……はい」
二枚目の霜降り肉を焼き上げてから、ご飯をこんもり盛った茶碗を差し出した。今のミューラには、逆らえない。
「ありがとうございます」
そしてまた、ミューラは箸を動かし始めた。
肉を食べ、ご飯を食べる。
肉を食べ、ご飯を食べる。
肉を食べ、ご飯を食べる。
その間、表情は一切変わらない。誠司よりも、真顔。
瞬時に、割り当てられた肉とご飯をこの世から消し去って、ようやく咀嚼以外の用途で口を使う。
「セージさん」
「……なんだ?」
「わたし、このお肉に、貴族の称号を授けたいと思います」
「それ、何百年か前にやってるんだよな」
イギリスのヘンリー8世がロイン(腰肉)の美味さを激賞してサーの称号を与えたという伝説。
その再現を生で見られるとは思わなかった。
「あああ。なんなんですか、これ。なんなんですか、これ。今まで食べてきたお肉とは一体……」
「頑張って、哲学してくれ」
ミューラが頭を抱え、やっと、誠司の番になった。
自分で焼いたステーキを、取り皿に置いて一口。
「なるほど、これは……」
有朱の、そして、ミューラのリアクションも理解できる。
それほどまでに、美味かった。
和牛は、脂が多すぎて少ししか食べられない。肉の旨さを堪能するなら赤身だ……という主張がある。
それもひとつの事実だろう。
しかし、もうひとつの真理が存在する。
本当に高級で上質な肉は、さっぱりしている。
柔らかく、口の中で溶けて、旨味だけをのこして綺麗に消えてしまうのだ。
そこに脂っぽさはなく、いくらでも食べられる。
これもまた、もうひとつの真理だった。
「美味しいお肉が無限に湧いて出るマジックアイテムとか、作れないものでしょうか」
「それはもう、怪談だろ。しかし……」
視線をうっとりとするミューラ――の隣、健気にこちらを見上げながら瞳をうるうるとさせているコタロウへと移す。
「コタロウに食べさせるのは、もったいないんじゃないか?」
「アンアンッ! アンアンッ! アンアンッ!」
「冗談だ」
コタロウ用に分けていたステーキを二切れ別皿に入れて、キッチンへと移動。食べやすいように小さくしてから、ドライタイプのドッグフードと混ぜてやる。
「アンアンッ! アンアンッ! アンアンッ!」
「はいはい、お座り」
いつもの倍は機敏に、お座りの姿勢を取るコタロウ。
しかし、もはや誠司を見ていない。噛みつくような視線は餌皿へ。
「……よし」
これ以上待たせるのは、しつけではなく虐待だ。
それくらい必死なコタロウに許可を与えると、もの凄い勢いで、征服していった。そこに、遠慮も呵責もない。
喰らう。
ただただ喰らう。
そこにあるのは、プリミティブな欲望だけ。
一息ついたミューラと有朱も、それを唖然として見守っていた。
「……ミューラ。アタシたちはコタロウじゃないんだからね。ちゃんと、サラダも食べなさいよ」
「食べますよ。でも、もう少しお肉の余韻に浸っていたいんです」
「……まあ、気持ちは分かるけどね」
同意しつつも、職業意識が勝ったようだ。
有朱も、ようやくサラダに手を付け始めた。
ステーキを焼き始めてから、まだ十分も経過していない。本来であれば、夕食はまだまだこれからであるはずだった。
……のだが。
もう、終わりの気配が漂っている。
いや、気配どころではない。余韻から目覚めたミューラは、サラダとスープをあっさり片付けると、途端にそわそわしだした。
「…………」
「…………」
ホットプレートの片付けをしている誠司と皿を重ねている有朱の目が合った。
有朱が仕方がないと言わんばかりに首を振り、誠司はゆっくりとうなずいた。
「ケーキ、切るか?」
「いえでも、食べたばかりですし……」
「甘い物は別でしょ。セージくん、あたしは食べたい!」
「あわわ。そ、そういうことなら、わたしもです!」
片付けもそこそこに、誠司はケーキを冷蔵庫から運び出した。
それでも、包丁を温めるのは忘れない。
「わたし、サンタさんのいるところがいいです!」
「食べられないからな?」
「分かってますよぅ。可愛いじゃないですか」
食欲ではなく見た目で選ぶ。
これも進歩は進歩かと、誠司はリクエストに応える。
けれど、それはひとつの崩壊と同義であった。
「あああ。なんて――こと――」
「…………」
二人の少女の悲嘆など気にも止めず、誠司は自作のデコレーションケーキを切り分け皿に載せる。この辺り、誠司の割り切りは凄まじい。
「諸行無常ですぅ……。でも、美味しくいただきます」
「美味しいといいんだけど……」
期待と不安と。
二人の少女は、それぞれの感情を抱いて、ケーキを口に運ぶ。
そして、同時に目を見開いた。
「やった! 美味くできてる!」
「それは良かった」
誠司は、自分のケーキを切り分けながら有朱を祝福する。
あとは、ミューラの反応だが……。
「はああぁ……。幸せれふ……」
こちらも問題ないようだった。
美味しいを通り越して、ミューラは、いきなり幸福感に襲われていた。
ケーキ。スポンジがフワフワで。
ケーキ。生クリームは甘い。
ケーキ。イチゴの酸味が甘さを引き立て。
ケーキ。それらが渾然一体となって幸せを運ぶものよ。
「ああ、ケーキさん。あなたはどうしてケーキなんでしょう」
「それも、何百年か前に発表されてるんだよなぁ」
遅れてコーヒーを淹れながら、誠司は言った。
しかし、シェークスピアに思いを馳せている暇はない。今日の誠司は忙しかった。
「コタロウの分も出すからな」
冷蔵庫には、ネット購入した犬用のケーキがあった。有朱が、「セージくんも、大概甘いわよね」と苦笑した品だ。
箱を開けると中にはドーム状になった、モンブランのようなケーキ。
中身はサツマイモで、外側のクリームのように見える部分はジャガイモらしい。まさか食べるわけにはいかないので味は分からない。
ただ、コタロウはサツマイモも大好きなので、問題はないだろう。
冷蔵庫で解凍していたそれを、トレイごとコタロウの目の前に置き――
「――良し」
再び許可を出すと、またしても猛然と飛びかかっていった。
「あー。可愛い形だったのに……」
有朱が嘆くが、コタロウには関係ない。関係など、あるはずがない。
まるで攻撃を受けているかのように、ドームが次々と崩れ――否、消えていく。砲弾で削られていくかのようだ。
しかし、それを為しているのは一頭の小型犬。
目を剥き、牙を見せ、一気に食べきったコタロウは、舌を伸ばして口の周りを舐め取った。
そうしてからまた、トレイへと鼻先を突っ込んで万遍なくトレイ全体を舐めていく。
味なんか残ってないだろうというほど、綺麗になるまでずっと。
「随分綺麗になったな」
「てっかてかね。てっかてか」
「え? なにが綺麗なんです?」
ずっとケーキに耽溺していたらしい。ミューラが、仲睦まじくコタロウの様子を見る二人の間に割って入る。
それに抵抗もせず、誠司は食卓に戻ってケーキに手を付けた。
「……うん」
確かに、市販品に比べたら荒はある。それは、どうしようもない。
しかし、市販品にない味があるのも確かだった。それは、控えめな甘さだったり、自分で作業をした思い出だったり、スポンジが焼き上がったときにあがったミューラの歓声だったり。
要は、思い入れが違うのだ。
そして、思い入れほど強いものは他にない。
「これだけできたら、大したもんだ」
「ですよね。有朱ちゃん、すごいです!」
「ま、この程度アタシにかかったらよゆーよ、よゆー」
誠司とミューラから賞賛を受けて、戸惑いつつも有朱が薄い胸を張る。
微笑ましい光景。
忙しかったが、満足だ。
コーヒーも美味い。
あっという間にケーキを食べ尽くすと、もう、なにもする気がなくなった。
「ところで、アリスちゃん。このゲーム、武器はなにがオススメですか?」
「ん~? アタシは、大剣使ってるけど……」
食後特有のけだるさで、片付けなくてはならないことが分かっていても、動けない。
「なんかこう、遠くから一方的に攻撃できて、わたしはダメージを喰らわないような武器ありませんか?」
「そんなんあったら、アタシが使ってるわよ」
このまま、なにもせず眠ってしまいたかった。
「えー? だって、戦闘の基本じゃないですか」
「それじゃ、ゲームにならないじゃない」
「ぶーぶー」
実際、コタロウは既に眠っている。
今日がなんの日か分からないだろうが、クリスマスのコタロウは、本当に幸せそうだった。
……だが、人間はそういうわけにもいかない。
特に、誠司には、はっきりさせておかねばならないことがひとつある。
「ところで、有朱。泊まっていくって本気か? 明日学校だろ?」
「学校?」
「だって、月曜じゃないか」
「なに言ってんのセージくん。もう、とっくに冬休みだけど?」
「冬休み……。ああ……冬休みか……」
数日後に仕事納めを迎える誠司は、初めて恐竜の化石を発見した男のような表情でつぶやいた。
「セージくん、夜這いに来ていいからね」
「おやすみ」
クリスマスも、あと数時間で終わる。
そんな状況でも、誠司は変わらない。
有朱の笑えない冗談を一刀両断し、誠司は自室へと入っていった。
まったく性質が悪い。なにが悪いかと言えば、有朱本人にとっては冗談でないあたりだ。それから、その後ろで、ミューラも顔を真っ赤にしてうつむくのは止めて欲しかった。
「……さて」
寒々しく、それでいて雑然とした自室に戻った誠司は、不思議な居心地の良さを感じていた。しかし、眠気はない。
そうなると、途端になにか読みたくなってくる。
「せっかくだから、クリスマスに相応しいのがいいか……」
クリスマスと言えば、なんだろう?
数々の作品が埋もれている本の山を眺めながら、誠司は自問自答する。
「『数字錠』……だな」
結論は、すぐに出た。
しかし、見つかるかどうかは、また別の話。クリスマスの夜に、誠司は心当たりの場所を探す。
「『挨拶』だっけ、『メロディ』のほうだっけ?」
短編なので、収録されている短編集のタイトルを記憶の底からすくい上げながら。
「……あった」
静かに捜索をすること、約十五分。本の山の奥の、更に底から黄色い背表紙の文庫本を発掘する。屋形船と川岸に寝そべる犬が描かれた、奇妙なカバーイラスト。
それを無意識に撫でながら、誠司は室内で唯一本に蚕食されていない聖域――ベッドへと移動し、パラリとページをめくる。
タイトルには、『御手洗潔の挨拶』と記されていた。
本格ミステリの巨匠島田荘司が産みだした、名探偵・御手洗潔。日本のシャーロック・ホームズと言ってもいいだろう。
第一印象を一言で言うと、変人。
躁鬱のきらいがあり、機嫌が悪いとワトスン役の石岡和己を罵倒することもしばしば。一方、興が乗ると演説のように長々と話すこともある。
伝統的なタイプの名探偵にありがちだが、護身術にも長けている。
長期シリーズのため、元は星占術師だったものが、現在は脳科学の研究者になっているようにキャラクターの設定に変遷は見られるが、天才で、変人で、女嫌いである点は一貫している。
そして、その底流には優しさがある。それは、『異邦の騎士』を読めばよく分かることだろう。これがあるから、御手洗のことを決して嫌いにはなれない。
誠司は、長編なら『斜め屋敷の犯罪』を推す。非現実的ながら、ひとつのトリックですべてを構築したその創意には敬服せざるを得ない。
それに、適度な長さなのがいい。1000ページ近く読んでも御手洗潔が出てこず、最後の最後で謎解きだけして去って行くという展開は、さすがに辛かった。
それでも、ミステリィとして面白いので、どうしても読んでしまうことろが、また、罪深い。
この『斜め屋敷の犯罪』のようにトリック重視の作品もあれば、デビュー作の『星占術殺人事件』や『暗闇坂の人喰いの木』のように伝奇的な作風に驚くようなトリックを混ぜた作品もある。
そして、もうひとつ。
御手洗潔シリーズの特徴として、叙情的で切ない物語が展開されることがある。
前述の『異邦の騎士』もそうだし、短編集『御手洗潔の挨拶』に収録されている『数字錠』もそんな一編だ。
表の入り口をシャッターで、裏木戸を数字錠で閉ざされた密室で、電飾会社の社長が殺害された。
社員四人には全員アリバイがあり、社長が死ねば社員も路頭に迷うため社員に動機はないかに思われた。
だが、株取引に関するいざこざが判明し、ある社員が容疑者として警察の捜査線上に浮かぶ。
そのとき、御手洗が取った行動とは――というのが、『数字錠』のあらすじだ。
最初に御手洗が発した数字錠のパターンに関するブラフは、ちょっと誰か止めようとしなかったのかと思ってしまう程ひどい。
殺害のトリックに関しても、アリバイトリックになるのだろうが、やや拍子抜けしてしまう面も否めない。
純粋にミステリィとして楽しむのであれば、『ギリシャの犬』がいい。プロローグの意味が分かって、やられたと膝を打つ快感は素晴らしいの一言だ。
しかし、フーダニットもハウダニットも『数字錠』の本質ではない。
幸せそうにクリスマスの一夜を過ごし、最後に一杯千円のコーヒーを飲む。なんでもないこの描写が心を打つ。
哀しく、切ない。どうしてこうなってしまったのか。事件が始まってからしか関わることができない探偵の悲哀を感じる。
この事件の後、コーヒーを絶対に飲まなくなった御手洗と石岡くんの反応も実にエモーショナルだ。
静かに読みふけっていた誠司は、最後の一文まで読み終えると、バタリと文庫本を閉じてしまう。短編集の残りを読み進める気にはなれなかった。
楽しかった――少なくとも賑やかだった――クリスマスの後に、読むべき物ではないかもしれない。
けれど、それが誠司の心のウェイトを元に戻してくれた。
読み終えた本を手近な本の山の上に置き――こんな事をするから、行方不明になるのだ――誠司はベッドに横たわって目を閉じる。
そのとき、とんとんと、扉を叩く音がした。
普通にノックをしている音とは違う。もっと下から聞こえ、押しつけるような音。
「コタロウか……」
誠司は、コタロウが鼻先で叩いている光景を思い浮かべながら、扉を開けた。
すると、待ちかねていたかのように、コタロウが室内へと入ってくる。止める間もなく、本と本の間をすり抜けて、ベッドの上へとジャンプした。
そのまま、休むことなく布団や枕に体を擦り付けると、壁際に近いところで、ころんと横になった。
「今日は、一緒に寝るのか」
「キュウウウン」
甘えたような声。いや、実際に甘えているのか。
腕を組んで、考え込む誠司。
だが、それも長いことではなかった。
「まあ、今日ぐらいはいいか」
今日は賑やかだったから、寂しくなったのかもしれない。そうでなくとも、たまには甘えたくなることもあるのだろう。
それに、率直に言えば、ミューラではなく、自分のところへ来てくれたのは嬉しい。とても、嬉しい。
「あんまりこっちに寄るなよ」
こうして、誠司はクリスマスの夜をコタロウと過ごすこととなった。




