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第二話 虎は舞い降りた

「セージさん、セージさん」

「なんだ?」


 ある夜。

 夕食も終え、まったりとした空気が流れるリビングで、銀髪の少女が黒髪の青年に問いかけた。


 少女の名は、ミューラ・シルヴァラッド。

 地球とは異なる世界に存在するシルヴァラッド森林王国の第三王女。


 緩やかなウェーブのかかった銀髪の美しい少女だった。

 白と黒のボーダーのトップスとパンツの組み合わせは、シンプルだがミューラの魅力を引き立てる。


 その宝石のように輝くサファイア色の瞳を向けられているのは、彼女に衣食住を提供している三浦誠司。


 誠司は180cmほどある長身をソファに沈め、タブレットを操作して小説を読んでいた。長い前髪からわずかに覗く細い目からは、なんら感情を読み取ることはできない。

 声をかけられてもなお読み続けている作品が面白いのかどうかも、判別がつかなかった。


 しかし、つまらない本を読み続けるほど残された人生は長くない。読み続けていると言うことは、少なくとも、その価値があると――現時点では――判断しているのだろう。


 いや、中禅寺秋彦の如く、「つまらない本など存在しない」ということかもしれなかった。


「テレビで言ってる、ぼじょれーってなんのことですか?」

「ボジョレーか。ワインの産地のことだな」


 誠司はタブレットに視線を注いだまま答えた。

 足は、カーペットの上に転がった愛犬コタロウの腹をぐりぐりと刺激している。ぞんざいな扱いだが、背中を擦るように身をくねらせそのままになっていた。老境に達しつつあるポメラニアンだが、年齢を感じさせない幼気な姿だった。


「ワインですか。そういえば、今頃は新酒の時期ですね」

「その通りだ」


 ワインの産地と答えたものの、その地名のみが口の端に上ることはまずない。


「ボジョレー・ヌーヴォというのは、新酒を飲むお祭りみたいなものだな」


 あまり詳しくはないがと前置きをして、誠司は説明をする。


「元々は地元でだけ飲んでたそうだが、最近になって広がったらしい。解禁日というのがあって、日付変更線……の説明は省くが、まあ、日本が産地よりも先に飲めるということで昔ブームになったらしい」


 誠司が産まれる前の話なので、どうしても伝聞が多くなる。しかも、誠司はワイン――だけではないが――に関心がないので、知識もあやふや。


 それでも、なんとなく分かったとミューラは微笑んだ。


「ワインですか。いいですねぇ……」


 少しだけとろんとした目になって、ミューラが陶然として言う。

 その声音を聞いて、誠司はようやくタブレットから顔を上げた。


「あっちでは、結構飲んでたのか」

「はい。お水の代わりとまではいきませんけど」

「やっぱり、そういう土地柄だったのか」


 森林王国と言う以上、自然の恵みにあふれていたのだろう。

 であれば、ワインの生産も多かったのではないか。


「ワインか……」


 ワインで思い出す作品がひとつある。


 それは、ロアルド・ダールの『味』という短編だ。


 ロアルド・ダールは第二次世界大戦中はイギリス空軍のパイロットとして活躍し、五機撃墜の認定を受け撃墜王(エース)の称号を得ている。

 戦傷もあり退役し、その後、『ホーンブロワー』シリーズのセシル・スコット・フォレスターから依頼を受けた飛行体験のレポートが激賞され作家デビューする。


 しかし、その特異な経歴よりも映画『チャーリーとチョコレート工場』の原作者と言ったほうが通りは良いだろう。

 実は、『007』シリーズの作者イアン・フレミングとも親交があり、映画の脚本も担当したことがある。


 けれど、誠司にとっては――いつものことかもしれないが――そんなことは関係なく、江戸川乱歩曰く『奇妙な味』の短編作家であった。


 その方面での代表作は、『南から来た男』や『味』といった、読後に奇妙な後味を残す作風の短編だろう。

 明快な論理による犯人当てを至上とする本格ミステリに対し、変格とも呼ばれるそれらは実に割り切れない読後感を与える。


 そして、それだけに読者の心に残るのだ。


 特に、『南から来た男』のホラーテイストは出色だ。


 『私』の視点で語られる、奇妙な老人とアメリカ人水兵との賭け事。カタコトでしゃべり、滑稽さすら漂っていた老人が、水兵に賭けを申し出る。


 水兵が持っていたライターが、十回連続で点火するかどうかという賭けを。


 老人は、それが成功したら自分のキャデラックを譲るという。明らかに、不均衡な賭けだ。不審に思って、水兵は自分がなにを賭ければ良いのか老人に尋ねる。


「どんなものって、アンタの、その左手の小指だよ」


 ここで入ったホラーのスイッチはその後どんどん上り調子になり、クライマックスで一度弛緩。そして、ラストシーンでとんでもない爆発を起こす。


 幽霊も出ない、怪奇現象も起こらない。


 しかし、最も怖いのは人間そのものだということを冷や汗とともに思い出させてくれる。


 同じ短編集に収録されているが、『味』はここまでのホラー風味はない。


 ただ、『南から来た男』のように、賭けが行われる。


 ホストであるマイク・スコウフィールドがラベルを見せずに供したワインを、ゲストであり美食家のリチャード・プラットが銘柄を当てるという賭けが。


 リチャード・プラットは、ワインを人の性格に例える癖があり、美食に関してやたら饒舌になるという、微妙な人物として描かれる。

 そんなリチャード・プラットが求めるのは、マイク・スコウフィールドの娘との結婚。賭けを言い出す前から娘に言い寄る描写があるのだが、相当嫌われている。


 それでも、前半部分は美味しそうな料理と、それ以上に美味しそうなワインの描写を楽しむことはできる。


 しかし、本格的に賭けが始まってからそんな余裕もなくなってしまう。


 そんなリチャード・プラットが、徐々に、しかし確実にワインの産地へとたどり着いていく様は、ひたひたと近づいてくるモンスターを思わせる。


 まさにホラーだ。


 『南から来た男』と同じく、視点人物が傍観者である『私』に設定されていることも、不気味さを弥増している一因だろう。


 ラストシーンでは、多くを語らない。


 読者に結末を委ねているというわけではなく、解釈に時間がかかるのだ。そして、気付いた時には感嘆の声を上げざるを得ない。それから、その後の晩餐会が心配になる。


 珠玉と評すべき作品だろう。


 ちなみに、これらを収録した短編集のタイトルは、『あなたに似た人』という。


 リチャード・プラットが仕掛けたトリックは、あなた自身が行ったことかもしれない。そこまでいかなくとも、好きな物にだけ饒舌になる態度は、身に憶えがあるのではないか?


 『味』の一編だけで、これだけ突きつけられる。


 ミステリの枠を越え、短編小説の魅力を思い知らされる一冊だった。


「セージさん」

「せ・え・じ・さ・ん!」

「ああ……」

「『ああ……』じゃ、ないですぅ。話の途中で物思いにふけらないでください」


 ミューラにしては、大変常識的な注意。反論もできないし、反省するしかない。


「そういうことなら、買ってみるか」

「いいんですか?」


 法律的には問題がありそうだが、そもそも法の枠外にいるミューラだ。飲酒ぐらい、どうということはあるまい。


「構わないだろう。明日が解禁日だから、買ってくるよ」


 誠司は、軽く請け負った。


 彼はそのことを、深く後悔することになる。





「えへへー。ボジョレーって、どんなお味のワインなんでしょう?」

「詳しいことは知らないが、普通の赤ワインよりも渋味が少ないらしい。だから、少し冷やして飲むのがいい……という話だ」


 ロアルド・ダールの『味』ではワインを常温にしておくのが重要な伏線だったが、こちらでは当てはまらない。まあ、産地は決まっているので賭けもなにもないのだが。


 そんな誠司の感慨は知らず、話を聞いたミューラは訳知り顔でうんうんとうなずく。その、いかにも知ったかぶりといった雰囲気が逆に可愛らしかった。


「だから、冷蔵庫なんですね」


 いつも通りの対面式キッチンを通した会話。

 ワインを買ってくると約束をした日から、数日。ワインの試飲会は土曜日の夜に行われることとなった。


 誠司は今、その準備の最終段階に取りかかっていた。


 作ろうとしているのは、カルパッチョ。


 つまみはハムやチーズでいいのではないか……と軽く考えていたのだが、ミューラにはそれでは良くないと思い直して選んだメニュー。

 幸い、海の魚を食べ慣れていないミューラは、同時に生魚への偏見もなかった。


 既に、小さめのタマネギを半分、向こう側が見えるほど薄くスライスして水に晒してある。頃合いだと水を切って、オリーブオイルと塩をまぶしておいた。


 だが、これはあくまでも付け合わせ。


 メインとなるのは、サーモンとタコ。


「赤と白ですねぇ」

「サーモンの赤い身は餌から沈着した色で、実は白身に分類される」

「またまたぁ。騙されませんからね」

「……そうか」


 本当のことを言うときに限ってリアクションの薄い誠司だった。


 ミューラとの会話はそこそこに、刺身用のサーモンやタコもスライス。タマネギと同じ……というわけにはいかないが、なるべく薄く薄くと念じながら切り分けていく。


「すっと切れますねぇ、すって」

「包丁がいいんだ」


 腕は大したことがないと謙遜する誠司。ただ、それは外から見るとそうというだけで、誠司自身は実際に思っている事を口にしたに過ぎない。


 そんな誠司の思いとは関係なく、なにが面白いのか、対面からずっとその作業を見続けるミューラ。


 ただただ嬉しいという思いにあふれている。


 もし故郷の民が見たならば、それだけで王族への忠誠を新たにしそうな笑顔。しかし、それを向けられている幸運な男は、作業に集中していた。


 メインの食材を切り終えると、次に取りかかったのはソース作り。


「あっ、マヨですか。マヨるんですね?」


 新しい動詞まで作りだしたマヨネーズ好きのために、調べたレシピ。

 ……といっても、ただ材料を混ぜ合わせるだけ。材料も、たっぷり目のマヨネーズに、隠し味程度の醤油とわさびだけ。

 それができあがると、白い皿に敷き詰める。


 そこへオリーブオイルと塩こしょうをふりかけ、さらにスライスしたタマネギを載せる。最後に、先ほど作ったソースをかけて完成だ。


「見るからに、白ワインに合いそうですね!」

「ボジョレーは全部赤ワインらしいぞ」


 まあ、このワインは普通の赤ワインと違って、さっぱりした料理のほうが合うらしい。


 もう一品、調べた結果合うという情報を得たのが、肉じゃがだ。


 こちらはすでに、完成している。

 温め直すため、鍋を火にかけた。


 冷まして味を染みこませたかったので先に作っていたが、こちらも難しいことはなにもない。

 ジャガイモとタマネギとニンジンさえ切ればあらかた終わり。あとは、シラタキと一緒に煮込めばいいだけ。

 肉が硬くなるのはいやなので、肉は炒めず最後に投入したが、工夫といえばそれだけだろう。味付けは、母親から受け継いだレシピそのまま。

 九州の出なので甘めの味付けだが、その好き好きを除けば、極めて一般的な肉じゃがでしかない。


 それを大皿に盛りつけ――どっちの量が多いかなどという不毛な争いを避けるため、最近は好きな分だけ取り分けるようにしていた――準備は完了。

 野菜高騰の昨今、ニンジンは省略しようとしたのだが、地味な色合いの中ニンジンは映える。


 鍋を軽く洗ってから、誠司は料理をダイニングテーブルへと運ぶ。


「ワイン、ワイン。お久しぶりのワインですよー」


 冷蔵庫から出したワインはミューラの担当。家の中でなければスキップをしていそうな勢いだ。それにつられて、コタロウも楽しそうにジャンプする。


 今日も、コタロウが食べられそうな料理はないのだが……。


「あ、そうだ。セージさん、セージさん」

「ん?」


 ワイングラスも並べ終え、これから食べようというのに、手を止めさせるとは珍しい。

 一体、なにがあったのかと誠司がミューラの顔を見る。


「写真、写真とってください。アリスさんに自慢します!」


 ……不毛な。


 そう思ったが、実際に口に出すともっと不毛なことになるのは分かっていた。諦めて、スマートフォンで食卓の様子を何枚か撮影する。


「あ、今度はわたしとコタロウちゃんも一緒がいいです」


 リクエストにも、律儀に答えた。


「えへへ。アリスさんに自慢しちゃいますよ~」

「仲が良いのか悪いのか」

「強敵と書いて友と読む関係です」


 理解できないと細い目をさらに細くしてミューラを見るが、楽しそうに笑っている。

 深追いしても良いことはなさそうだと、スマートフォンをしまい席に着いた。遅れて、ミューラも対面に座る。

 コタロウも床にお座りをするが、食事が終わるまで、そのまま待たなければならない。


「さて、上手く抜けるかどうか……」


 買ってきたのは、三千円ほどのワイン。

 ボージョレ・ヌーヴォーとしては、かなりの高級品だろう。特にこだわりが有ったわけではなく、高いほうが美味しいだろうという浅はかな理由だ。


 そのワインと、まず、ワインオープナーで格闘。


 格好良くとはいかず悪戦苦闘したものの、数分してぽんと軽い音とともにコルクが抜けた。


「めんどくさいな……」


 合理主義者の誠司らしい愚痴をくちにしながら、誠司がミューラのグラスにワインを注いだ。


「それも味のうちですから。あ、私が注ぎますよ」


 お返しだとミューラが誠司のグラスにワインを注ぐ。新酒だからか、普通の赤ワインと比べると明るい色だ。


「じゃあ、セージさん」

「いただきます」

「違いますよぅ。乾杯です、乾杯」

「……必要が?」

「あります!」


 力強く言い切られては仕方がない。


「乾杯」

「乾杯です!」


 グラスが触れ合って、涼やかな音を立てる。

 しかし、ミューラは口を付けようとしない。どうやら、誠司が飲むのを待っているようだ。


 このままお見合いをしても仕方ないので、誠司はグラスを傾ける。


 最初に感じたのはアルコールの風味。

 次いで、ブドウの香りと、渋みが口の中で踊った。これが、タンニンという物なのだろうか? 普通のワインよりも渋みは少ないと言うことだったが、特有のいがいがした感触があった。


 やはり、あまり美味い物ではないな。


 そんな感想とともに、誠司はワインを飲み干した。


「いい飲みっぷりですね」

「そうか? でも、あんまり美味しいとは思えないな」

「そんなゴクッと飲んでおいて!?」


 普通に飲んだだけなので、そんなことを言われてもよく分からない。


 とりあえず二杯目を注ぎ、誠司は続けて肉じゃがに箸を伸ばした。


 特に期待はしていなかったのだが……ほくほくとしたジャガイモは格別だった。ジャガイモのほっこりとした食感が、口内に残ったワインの後味を上書きしてくれる。

 これは確かに、肉じゃが単体では得られない味だろう。


 続けて口にした牛肉の脂も、幾分マイルドに感じられる。薄味の料理が合うというのは真実だったようだ。


 自然とワイングラスに手が伸びる。


「あまり美味しくないと言ったのに、ごくごく飲んでるじゃないですか」

「飲めないわけじゃない。なんとなく、手が伸びただけだ」

「はー。いくらでも飲めるのに美味しく感じないだなんて、もったいないですよぅ」

「そうか?」


 アルコールに執着のない誠司にとっては、共感できない話だった。特に惜しいとも思わない。


 だが、それでも楽しむことは可能だ。


 誠司は、次にカルパッチョへ箸を伸ばした。


「こっちのほうが合うな」


 具体的にどこが……とコメントするのは難しいが、カルパッチョのほうがより後味がさわやかだ。隠し味程度のわさびだったが、全体を引き締めている。


 ふと、正面のミューラを見れば彼女も


「なんというか、おしゃまな女の子が、おめかしして村祭りにお出かけしたようなワインですね」


 分かるような、分からないような。

 まさに、『味』の中でリチャード・プラットがワインの味を人格に例えたのと同じような表現だった。


「それは美味しいってことなのか?」

「いやですよ、誠司さん」


 ミューラが、ほほほと王女のように――実際にそのはずなのだが――上品に笑った。


「不味かったら、なにも言わずに微笑むだけですから」

「そうか……」


 これが王族の処世術というものか。いや、下の者への配慮なのかもしれない。なにしろ、王族から不興を買ったら、処分されるのは彼らなのだから……。


 気をつけなければ。


「気に入ったのなら飲めばいい。余ったら、料理に使うしかないからな」


 賄賂というつもりはまったくなかったが、誠司はミューラにワインを勧めた。


 びっくりしたように動きが止まったミューラだったが、すぐに満面の笑みに変わる。


「そうですね。新酒は一気に飲むに限ります」


 うきうきと、グラスを突き出した。

 そう。飲むとしても、誠司が注がねばならないのだ。


 お酌をされて気分が良くなったのか、豪快にワインを飲んでから、大皿から肉じゃがを取り分ける。やはりというかなんと言うべきか、控えめに表現しても肉が多めだった。


「う~ん。ご飯と肉じゃがもいいですけど、ワインと肉じゃがも合いますね。ワインが進んじゃいます」

「……それは良かった」

「このカルパッチョですか? これも、くにゅっくにゅってして面白いですね。淡泊で、これまたワインに合います」


 平気で生魚を食べるミューラの姿に、誠司はほっとした。無理にとは言わないが、やはり、同じ物を食べられるほうがいい。


 しかし、これが誠司がこの日最後に感じた安堵となる。


「うふふ~~」


 上機嫌でワインを飲むミューラに気を良くしたのか、油断したのか。


 乞われるままにワインを注いでいたところ、気付けば、中身は残り三分の一ほどになっていた。 


「セージひゃん、おかわり!」

「もう、止めたほうがいいんじゃないか?」

「そこは、『俺は、おかわりじゃない』っていうところでひょぅ?」

「じゃあ、注がなくていいんだな」

「よくないれふ!」


 あっさりと否定し、ミューラはぐぐっとグラスを突き出した。


「セージひゃんに注いでもらわないと、砂みたいな味あんれふよ? ワインは砂じゃないれふ。セージひゃんは、砂を飲むんれしゅか!?」

「分かったから落ち着け」


 無駄と知りつつも、酔っ払いをなだめる誠司。

 拒否しようものなら、もっと面倒なことになるのは確実。


 それでも、注意せずにはいられなかった。


 逆効果にしかならなかったが。


「……分かりまひた。落ち着きまひゅ」


 グラスを置いて、唐突にミューラが立ち上がった。

 何事かと、誠司は細い目を白黒させる。

 なにかもらえるのかと、コタロウも注目する。


 しかし、コタロウの希望は、裏切られた。


 おもむろに椅子を持ち上げると、そのまま誠司の隣へと移動したのだ。


「なにをしているんだ……?」


 思わず、誠司は身を引く。

 隣に座ったというだけではない。ボーダーのトップスを着たミューラが、無防備にも誠司へ体を預けてきた。


「いいですか、セージひゃん?」

「良くない」

「いいんれふ! わたひが、こうひたいと思っへりゅんだから、いいんれふ!」


 ミューラはろれつの回らない口調でそう言って、さらに体を押し当ててくる。アルコールを摂取して上昇した体温が、ストレートに誠司へ伝わってきた。


 柔らかく。それでいて弾力のある。

 魅惑の感触。


 ――酔っ払いだが。


 それだけに、なにをしても離れようとしない。逆に、離そうとすると意固地になってますますくっついてくる。


 誠司の返答などまるで聞いていない。というか、最初から答えは決まっていた。

 つまり、まともに応答――あるいは抵抗――しようとしたこと自体が、間違っているのだ。


 それは、ハンニバルに対抗し打って出てカンネーで大虐殺の憂き目に遭ったローマ軍に似ていた。のろまやぐずと蔑まれようと、ファビウスのように敵の消耗を待つ持久戦略を取るべきだったのだ。


 スキピオのように、相手に学んで同じ作戦を採用できないとなれば、なおさら。


 しかし、人間、できることとできないことが存在する。


「セージひゃんは、もっとわたしにやさしくひゅべきでしゅ」

「住居不法侵入犯にしては、かなりの厚遇だと思うんだが」

「その節は、ありがとうございました」


 いきなり真顔になって、ミューラが頭を下げた。


「あ、ああ……」


 その緩急に翻弄され、誠司はまともな言葉を返せない。


「れも、しょれはしょれ、こりぇはこりぇれふ」

「心に棚を作ったな……」

「しゅきれふ」

「……は?」


 唐突な告白に、誠司の動きが止まった。

 そろそろ、コタロウにもご飯をあげないとななどと、まったく関係ないことが頭に浮かぶ。


「あたひは、セージひゃんがしゅきれふよ」

「ああ……。それはどうも……」

「セージひゃんは、どうなんれふか」

「それは……」

「どうなんれふか」

「嫌いじゃない」


 精一杯の答え。

 しかし、ミューラのお気に召さなかった。


 異世界の王女はますます目を据わらせ、セージへ体重を預けていく。それを受け止めている誠司は、椅子から落ちてしまいそうだ、


「しゅきか、だいしゅきかで答えてください」

「その二択なら、好きになるな」

「なんで、だいしゅきじゃないんれふか!?」

「自分で抜け道を作っておいて、そんなことを言うのか……」


 まったく理論的ではない。

 情緒的過ぎるやり取りに、飲酒とは異なる頭痛がする。


 そんな誠司へ、ミューラはあごでワインを注ぐように命じた。


 王女殿下の命に、生まれついての庶民は逆らえない。それに、この時だけはミューラから離れることができる。それは精神衛生上、実に重要だった。


 相当軽くなったボトルから、最後の一滴までグラスに注ぐ。


「わらひは、セージひゃんは、だいしゅきれふよ?」

「そうか。俺も、ミューラが大好きだぞ」

「……え?」

「コタロウの次にな」

「もー。なんでそーなるんでひゅかーーー」


 不満を叫び声に変えると、ミューラは最後のワインを一息で飲み干した。そしてまた、誠司に密着する。


 アルコールの匂いなどまったく気にならない、ミューラの甘い香り。

 柔らかな感触。


 それを兼ね備えた、世界一凶悪な酔っ払いにどう対処すればいいのか。誠司は思わず頭を抱える。


 古語で、酒のことを「ささ」といった。

 そして、笹には虎が付きものなので、酔っ払いは虎と呼ばれている。


 実に、雅な表現だ。


「セージひゃん、大丈夫でひゅか? 酔っ払ってまへふぇきゃ? おっぱい触りまひゅ?」

「……この態勢では、不可能だな」

「はにゃれたら、触りまひゅ?」

「…………」


 しかし、セージの元に異世界から舞い降りた虎は、雅さとはほど遠い存在だった。

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