第十六話:りょーくんのうた
この年のクリスマスは、雪が降っていた。
今日も龍誠は部屋に居なくて、どうやら打ち上げというのに参加するらしい。帰ってくるのは八時くらいになるそうだ。その間、みさきはキラキラと降る雪を見ながら、じーっと待っていた。
さむいよー、風邪ひくよー、と檀が声をかけても、みさきはドアの前から動かなかった。それは雪が珍しくて面白いというのもあるが、一秒でも早く龍誠と会いたいというのが大きい。
仕方なく、檀はみさきに防寒着を着せて、隣で見ていることにした。
マフラーと手袋を着けたみさき。
なんだか手の感覚が落ち着かなくて、ふーと息を吹きかける。
「おー」
ふー、ふー。
白い息が出るのが面白くて、みさきは何度も繰り返した。それを見ているのが楽しくて、檀は隣でくすくす肩を揺らしている。
「みさきちゃん、ついに本番だね」
「……んっ」
少しだけ表情の硬いみさき。
昨日みんなでリハーサルをして、準備はバッチリだ。だけど、喜んでくれるかどうか分からないし、失敗してしまうかもしれないという不安がある。
この八ヶ月、ずっと傍で頑張っている姿を見ていた檀は、そっとみさきの手を握った。地面に膝をついて、ふーと白い息を吐いているみさきと目線を合わせる。
パチパチと瞬きをするみさきに何か言葉をかけようとして、しかし檀は何も言わなかった。その代わりに、みさきの手を握る力をグッと強くして、にっこり微笑みかける。
「……ありがと」
少し間が合って、みさきは僅かに頬を緩めた。
檀は何も言わなかったけれど、それが結果的には、最もみさきの為になる行動だった。
だから、檀がみさきの唇に目を奪われて、直前まで頭の中にあった言葉が真っ白になってしまったという事実は、きっと誰も知らない方がいい。
長い時間、みさきは外で待っていた。いつのまにか着ている服が増えていて、檀の膝の上に座っている。その場所は、頬に当たる風が少し冷たいけれど、他の所は部屋の中に居るよりもあたたかかった。
そしてスッカリ日が沈んだ頃、じゃりじゃりと雪を踏む足音が聞こえた。みさきは、ふわぁと欠伸をして目を大きくする。
「……何してるんだ?」
部屋の前で檀とくっついて座っているみさきを見て、龍誠は不思議そうな表情をした。みさきは質問には答えず、ぴょんと立ち上がって龍誠の服を引っ張る。
「みさき? おいおい、どうした」
そのまま部屋の中まで引っ張って、布団の上に座らせた。
それから手袋を外して、マフラーを解いて、枕の上にピアノを設置する。少し暗いから、夏が終わった辺りに龍誠が買ってくれたスタンドランプを光らせて、準備完了。
その様子を龍誠は少し戸惑いながら見守っていた。
「きいて」
真っ直ぐ龍誠の目を見て、みさきが少し上擦った声で言った。そこでようやく状況を理解した龍誠は、胸の内から沸き上がる期待感のような感情と共に頷いた。
すーと、みさきが息を吸う。
部屋の中には龍誠とみさきの二人だけ。
部屋の外には、何かするタイミングを逃してその場で固まっている檀が、はーと白い息を吐きながら、部屋の中から聞こえてくる音に集中していた。
そっと、みさきの小さな手がピアノの上に添えられる。
口を閉じて、息を止めた。
顔を上げて、大好きな人の顔を見た。
キラキラと、音が鳴る。
キラキラと、夜空に光る星々のような美しい旋律が部屋に満ちる。
雪のように柔らかくて美しい旋律が、空から降ってくるかのように高い音から低い音へ、みさきの手が体ごと右から左へと流れていく。
気が付けば龍誠は呼吸を忘れていた。
瞬きさえも忘れて、ただ目の前でピアノを演奏しているみさきの姿を見ていた。
そして音が地面に溶けた後、みさきは動きを止めた。
部屋には残響が残り、そこにそっと音を添えるようにして、みさきは息を吐いた。
それが蝋燭の火をかき消すかのように他の音を上書きして、部屋には一瞬の静寂が訪れた。
みさきは鋭く息を吸う。
りょーくんの顔をしっかり見て
両手に精一杯のありがとうを込めて
小さな口を大きく開けて
うたを歌う。
みさきの目には、りょーくんしか映っていなかった。
それは今だけではない。
あの日、りょーくんと出会ってからずっと。
りょーくんは最初からずっと優しい。
怒ったり、睨んだり、会ったばかりの時は少し怖かったけれど、それでもみさきのことをちゃんと見てくれていた。
ご飯を食べさせてくれた。
それだけのことが、みさきにとっては涙が出そうなくらい嬉しかった。
みさきを心配してくれた。
体調を崩したみさきを見て、みさきよりも苦しそうな顔をしていた。
保育園に通わせてくれた。
ゆいちゃんと仲良くなった。
一緒に運動した。
発声練習をした。
毎日お話をした。
保育園から帰る時、大人に思い切り甘える他の子の姿を見ていた。その時、嬉しそうな顔をする大人のことを見ていた。
みさきも同じことがしてみたかった。
だけど怖くて出来なかった。
でも、りょーくんはいつも笑顔だった。
みさきを見て、嬉しそうな顔をしてくれた。
みさきが泣いていると、りょーくんはぎゅってしてくれた。とっても安心した。
みさきが頑張ると、りょーくんは頭を撫でてくれた。もっと頑張ろうって思った。
ありがとう。
大好きだよ。
毎日そう言いたい。
でも、難しい。
だから、全部うたに込めた。
りょーくんと出会ってから、今日までのこと全部、うたに込めた。
保育園に通うようになって、りょーくんと一緒に居る時間が減った。
小学校に通うようになって、もっと短くなった。
でも、ちゃんと分かってる。
りょーくんも、頑張ってること、ちゃんと分かってる。
みさきの為に頑張ってくれていること、ちゃんと分かってる。
だから何かしてあげたい。
でも、みさきには何も出来ない。
体は小さくて、喋るのも得意じゃない。
その代わり、考えるのは得意。
勉強すると、いつもりょーくんが褒めてくれた。
だからいっぱい考えた。
ずっと前から考えていた。
きっかけは、みさきの誕生日。
その日はすごく嬉しかった。
おめでとうって、それだけのことが、嬉しかった。
これしかない。
みさきに出来ることは、これしかない。
ありがとう、大好きだよ。
お誕生日おめでとう。
ひとつしか無いから、この歌に全ての想いを込める。
この小さな体よりも大きな想いを込めて、歌い続ける。
そして――
演奏の余韻を残したまま、みさきはゆっくりと立ち上がった。それから龍誠の直ぐ傍に近付いて、真正面から目と目を合わせる。
「たんじょうび、おめでと」
一生懸命に練習した言葉で、りょーくんの誕生日を祝福した。
「……だいすきっ」
目を閉じて、そっと龍誠の額に唇を当てた。
「ありがと」
呟くように言って、りょーくんをぎゅっとした。
龍誠の胸に顔を埋めたまま、みさきはドキドキしていた。
りょーくんは喜んでくれたかな?
頑張ったみさきのこと、撫でてくれるかな?
だけど、いつまで待っても反応は無かった。
みさきは不安になって、ゆっくり体を離した。
りょーくんは――涙を、流していた。
前を見て、口元を震わせて、ただただ大粒の涙を流していた。
「……ごめん、みさき」
流れる涙を手で拭って、龍誠はみさきが見たことのない笑顔を作った。
「りょーくん、泣き虫になっちゃったよ」
その表情を見て、みさきは不安になる。
「……うれしく、ない?」
言った直後、軽い衝撃があった。
何って、龍誠がみさきを抱き締めたのだ。
強く、力強く、少し痛いくらいに抱きしめて、龍誠は言う。
「嬉しいに決まってんだろ! ……みさき、ありがとう。ありがとう」
ありがとう。
そのたった一言で、みさきは報われたような気がした。
この八ヶ月、ずっと頑張ってきたことが無駄じゃなかったんだって、間違ってなかったんだって分かって、安心した。満足した。
「……すき」
「俺も。大好きだ、みさき」
龍誠の体は、声は、もうどうしようもないくらいに震えていた。
みさきは――とんとん、と龍誠の背中を叩く。
「……どうした?」
抱きしめる力を緩めて、みさきと目を合わせた。
みさきは、小さな指でバッテンを作って言う。
「なかない」
息を吸って、
「やくそく」
それは、市役所の前でした約束。
頑張るから、もう二度と泣かない。
でも、おあいこ。
みさきもりょーくんも、一回ずつ約束を破ったから、おあいこ。
その代わり、みさきは、りょーくんから教わったことを実践する。
うんと背伸びをして、今度はみさきから龍誠をぎゅっとした。さっきよりも強く、思い切りぎゅっとした。
ただそれだけ。
言葉はない。
必要ない。
みさきにも、龍誠にも。
そして――
きっとこの時、ひとつの物語が幕を閉じたのだ。
どん底で出会った青年と幼い少女の物語は、ここで終わったのだ。
似たものどうしの二人が、互いのことを思って一生懸命に頑張った時間。
一歩踏み出して、立ち止まらずに歩き続けた時間。
その結果が、ここにある。
ならば、二人は胸を張るべきだ。
新たな一歩は胸を張って歩き出すべきだ。
その果てには、必ず幸せな未来が待っているのだから。
第三章 りょーくんのうた 終
続く第四章は、龍誠の過去編です。第四章と銘打っていますが、時系列的には第零章であり、三章の十四話から十六話の話となっております。きっと第一章から読み直したく内容になると思います。お楽しみに!