第三話 不思議の国のミューラ
「それで、結局、セージくんはどうだったの?」
「それが……記憶が曖昧なんです……」
冬の足音が急速に近づいてきた11月のとある日曜日。
ありふれたマンションのリビングルームで、あり得ないほど美しい二人の少女が顔と顔を突き合わせていた。
「ゥーワンッ! ワンッ!」
それから、ポメラニアンのコタロウもいる。主人である誠司は不在だが、代わりに二人が家にいるので、まあまあご機嫌だ。
異世界からやって来た王女ミューラ・シルヴァラッドと、クォーターのモデル兼声優の浦賀有朱。その二人の間で無防備にお腹を晒し、苦しゅうないと撫でさせていた。二人の話し合いには、当然ながら、関知していない。
「そこが重要なところじゃないの。まったくまったく、まったくもう」
カーペットに腰を下ろした有朱が、ぷんぷんと頬を膨らませる。ツインテールにした金髪が、さらさらと揺れた。日が落ち、電灯をつけたリビング。天井から放たれた人工の光を天然の金髪が反射する。
いつもは子猫のように挑戦的な光が灯った瞳が、今は怒ったようにつり上がっていた。
それでも可愛らしさを失わないのは、彼女の容姿がなせる技だろう。アングロサクソンの血が入った日本人離れした容貌にとっては、その程度の表情の変化はスパイスでしかない。
身長は150cmほどと、本人は気にしているが、小さな体躯もプラスに働いている。
要するに、可愛い娘はどんな状態でも可愛いのだ。
「そう言われましても、憶えていないものはどうしようもありませんし」
「うちのパパやママじゃないんだから……」
「それはつまり、お酒には記憶を失わせる作用があるということなのでは?」
一方、有朱の糾弾を受けているミューラは、どこまでも純真無垢。細く白く長い指を、形のいい顎の辺りに彷徨わせ小首を傾げる。
仕方がないことだと無罪を主張するミューラは、あざとすぎるぐらい可愛らしい。
にもかかわらず、この仕草に、まったく嫌味がない。それどころか、好敵手である有朱ですら当然と受け止めてしまう。
一朝一夕ではない、王家が培った気品がそこにあった。
そう考えると、電灯という人工の光が相手でもきらきらと輝く銀髪やサファイヤよりも美しい瞳。それに、年齢にそぐわないほどめりはりの利いた肢体も、血のなせる業と言えるかもしれない。
地球に存在する唯一の異世界人という無二の特徴を除いても、やはりミューラは特別。
しかし、今二人で話している内容は、思春期の少女としてはありふれたものだった。
「結局、セージくんは揉んだの? 揉まなかったの? どっちなの?」
「それは、わたしも知りたいところですぅ」
「まったくもう……」
ミューラの頼りない返答に、有朱が腕組をして溜め息を吐いた。
ちょうど一週間前、ミューラがワインを飲んだときのこと。酔った勢いで誠司にスキンシップを図り、一定の成果を上げた――と、ミューラは思っている――件で、有朱はミューラを問い質していた。
なにしろ、これは有朱にとっても重大な問題である。
「迫られるだけじゃなくて、セージくんから手を出したのかどうか。それが重要なのに」
これは誠司の与り知らぬことだが、銀髪の王女様と金髪の小悪魔の間には、協定が存在していた。
といっても、複雑なものではない。
誠司に、どのようなアプローチを仕掛けたか。過去の出来事も含め、報告し合うというものである。
今回俎上に上がっている酔っ払った状態でのあれこれはミューラも狙ったやったわけではなかったのだが、誠司へのアプローチには違いがない。
ただ、成果としては微妙なところ。
「ですよねぇ。セージさん、ちょっとガード堅すぎます」
「でも、ミューラがくっついてうろたえてたってことは、希望はあるわ」
有朱は前向きだった。
いや、誠司のある意味で健全な道徳観によって何年も阻まれてきたのだ。綻びを見つけたら、歓声のひとつも上げたくなるというものだろう。
「でも、いいんですか? わたしが、このままゴールしちゃうかもですよ?」
共同戦線を張りつつ好敵手でもある二人。
リードを確認し、ミューラが笑顔を抑え付けながら言う。
コタロウを撫でる手にも、自然と力が入った。
「わたしがセージさんと結婚したら、ミューラ・ミウラですよ? ロボットアニメに出てきそうじゃないですか。ふふふん」
「いーのいーの。だって、セージくんが、最終的にアタシを選ぶのは目に見えてるし」
「え?」
「え?」
二人とも、コタロウを撫でる手を止め正面から視線をぶつける。
ミューラのサファイヤ色の瞳も、有朱のヘイゼルの瞳も。綺麗だが、どこか濁りが感じられた。
「だって、ミューラは一年もせずに帰るじゃない?」
「ううう。そ、そのとき、セージさんもついてきてくれるかもしれないじゃないですか。ねー? コタロウちゃんも、そう思いますよね? というか、コタロウちゃんも、うちに行ってみたい……行ってみたくないです?」
「……本当に、セージくんがついてきてくれると思ってる?」
「お、思う……ます」
問い詰められて、思わずどもってしまった。
これこそが、答えだった。
「そうなったら、ミューラが適度にほぐしておいたセージくんは、アタシの魅力を再発見するってワケよ」
「でも、あれですよアリスちゃん? セージさんがわたしの魅力にメロメロだった場合、困ったことになりますよ?」
「セージくんが誰かにメロメロなんて、コタロウ以外に考えられないけど……なにがよ」
「だって、わたしとアリスちゃんでは、一箇所まったく違うじゃないですか」
そう言って、ミューラは自らの胸元を見る。いや、胸が邪魔をして、胸元しか見えないと言うべきか。
「…………」
有朱のヘイゼルの瞳から光が消える。
そう。どちらも滅多にいない美少女だが、だからといってそっくりというわけではない。どことは言わないが、等高線の間隔がまったく違っていた。
それは、「胸の大きさの違いが、戦力の決定的な差ではないことを教えてあげるわよ!」などという負け惜しみも言えないほど決定的な差だった。
ゆえに、有朱は実力行使を選んだ。
ミューラと有朱が赤裸々なガールズトークを繰り広げている場に、誠司がいなかった理由。
それは極めて単純で、三人分の夕食の買い物に出かけているからだった。一人だけ雑用を押しつけられているようにも見えるが、誠司にとっては一人のほうが気楽だし苦とも思っていない。
それよりも、有朱も交えた夕食のメニューはなんなのか。
それを知るには、数日前に遡る必要があった。
「セージさん、セージさん」
「……なんだ?」
最近、分かってきたことがある。
ミューラが名前を二回呼ぶときは、なにかお願いをしようとしているサインだと。
たぶん、それが助走の役割を果たしているのだろう。
それゆえ、急かすことなく、誠司は続きを待つ。
もじもじとしていたミューラだったが、意を決して誠司を見上げ口を開く。
「お寿司っていうのを食べてみたいんですけど……」
そう言うミューラの手には、連載再開するだけでニュースになるコミックスが握られていた。
なるほど……と、誠司は心の中でうなずく。
「寿司か……」
ミューラに、かなり不自由を強いているという自覚はある。そして、罪悪感も。
そのため、彼女からリクエストがあれば、可能な限りではあるが、叶えたいとは思っている。
そんなに大層なものではなくとも、リクエストを言ってもらえることは非常にありがたい。
しかし、これはなかなかの難題だった。
「無理ですか……?」
「難しいな」
ミューラ自身はカルパッチョを問題なく口にしていたので生魚は問題ないはず。
問題は、ミューラが『彼女の為に、他者の手を介した食物』しか受け付けないことにあった。
職人が握る寿司屋に行くという手もあるが、いろいろな制約があるため難しい。
誠司が寿司を握れば一番なのだが……。
「専門の職人がやることだからな」
当然、誠司にはそんなスキルはない。昔、寿司屋でバイトをしていたことがあるという都合の良い過去もなかった。
「いや……。そうか、手巻き寿司ならいけるか」
「手巻き寿司……ですか?」
「ミューラが言ってるのはにぎり寿司といって専門的な技術が必要だが、手巻き寿司なら海苔の上にシャリとネタを乗っけて巻くだけだから自分でもできる」
「自分で……。はっ、是非それでお願いします!」
こうした経緯を経て、ミューラと有朱がガールズトークに花を咲かせている頃、誠司は鮮魚コーナーにいた。
汁物を作ってから買い物に出たので、メインの食材を調達すれば、それほど時間をかけずに食べ始められるだろう。
そう見当を付けながら、持ち帰りのパック寿司は無視して、刺身が並ぶコーナーを物色する。
マグロ、サーモン、ブリ、カツオ、イカ、タイ……。
様々な魚が並べられている。買い物を担当するようになってから数年経つ誠司にとっては、ありふれた光景。
ただ、誠司が住む苗字と同じ名の半島は漁業も盛んで有名な漁港もある(行政区分では隣の市になるが)。
そのため、ただスーパーに並ぶ魚も質がかなり違う……らしい。らしいというのは、誠司自身は他と比較したことがないからであって、情報源の兄を信じればという但し書きがついてしまうためだ。
まあ、質が良かろうと悪かろうと他で買うわけにもいかないので、選択肢がないという意味では同じ。
誠司は、周囲の女性客よりも頭ふたつ分ほど高い体を曲げて、ネタを吟味する。
「タコか……」
先週のカルパッチョで大丈夫だったのだから問題はなさそうだ。
地中海地域を除く欧米ではデビルフィッシュなどと呼ばれ気味悪がられているタコも、そういう先入観がなければ問題ないらしい。
人工の暗黒神話では代表的な邪神になっているというのに、異世界人は気味悪がらない。そこに諧謔を感じ、誠司は心の中で微笑んだ。
もっとも、なんでもよく食べる――野菜はあまり好きではないようだが――ミューラだからこそかもしれない。
日本人は、タコもイカも食べるので、クトゥルー神話は然程恐ろしくない。すべての海産物は等しく食材なのだ。
――誠司は、ふとそんな言説を思い出していた。
実際、ラヴクラフトも海産物は食べられなかったそうだから、ある程度の説得力はある。
クトゥルー神話は、アメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトが創始し、彼の友人たちやフォロワーが参加し組み上げていった、シェアードワールドである。
ラヴクラフトがコズミック・ホラーと呼ぶ、人の潜在的恐怖を描いたかのような作品は多くの人を引きつけて止まない
それと同時に、背景設定自体にも引力がある。
クトゥルー、ハスター、ノーデンス、アザトース、ナイアルラトテップ、といった理解不能で恐ろしく。だからこそ魅力的な旧支配者、旧神、外なる神。
そして、名前を出すだけで怪しさと説得力が感じられるネクロノミコン、無名祭祀書、ナコト写本、屍食教典儀といった魔道書群。
さらに、作家一人一人が独自に設定を加え、世界を拡張していくという部分にもやりがいを感じていたのかもしれない。
蛮人コナンシリーズのロバート・E・ハワードも、そんなクトゥルー神話の書き手の一人だ。
コナンシリーズのようなヒロイック・ファンタジーとコズミック・ホラーは水と油のように思えるが、そうではない。
クトゥルー神話では古代の遺跡や密林の奥に神話生物に関するガジェットが存在していることも多く、特に、『アッシュールバニパルの焔』は怪奇要素がありつつ、冒険小説としても読むことができる。傑作である。
誠司も、クトゥルー神話はアンソロジーで何巻も読んでいた。
ただ、まとめて読むべきではなかったという後悔はある。
なにしろ、『あまり親交のなかった親戚から遺産を引き継ぐ→その条件としてあるアイテムを破棄するよう遺言される→遺言を無視して取っておく→破滅』というパターンがあまりにも多すぎたのだ。
そして、三浦誠司という読み手にも問題がある。
石橋を叩いて渡らない誠司には、主人公の行動がまったく理解できない。処分しろと言われているのだから、処分すればいいのだ。
いや、それ以前に、親交のない親戚の財産など引き継ぐのが悪い。相続するにしても、全部売って現金化してしまえばいいのだ。
――と、誠司の思考は完全に主人公失格である。
それから、これは性格ではなく読解力の問題だが、とにかく、文章が幻想的で難解なのだ。一言一句逃さずに読んだつもりでも、なにが起こっているのか分からないことが多々あった。
そして、わけの分からないうちに破滅を迎えている。
そんな作品が続いたせいだろうか。
オーガスト・ダーレスの連作短編『永劫の探求』が、とても面白く感じられたのは。
ラバン・シュルズベリィ博士を主人公とするこの連作短編は、ホラーではあるし登場人物も死ぬがエンターテインメント性が高い。
なにより、邪神そのものには勝てないが、その信奉者を倒すことで事件は解決し、爽快感も得られる。これは、かなりエポックメイキングな作品だった。
もちろん、ダーレスの善悪二元論的な設定がマニアから不評を買っていることは知っている。
知っているが、面白さには勝てない。
フランス料理は美味しく、美しい。その価値を貶めるつもりは毛頭ないが、フルコースを堪能した後、ふとラーメン屋に立ち寄ってしまう。
それもまた、人間の性なのだ。
その流れを汲んだ――かどうかは分からないがブライアン・ラムレイの『タイタス・クロウサーガ』も、ホラーよりはアクション寄りの作品だ。
それでいてやはり、邪神は不気味で強大で人類のことなどムシケラほどにも気にかけない。
エルダーサインが最大の武器では、邪神の信奉者たちはともかく、邪神そのものはどうしようもない。かなり緊迫感があった……のだが。
シリーズの途中から、一気にインフレを起こす。
本当に、あれよあれよと主人公タイタス・クロウは肉体を改造され、その親友アンド・ド・マリニーの柱時計はビームを放つ。
コズミック・ホラーは消え去り、パルプ・フィクションになっていく。初期の知恵と勇気と少しの魔術で悪に立ち向かっていたタイタス・クロウはもういない。
裸に飛行のマントとシミターを装備する元オカルト私立探偵がいるだけ。
同時に、読者も細かいことは気にならなくなっているはずだ。
きれいなクトゥルーことクタニド――クトゥルーとまったく同じ外見をしている。その慈愛に満ちた双眸を除いて!――の登場によって、まともな思考は放棄しているはずだから!
しかし、シリーズが続くに従って、主人公タイタス・クロウの出番もなくなっていくのは痛い。まるで、『火星』シリーズのようだ。
ただ、この主人公が出なくなる傾向は、長期シリーズの宿痾のようなものかもしれない。
ミステリでもそうだ。
こっちは探偵の活躍が読みたいのに、登場は本当に最後。事件を解決するためだけに現れるということが結構ある。
下手をすると1000ページもある小説でこれだと、疲労感だけが残ってしまう。
もし仮に小説を書くようなことがあれば、主人公が出なくなる展開だけはやらない。
誠司は、そう心に誓っていた。
まあ、そんな機会はないのだが……。
……それよりも、寿司だ。
誠司は買い物に意識を戻す。
手巻き寿司などほとんどやったことはないが、定番のネタはイメージできる。
マグロにイカ、甘エビ辺りは鉄板だろう。
今の時期、脂がのっているブリも外せない。ただ、同じ旬でも、カツオの手巻き寿司はあまり聞いたことがないので外す。
それから、この前カルパッチョで好評だったサーモン。それから、白身もあったほうがいいかとタイの切り身も籠に入れる。
イクラは、自分で醤油漬けにする時間はないので、出来合いの物を購入。こればかりは仕方がない。
それから、仲間外れは可哀想なので、コタロウに分ける分も考えてマグロは結構多めに購入。
この時点で、かなりの出費だ。
けれど、これで終わりではない。
海苔も買い込まなければならないし、ツナ缶も四個セットの物を購入した。
それから、ひき割り納豆も。これは誠司の趣味だ。決して、ミューラの反応を楽しもうというつもりではない。
さらに、ウナギの蒲焼きもつい籠に入れてしまった。いつもなら躊躇する値段だったが、ついでだからとよく分からない理由で買っていた。
その他、必要な食材を購入し――あっさりと、予算は超えた――家に帰った誠司が目にしたのは……。
「この! このおっぱいが悪いのよ!」
「あははははっ。くすぐったい、くすぐったいですよ、アリスちゃん!」
留守番の少女二人がリビングで絡み合っている姿だった。その周囲を、興奮した様子のコタロウがグルグル回って吠え立てている。
「ごゆっくり」
誠司はそれだけ言うと、キッチンに入ってしまった。
変なところを見られた美少女二人が、絡み合ったまま静止し、大きく目を見開いて誠司を見る
そんなミューラと有朱を見捨ててコタロウが誠司を追うが、追い散らされてしまう。
美味しいものがあるのに、入れない。
キッチンは、コタロウにとって永遠の理想郷だった。
「もういいのか?」
「そうやって言われると、傷つくんですけどー?」
「うう。とんだ醜態を……」
ある意味開き直っている有朱と、恥じ入っているミューラ。
どちらが殊勝かと言われたらもちろんミューラだが、目撃者である誠司がまったく気にしてはいないので、正解に近いのは有朱だった。
「いや、仲がいいのは良いことだ」
本気でそう思っているかのような口調で――つまり、いつも通りで――誠司はエコバッグから購入したアイテムを取り出していった。
すぐに使う物なので、基本的に冷蔵庫には入れない。結果、かなりの量がキッチンに積み重なった。
「仲がいいと言いますか……すごい量ですね」
気を取り直した……というよりは、誠司が気にしていないようなので深入りを避けたミューラが、感嘆の声をあげる。
未知の料理手巻き寿司への興味が、羞恥心を上回ったらしい。
「セージくん、アタシも手伝おっか」
「いや……。そうだな、最初に寿司飯を作るからうちわを頼もうかな」
買い物に行っている間に炊飯していたため、ご飯は既に炊けている。
まずは、寿司酢の準備からだ。
今回はやや甘みを抑えて、お酢4に対して砂糖は2の割合。あとは、塩と市販の白だしを小さじで少しだけ足す。
これを混ぜ合わせて寿司酢を完成させる。特に加熱する必要はない。
次に、保温していたご飯を大きめのボウル――母親が使っていたおけが有ったはずだが、見つからなかった――に入れる。
横で、うちわを持って有朱が待機しているのを意識しつつ、調合した寿司酢を上からかけた。
「おおーー」
いつものように対面式キッチンの向こうで観戦しているミューラ。ダイナミックなやりかたに、思わず歓声が上がった。
それに微笑を誘われつつ、誠司はご飯に縦の切れ目を入れていく。
「まだ、うちわはいいぞ」
今にも扇ごうとしていた有朱を制し、続いて、しゃもじを大きく動かして、米を切るように混ぜ合わせまる。切って、すくい上げ、また切って。
酢が上から下へ落ちていくように、底からひっくり返しながら混ぜる。
「相変わらず、セージさんは手際いいですね」
「初めてなんだがな」
美少女二人とそれよりも可愛い愛犬に見守られ、ある程度寿司酢が混ざったことを確認。
ご飯が潰れないように注意しながら、ダマができないよう、しゃもじを横に細かく切るように動かしていく。
しばらくして、ご飯の全体が寿司酢をまとってつややかに輝き出す。
「有朱、頼む」
「おっけー」
誠司がボウルの中でご飯――いや、もう寿司飯だ――を広げ、そこに有朱がうちわで風を送った。一緒にツインテールにした金髪が少しだけ舞う。
その横で、誠司はタイミングを見計らって寿司飯を上下に返しながら、人肌程度まで冷ましていった。
「もう、大丈夫かな」
一応味見をして、問題ないことを確認。
最後に寿司飯をひとつにまとめ、濡れ布巾をかぶせておく。
「ふう……」
「一仕事終わったって感じですね!」
「なんで、ミューラが言うわけ?」
まあ、一仕事終わったのは事実だ。誰が言っても構わないだろう。
寿司飯が入ったボウルをミューラに託し、ダイニングテーブルへと持って行ってもらう。
「次は、お刺身切るの?」
「いや、卵を焼く」
「なかなかお刺身にたどり着かないじゃん」
「そうだな。卵焼きが終わったら、ツナマヨも作らなくちゃならない」
それを見越して、汁物を先に作っておいて正解だった。
そう思いつつ、卵焼き用の四角いフライパンを火にかける。それが温まるまでの間、誠司は小さなボウルに卵を割って、砂糖をたっぷり入れた。甘めの卵焼きだ。
「アタシ、甘い卵焼き好き」
「うちも、甘い卵焼きだな。両親が九州の出だからかな」
「結婚しても安心だね」
「未来の発生していない事象にはコメントできない」
真っ正面から言質を拒否し、フライパンから煙が出るのを待つ。
煙が出たら、キッチンペーパーで余分な油を拭き取り、卵を1/3ほど入れた。
ジュッと軽やかな音がすると同時に、卵に火が入る。それを奥の方手前へ、くるくると巻くようにまとめていった。
「セージくん、すごい!」
「知らなかったんですか? セージさんはすごいんですよ?」
我が事のように胸を反らすミューラの姿を見ることはできなかったが、誠司は、口調だけでだいたい察してしまった。
鉄面皮めいた表情は変えず、手も止めず。ただ、心の中で微笑んだ。
誠司は、まとめたタマゴを再度奥へと移動させ、フライパンにキッチンペーパーで油を補給すると、タマゴをまた投入して元の卵焼きと一体化させた。
それを繰り返し、卵焼きを完成させる。
皿に乗せてあら熱を取り――
「味見をする分はないぞ」
――ミューラと有朱を牽制しつつ、ツナマヨを作った。
それは缶詰のツナにマヨネーズと醤油、それに顆粒出汁を入れて混ぜるだけなので、すぐに終了。
「二人は、あっちで海苔を切っててくれ」
さすがに注目されすぎて面倒になったらしい。
キッチンからミューラと有朱を追放し、自らは刺身の準備に入った。
ここから先は、ただひたすらに切るだけ。
「ミューラ、ちょっと曲がってない?」
「そうですか? でも、食べれば一緒ですよね?」
ダイニングテーブルで海苔を切る少女たちの会話も、誠司の心を乱すことはない。
左手の指を折り曲げ、そこに当てた包丁の根本から刃先までを使って、一気に引き切りにする。重要なのは、包丁のメンテナンスとためらわないこと。
スーパーで買ってきた刺身の柵を取り出しては、次々と食べやすいサイズに切り分け大皿に盛りつけていく。
見よう見まねなのでバランスはあまり良くないが、こればかりはどうしようもなかった。
ミューラではないが、食べれば一緒ということで許してもらうほかない。
とりあえず、これで完成。あとは、実際に食べるだけ。
「……その前に、だ」
コタロウの分も準備をしなければ。
水を入れた鍋を火にかけ、沸騰するまで待つ。
その間に、たくさんのネタを盛った大皿や、別皿にしていたイクラなどをダイニングテーブルへと運んだ。温め直した豚汁も、今のうちにお椀によそって持って行く。
鍋が沸騰したら、多めに購入していたマグロから、少し形が悪くなってしまった物を選んで鍋に入れる。
あっと言う間に赤身がグレーに変わっていき、あくが出る。
それを除きながら茹でていくが、ただ、この程度ならましなほう。コタロウのためにマグロのあらを買ってきて茹でることがあるのだが、その時に出るあくはもの凄い。鍋にこびりついて、洗うのにも難渋するほどだ。
そうこうするうちに茹で上がり、そのマグロの切り身をある程度冷ましてから餌皿に入れる。
「アンアンッ! アンアンッ! アンアンッ!」
この頃には、コタロウのテンションも最高潮。匂いで分かるのか、早く早くと誠司を急き立てる。そんな必死なコタロウを、ミューラと有朱は微笑ましそうに見つめていた。
「待て」
餌皿を床に置き、しかし、すぐには食べさせない。意地悪ではなく、しつけの一環だ。
誠司の命令に従い、コタロウはお座りをしてじっと待つ。
だが、視線は餌皿に釘付け。体は小刻みに震え、かちかちと足の爪がフローリングを叩く音がする。陸上競技だったら、完全にフライングだ。
待ちきれないのは、火を見るより明らか。
結局、一分もせずに許可を出す。
「……良し」
号令一下。コタロウは矢のような勢いで餌皿に鼻先を突っ込み、がつがつと茹でたマグロを食べる……というよりは飲み込んでいく。噛むのももどかしいといった慌てっぷりだ。
小型犬とはいえ、犬がマグロにがっつくのは不思議に思えるかもしれないが、もちろん、肉だけを食べるわけではない。
魚はもちろん、キャベツの芯なども好物だ。
「さて、俺たちも食べようか」
そんなコタロウを見守っていた誠司が、ダイニングテーブルを振り返る。
「…………」
「別に、ミューラに対して『待て』と言ったわけじゃないんだがな」
そこには、寿司飯と寿司ネタを前にして、じっと固まっている銀髪のお姫様がいた。まるで、呼吸すら忘れてしまったかのよう。
「アタシもフリーズしてたほうが良かった?」
「いや、普通にしててくれ」
こうも予想外の行動に出られると、滅多に表情が変わることのない誠司でさえ苦笑してしまう。その上、内心で悪くないなと思ってしまうのだから重症だ。
しかし、いつまでもそうしてはいられない。
「……それじゃ、食べようか」
「いっただきまーす」
「はっ。もういいんですか?」
はっと意識を取り戻したミューラだったが、どういうわけか見ているだけで手を出そうとしない。
マグロ、中トロ、イカ、タイ、タコ、ブリ、甘エビ、サーモン、イクラ、ねぎトロ。ツナマヨ、タマゴ、ウナギ蒲焼き、ひき割り納豆……。
色とりどりのタネが並ぶダイニングテーブル。
真っ先に手を出さないミューラを疑問に思いつつも、これだけあれば悩みもするかと一人納得する。
有朱が真っ先に寿司飯を取ったあと、誠司もしゃもじに手を伸ばし――
「…………」
――ミューラから強い視線を向けられていることに気付き手を止めてしまった。
「ミューラ、なん――」
ミューラは。
無言で。
じっと。
誠司を。
見つめて。
いた。
サファイア色の瞳を曇らせ、誠司をじっと見つめていた。
思わず、背筋が震えた。宇宙的恐怖……とまでは言わないが、実際に読んだどのクトゥルー神話作品よりも確実に恐ろしい視線だった。
なにより、なぜそんな目で見られているのかが分からない。いや、旧支配者が人間など認識していないように、その視線に意味などないのかもしれない。人間が勝手に根源的な恐怖を感じ……。
「ああ……。そうか……。そうなるのか……」
――ようやく、誠司は失態に気付いた。
「セージさん、気付いてなかったんですか!?」
「セージくん……。アタシでも、途中で気付いてたのに……」
迂闊だったと、誠司は天を仰ぐ。
少女たちの罵声は、甘んじて受け入れるしかなかった。
ミューラは、『彼女の為に、他者の手を介した食物』しか食べられない。それゆえ手巻き寿司にしたのは、誠司自身なのだから。
「……なにが食べたいんだ。悪いが、納豆は俺のだぞ」
「心配しなくても取りませんから!」
そう言って、ミューラが納豆の入った小鉢をセージのほうへ追いやる。誠司としては特に感じないのだが、やはり、匂いが駄目なのだろうか。
「なんかねばねばして、魔物のウーズみたいじゃないですか」
「よく分からんが、納豆以外なのは分かった」
異世界的な理由だった。
ミューラに選ばせるといつまで経っても決まらないと判断したのか。それとも、無茶な注文が来そうだという懸念があったのか。
誠司は海苔――微妙に形が歪だった――に寿司飯を適量載せる。マグロの切り身を縦に並べて少しわさびをぬり、くるりと巻いた。
「セージさんは器用ですね」
「そうかな? まあとりあえず、どうぞ」
「いただきます!」
しかし、ミューラは一向に手巻き寿司を手に取ろうとしない。
「?」
「?」
顔を見合わせる誠司とミューラ。
埒があかないと、ミューラは椅子から立ち上がって手巻き寿司に食らいつく。
「はぐ。んっんぐ……ごくん」
そして、幸せそうに咀嚼し――
「おいしーです!」
――嬉しそうな歓声をあげた。
「マグロ、お醤油、わさび、酢飯。渾然一体となって奏でるハーモニーですね!」
「なるほど。よく分からん」
とりあえず、お気には召したらしい。
そのまま、押しつけるように口へ寄せて食べさせた。
そこまでは良かったのだが……こうなるとミューラだけでは済まない。
「セージくん、アタシはウナギね! 高いからって、ママ食べさせてくれないんだもん」
「まあ、一時期の倍ぐらいになってるからな」
家計を預かる主婦としては、二の足を踏むところだろう。誠司も、今回いろいろ買ってたがが外れていなかったら買っていない。
1cm幅ほどに切ったウナギの蒲焼き。それを寿司飯の上に並べた。
「セージくん、卵焼きも一緒がいい!」
「分かった」
ひとつうなずき、タマゴも追加。
くるりと巻いて……有朱も受け取とらず、誠司が持った手巻き寿司にかぶりついた。
「ん~。ウナギもタマゴもとろっとしてサイコー」
「セージさんセージさん、もうひとつマグロをお願いします!」
当然と言うべきかなんと言うべきか、誠司に否やはなかった。
二個目のマグロ手巻きをもぐもぐ食べながら、ふと気付いたようにミューラが言う。
「それにしても、お魚を生で食べようだなんて、地球の人は勇気がありますよね」
凄まじいほどに、今さらの指摘だった。控えめに言っても、一週間遅い。
「普通じゃない?」
「いえいえ、普通は焼いたり煮たりしますからね。それが普通ですからね」
「でも、生で食べられるんならそれでいいじゃん。おいしーし」
「美味しいのは美味しいですけど、なんでこの国の人は、生で食べられない場合は火にかけるっていう思考なんです? おかしいのはわたしですか!?」
どちらがおかしいかは、分からない。文化の違いとしか言えないからだ。
ただ、ミューラが少数派であるのは間違いがなかった。
「『生で食べられない場合は、仕方なく火にかける』という表現は、なかなか正鵠を射ているな」
「ありがとうございます……って、セージさんもそっち側じゃないですかー。あっ、次は甘エビをお願いします!」
文句は言いつつも、きちんと食べるらしい。
逆よりも良いので、そこに文句はなかった。
「ぷりんっぷりんで、あまあまですぅ」
文句はないが、これでは誠司自身が食べられない。
「大丈夫です。そこはこのミューラ・シルヴァラッドにお任せです!」
もぐもぐと甘エビの手巻き寿司を食べ終えたミューラが、自ら海苔ととしゃもじを手に取った。
そして、こんもりと寿司飯をよそう。いや、乗っける。
見るからに、海苔で巻けそうにない。
にもかかわらず、マグロ、イカ、タイ、サーモン等々。手当たり次第にネタを乗せていった。
ミューラらしい。
ミューラらしいが、明らかに積載量オーバーだ。
「ん~~?」
なぜこうなったのか分からない。
そう言いたげに首をひねる。
有朱は、気の毒そうに誠司を見ていた。
そんな周囲の様子に気付くことなく、ミューラはぱぁっと明るい笑顔を浮かべ、海苔を追加した。一枚で巻くのではなく、複数で挟む作戦だ。
「はい! セージさん、どうぞ!」
それはごちゃっとして、あまりにも不格好だった。手巻き寿司と言うよりは、おにぎり――しかも、相当大きな――だ。
ただ、食べる分には問題ない。
「……なんていうかミューラって、芸術的なセンスがゼロよね。ゼロ。ゼロなのに芸術センスがないって、おかしくない?」
それを受け取ろうとした誠司の手が、有朱の一言で止まった。
「ふっ。アリスちゃんもまだまだですね」
「どこから出てくるのよ、その自信は……」
「どこから? なにを隠そう、シルヴァラッド森林王国の王都は、古代魔法帝国時代に幻術の王だった夢幻王が治めていたシェルベなんですよ!」
「ごめん。全然、分かんない」
理解を放棄し、有朱は自分の手巻き寿司を作り始めた。またウナギだ。絶滅危惧種になるのも分かる食べっぷりだった。
「セージさんなら分かりますよね!?」
分からない。
そう言ってしまいたかったが、ちょっと涙目になっているミューラに真実を突きつけるのは酷だ。いや、誠司一人だったら、面倒くさいこともあって、無視していたことだろう。
しかし、有朱に続いてとなると、可哀想。さすがに、仏心が湧いてくる。
「推測するに、そのシェルベというのは世界でも芸術の中心になってるような都市なんじゃないか?」
「そうです。さすが、セージさんです。完璧に計算された美しい街並み! 夜は魔法で幻想的にライトアップされ、それに惹かれて画家、建築家、彫刻家、音楽家などが集まってくるんです。王家も、有望な芸術家のパトロンをやっているんですよ」
さらに言えば、夜の蝶も集まる世界最大の歓楽街も存在しているのだが、ミューラの耳には入っていなかった。
「それって、パリに住んでたらみんな芸術家ってことじゃない?」
「まあそうなるが……。つまり、理解できない有朱のほうが、芸術センスがないって言いたいらしい」
「そう。その通りです!」
「アニメでアタシが歌ってるところ、ミューラも見てるでしょ? 聞いてるでしょ?」
「それはそれ、これはこれですぅ」
仲がいいのか悪いのか。
まあ、この場合は、ミューラが意固地になっているだけという可能性が高そうだが、食卓で銀と金の美少女がにらみ合う。
「まあ、芸術的なセンスは別にして、全体的に量を減らしてもらわないと食べにくいな」
そう言いつつも、醤油につけ少しずつ食べていく誠司。
これで一件落着と言わんばかりだ。
「セージくん、そういう解決をしてると、あとから問題になるんだからね?」
「…………」
口の中が一杯で答えられない。
誠司は、とりあえず、そういうことにした。
「というか、セージくんじゃなくてアタシが作ったのも食べられるわよね?」
「それはまあ、そうですけど……」
「ふ~ん。なら、ミューラのためにサーモンの親子巻きでも作ってあげるわ!」
「親子……?」
なぜ手巻き寿司に親と子が出てくるのか。
頭上にクエスチョンマークを出現させたミューラに、誠司が言う。
「イクラは、サーモンの卵だからな」
「ああ……。なるほど。それで親と子ですか」
「ほんとは、親子丼だけどね」
「親子丼……ですか?」
「出汁で煮た鶏肉を、卵でとじてご飯に乗っける料理だな」
「あー。はいはい! ニワトリと卵ですね」
うんうんとうなずき……不意に表情を固くする。
「……やっぱり、地球の料理はおかしいですよね」
「そんなに変?」
「変って言うとあれですけど、センスが、こう、独特ですね」
王女らしい婉曲的な表現で、ミューラは違和感を表現する。
確かに、鶏肉とタマゴもサーモンとイクラも、親子と称して組み合わせるのはブラックジョークに近い。笑えない冗談……とまではいかないが、引き気味になるのも理解できる。
なにせ、実の親子ではないが、親子を同時に料理してしまうというのだから。
「独特のセンスなのは、このお椀もそうですよね」
誠司がミューラのために豚肉多めによそった豚汁の椀を持ち上げながら、ミューラが言った。
「ただの豚汁じゃない」
「おみそ汁のおみそは、大豆。お豆腐も、油揚げも大豆。ついでに、このお醤油も大豆じゃないですか。あと、そのウーズ……じゃない納豆って言う腐った……発酵したのも! どれだけ大豆好きなんですか!」
「アタシ、お味噌汁の油揚げ好き」
「いいですよね。お汁を吸って、かみしめるとぎゅっと美味しいお汁があふれてきます」
やはり、文句はありつつも味には満足しているらしい。
「まあ、おかしいのは地球全体じゃない」
おかしいのはこの国なのだ。
「うちに来たのが運のつきだ。諦めて食べるんだな」
「諦める……のとは、、ちょっと違いますけど、食べます!」
食においても、不思議の国に迷い込んだミューラ。
「あっ。でも、サーモンとイクラの組み合わせも美味しいですね。イクラがぷちっと弾けて、じんわりと染み出したしょっぱさがサーモンの脂と相性ばっちりです」
文句を言いつつも、案外、気に入っているようだった。




