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第六話 土曜の男

 今週の誠司は、いつもよりも忙しかった。


 まず、ミューラが有朱の家へ泊まりに行くというイベント。


 この準備に、予想よりも時間がかかった。


 荷物に関してはミューラに任せたのだが、有朱との打ち合わせと確認がかなり必要だったのだ。


 まず、有朱の両親――誠司の兄の親友――が、この週末家を空けるという点に関しては、あっさりと裏が取れた。電話をして直接確かめたのだから、間違いはない。


 残る問題は、ミューラの食事と、万一彼女の存在が第三者に知られてしまった場合の対処。


 食事に関しては有朱が胸を張って引き受けたが、もしものことを考え、手土産と一緒に、おかずを何品か作って持たせてやった。

 そして、ミューラのことが露見した場合は、可能な状況なら誠司を呼び出すこと。それが無理なら――程度にもよるが――魔素(マナ)の残量など気にせず魔法を使用して切り抜けるよう、口を酸っぱくして言い含めた。


 そんなに心配なら、遊びになど行かせなければいい。


 その言い分はもっともだが、今後、誠司がなんらかのアクシデントに見舞われないとも限らない。たとえば、急な病気で一週間入院――となったら、それだけでミューラは餓死しかねないのだ。


 それを思えば、ミューラの世界を広げていくのは重要だった。


 もうひとつの要因は、これは定期的なイベントなのだが、コタロウを動物病院に連れて行かねばならなかったというのもあるだろう。


 コタロウは、生まれつき心臓が弱い。そこまで深刻なものではないのだが、念のため定期的に動物病院へ連れて行っていた。


 それがちょうど今日だったので、車――ほとんど、動物病院への送迎用と化している――でミューラを送りつつ動物病院へと回るというルートを取ることになったのだが。


 初めて乗る車にミューラが興奮し、それにつられてコタロウもテンションが高くなり……別れ際には軽い愁嘆場が発生してしまった。


 クリスマスを一週間後に控えた土曜日は、こんな風にして始まった。


「ふぅ……」


 忙しなさもさることながら、心労もあったのだろう。


 家に帰りコーヒーを淹れると、誠司は――いつもはミューラが占拠している――コタツに入り、大きく息を吐いた。それを見て、コタロウが誠司の傍らに寄り添う。その体温が、なんとも心地好い。


 コタロウはいるが、久しぶりの一人。


 ここ数ヶ月、騒がしいほどだったリビングは、しんと静まりかえっている。


 寂しいとは思わないが、変化になにも思わないほど鈍感でもない。


 やや複雑な心境を振り払うかのように、誠司は湯気が出ているコーヒーを一口啜る。それで、誠司の細い瞳に生気が宿った。


 いつまでも、惚けているわけにはいかない。

 ミューラを有朱の家へ送り届け、コタロウの通院も終えた。ここから先は、誠司の誠司による誠司のための時間だ。


「さて……」


 誠司の前に、二冊の文庫本が並んでいた。


 一冊は、館の入り口が描かれたもの。もう一冊には、杖を持って椅子に座った司祭風の男性が描かれている。どちらも、青で縁取りされていた。


 前者のタイトルは、『グリーン家殺人事件』。後者は、『僧正殺人事件』。


 どちらも『ヴァン・ダイン全集』と記されていることから、同じ作者の作品であることが分かる。


 S・S・ヴァン・ダイン。本名はウィラード・ハンティントン・ライト。


 1920年代から30年代にかけて活躍したアメリカのミステリィ作家……だが、最初からそれで世に出ようとしたわけではない。

 元は美術評論家だったが、健康を害し療養を余儀なくされてしまう。

 その間に、ミステリィ小説を2000冊読破し、これなら自分でも書ける――と、処女作である『ベンスン殺人事件』を発表。

 たちまちベストセラーとなり、人気作家の仲間入りをする。


 これが、自伝から引用されたヴァン・ダインのプロフィール。だが、誠司は、嘘ではないかと思っている。

 作品から迸る、作者の自意識と自己愛と考え合わせると、かなり“盛っている”という印象が拭えない。


 簡単に言うと、うさんくさい。


 実際、美術評論家というのは本当で、知識もかなりのものだ。主人公ファイロ・ヴァンスも美術品の愛好家である事からも、それが分かる。

 しかし、麻薬に溺れ、借金で首が回らなくなり、低く見ていたミステリ小説を書いたら大ヒットしたというのが真相のようだった。


 それを知って、誠司は失望するでも哀しむのでもなく、むしろ、素直に納得してしまった。


 ヴァン・ダインという筆名(ペンネーム)は、作中のワトスン役と同じだが、ヴァン・ダイン自身は探偵役のファイロ・ヴァンスに自らのパーソナリティを仮託しているのは明らかだった。


 なぜ、断言できるのか。


 ワトスン役のヴァン・ダインが、とにかく目立たないキャラクターだからだ。


 目立たないと言うよりは、探偵役のファイロ・ヴァンスのうんちくを聞くための装置でしかない。

 その舞台装置っぷりは、ファイロ・ヴァンスが他の関係者と喋っているシーンでは、その場にいるにもかかわらず一言も喋ることがないぐらい徹底している。

 実質的なワトソン役は、地方検事のマーカムだとすべきかもしれない。


 第一作である『ベンスン殺人事件』を読んでいた誠司は、「これ、ヴァン・ダインはファイロ・ヴァンスの別人格で、トリックに関係したりするのか……?」と、半ば本気で疑ったぐらいだ。


 もちろん、そんなことはなかったのだが。


 そんな、作者のパーソナリティを仮託された探偵役ファイロ・ヴァンスは、天才的で尊大な人物だ。


 趣味は美術品の収集と音楽観賞。絶世の美男子で、フェンシングの達人。哲学者であり、心理学者であり、ポーカーの名人でもあり、さらに美食家。


 そんな名探偵ファイロ・ヴァンスだが、ワトスン役のヴァン・ダインを高尚な言い回しで煙に巻くのは、日常茶飯事。たった一語を調べるために分厚い辞書を持ってこさせ、調べ終わったら一顧だにしない。

 初登場時など、朝から仕事で呼ばれてやって来たワトスン役のヴァン・ダインに対して、「こうして平民なみに早起きすると、疲れてねえ」などと言い放つ。


 博識なのは分かるが、その知識を披露するシーンがとにかく長い。『ドラゴン殺人事件』など、事件と関係あるかどうか分からないドラゴンに関する知識を5ページ以上にわたって披露する始末。


 その上、相続した遺産で悠々自適の毎日を送っているとなったら、自身の境遇をモデルにしたのではなく、理想の自分を描いたという解釈以外にあり得ない。


 あまり誠司の言えたことではないが、友達になりたくない探偵でランキングを作ったら、かなり上位に食い込むのではないか。


 しかし、どうにも憎めない。そして、作品自体はとてもとても面白い。


 デビュー作の『ベンスン殺人事件』は読んでいて少し辛い部分もあるが、そこから右肩上がりに面白くなっていく。

 特に、第三作の『グリーン家殺人事件』と第四作『僧正殺人事件』はミステリィ史上に燦然と輝く傑作と言っていいだろう。


 それなのに、今では、本国アメリカで忘れ去られた作家になっているという。


 こんなに愛されているのは、今や日本だけ。


 そういう部分も、また愛おしかった。


 そうでなければ、誠司の前にあるヴァン・ダインの代表作二冊を再読しようとは思わないだろう。しかも、『グリーン家殺人事件』と『僧正殺人事件』のよりどちらが面白いか決めるために。


 最初に読んだ感想では、『僧正殺人事件』のほうが上だった。


 しかし、これは順番に読んだことで、期待が膨らんだからではないかという疑いがある。


 程良く内容を忘れている今こそ、逆の順番で読んで白黒付けるべきではないか。いや、しなければならない。


 ミューラのいない。音ひとつしないリビング。


 そこから、あえて目を背けるかのように誠司は『僧正殺人事件』を手に取った。


 『僧正殺人事件』は、見立て殺人事件の嚆矢と知られる傑作だ。


 童謡(わらべ歌)や土地の伝承になぞらえて一連の犯行が行われる。

 これが、見立て殺人の定義であり、『僧正殺人事件』は、ジョーゼフ・“コクレーン・ロビン”が矢で射殺され、恋のライバルであったスパーリング(Sperling=ドイツ語でスズメの意)が行方をくらますところから事件が始まる。


 まるで、マザーグースの「誰が駒鳥殺したの」のように。


 さらに、それを示唆する書き付けが、僧正という署名入りで残され、マスコミにも送られたのだ。


 今となっては一般的なモチーフであるが、それだけに先駆となった作品の価値は計り知れない。


 マザーグースをモチーフに次々と起こる殺人事件。一応の収束を見たかに思われた直後に発生する、誘拐事件。二転三転した結果、最後に提示される「意外な」犯人。


 嚆矢となった作品とは思えないほどレベルが高い。


 そして、嫌なヤツではあったが正義感にあふれていたファイロ・ヴァンスが、最後に選択した意外な行動。


 シリーズ最高傑作の呼び声高いのもうなずけるというものだった。


「やっぱり、僧正は面白いな……」


 もちろん、瑕疵がまったくないとは言えない。翻訳も古いし、古典ゆえの思い出補正もあるだろう。


 それでもやっぱり、面白かった。また、文体になれたのか、それとも時が経って読解力が上がったのか、思ったよりもずっと読みやすかった。


 お陰で、空腹も忘れて、読みふけってしまった。

 途中、有朱から何度もメールで――誠司が、頑なにSNSアプリを使用しないので――連絡が来ていたが、特に返信すべき内容でもなかった。


 念のため、すべて目を通した上での判断だ。決して、めんどくさがったわけではない。


 時間は、昼下がりを越えて夕方近くなっていた。


「アンッ! アンッ! アンッ!」

「分かってるよ」


 誠司の動きを察知し、チャンスを逃してたまるものかと、甘い声を出してアピールするコタロウ。

 それにほだされたわけではないが、誠司はコタロウを散歩に連れて行った。そして、帰った直後にご飯を食べさせ――


「さて、次はグリーン家だ」


 ――読書に舞い戻った。


 うずうずして、我慢しきれないと言った風情。


 その声音はまったく平坦だったが、この場にいない少女が聞いていていたなら、「やたら嬉しそうですね、セージさん!」というコメントを残したことだろう。


 それはともかく、『僧正殺人事件』が見立て殺人の嚆矢なら、『グリーン家殺人事件』はいわゆる館ものの最初期の作品である。

 ニューヨークの中心にありながら、時代に取り残されたようなグリーン屋敷。アンシャンレジームの名残とも呼ばれるこの屋敷が惨劇の舞台だ。


 25年間住み続けないと遺産相続の権利が発生しないため、この陰鬱とした屋敷に住み続けるグリーン家の人々。

 外部犯行説を早々に否定したファイロ・ヴァンスは、陰惨で不吉で鬱々とした屋敷で発生した連続殺人事件に挑むことになる。


 現代ではありふれたモチーフであるが、代わりに、その最初期の作品に出会ったという感動があった。


 殺人方法も多彩で、事実関係を列挙し、そこから犯人を導く推理は端整で、推理小説のお手本のようだ。


 しかし……。


 どちらがより面白いかという面では、やはり『僧正殺人事件』に軍配が上がる。


 誠司としては、ミステリィにおける犯人の動機など、どうでもいいと思っている。思っているが、納得できる動機であればなお良い。

 その意味では、『僧正殺人事件』における犯人の動機は、端的に言うと狂っている。


 だが、それがいい。


 フーダニットもハウダニットが重要なのは間違いない。さらに、ホワイダニットでインパクトが与えられるかも重要なのではないか。


 そう考えると、やはり『僧正殺人事件』に軍配が上がる。それに、フーダニットで言うと、『グリーン家殺人事件』は、容疑者がどんどん死んでいくので、どうしても弱い。

 刊行順とは逆に読んだことで、『グリーン家殺人事件』の物足りなさが浮き彫りになってしまった格好だ。


「やっぱり、僧正のほうが面白かったな」


 ほぼ一日を費やしたにもかかわらず、結論は変わらなかった。それでも、誠司は満足そうだった。


 結論は変わらない。それでも、甲乙付けがたい傑作に甲乙を付けた。付けてしまった。


 それ自体に、誠司は満足していたのだ。


 しかし、そんなヴァン・ダインが「一人の作家が優れたミステリィを書けるのは六冊まで」と言った通り、これ以降、下降線をたどってしまうのは哀しいものだ。


「もう、こんな時間か……」 


 気付けば、何杯目かのコーヒーも、すっかり冷めていた。


 顔をしかめながら飲み干すと、顔を上げて時計を確認する。


 既に20時を回っていた。


 途中からは有朱からのメールも来なくなり――返事がなくて諦めたのだろう――完全に時間を忘れていた。

 時間を認識すると、連鎖的に昼食を摂っていなかったことを思い出し、空腹が頭をもたげる。人間の体とは、なんと不思議で、そして、不便なことだろうか。


 コタロウを散歩に連れて行き、先に食事を与えた以外、ずっと読書をしていてこの時間。

 コタロウも、早めに餌をもらったあとは、誠司が構ってくれないのでふて寝している。


「……仕方がない」


 大きく伸びをして体をほぐすと、誠司はコタツから出てコートを引っかけた。


 なんの準備もしていないので、買い物に行かないと食べられる物がない。ミューラが来て以来、菓子パンや冷凍食品の買い置きをしなくなったのだ。


 コタロウが騒がないようにそっと外に出ると、誠司の長身を寒風が撫でていく。


「寒いな」


 冬なのだから当たり前……と思いつつも、外に出た誠司は口に出さずにはいられなかった。


 無意識に体を縮こませながら、誠司はマンションのエントランスを出て近所のショッピングセンターへと向かう。寒さのせいか、気付けば早足になっていた。


 20時を過ぎると、土曜日とはいえショッピングセンターの周辺も人が少ない。一日の終わりが近いことを否応なく感じさせる。


 誠司は特に感銘を受けた様子もなく、食料品売り場へと急いだ。


 閉店まで二時間を切った食料品売り場だったが、買い物客はそれなりにいた。


 しかし、多くても少なくても誠司には関係ない。野菜売り場を見て回りタマネギを一袋補充してから、順路通り魚売り場へと移動する。


「……そうか。この時間だから、安くなっているのか」


 魚売り場では値引きシールが張られた刺身やパックに入った寿司が一箇所に並べられていた。

 ほとんど仕事帰りに買い物を済ませていた誠司は、その可能性に思い至らなかったのだ。ずっと小説――それも、思考力を必要とするミステリィ――を読んでいたことで、脳の栄養が足りていなかったというのもあるだろう。


 マグロやカツオ、イカにスズキなどの刺身が、半額かそれ以下になっている。パックの寿司も、半額とはいかないものの、充分安くなっていた。


 刺身を買って海鮮丼にするか、あるいは寿司で済ますか。


 手間もかからないし、安くなっているので予算的にも問題ない。その気になれば、少し豪勢にすることだって、できるだろう。


 しかし、誠司は気乗りしなかった。


「寒いしな……」


 冬の夜に食べるには、いかにも寒々しい。悪くはないが、積極的に選ぶ気にもなれないといったところか。


 魚売り場は素通りし、惣菜売り場へと向かう。空腹もいい加減限界だし、適当に買って帰りたい。やはり値引きシールが貼られていた切り干し大根の煮物を買い物カゴに入れ、メインはどれにするかと見て回るが……。


 どれもこれも、揚げ物ばかりだった。


 その中でも目についたのが、計算を間違ったのか、かなり大量に売れ残っているトンカツだった。


「でも、トンカツってのもな……」


 ご飯のおかずとしては、やや厳しくなってきた。誠司には、そんな自覚がある。

 この前トンカツを揚げたとき、ミューラは一切れでご飯を茶碗の半分も食べる勢いだったというのに。それを思い出し、気圧されてしまったというのもあるかもしれない。


 それに、キャベツの千切りを用意するのも面倒だ。自分一人だと思うと、やる気がしない。


 他に天ぷらに鶏の唐揚げなども値引きされていたが、どうにも食指が伸びなかった。考えるのも面倒だから弁当でいいかと、視線を移動させ――一点で止まった。


「カツ丼か……」


 トンカツは難しいが、カツ丼なら食べられそうな気がしてきた。たれ、半熟の玉子、柔らかなタマネギ。その助力があれば、トンカツなど物の数ではない。

 そう。弁当を買うのではなく、惣菜のトンカツを自分でカツ丼にするのだ。


 その発想は、思った以上にしっくりきた。


 そして誠司は、ミューラがいないからと完全な手抜きをすることに抵抗を感じていたと気付く。


 それは、ちょっとした意地だったのかもしれない。ミューラがいないからと、完全な手抜きをするのは、逆に銀髪の王女を意識していることになると。

 いや、この数ヶ月同居していたのだ。意識するのは当然だろう。おかしなことはない。なにもない。


 とにかく、方針は決まった。


 トンカツを一枚確保すると、売り場を移動しながら他に必要な物を思い浮かべていく。


 タマネギとタマゴ、ご飯はある。副菜は、さっきカゴに入れた切り干し大根の煮物でいいだろう。三つ葉は……自分一人なら不要だ。


 ……もう、全部揃ってしまった。

 

「いや、みそ汁だな」


 一人分作るのも効率が悪い。なくてもいいが、あったほうがよりいいのは間違いなかった。


 誠司は方向転換してみそ売り場へと向かい、コーナーにあるインスタントタイプのみそ汁を物色する。


 一食分で充分なので、選ぶのは必然的にカップタイプになるが、それでも種類は色々ある。ネギ、ほうれん草、なめこ、シジミ、アサリ。それに、豚汁。


 その中から、誠司はなめこのみそ汁をカゴに放り込んだ。なんでも食べるミューラだったが、どうやらねばっとしたものは好みではないらしい。

 だから、ミューラが現れて以来、なめこのみそ汁が食卓に出たことは一度もなかった。


 せっかくだからと、なめこのみそ汁を選んで準備完了。


 空いているレジを見つけて会計を済ませると、誠司は真っ直ぐに家へ戻った。


「ゥワンッ! ゥワンッ! ゥワンッ!」


 帰宅の気配を察知して目覚めたコタロウを適当にあしらいつつ、キッチンへ。冷たい対応だが、仕方がなかった。こんな時間に、なにか食べさせるわけにはいかない。


 まず、冷凍庫から一食分のご飯を取り出し、電子レンジで解凍。一緒に、タマゴも冷蔵庫から出しておく。


 その間に、タマネギを薄切りにする。

 しゃきしゃき感は求めないので、なるべく薄く。早く煮えるように薄く切る。


 丼つゆには、簡単にめんつゆを使用。ミューラがいたら、最低限顆粒だしを使用して自分で味付けしていただろう。

 だが、自分一人なのに、そんなことをする気にはなれなかった。


 そのめんつゆと水を1:3で割り、アルミの親子丼鍋へ。甘めが好きなので、砂糖を足して味を調整する。

 それを火にかけると同時に、薄切りにしたタマネギを投下。


 タマネギを煮ている間に、買ってきた半額のトンカツを2cm幅に切る。冷えて堅くなったトンカツは、意外と手応えがあった。


「オーブンで……」


 温めようか。


 そう思った誠司だったが、面倒くささが先に立つ。その行為自体はどうということもないが、後始末を考えると、やる気になれない。


 ミューラがいたら、また、話は違ったのだろうが。


 そんなことを考えていると、電子レンジがご飯の解凍を知らせる。


「アンアンッ! アンアンッ!」


 期待か、それとも催促か。コタロウも吼えた。


 そんなコタロウを一瞥だけして、誠司はご飯を丼に入れる。さらに、解凍したご飯と入れ替わりに、惣菜の切り干し大根の煮物を温める。


 そうこうしているうちに、丼つゆで煮ているタマネギがいい色合いになってきた。


 やかんを火にかけてから、誠司は総菜のトンカツを鍋に入れた。さらに、タマゴを二個、ボウルなどでほぐさず鍋に直接投下。

 強火にすると同時に、菜箸を使って、その場で黄身を割った。余程、洗い物を増やしたくなかったらしい。元々、カツ丼のタマゴはちゃんと混ぜる物ではないので問題ない――と、誠司は思っている。


 それに、そんなことを気にしている時間はない。


 加熱するのは、一分にも満たない短時間。フライパンを揺すりながら、半熟よりもやや弱め……といったところで火を止める。極論してしまえば、タマネギに火が通っていればそれで良いのだ。


 それを菜箸でご飯に乗せた頃には、切り干し大根の煮物の温めも終わり、やかんのお湯も沸騰している。


 最後に、カップのみそ汁にお湯を注いで完成。


 ねだって足に飛びかかってくるコタロウをいなしつつ、ダイニングテーブルに遅い夕食を並べる。


 カツ丼、切り干し大根の煮物、みそ汁。


 栄養バランスが悪い……とは言えないが、色合いだけ見れば確実に落第点だった。


「茶色だな……」


 安価で短時間かつ手軽に揃えたのは良かったが、見た目を代償としていた。


 卵の黄色と白。それと、切り干し大根の煮物にわずかながら入っているニンジンの赤。それ以外は、絶望的なまでに茶色だ。ミューラが一緒だったら、決してこんなことはしなかっただろう。


 ミューラが、そんなことは気にしないと分かっていても。


「まあ、いいか。いただきます」


 誠司も気にしないことにして、タマゴで彩られたカツを箸で掴む。真ん中の、一番大きな部分をだ。


 それをためらいなく大きく口を開けて一口。半ばから噛みきった。


 たれに染みこんだ出汁の甘辛い味わいがじゅわっと染み出してくる。それに続くカツは、やはり堅くてチープな味わい。

 けれど、カツ丼としては、それは当然。揚げたてのカツがあるなら、そのまま食べるのが一番。カツ丼にするなら、余り物がちょうど良い。


 それに、カツだけを食べて終わりというわけではない。


 誠司は、続けて半熟の卵が載ったご飯をかき込んだ。


 タマゴの表面は熱で固まっていても、内側はとろりと半熟。これを、出汁が染みたご飯と一緒に食べるのだ。美味いに決まっている。

 柔らかくなったタマネギの甘みもいい。


 食べれば食べるほど空腹になると言うべきか……。食べるほどに食欲が刺激され、空腹が呼び覚まされていく。


 このまま一気に食べてしまいたい。


 そんな気持ちに、誠司は無理矢理ブレーキをかけた。一時の欲望に身を任せたりはしない。あくまでも、誠司は理性の人だった。


 好みよりは濃いカップのみそ汁で気持ちを落ち着けると、誠司は、切り干し大根の煮物にも手を出した。


 こちらも甘い味付けで、口直しというわけにはいかない。しかし、こんな時間に一人でカロリーの高いものを食べているときには、存在自体が頼もしく思える。


 肉だけではない。野菜も摂っているという……いわば贖罪の味だ。


 煮物を免罪符にした誠司は、また、カツ丼をかきこむ。


 衣、肉、タマゴ、タマネギ。そして、白い飯。渾然一体となってカツ丼という交響曲を構成するが、重要なのは、やはり丼つゆで煮たという調理そのものだろう。

 年を取るとミスマッチになるカツとご飯の溝をしっかり埋めている。カツの端の脂身が多い部分。そこも、苦にはならなかった。


 急がず一定のペースで。しかし、箸を置くことなく食べ進める誠司。


 会話もない。

 コタロウも構わない。


 味わってはいても、ほとんど栄養補給。燃料をチャージしているのと変わらない。


 しかし、それが食事の本質だと言わんばかりに、五分ほどで丼の底に残ったご飯の一粒まで綺麗に食べきってしまった。


 最後にみそ汁を飲み干し、ほっと一息――


「『ABC殺人事件』が読みたくなった」


 ――つく間もなく、誠司は次の本を選ぶために自室へと移動した。洗い物は、とりあえず、後回しにして。





 数時間後、何杯目かになる冷めたコーヒーを飲み干すと、誠司はミューラのようにコタツで横になった。


「やっぱり、ミッシングリンクものはいい。『九尾の猫』も傑作だな」


 なぜ、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』ではなく、エラリー・クイーンの『九尾の猫』になったのか。

 それは、本が山と積まれ、ある種の魔境と化してる誠司の私室に理由があった。


 要するに、見つからなかったのだ。


 ふと思い立って一冊の本をすぐに抜き出せるほど、甘い環境ではなかった。


 これだから電子化しようとしているのに、最近は、その作業も遅々と進んでいなかった。今日は読むよりもそちらの作業を進めるべきだったかと、ちらりと思う。

 しかし、すぐに考えを改めた。

 どうせ、作業しながら本を読んでしまい、結局、進まないことは変わらないのだ。なら、集中して楽しんだほうがいい。


 もう、日付が変わろうかという時刻。

 そろそろ寝ようかとしていたところ、誠司のスマートフォンからメールの着信音が発せられた。最後のメールは何時間前だっただろうか。思い出そうとしたが、憶えていなかった。


 しかし、問題は、見るか、気付かなかったことにするかである。どちらにしろ後悔しそうな気がする選択肢。


 たっぷり数分間は熟考し――寝落ちしそうになりながら――結局は、よろよろと起き上がって、黒く薄いスマートフォンのロックを解除した。


「怒らせた……かな」 


 そのメールを一読した誠司は、珍しくばつが悪い表情を浮かべる。


 差出人は、当然のように有朱。他から来る心当たりはない。


 そのメールには、「すぐうちに来て」の一文のみ記されていた。サブジェクトもない。普段のごてごてした内容と比較するまでもなく、回線の向こうから怒りが伝わってきそうだ。


 反応しなかったことに後悔はない。『グリーン家殺人事件』と『僧正殺人事件』にはそれだけの価値があった。


 けれど、自業自得であることも確かだ。


「……行くか」


 文面からすると深刻なトラブルが発生しているわけではなさそうだが、見てしまった以上、無視するわけにもいかない。

 幸か不幸か、飲酒もしていなければ、まだシャワーを浴びてもいない。つまり、億劫だということを除けば支障はなかった。


 先ほどと同じくコタロウを起こさないよう、静かに家を出て立体駐車場へ移動して車を出す。


 深夜のドライブは、15分もせずに終わった。この時間は、当然ながら道も空いている。


 有朱の家――住宅街にある一戸建て――の前に車を停めたのは、日付が変わるまで後数分といった時間だった。

 インターフォンを鳴らすのは迷惑かと考え、玄関まで移動しながらメールを打つ。


 玄関の鍵が開いたのは、ちょうど日付が変わったときだった。


「…………」


 無言で、なにかをこらえているかのような表情を浮かべた有朱が家の中に招き入れる。その背後には、後ろ手にしてうつむいたミューラもいた。

 なにやら、深刻な様子だ。


「有朱、ミューラ……」

「セージさん」

「セージくん」

「誕生日」

「おめでとうございます!」


 ぱんぱんと軽いクラッカーの音が鳴り、紙テープが高い位置にある誠司の頭から垂れる。


「……は?」


 この期に及んでも状況が理解できず、誠司は二人の少女を凝視する。


 有朱のパジャマは、裾の両サイドは編み上げられている、膝丈のレースアップワンピース。

 Vネックで程良い露出がありつつも、手の甲が隠れるほど袖は長く、ペールピンクの生地と相まって甘い印象があった。


 一方、ミューラはコタツとともに愛用しているどてらだ。


 ファッション性に凄まじい格差があるが、元の素材がいいため、どちらもアトラクティブだった。


「誕生日?」


 誰の……と言いかけて、誠司はようやく日付が変わった今日が自分の誕生日だったことに気付いた。


「ええぇっ? リアクション薄いですよ。アリスちゃん、本当に今日がセージさんのお誕生日なんですよね?」

「もちろんよ。このアタシが、間違えるはずないじゃない」

「いや、今の今まで忘れていた」

「えええー? じゃあ、なんで来たの?」


 呼び出しておいて、その言いぐさはなんなのか。


 ……ということになるのは、一般的な話でしかない。誠司は、過去の己の所行を回想し、もっともだと納得する。

 用もないのに家に行くような人格はしていない。それくらいの自覚はあった。


 それに、20までは節目として数えていたが、それ以降は特に意味も感心もないので忘れていた――などと言っても未来ある少女たちが納得するはずもない。

 それも理解していた。


「ああ……。いや、メール返さなかったら怒っているのかと」

「え? 返すつもりあったの?」


 返ってきたのは輪をかけて意外な反応だった。


「セージくんが、こんなに人間らしく……」

「やりましたね、アリスちゃん!」


 手を合わせてほろりとしている少女二人には悪いが、その認識はどうなんだと言いたくなる。

 人をアンドロイドかなにかと勘違いしているのではないか。


 しかし、反論はしない。


 なにを言っても聞き入れられないだろうことは、火を見るよりも明らかだったから。


「というわけで、お誕生日のプレゼントです!」

「セージくん、ずっと欲しがってたでしょ?」

「これは……」


 ミューラが後ろ手に隠していたのは、オレンジ色をしたゴム製の手袋。


 もちろん、ただの手袋ではない。


 これを装着して擦ることで、さといもやジャガイモなどの皮を剥くことができるという便利グッズだ。

 1000円という、試すには高い値段。

 しかし、宣伝文句通りなら便利極まりない。


 自分で買うにはどうか……と思った商品を贈られ、意外さと嬉しさに誠司は思わず固まってしまった。


「って、もちろん。冗談だからね」


 その誠司の反応をどう解釈したのか。少し焦った様子の有朱が、綺麗にラッピングされた包みを取り出す。


「こっちは、ちゃんとした手袋ね。ミューラと片方ずつ編んだのよ」

「頑張りました!」


 それを焦ったように押しつけられ、誠司は二組の手袋を胸で抱くような格好になる。


「ありがとう。ありがたく使わせてもらう」


 表情はいつもと変わらなかったが、「ありがとう」と「ありがたく」が重なった普段ではしない言葉遣いに、感情の揺れが現れている。


「ねえ、セージくん。どっちを喜んでるの?」

「もちろん……」

「もちろん?」

「両方だな」


 その返答を聞き、金髪と銀髪の少女はがっくりと肩を落とした。


 解せない反応だ。


 誠司は、玄関で立ち尽くしながら眉だけ上げて訝しむ。


「わたしたちの手袋にも、皮むき機能を付けるべきでしたね……」

「いや、それどうなのよ……。めっちゃ喜ばれそうだけど」


 クリスマスを一週間後に控えた少女たちの悩みは、さらに深くなったようだった。


「まあ、いーわ。じゃあ、これからパーティだからね」

「セージさん、今夜は寝かせませんよ?」

「いや、今から?」

「アタシたちのことは気にしなくてだいじょーぶ。きっちり、仮眠は取ってるから」

「あんまり騒いでも、ご近所迷惑ですからね。パーティといっても、ゲームしたり映画を見たりするだけですよ」

「……分かった」


 予想外に素直な誠司に、ミューラと有朱は顔を見合わせる。だが、悪いことではないし、翻意の暇を与えるつもりもない。

 二人で強引に手を取って、家に上がらせる。


 ミューラと有朱が不審に思った通り、誠司が為すままになっているのには理由があった。


 メールによる連絡が途絶えた時間があったのは、このためだったのか。


 思わぬ伏線回収に誠司は思わず納得してしまい、反対するなどという選択肢は過りもしなかったのだった。

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