TKY-印度
春、信二は大学に退学届けを出した。授業料を払うのをやめ、インド行きの航空券と現地での滞在費に充てるためであった。そして自らの人生に大きく舵をきった。四月下旬にバイクを拓也に預け、そのままバンコク経由デリー行き飛行機に乗った。信二にとり初めての海外への旅であった。唯一の救いは映子から届いた一通の葉書だった。彼女はタージマハル近郊の外国人向けコテージに住み込みで働いているとの便りを信二宛に送っていた。成田を経ち、バンコクで降りデリー行き夜のフライトに乗った。日本人はバックパックを抱えた若者とビジネスマンが数人程搭乗しているだけであった。明け方、信二の乗った旅客機は多少霧のかかったデリーへ着陸した。
タラップを降り、薄暗い通路を抜けて入国手続きを済ませ外へ出るとむせ返す空気と独特な香辛料の香りが信二を迎えた。ターバンを頭に巻いた男達やサリー姿の女性達が目に留まった。しかし空缶片手にぼろを纏った物乞達が次から次に信二達旅行客の周りに群がって来た。その目は窪み蝿が集っていた。また客待ちのタクシーや人力車からけたたましいクラクションが鳴り響き、またインド音楽が大音響で流れ、大声で怒鳴りあっているかのような人々の喧騒がそれを増長していた。まさしくカオスの世界であった。信二はインドの大地に立ちその人混みと喧騒を呆然と眺め立ちすくんでいた。すると信二の後ろから同じくバンコクから乗り込ん出来たバックパックをしょった若者が声をかけた。「ここは危険だから、早く離れましょう。」そう言いながら信二を誘った。信二は黙って彼に従い早足に到着玄関の喧騒から離れ、300メートル程離れたところでタクシーを拾い、二人は急いで乗り込んだ。彼はフーッとため息をつき「インドは初めてですか?」信二に安心した様子で尋ねた。信二は我にかえった様子で「はい、初めてです。話には聞いてましたがすごいところですね!」自分はとんでもないところに来てしまったと思いながら応えた。「とにかく安宿に向かいますので」そう言いながら彼は運転手に行き先のホテルの名を告げた。
気温は既に40度を越えていた。乾燥した砂ぼこりの中、タクシーはデリーの繁華街へと向かった。「坂本と言います。大阪の大学で医学部に在籍してましてね、たまにインドに来とるんですわ。」彼は信二に挨拶し、信二もタージマハルにいる彼女に合うためここに来た旨を語った。途中、車が止まった。渋滞した様子であったがその先には路上の真ん中近くに牛が横たわっていた。「ここでは牛が神様ですからね、皆よけて走るか牛がどくまで待つんですよ。」坂本は信二にインドの聖地巡りを勧めながら今までの経験を語った。デリーのダウンタウンへ向かうにつれて見えてくるのは線路脇に続くスラム街であった。鼻をつく異臭と灰色の壁そしてぼろ布を重ねて作ったような屋根の小屋が続き、煮炊きをしているのか煙があちこちで上がり、黒びかりした肌の男達が何をするでもなく椅子に腰掛け、じっと通り過ぎる車を見つめていた。また痩せた野犬の姿も目に留まった。人も犬も同様に感じた。やっと街中のユースホステルに到着したのは昼頃だった。いかにも若者が泊まる安宿風情であった。
「とりあえずここで旅の疲れをとりましょう」坂本は荷物をタクシーから下ろしながら信二にチェックインカウンターを指差し、中へ入った。多少冷房の効いた薄暗いロビーで両替とチェックインを済ませそれぞれの部屋へ案内された。
そそくさとボーイにチップを渡し、信二は狭い部屋のベッドに仰向けになった。やっとインドまでたどり着いたという安堵感と映子がこのカオスの中に生きていることに驚きを感じながら天井に釣り下がった扇風機を浴びいつの間にか眠っていった。
ドアを叩く音で信二は目を覚ました。辺りは既に夕方になっていた。真っ赤な夕日に照らされた窓の外では相変わらず車のクラクションと人々の喧騒が益々激しさを増していた。ドアを開けるとボーイがビニール袋を片手に立っていた。何やら信二にそれをを買うよう勧めているようだった。中には枯れ葉如きものが入っていた。「起きましたか」坂本が隣の部屋から来て言った。「これはハシシですわ、煙草に詰めて吸うんですが幻覚症状が出てきます。質は悪いが一応大麻です。」そう言いながら、ボーイと交渉した後、紙幣を渡し受け取った。坂本は狭い部屋のベッドに座り、慣れた手つきで煙草の中身を出し、枯れ葉をもんで細かくした後、丁寧に煙草に入れた。火を付けて坂本は三回程深く吸うと煙草の先端から紫がかった煙が上がった。「どうですか 吸ってみませんか?」おもむろに信二は受け取り、親指と人差し指でつまみながら吸った。煙草とは全く違う味と香りであった。坂本も新たに煙草に枯れ葉を詰め信二の向かいで吸っていた。次第に坂本の声が遠くから聞こえ外の喧騒がリズム感を醸し出していった。やがてその狭い部屋は紫がかった煙で充満し、信二は
まるで酒に酔ったかのようで思わずドアを開け、部屋から出た。狭い通路を千鳥足で進んで行った。通路の両側にある部屋のあちらこちらで外国人らの騒ぐ声がした。なかにはギターを引く者や踊りだす者など皆、ハシシを吸って興じていた。信二はふらつきながら角部屋まで進んで行った。そこから流れてくるリズム感のあるインド音楽に誘われるかのように開いたままのドアから中を覗いた。中には裸の欧米人らしき若者が男女数名が紫煙に包まれて床には酒瓶が転がり、怪しげな雰囲気を醸し出していた。
心配したのか坂本が千鳥足で信二のそばまで来ると「ここから出ましょう、もうここは大麻の巣窟になりはててますわ」酩酊した状態で二人はリュックを抱え安宿を出た。次の寝床を探しにデリーの繁華街をふらつきながら歩いたのだった。
途中、二人は、商店の立ち並んだ通りの小さなレストランで羊肉のマトンカリーで腹ごしらえをした。無論スプーンなど無いので右手でライスを摘まんで別皿のカリーに付けて食した。まだ信二は頭が朦朧としていたが徐々にカリーの香辛料で覚めていく感じであった。「インドは香辛料みたいな国ですわ」カリーを摘まみながら坂本が言った。食後二人は食堂の数件先のユースホステルを見つけ、そこで泊まることにした。
翌日、信二は坂本に誘われオールドデリーへ向かった。リクシャと呼ばれる二人がけ屋根付き三輪バイクに乗り込み、ごったがえす街を進んで行った。しばらく走ると広い通りに出、モスクや寺院が見えてきた。二人は観光客で賑わう赤茶けた煉瓦で建てられたようなデリー城の前でリクシャから降りた。「観光地はどこも同じですが、せっかくですから見ていきましょ」「確かに立派な煉瓦作りで見応えありますが」信二はリクシャから降り、灼熱の太陽に照らされ昨日のこともあり多少疲れ気味だった。
観光客の他は物乞の姿と野良犬達が目立っていた。ひととおりり観光を済ませた二人は昼過ぎに世界中にある見馴れたハンバーガーショップに入った。インド風味のハンバーガーだったが味はまあまあで店内は洒落た姿の若い女性が目立った。皆インドのお嬢様風であった。澄んだ青い瞳と豊かな黒髪そして彫りの深い顔立ちが印象的であった。信二はハンバーガーにかぶり付きながら「カースト制度はまだ続いてるんでしょうか」とふと尋ねた。坂本はコーラを片手に「いや、一応カースト制度は廃止されとりますが、実際は存在してるみたいです。煙草屋の息子は煙草屋になりますし、百姓は百姓、物乞は物乞として。それが当たり前の社会のようで徐々に変わって来てはおりますが悠久の大河のようにインド社会を流れていますね」
「ここに来てるお嬢様達はどうなんですか」「見た目で判断しちゃいかんのですが、おそらく上流階級の娘さん達ですね。身のこなしや身に付けてるものがそう訴えてますわ」しばし空調の効いた洒落たバーガーショップで休息を取った。日本では当たり前の何処にもある店だが何故かほっとする瞬間であった。果たして本当に映子はこの国に居るのだろうか。そんな不安が頭を過っていた。「そろそろいきましょ」坂本は勘定を済ませ、空調の効いた世界から茹だる赤茶けた埃の舞い上がる外へ向かった。
高熱が出たのはその日の夜であった。目眩とともに下痢と吐き気が信二を襲った。坂本とオールドデリーに行ったその夜、安宿の二階でもがいた。次第に意識が遠退いていくのがわかった。気がついたのは夜であった。部屋の窓からに差し込む月明かりの下、信二は覚醒した。「ようやく意識が戻りましたね、良かった」傍らには坂本がいた。自分の身体が自分のものでないかのように感じ全く立ち上がれなかった。暫し天井の月明かりを眺めながら「あー生きてるんですね」小声で言うと「三日間うなされていましたよ。持ってきた薬を砕いて飲ませました。あとパイナップルの汁と一緒にね」坂本は安堵したかのように言った。「おそらく昼食べたハンバーガーの生野菜があたったのでしょうね。コレラの一種です。とにかく死ななくて良かった」
信二はそばで看病してくれた坂本に感謝の気持ちでいっぱいであった。「ありがとうございました。本当に申し訳ありませんでした」そう信二は動かね身体を横たえ呟いた。「心配ないです。今夜ゆっくり休めば明日は身体も動きますから」信二は坂本が用意したパイナップルの汁を砕いた薬と飲みまた眠りについた。
深夜、再度目が覚めた。身体が軽くなっているのを感じた。窓が開き、カーテンが揺れていた。暗闇に坂本が後ろ姿で立っていた。全裸だった。背中の筋肉が尻まで持ち上げ、太いたくましい腕が月明かりに照らされていた。
黙ってそのブロンズの肉体を信二は眺めまた眠りについた。
翌日、体調は回復していた。「よく眠れましたか」坂本が部屋に入ってきた。手にはパイナップルとインドのナンを提げていた。「とにかく果肉ごと食べてください。空腹はよくないですから。もしよかったら午後の列車でタージマハルへ向かいますかね? その映子さんとかいう方お待ちでしょう」坂本がタージマハルのあるアグラまで同行してくれることとなった。
デリー駅はまさに混沌としていた。インド全土からやって来る人々、これからインド全土へ向かう人々それぞれ大きな荷物、中には家財道具まで抱えごった返していた。座って生まれたばかりの赤子に乳をやる母親の姿や空缶を前に置いて座り込んでいる乞食達、蝿がたかったまままるで死んだような老人もいた。その中をかき分け二人はアグラ行き寝台列車に乗り込んだ。
列車はゆっくりインドの大地を進んで行った。
何処まで行っても広い大地が遥かまで広がり真っ赤な太陽がその大地を覆いながら沈んでいった。
列車が無事アグラに到着したのは東の大地に太陽が顔を見せた頃であった。二人は駅ターミナルにいたカタツムリのようなアンバサダと書かれた古びたタクシーに座り、信二は坂本に映子から届いた葉書を手渡した。「このホテル迄行きたい」とターバンを巻いた運転手へ坂本が助手席から尋ねた。運転手は怪訝な表情でその葉書を覗きこんでいたが、しばらくして両手をハンドルから挙げ、髭を蓄えた口から「アイ ドン ノー」と首をふった。仕方なくタージマハル迄と頼むと「イエス サー」の声のもとタクシーは軋むエンジン音をたてタージマハルへ向かった。お世辞にも乗り心地の良い代物ではなかったが明日映子に会えるかとの思いであまり眠れなかった為かうとうととしながら暫くの間車中で過ごした。「見えてきましたよ。あれがタージマハルですわ」運転手の横に座っていた坂本が声をかけた。信二は眼を覚まし前方左手の靄の中にに霞んだ白亜の大理石の建物が浮かんでいるように目に入ってきた。
二人はタージマハルのそばでタクシーを後にし、廟の階段を上がりゆっくり中に入った。白亜の廟が静かに佇んで何故か涼しげに感じた。信二と坂本は廟の裏側迄歩いた。そこには広々とした青い草原が広がり、タージマハルに沿うように大河が続いていた。乾季のせいかほとんど水はなく乾いていた。しかし野生の馬が数十頭その大河に生えた草を食んでいた。
信二は大理石に座り暫しその光景に見とれていた。それは雄大なインド大陸を物語っているかのように信二の胸に迫ってきたのだった。やっと映子にたどり着いた。その達成感に包まれていた。
「そろそろいきますか」坂本が声をかけた。「すみません、今暫く、ここにいたいので」信二は草原で草を食む馬の群れに見とれながら言った。「映子さんのいるホテルを探しに行きましょうか?」「いや、いいんです、ここまで来ましたから。多分彼女はいない気がしますし、満足しました。」坂本は察して言った。「いいんですか、本当に」「はい、色々とご面倒おかけし、お世話になりました。自分はこからは一人で旅します。ありがとうございました。」信二は立って深々と坂本に礼を言った。
「自分は構わないですが、わかりました。私は明日ムンバイに向け出発します。そしてガンジス川へ行き、インド最南端迄行きますが、ご一緒出来なく残念です」坂本は信二が気になった。
「とりあえず今晩は近くのYMCAに泊まりますから」そう言うと坂本はタージマハルからゆっくり離れて行った。去って行くインドの友を丁寧に見送った後、信二は草原を見つめながら深い感慨に浸った。信二は大理石の上にタージマハルが描かれた映子からの葉書を置いた。とそれは風に舞い遥か草原へと運ばれていった。




