第3話
「はあ、はあ、はあぁー」
立て付けが悪く素直には開いてくれないスライド式の部室のドアを無理やり開ける。中に入ると、雑多な物に囲まれた狭い部室に、夕日が低く、長い影を作っていた。
「なに喘息の間に盛大なため息ついているんですか。突然部室まで走っていくんですから頭が狂ったのかと思いましたよ。――って先輩大丈夫ですか! 涙と血が混ざり合って、とんでもないことになってますよ!」
「いや、……はぁ、コフっ、大丈夫、気にするな」
「嫌でも気になりますって……」
続けて優雅に髪を振り乱しながら入ってくる凛。相変わらずカッコイイ。僕も凛みたいにカッコよくなりたい。
しかし凛の乱れのない口調。何で疲れてないんだ? 僕と一緒に一階から三階の端まで走ってきたのに。
「…………はあ」
「ん、どうした?」
はい、と言って差し出される青のレースで彩られた青のハンカチ。清楚な身なりの凛にはとても良く似合うと思う。
「良いのか?」
「何がです?」
「いや、だからそのハンカチ使って?」
「何を言っているんですか先輩? ただ今日のハンカチがどんな模様だったか気になっただけですよ。そんな汚いものを拭くために使わせるわけないじゃないですか」
「突然ひどいな! 一瞬キュンとしちゃったじゃないか! 僕の純粋な心を返せ!」
「嘘ですよ。私の汗を拭くためです」
「さらにひどいな! 嘘なのはそっちかよ。僕には無縁と思っていた高校生男児の夢を返せ!」
「嘘ですよ。どうぞ使ってください。――自分で言って自分で傷つかないで下さいよ」
傷ついてないやい。
しかしハンカチを受け取ったのはいいが、清純を汚すようでなんか悪いな……。まあ、ここは素直にお言葉に甘えるとしよう。
僕の血に侵食される凛のハンカチ……。しっかり洗って返そう。
「人のハンカチであろうことか自分の血を拭く凶悪な先輩」
「そこまで言うか!? 頼むから高校生生活のささやかな思い出として締めさせてくれよ!」
ふふっ、と微笑む凛。その笑顔は夕日というバックライトに照らされて、輝いて見えた。
やっぱり凛には敵わないな……。
そう思う僕もいつの間にか笑っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………帰るか」
そうですね、と言って僕と凛は軋むドアを開けて部室を出る。
「また明日の放課後な」
「了解しましたです」
僕らは校門を出て各々の家路についた。
✽ ✽
翌日の放課後。僕は部室までの道のりを一人で歩いていた。
「しかし昨日は凄かったな」
まさかの転んで押し倒して口説くってどんな話術だよ。やっぱ少しわざとらしいセリフでも相手を褒めたほうが効果的なのか? いや、それともやっぱ顔か? イケメンは正義ってやつか? いや、でもそんなことを言ったら僕の生きている意味はないじゃないか。もっと何か僕とあいつの間に決定的な違いは……。 うーん、やっぱり僕とあいつの大きな違いはまずそこだし……。いや、他に何かあるはずだ。そうじゃないとあまりにこの世は不公平だ。
どんっ!
「きゃあ!」
部室までもう寸前という曲がり角で、突然の小さな衝撃。僕のトラウマになりつつある凛のニーキックほどの威力は当然なく、少しよろける程度だった。
「大丈夫か?」
「あぁっ、すいません。あ、あの……お怪我は……?
まさかこの展開は、いつか見た、というか昨日見た、曲がり角から始まるラブコメの定番じゃないか! ……いや、よく考えろ僕。そんなイベントがモテ男以外の人間に訪れるはずがない。これはこれから始まる悪夢の前兆じゃないのか? ああ、きっとそうに違いない。昨日の階段飛びおりニーキックもあったし、どうせ今回も散々罵倒された挙句、結局僕には心の傷しか残らないに決まっている。
青春なんて嘘なんだ……。
……っつ!!
刹那、頭を殴られたような衝撃が脳内を駆け巡った。
僕の目の前には今、ぶつかった衝撃で倒れてしまい、膝を折り曲げ、両脚を揃えて横に据えるという悲劇の少女ポーズで僕を上目遣いで見上げる男子高校生の夢がいた。制服を見るところ一年生のようだが、小学生と言われても何ら違和感を感じさせない小柄な体躯と、毛先を切りそろえたショートヘア。そして見た目そのまんまの舌足らずな口調。それでいて何よりもこの純真無垢をまるきりそのまま体現したような大きく開かれたまさに透き通るような双眸。
凛のような勝気な目と違い、小動物に対するような庇護欲を見る者に与える。
こんな人が罵倒を浴びせてくるわけがない!! 僕は確信したぜ! きっとこのあとポケットから取り出したハンカチで僕の顔を優しく拭いてくれるに違いない。
お待たせしました僕。 あなたの青い春はここからです!
ないですね」
「ないのかよ!!」
ここから僕のラブコメが展開するのかと思いきや、彼女は僕の大声に体をビクっ、と震わせ、恥ずかしいのか顔をすぐさま背けてそのまま走り去ってしまった。
「…………」
呆然と立ち尽くす僕。
こんなことあっていいのだろうか? まあ、勝手な妄想を頭の中で繰り広げた僕が悪いといえば悪いのだろうけど、さっきのフェイントはあんまりだろ。あの人、僕のような人にとっては毒だぞ。まだ罵倒された方が何らかの展開がありそうでよかったのかもしれない……。
でも何でこんなところにいるんだ?
こんな校舎の端の端に来るのは、極稀に用具を取りに来る使いっぱしりの教員か、校舎の端に部室を構える僕と凛ぐらいである。
まあ、何か特別な理由でもあったのだろう。気になりはするが、わざわざ追求することでもあるまい。
と、そうこうしているうちに部室のドアまでたどり着いていた僕は軋むドアを強引に開けて中に入る。
「はあ。さっきの惜しかったな……」
「先輩の脳内妄想で可愛い女子校生と曲がり角でぶつかって、逃げられましたか?」
「は、は!? 凛見て…………。リアルな青春を生きる僕に限ってそんなことするわけない、だろ?」
「動揺が如実に現れてますよ先輩。なんで疑問形なんですか。――いやー、それにしてもまさか本当に当たるとは思いませんでしたよ」
嘘だろ! まさか勘で言っていたのか? 凛ってもしかして超能力者か何かなのか? それとも今時の聡い女子高生ってやつなのか? それにしても限度があるだろ。
しかしいくら凛が僕のおめでたい脳内妄想だと誤解しているとはいえ、さっきそこで実際にあったんだよ! なんて言っても、さらに馬鹿にされるに決まっている。
よし、ここは多少の汚名も潔く受けることにしよう。
「おう。そうだ。僕は脳内妄想の中の曲がり角で可愛い巨乳の女子高生とぶつかって、胸を揉みしだいていたんだ」
…………あれ?
固まる空気と僕と凛。動いているのは徐々に心拍数を上げる僕の心臓だけだった。
「……先輩。まさかそこまでとは思いませんでしたよ。さすがに軽蔑します」
なに! なんてこと言ってやがる僕の口! 見ろよ凛のゴミを見るような目。ありゃ僕が今まで見た中でも最高級に冷ややかな侮蔑の混じった眼じゃないか!
あれ? そもそもぼくは何を言おうとしていたんだっけ?
というか見栄を張るにももっとマシな嘘はつけないのだろうか? モテ男を羨ましがりすぎだろ僕……。
「ところで真面目な話をするとな、一年生が一人こっちの方に来なかったか?」
「真面目な話を持ち出しただけで、先輩の救いようのない変態性が否定されるわけではありませんが……」
くっ! バレてたか。
凛は首をかしげ訝しむように、 僕を冷ややかな視線で射すくめるが、これ以上詰るつもりはないらしく。小さく息を吐く。
「特にいなかったですよ」
「そうか……。ならいいんだ」
「何ですか先輩。まだ脳内妄想が現実と混濁しちゃっているんですか? それともまだいじられたいんですか?」
にやにやと嫌な笑みを浮かべながら、続ける凛。……このやろ本当楽しそうだ。
「んなわけ無いだろ。こちとらそういうのは、妹だけで十分なんだよ」
…………ありゃ? また僕の口やってくれやがった。
またも固まる空気。でもこればっかりは事実だから否定のしようがないんだよな。ホント悲しいことに……。
「え……。先輩って妹からいつもそんな扱いを受けているんですか? まあ、先輩なら納得ですね」
「納得しないでくれ! なにナチュラルに受け入れてるんだよ!」
首を傾げ、顎に指を添えながら妙に納得したような顔で頷く凛。凛は僕のことを普段からどう思っているのだろうか?
「ふーん、先輩って妹からもそんな扱いを……」
神妙な面持ちで呟く凛。
しまった……。妹の件よりも巨乳云々の件の方が弁解の優先度が高いのだが、話が飛んでしまったせいで今更弁明しようにも、ただの苦しい言い訳にしかなりそうにない。
というか『も』ってなんだよ。凛の中の僕はホントにどうなっちゃってるんだよ。
仕方ない……。この誤解はいずれ解いていくか。今は何を言っても悪い方にしか転がりそうにしかない。
「まあ、とにかくミーティング始めるぞ!」
多少強引過ぎる気もするが、凛はにやつきながらも椅子に座り僕と向かい合ってくれた。
そして凛は表情を落ち着かせ話の口火を切る。
「昨日私が見たところによると、重要なのはやはりファーストインプレッションなんだと思うんですよね」
「インプレッションって言うとあれか? できるだけいい印象を相手に与えておくっていうことか?」
「いや、それも大事だと思いますが……。いい印象というのは先輩の場合まず不可能でしょうから、今回は悪くてもいいので強いインパクトを相手に与えて、まずは自分の存在を相手の意識に刷り込ませることが大切なんだと思います」
「なるほどな。……でも、そんなインパクトの強いファーストインプレッションなんて簡単に与えられるものなのか? あと不可能ってどういう事だ?」
「はあ、あなたは一体昨日何を見ていたというのですか? 最初に言ったじゃないですか。あのモテ男を模倣しようって」
確かに言っていたような気もするが……。
「……って! あんな恥や外聞をかなぐり捨てた無茶苦茶なことをやれって言うのか!?」
机をたたいて、勢いよく立ち上がる。しかし眼前に鷹揚と座る凛は臆することもなく、僕の目をいつもの勝気な視線で、真っ直ぐに捉える。
「はい! もちろんです!」
言い切った。そして僕と同じように椅子から立ち上がり、有無を言わせない気持ちのいい笑みを浮かべる凛。
「よしそうと決まったら早速いきましょうか!」
「よし! 行くか! ……って、待て待て。もう少し案を練ってから行こうぜ。さすがにまんま模倣するのはいささか軽率すぎるというか、安直すぎるというか……」
凛のやる気になった時の行動力と決断力についていけない。いつも突拍子と現実味がなさすぎる。
「ん? 何を心配しているのですか先輩。あのモテの全てを知り尽くしたモテ男からの教えに間違いがあるはずがありません」
「いやいや! もともと教えなんて説いてもらってないし。そもそも実行する器が違う! 僕があいつと同じような展開になるはずがないだろう」
おそらく僕が女の子に触れた瞬間ワンパンKOだろう。
「いやまあ、確かに先輩はあの方に身長も顔もスタイルも劣り、妄想という空虚な悦楽にすがり、妹にまでいじめられ、そしてあのモテ男のような女性を籠絡し、手込めにしてしまうような話術もありませんが……」
「よくもまあ僕の欠点をそんなにつらつらと並べることができるな!」
しかし実際その通りなので悲しいものである。
あー、この世は理不尽だ。
「でも大丈夫ですよ先輩! それら全てはファーストインプレッションが解決。今のご時世大事なのは第一印象です!」
そんな通販番組のような常套句を並べられてもな。信用できない。
しかし一方で凛がこういう表情をした時には不思議と本当にできてしまいそうな気がするので不思議なものだ。
「本当にいけるのか?」
「もちろんです! 私の目を見てください。今私の目にはたくさんの女の子達に囲まれて、人生の幸せを噛み締めている先輩の姿が鮮明に映っています!」
「僕にできるのか?」
「はい! もちろんです! この私がサポートするんですよ?」
……っは! 失念していた。僕はずっと一人だと思っていた。確かに僕一人では無理難題だっただろう。
……しかし違う! 僕にはこれでもか、というくらいのバックアップがついているじゃないか!
凛という一生涯の相棒が!
「よし! いけそうな気がしてきたぜ! 凛。俺の背中は任せたぜ?」
「はい! 私たち二人ならできないことなんてありません。どうか背中はお任せ下さい。最高のサポートをあなたに!」
「行くぜ相棒!」
「あいよ先輩!」
そして二人で頑固な入口のドアを横に蹴り開け、長い廊下を駆けていった。
なんかテンションが上がりすぎて、この時は自暴自棄になっていたと思う。




