運動会に参加した日
五月になった。
みさきと出会う前は特に気にしていなかったゴールデンウィークなるものがマジでみさき色だったと実感した俺は、まさにゴールデンな気持ちで保育園に居た。
今日、ぽんぽこ保育園では運動会が開催される。
保護者への配慮として土曜日に開催されるという説明を聞いて、おう平日でも大丈夫だぜと思った俺だが、周りの保護者達が口々に「助かるぅ」と言っているのを聞いて、素直にそういうものなのかと思った。
運動場らしき場所の中央には一周で五十メートルも無さそうなトラックがあって、鉄の棒と紐で作られた簡易的な柵に囲まれている。全部で百人くらいの保護者と園児は、その柵を囲むようにして集まっていた。
ブルーシートの上でビデオカメラの調子を確かめる人は、さながら映画撮影でも始めるかのように真剣な目をしていて、そうじゃない人は子供や他の保護者と話をしていた。
俺も挨拶くらいはしようかなと、ゆいちゃんの姿を探してみたが、やはり大人が密集した場所で子供を見付けるのは難しい。
「みさき、ゆいちゃん何処に居るか分かるか?」
「……ん」
同じ目線のみさきなら見付けられるかもという期待を込めて問いかけると、みさきはコクリと頷いて振り向いた。その視線を追った先に、ゆいちゃんが居た。
「ぐうぜんね!」
「……ぐうぜん?」
「しらないの!? たまたまっていみだよ!」
「……ゆいちゃん、ずっとみてた」
「きづいてるならこえかけっ、みてない!」
なるほど、妙に視線を感じると思っていたらゆいちゃんだったらしい。みさきに声をかけるタイミング探っていたのだろうか?
「あの!」
とつぜん俺に声をかけるゆいちゃん。
「りょーくんですか!?」
「はい、りょーくんです」
みさきに保育園でりょーくんと紹介されているのかと思いながら頷く。ゆいちゃんは大袈裟に深呼吸をして、
「みさきがいつもおせわになっています!」
待て待て、みさきの保護者は俺だ。
「おう、みさきといつも仲良くしてくれてありがとな」
一応お礼を言って、
「お母さんかお父さんは?」
「いません!」
なんだと……?
「おしごとです!」
土曜日に? しかも娘の運動会に……?
「そうか、忙しいんだな……」
「はい! いきるためにがんばってます!」
サバイバルでもしているのだろうか?
「なので、さみしくなんかありません!」
と大きな声で言うゆいちゃん。ふと周りを見ると、あちこちで子供が親に甘えていた。手足を引っ張ったり、抱っこを要求したり、あの手この手で気をひこうとしている。俺にはよくわからないが、きっとアレが幼い子供の普通なのだと思う。
みさきはどうか。彼女は俺に構って欲しくて手足を引っ張ったりしない。それはきっと、六年生の勉強を理解できる頭と一緒に精神も早熟したからだろう。むしろ俺の方がみさきに構って欲しいと思っているくらいだ。別に寂しくなんかない。ゆいちゃんの気持ちが痛いほど分かる。
「よし、今日は俺のことをお父さんだと思ってくれ」
おー喜んでる喜んでる。
「ママにしょうかいします!」
「そうだな。一回は話をしたいと思ってる」
「ほんと!? やったー!」
跳びはねて喜ぶゆいちゃん。普段みさきの淑やかな反応になれていると、こういう子供っぽい全力の感情表現は何だか新鮮だ。こっち方が普通なのだろうが……跳びはねて喜ぶみさきか、そいつはいいな。
「みさき! みさきがいもうとになるひ、ちかそうだよ!」
「待て待て止めてやれ。いいかゆいちゃん、そういうことお父さんの前で絶対に言うなよ」
もし俺がみさきの口から同じような言葉を聞いたら自殺するかもしれない。
「だいじょうぶです! パパはいません!」
「そりゃここにはいないかも知れないけどな……」
「おうちにもいません!」
「……そうか」
察してしまった。あまりに笑顔で話すからパパさん死ぬほど嫌われてんのかなと思ったが、そういう問題じゃなかったらしい。これがみさきの友人、ゆいちゃんか……。
「なので、ぼしゅうちゅうです!」
「ゆいちゃん、そういう話はもっと大人になってからにしよう」
「ぐたいてきにどれくらいですか!」
「……十五歳くらいか?」
「じゅうねんもまてません! さんねんいないでおねがいします!」
「……そ、そうか」
このあと開会式のアナウンスがあるまで、俺はゆいちゃんから見たママの魅力を聞かされ続けた。なんというか、経験した事の無い疲労感を覚えた。みさきは俺とゆいちゃんの顔を交互に見て「何の話をしているんだろう」という顔をしていた。みさきのような反応が普通なのだと信じたい。
果たして困惑しながら始まってしまった運動会は、それはそれは混沌としていた。
まず隣に座ってるお母さんが開会式で行進をする息子の姿に涙を流し、年少組を対象にした「かけっこ」ではルールを理解していない子供がフライングしたり、ゴールではなくお母さんを目指して一直線という微笑ましい奇行を見せたりした。
何かを競っているはずなのだが、そこに勝ち負けという概念は無い。子供は何かをしているということを楽しみ、保護者達は子供が何かをしているということを喜んでいた。
滞りながら年少、年中組の競技が行われ、さぁみさきの出番だ! と思ったら、その前に保護者対抗の綱引きがあるらしい。よっしゃみさきに良い所を見せようじゃねぇか、とやる気満々で参加した親は俺だけではなかったらしく、直前までの微笑ましい運動会とは一転して大人がガチで力比べをする時間が始まった。
なんとか優勝した俺は妙な達成感を覚えながら仲間の保護者とハイタッチをして、みさきとゆいちゃんが待つ場所へ戻った。
どうだ、と目で訴える俺。
「すごいすごーい!」
と喜んでくれたのはゆいちゃん。
「ん?」
みさきは、なに? みたいな顔で首を傾けただけだった。ちくしょう。
そして、ようやく今回のメインイベント……年長組による「かけっこ」が始まろうとしていた。
五十メートルを十四秒で駆け抜けるみさきは同年代で最速に違いない。五歳の基準が分からんが、おそらく十年後には倍くらいの身長になっているから、単純に倍速になるとすれば百メートルを十四秒で走れる計算だ。そこそこ速いはず。
さぁ次は年長組のかけっこです。こんなアナウンスが流れた後、みさきはやる気満々のゆいちゃんに引っ張られて戦場へ向かった。
年長組の人数は八人で、かけっこは四人ずつに分けて行うようだ。
一走目、スタートラインに並んだのはゆいちゃんと知らない子が三人だった。あれは男、いや女か……? みさき程の美貌を持っていれば一目で女の子だと分かるのだが、この年の子は外見で性別を見分けるのが難しい。
「みさきみてて! いちばんになるよ!」
ここまで聞こえる声でみさきに勝利宣言をするゆいちゃん。みさきは少し真剣な表情で頷いていた。
「それでは、位置について~」
よーい、どん! 合図と共に四人の園児が一斉に走り始める。流石に年長組の子達はルールを把握できるようで、奇行を見せる子供は居なかったのだが……。
遅いっ、ゆいちゃん遅過ぎる……っ!
歩いた方が速いんじゃないかって速度で走るゆいちゃんは、見る見るうちに引き離された。それでも前に見える背中を追いかける表情は真剣そのもので、なんだか応援したくなる。
果たして四番目にゴールしたゆいちゃんは、見るからに疲れた様子で膝を折った。それから敗北が信じられないといった顔をして肩を揺らすゆいちゃんは、保育士の人に手を引かれて立ち上がった。悔しそうに待機場所へ連れて行かれる姿は、なんだか見ていられなかった。
そして、二走目が始まる。
「みさきぃぃぃぃ!」
呼びかけると直ぐに目が合った。みさきはいつものように頷くと、スタートラインに足先を合わせた。
こうして他の子と並んでいるところを見ると、みさきの異常な低身長が際立つ。ゆいちゃんとも頭ひとつ近く差があったが、やはり他の子とも同程度の差がある。五歳というのはみさきの自己申告だったが、果たして本当かどうか……やめよう、今は応援だ。
「みぃさきぃぃぃぃ!」
「スタート前はお静かにお願いします」
すまないみさき、りょーくん怒られちゃった。
そして訪れた静寂の中、かけっこが始まる。
位置について、よーい……ドン!
みさきは抜群のスタートで飛び出した!
開始直後、最も小さな女の子が体ひとつ抜け出す!
しかし、体格という残酷で無慈悲な壁がみさきを襲う……! 脚の回転はみさきの方が早いのに、歩幅が違い過ぎる! 一歩毎に明確な差が生まれ、それが積み重なっていく。このままでは確実に……。
「みさきぃぃぃぃ! 頑張れぇぇぇ!」
叫んだ直後、みさきの目付きが変わったような気がした。いや勘違いではない、先程よりも一段階速くなった。みさきは自分を追い抜こうとしていた子の隣にピッタリと並び、並走する。
既に足の速い子が一歩前に出ていて、みさきは残った二人との二位争いを繰り広げることになった。
俺は喉が千切れそうなくらいに叫んだ。このかけっこで使われる距離は五十メートルにも満たない。時間にして十秒にも満たない僅かな間に、俺はきっと五年分くらいの叫び声を上げた。
そして、ほぼ横並びで三人がゴールする。遠目に見た感じでは誰が何位なのかの判断は難しかったが、俺は結果なんて気にならなかった。みさきが全力で頑張っている姿を見られただけで、どうしようもなく胸が熱くなった。
年長組のかけっこが終わった後、直ぐに昼休憩が始まった。
俺とみさき、そこにゆいちゃんを加えた三人で用意した弁当を食べていると、三人組のオバさんがやってきた。そしてオバさん達の真ん中に居た化粧の濃い人が、妙にねっとりした声で俺に向かって言った。
「天童さんですか?」
「はい、何か?」
「初めてまして、佐藤です」
こうして俺は『父母の会』へと招かれることになった。
そこで俺は様々な親と出会い、子育てについて今よりずっと真剣に考える事となる。
そして人は何かを考える時、必ず置き去りにした過去を思い出す。
「では早速ですが、明日、よろしくお願いしますね」
「はい、分かりました」
ただひとつ言えるのは、過去は必ずしも後ろにあるものではないということだけだ。




