■第9話 静かな夜
『明日はあたし、シフト入ってないんだわ~。』
昨夜の帰り際、マドカがなんだか申し訳なさそうに呟いていたのを
リョウはひとり歩道橋の月あかりの下でぼんやり思い出していた。
いつもの時間になっても現れないやまかしい靴音に、思わず左手首の腕時計に
目を向けたその時
『シフト入ってないって、そういや言ってたか・・・』
ぽつり、ひとりごちた。
ここ数日全くはかどらなかった勉強が、やっと静かにゆっくり出来ることに
喜びすら感じるほどだった。
思い切り集中し落ち着いて、活字を追う事が出来る。
その顔はリラックスして、肩の力も抜け、参考書を次々めくる指先もまるで
踊るようだ。
しかし、カツンカツンと歩道橋の階段を上がって来る足音がすると、
慌ててそちらに目を向けてしまった。
そしてそれが想像していた気怠い姿ではない事を確認すると、どこかホッとした
面持ちで銀縁メガネのブリッジを中指でそっと上げる。
そして、気を取り直し参考書にまた戻った。
本当に今夜の勉強はよく進んだ。
進みすぎてなんだか、逆に腑に落ちない。
邪魔する相手がいた方が、躍起になって頭に叩き込もうと集中出来るのかも
しれないと頭の片隅でぼんやり思い、じゃぁ実際、本当のところ勉強は
進んでいるのか否か。
自分でもよく分からなかった。
(明日はシフト入ってるのかな・・・。)
あのやかましい汚い言葉が聴こえないリョウの耳は、清らかな春の夜風が
細かく揺らすクスノキの葉のすれ合う音と、車の走行音しか流れない。
それにどこか物足りなそうに小さく耳を澄ましていた。
そしてマドカもまた、自宅の自室でベッドに仰向けで寝転がりながらあの理屈
ぽい偏屈者が今夜も不便そうに月あかりに丸める背中を、ぼんやり思っていた。
『つか、やっぱ。 なんか食べればいーのに・・・。』
夕飯抜きのガリガリの背中がやけに瞼の裏をチラチラし落ち着かない夜だった。