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TKY  作者: 練馬太郎
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TKY出会い

信二の配属された新聞店は東京武蔵野の井の頭公園に隣接する閑静な住宅街にあった。しばらくはその新聞店の二階で寝起きをし、朝夕200軒ほど新聞を配達して大学へ通うこととなった。全国から集った若者が武蔵野の12有る店舗にそれぞれ配属され総勢300人の若者たちが朝夕配達をしながら大学、専門学校そして予備校に通っていた。それぞれの店舗には食堂があり、朝夕の配達が終わるや大きな鍋を開けどんぶり飯に夢中となった。春の連休の時には毎年各店舗が集い、井の頭公園に隣接する野球場で新聞社主催の野球大会が開かれ甲子園と同じメダルを目指し奮闘したのだった。信二はまさにそういった都会に集った勤労学生の一人として暮らしていた。故郷を思う望郷の思いは微塵にも感じさせないほど東京での学生生活を謳歌し始めていた。


体つきは高校三年間の柔道生活でたくましく成長していた。また、自分は男性である自覚を常に心に刻み生きようとしていた。

ほどなくして信二は新聞店のすぐ側の古いアパートの四畳半の部屋を与えられ、そこで寝起きをする事となった。そこには同じく新聞配達をする勤労学生が廊下を挟んで六名ほどが暮らしていた。部屋には当然ながらバスルームもないただ押し入れと蛍光灯のみの部屋であった。先輩の大学生たちに連れられ近くの銭湯へ行くのが日課であった。



その日は朝から晴れ渡った空であった。雪を頂いた富士が遥か西の方角に小さく見えた。信二はいつもの朝刊を配り終わると新聞店の食堂へ直行した。昨日までは新聞店の店長の奥さんが腹をすかした若者たちに豪華なまかないを朝夕用意してくれていたが様子が違っていた。食堂のテーブルにはまだ20人分のおかずは乗っておらず、広い台所ではエプロン姿で背中を向けた長い髪の女性がぎこちない手つきでキャベツを刻んでいた。信二は食堂には上がらす、部屋へ戻ろうと振り向くとそこにはちょうど、配達を終えた同じアパートに住む良介が同じく食堂に入ろうとしていた。「おう、信二よ!朝飯はまだかい?」良介は腹をすかした様子で腹を擦って尋ねた。信二は怪訝な様子で「なんか女の子が作っとる。まだや」信二は諦め顔で応えた。「ああ!あの子か、昨日から来てる武蔵美に通ってる子や、東京出身で親が離婚して新聞店で賄いしながら大学通うらしいぜ。専門は油絵らしい」そう良介は興味ありげな笑顔で言った。

信二は食堂の方を振り向きながら、大きな皿にサラダを盛るすらりとした長身の彼女の姿を眺めながら、都会の子は違うと感じた。良介と信二はアパートへひとまず戻り、良介の沸かしたコーヒーをすすった。


コーヒーを飲み終え二人が食堂へ戻ると既に彼女の姿はなかった。大皿に盛られたサラダと焼き魚そしてハムエッグが並んでいた。配達を済ませた学生たちで食堂はごったがえし、銘々が米びつの中を大きなしゃもじで大飯をつぎかきこんでいた。信二と良介は食堂が一段落するのを待ち、腕組みをして外で立ち話をしていた。良介も同じく都内の大学一年で東北山形から上京していた。高校時代は陸上部短距離走で国体にも出場しており、新聞配達には自信があった。誰よりも遅く店に顔出しそして誰よりも早く配達を終わらせた。同じく都内の専門学校に通う拓也が飯を済ませ、草履姿で食堂から出て来た。拓也は二人に「はよう食わんと米びつ空になるばい!」熊本出身の彼は方言丸出しでそう言いながらつまようじを忙しく動かしていた。「彼女どうした?」良介が拓也に尋ねた。「新しく来た賄いの子か?さっき店長が来て飯食ってる時に紹介しよった。名前はなんとか玲子とか言うてたな。何やら油絵が専門とか言うてたわ。もう部屋に戻ったな。」「飯食わずにか?」拓也は怪訝そうに尋ねた。「描きかけの絵があるらしくそそくさ帰ったわ。」信二は二人の会話を聞きな

がら果たしてどんな絵を描いているのか興味が沸いて来たのだった。


彼女は店からやや離れた吉祥寺に程近い井の頭公園の脇の六畳一間で暮らしていた。おそらく店長のはからいであった。信二が彼女の絵を拝見する機会は眩しい夏が来るまで訪れなかった。


夏になって井の頭公園は蝉の鳴き声で埋めつくされた。信二は大学への行き帰りはいつも公園を抜け吉祥寺、渋谷を電車で移動するのだった。毎朝4時起きの身体には吉祥寺と渋谷を往復する電車が暫しの睡眠時間であった。その日、空には夏曇が広がり、広い公園では噴水の回りではしゃぐ子供たちそして屋根つきボートをゆっくり漕ぐ恋人達、親子連れがミズスマシのように池の水面を揺らしていた。信二は学校帰りに公園の木立の下のベンチに腰かけ一人そんな風景を眺めていた。

ふとそこへ池にかかったアーチ状の橋を黒の蝙蝠傘をさして渡る玲子の姿が目に止まった。彼女は眩しい日差しを避けるかのように空いた手をかざして歩いていた。真っ白のロングスカートがやけに眩しく見えた。先日吉祥寺夏祭りで焼鳥を手に拓也、良介との会話した時、玲子は既に歳は30を過ぎていること。そして帰国子女で日本の会社に暫く勤めていたが、数年で会社を辞め、銀座や六本木のバーで働き外国人との同棲もしていた事など良介行きつけの吉祥寺カウンターバーの彼女をよく知る常連客から耳にしたとの話題で盛り上がった。またそのバーには玲子が描いた絵が飾ってあるとのことであった。

その時の話を思い出だした信二は今、橋を渡りかけ一歩一歩自分のベンチへ向かって近ずくくる蝙蝠傘を持った彼女が全く次元の違うとてつもない存在として映った。また暑さを忘れ身動き出来ない小動物と化してしまっている自分を感じていた。まるで蛇に睨まれた蛙のようであった。

彼女はアーチ橋を渡り終え真っ直ぐ信二の方向へと歩いて来た。信二はベンチを立つ勇気もなく近づく足音だけが感じられた。

すると突然冷たい一陣の風が吹き、辺りは急に暗くなった。それまでの青空が真っ暗な曇に覆われたかと思うとザーという音と共に大粒の雨が辺りを濡らし初めた。突然の雨の中彼女は信二を振り向くこともなく通り過ぎていったのだった。それは信二にとり初めての彼女との二人だけの遭遇であった。ゆっくりと通り過ぎていった蝙蝠傘を目で追いながら信二は木陰で雨をやり過ごした。公園の賑わいは去り人影はほとんどなくなっていた。

暫しの雨が止むと空は明るさを取り戻した。何処からともなく再び人々の遊ぶ姿が目に止まった。

信二は時計に目をやり、夕刊の配達へと彼女の後を追うかのように公園を後にした。


良介は夏休みを利用して実家のある山形へ帰省中であった。夏とはいえ、朝夕は冷えた。忙しい東京の生活から離れ、とうとうと流れる最上川を一人眺めるのだった。良介には恋人がいた。名前はかずみで山形国体で同じ陸上部だった。彼女は実家にほど近い酒田市で就職していた。良介は帰省の目的がほとんど彼女に会う事であったが新聞店にはまだ健在な母親との再会としか告げなかった。

一週間後、良介は彼女と区切りをつけ東京へと戻った。二人離れた処で別々の人生を歩んでいる事実が否応なしに区切りをつける理由となった。それが自然でもあった。お互い会いはしたがそれ以上求めることもなく終わった。


さっぱりした様子で良介が拓也の部屋に顔を出したのは山形から戻った夜であった。手に山形の地酒をぶらさげ入ってきた。「飲もうぜ」それが良介の挨拶だった。信二は四畳半の狭い擦れた畳に横になって配達途中に拾った粗大ゴミのテレビを見ていた。手を伸ばし小さな冷蔵庫から氷を取りだし、湯飲みに入れ良介がくれた地酒で乾杯した。「久しぶりの山形はどうやった?」笑いながら信二は尋ね、良介も目を細めて「んだなあ、東京がええ」ぽつりと言って胡座をかき旨そうに酒を飲み干した。信二は二杯目を良介の湯飲みに注ぎながら「ところで玲子さんが気になってて」信二は多少真顔気味で言った。「んだか、惚れたな」良介はからかい気味であった。「しかしなあ、おらたちが配達終わる頃にはさっさと賄い終わって部屋帰っとるし、会う機会もなかんべ」良介の言葉に信二は「惚れてるわけではない。ただ彼女の絵が気になっただけ、どんな絵か一度見たいと思って。」信二は応えた。中古の扇風機が音をたてて舞い、アパートに面した街道筋を通る車の騒音といつもの酔っぱらいの笑い声が聞こえ、都会の平和な夜が続いた。


地酒を飲み干したのは夜10時を回っていた。玲子の画が飾ってあるという吉祥寺のカウンターバーへ行ってその画を確かめようと二人はジーンズとブレザーに着替え、吉祥寺へと向かった。北口にある駅裏の風俗街を抜け狭い飲み屋街に出、先日祭で聞いたベルギー館という五階建レンガ作りの建物を目指した。酔客を見送る和服姿のママや華やかなドレスに身を包んだ夜の蝶達がネオン街の賑わいを醸し出していた。二人はベルギー館に到着するとエレベーターに乗り四階で降りた。薄暗い中にバーの看板が浮かんでいた。"五番館"それがバーの名前であった。扉を開けると鈴の音が鳴り、恐る恐る二人は中に入った。「イラッシャイ」ママとおぼしき女性が声をかけた。ハスキーな声であった。二人はカウンターの空いた席へと案内され無言で座った。店内には数人の客がジャズを聴きながらグラスを傾け、カウンターごしにいるもう一人の比較的若そうな女性と話込んでいた。良介はハイボールを注文し、信二もそれに従った。二人は多少緊張した様子で店内を眺めた。無数のボトルが並ぶ棚の脇にその画はあった。女性二人が裸で絡み合う姿が描かかれていた。鮮やかな黄色の向日葵が絡み合う二人を覆っている油絵であった。

信二はその画をじっと眺めながら何故か心が疼き始めたのだった。良介は感じとったのか微かな声で信二の耳に囁いた。「ここはゲイバー」ママのハスキーな声と喉仏を確認しながら信二はその画に吸い込まれる自分を感じつつ渡されたハイボールを一気に煽ったのだった。


二人はしばらく無言のままグラスを握った。その様は滑稽でもあった。緊張が溶ける間もなく固まってしまったかのようであった。来てはならないところへ足を踏み入れたと良介は後悔した。信二は自分の素直な感情を刺激されママをじっと見つめるのだった。ここを訪れている客は他ならす同性愛の男女ばかりでその醸し出す独特な雰囲気に飲み込まれた。玲子の油絵が全てを語っていた。ママの横でカクテルを手際よく作っている若い女性らしき店員もそうであった。

「初めてぬ!緊張しないのよ。」喉仏を震わせママはほくそ笑み良介の空になったグラスをとり冷えた新しいグラスを彼に差し出した。そのしぐさは女性を感じさせたがその手は男性であった。「そろそろ帰りますので」良介は差し出されたグラスに手を触れることもなく、信二に目配せし「出ようぜ、画も拝見出来たしな」そう信二に小声で言った。信二は良介に促され、また来ますとママに伝えた。ママは別段引き留めることもせず「待ってるわよ」そう言い鈴の鳴る扉を開け見送った。五番館の看板の灯りだけが薄闇に浮かんでいた。


それからというもの良介は信二と多少距離をおくようになった。ほどなく良介は年上の女性と付き合い始めた。三十路を過ぎた人妻であった。配達途中で声を掛けられ、クラシックやミュージカルを見に日比谷や青山まで出かけるとき夕刊配達後のベビーシッターをしてもらいたいとのことだった。良介はためらいながらも彼女の頼みに応じた。立派な二階建て住宅で家の回りは色とりどりの花壇があった。配達後その家へ向かい、上品に着飾り多少香水を漂わせ彼女は「じゃあよろしく御願いね。」と言い残し、待たせたあったタクシーに乗って出掛けて行った。良介は二人の幼い子供たちとひとしきり遊び、二階のベッドに寝かせ、一人一階のリビングでテレビを見て彼女の帰りを待った。10時を回った頃タクシーが玄関先に止まり、ドアが鈴の音をたててその人妻は素敵な笑顔を見せ帰宅した。「ありがとう。助かるわ。」と言い、薄いショールをソファーに置き、台所からビールを持って良介の向かい合った椅子にゆっくり座った。良介は渡された冷えたグラスに注がれたビールを一口だけ口に入れたが美しい人妻を前に緊張するのだった。「ごめんなさいね。出来れば来週もお願いね。」彼女はそう言い良介に封筒に入った駄賃を渡した。良介は気まずくなる前に帰ろうとひととおり話し終わると「ありがとうございます。明日朝早いので」と伝えた。多少頬を明らめた彼女は「そうねまたお願いね」と答えテーブルを立って玄関へ向かうのだった。彼女に見送られ良介は胸の張り裂けるような鼓動を感じながら急いで狭いアパートの部屋へ戻って行った。五番館での緊張とは全く違う溶けてしまいたいような心地よい緊張であった。空には雲の間から月が浮かび虫の音が秋の気配を感じさせた。


鈴虫が鳴き夏も終わろうとしていた。信二は朝夕の配達が終わると大学のレポート作りに追われた。しかし翌日の配達が休みの日には吉祥寺五番館へ一人で顔を出すことがあった。信二にとって自然な感情であがらえないものがそこには存在していた。その夜信二は久しぶりに五番館を訪れた。鈴のついた扉を開けカウンターでグラスを磨くママに挨拶し中に入った。彼がいつもの玲子の画の前に座ろうとしたとき、カウンターの胡蝶蘭の影に一人座ってグラスを傾けている玲子の姿を発見した。玲子はタンクトップにジーンズ姿で長い髪を肩に垂らしてゆっくりと信二に横に来るよう手招きをした。彼は玲子の手招きにやや緊張しながら隣に腰をかけた。「久しぶりじゃなないの、どうしてたの」おしぼりを運んできたママが何時ものハスキーな声で信二に尋ねた。「お久しぶりです。大学のレポート作りで忙しくて」信二は恐縮しながらおしぼりを受けとりハイボールを注文した。「初めてね」玲子は笑顔を向けて言った。信二は尚更恐縮したままで「そ、そうですね、公園で」そう言いかけ、玲子の後ろの胡蝶蘭に目を向けた。「わかってたわよ、あなたが井の頭公園のベンチにいたの。

でも突然雨だったから、濡れたでしょ!」多少酔った玲子に目を向け「濡れましたけどたいしたことなかったです。」ママがハイボールを運び冷えたグラスに注いだ。「ゆっくり飲みなさい。緊張しなくて」そう言いながら、他の常連客に移って行った。「わたし、近々イタリアへ行くの。多分もう最後よ」玲子は微笑みを浮かべて言った。「ミラノに彼女がいるから、一階に暮らすのよ。」信二は驚きを隠せなかったが敢えて冷静を装い「カノジョ?」そう尋ね返した。


"カノジョ"玲子は確かにそう言った。「ほら、そこに描いてある女性よ。」ジャズが静かに流れていた。信二は黙って玲子の話に耳を傾けた。「一緒だったの。昔ね、ロスにいたときの恋人よ。今はイタリアにいてお互い一緒になろうと決めたの。ここでは同性愛者は市民権もないし、肩身も狭いから。」そう玲子はつぶやきゆっくりとカクテルグラスを傾けた。一呼吸間があった。「あなたも同性愛でしょ!」信二は玲子に見透かされている自分に返事が出来なかった。「男らしく振る舞っているけど無理よ!同性愛者には分かるわ!」信二は戸惑いと思春期の頃に味わった勇作を思い出し素直に愛しいと感じた。ママの小指を立てた手が信二のグラスを持った手を優しく包んだ。「大丈夫よ」そうママは囁いた。その夜、信二は胡蝶蘭の影でママと交わった。久しぶり若く逞しい信二のカラダにママは陶酔し信二はその巧みな愛撫に幾度もほとばしった。お互いアブノーマルな夜明けを迎えたのだった。

秋風が吹き初める頃、珍しく拓也が信二の部屋を訪れてきた。「どげんしとる?」配達帰りに立ち寄ったらしく鉢巻きを取ってしきりに顔の汗を脱ぐっていた。「ああ久しぶりだな。」信二は懐かしい友人と接するかのように冷えた缶ビールを手渡した。「うまかあ」拓也はグイグイと渡された缶ビールを飲み干し生き返ったかのような表情で「良介から相談があってのう。」多少真顔で言った。「どうした?」信二は座り直して缶ビールを開け一口すすり問うた。「例の人妻の家で度々子守り頼まれとるらしくてな。旦那さんは大手都市銀行の海外支店長らしく当分帰国せんらしいのや」「塾したカラダをもて余した有閑マダムってことか?」信二にとっては異性に関することはあくまで第三者として興味の外であった。「なにやら良介も断るわけにもいかず、禁断の関係にも陥らないよう必死にその場では自制心を働かせとるわ。」「自制心か!」信二は真面目な良介を想像してビールを煽った。「早く彼女を見つけることだよ、但し良介がその人妻に惚れてれば無駄と思うけど。」信二はそう言い二本目のビールを拓也に手渡した。「ところでまだ吉祥寺のゲイバーには行っとるんか、まだ?」

唐突に拓也に聞かれ信二は戸惑いを隠せなかった。ビールを煽り「ああ、たまにな」「そうか、まあよかや。おまえの世界やからなんも言えん。」拓也はそうつぶやいた。「たまには銭湯でもどげんや!良介誘って」「だな!」二人は手拭いを肩にかけ良介に声をかけ三人で湯船に浸かりに行った。既に外は暗く。月が都会の夜空に浮かんでいた。透き通った空気の中、電車の音が聞こえてきた。「玲子さん行っちまったな。」良介が言った。「ああ、遠くへな!」浮かんだ月を眺めながら信二はつぶやいた。


秋も更け、東京も冷えた。朝の配達は辛かった。起きれない日は先輩に叩き起こされた。唯一救いは皆同じ学生ということだった。玲子が去った後、賄いには他の店から来た北関東出身の女子大生がすることになった。名を映子と言った。他の店で色々問題を起こしたらしく環境を変えるため本人の希望もあり移ってきた。彼女の専門は英文学でよく東京横田米軍基地へ遊びに行っていた。とても明るい気さくな女性で問題を起こすような感じはなく男子学生とも仲間としてよく接した。彼女は韓国人女性とルームシェアリングをして洒落たアパートで暮らしていた。信二と同じ渋谷にある大学へ通っていたため、時折学校の行き帰り同じ電車に乗ることがあった。


ある日大学の午後授業が終わり、渋谷道玄坂を下り、信二は井の頭線改札口へ向かっていつものように歩いていた。雑踏の中から自分を呼ぶ声が聞こえた。「信ちゃん」澄んだ綺麗な声で映子とわかった。「よく会うなお互いに」信二は気さくな映子にそう答え、吉祥寺行き急行電車に乗った。吉祥寺までの17分間二人はつり革にぶら下がりながら「前に賄いしてた玲子さんってイタリアに行ったんだってね!」信二を試すような

映子の口調だった。「ああ、そうだよ」車窓から過ぎていく都会の景色を眺めながら信二は余り答えたくはない素振りであった。

「映子は上州出身だよね!」信二は話題を変え尋ねた。「空っ風とカカア天下よ!長いトンネルを抜けると雪国が広がってるわ!」二人は電車を降り秋風で落ち葉が舞い初めた公園を歩いて帰った。映子は別れ際信二に「玲子さんの画見たいわ」そうつぶやいた。



良介は夢を見ていた。めったに夢など見ない彼はそれが現実と錯覚した。美しい人妻に初めて童貞を捧げる夢だった。ゆっくり彼女の香水の香りが漂って「帰らないで」彼女は優しく囁いた。良介は思わず唇を重ねた。深夜の出来事だった。そのまま柔らかいソファーに二人は沈んでいった。若い男のエキスを吸い上げていくかのような彼女の動きに身を委ね果てていった。夢から覚めた良介は下半身が生温かいのを感じながら、夢であることを悔やみ暫しその甘美に浸るのだった。

しかし、良介の思いとは逆に程なく彼女は遠くへ去って行った。素敵な笑顔だけを残して。


人との出会いは不思議なもので出会いが相手の人生を大きく変えてしまう場合が往々にしてある。

秋の夕暮れは早かった。拓也は急いで配達をしていた。そしてとあるアパートの前で声をかけられた。「その新聞くれんや、なんぼ?」ジャージに帽子姿のジョギング帰りらしい若いがっしりした体格の男だった。「よかですよ!余りますから」そう拓也は言い、かごから一部新聞を手渡した。男は礼を言いながら、「九州の出身か?」そう尋ねてきた。「出身は熊本です。東京で新聞奨学生として働いて学校ば行っとります。」多少気後れしながら拓也は応えた。「そうか偉かやな、俺は博多もんや。配達終わったらきんさい!新聞くれたお礼に焼酎一杯飲ましたる。心配無用や。」九州弁で誘われ、拓也は安心と不安が入り交じる中、配達終わって彼のアパートに立ち寄った。すっかり日は落ち肌寒さを感じた。街灯の灯りで微かに見える表札には"タカマツ"と書かれていた。ドアは半開きだった。「こんちわ!」ドアの隙間から声をかけた。「お疲れ、上がってや!」元気な声で向かえてくれた。部屋に入ると冷蔵庫、テレビ以外何もなかった。最近台湾での仕事を終え、新しい仕事を探しに東京に来たのだという。現地の女性とも結婚して台湾に残して来たらしい。それ以来、同じ九州人として暇な時は部屋で酒を酌み交わすこととなった。ある夜、拓也はタカマツを連れ、良介を訪れた。「元気か?」良介は初恋に敗れたかのように人妻が去って行った後、余り元気がなく配達以外は外へ出ず学校へも行ってなかった。「友達紹介するわ。配達途中におうて意気統合し、よう暇な時お邪魔しとる。タカマツさんや」拓也はそう言いタカマツを紹介した。「ちわー」タカマツは手に焼酎をぶら下げ部屋に上がった。良介は突然の客に驚いたが、気さくなタカマツに次第に打ち解けていった。「何もなかで良かったばい。相手は人妻やけん。一度堕ちると地獄が待っとった。女は間違えると魔物になるけんな!」タカマツはそう良介に言いながら焼酎を煽った。拓也も良介に元気になるよう促すのだった。「今度、筆下ろしに連れていったる!」そうタカマツは良介に笑って杯を勧めるのだった。タカマツは多少酔った目をじっと良介に向け言った。「後ろになんか見えるばい。背後になんか見える。」良介は狭い部屋にもたれて胡座をかいて杯を煽っていた。

「また、冗談ば言いよって」拓也はタカマツに笑いながら言い良介の後ろの白壁を眺めた。拓也には何も見えなかった。「親戚か家族にサクさんておらんかったか。髪に鼈甲を指しとった白髪の女性や!」タカマツは言った。良介は後ろを振り向きながら「昔、オサクさんて婆さんが実家にいました。余り記憶にはないっすが両親が働いとりましたんで自分はサクさんにおんぶされていたようです。もうとっくに亡くなってます。」良介は杯を握ったまま驚きながら、伝えた。「あんたを守ってくれとるばい。感謝せな」タカマツは真顔だった。


東京にも空っ風が吹き始めた。武蔵野からも雪を頂いた富士が良く見えた。信二は新宿の高層ビルの最上階にあるレストランからその美しい富士を眺めていた。良介が昼間そこで働き始めたのを聞いて学校帰りに寄っていた。良介は既に学校には行かず、高層ビルにあるチャイニーズレストランの厨房で働いていた。自分には学業は向かずと判断したからだった。無論新聞販売店も辞めた。奨学金が出ないためである。

ただ完全に将来を捨てたわけでもなかった。ある程度貯金が出来たら留学を考えていた。タカマツの勧めだった。タカマツが台湾時代に通った中国語学校を紹介してくれ、住むところもタカマツの台湾の家に下宿させてくれるからである。良介は自分でアパートを見つけて引っ越して行った。彼にとっても新たな人生目標を見つけていた。信二にとって良介がある意味羨ましいと感じた。


年が明け、寒い日が続いた。深夜から振り続いた雪が新聞配達にこたえた。皆自転車に山積みして店を出て住宅街を一軒一軒配達するが積もった雪で自転車は前に進まず、歩いて配達をした。手がかじかみ上手く指が動かせない場合は、公園で新聞を燃やしてしばし暖をとった。世が明けても、配達は終わらなかった。こうゆう日は年に数度あった。信二も苦労した。配達が終わったのは朝8時をとうに過ぎていた。

部屋に戻りくたびれた身体を休め、店の食堂へ行ったがまだ配達を終えてない学生もいて食堂には数人しかいなかった。その中に明るくふるまう映子がいた。拓也と数人の先輩たちと混じって会話をしていた。「信ちゃんお疲れさま」映子は食堂に上がった信二にお茶を出して言った。「ありがとう!学校行く時間やないの」「今日は行かないわ。大雪で電車も動いてないし」映子は明るく答え、先輩たちにもお茶を入れていた。「そうか、じゃあゆっくり出来るな」信二も学校行くのを諦め、皆と談笑をしながら食事をとった。先輩の中に村松という変わった人物がいた。イラストを描いていた。いつも煙草をくわえ、部屋に籠り、様々なイラストを描いていた。一度信二も彼の部屋にお邪魔したことがある。常にユーミンの曲が流れ、真っ赤なターバンを巻き色とりどりのスプレーでイラストを描いていた。「いつかニューヨークへ行くつもりさ」彼はよくそう言った。

「今日は皆、学校休むなら俺の部屋来いや!描きためたイラスト見せてやるよ」村松はそう拓也や映子に言った。信二も誘われ、村松の部屋へイラストを見に三人で行くことになった。まだ雪がアパートの周りに積もっていたが、ようやく晴れた空が眩しかった。


彼の薄暗い狭い部屋一面、描ききった作品が貼られていた。全て色鮮やかで躍動感溢れたイラストであった。「部屋せまいからさ、ベッドに座って」彼は煙草を燻らせながら、ベッドに座るよう促した。三人はベッドに並んで座りあたり一面の壁を見渡した。「みな落選作品さ、勿体ないから飾ってるよ。壁紙だな。」買ってきた熱い缶コーヒーを渡しながらそう言った。

「将来はニューヨークでイラストレーター」それが彼の夢でありそのために今があると熱く語っていた。春になり、村松は学校を終え菓子のパッケージを描くイラスト専門会社へ入り、2年後日本を後にした。その後ニューヨークにてイラストレーターとして活躍することになるのだった。一通り、村松の画を見た三人は部屋を出た。積もった雪は日差しを受け溶け始めていた。微かに残った雪を踏みながら映子が呟いた。「玲子さんの画の方が訴えるものがある気がする。素晴らしい画と思うけどね!」拓也は青空を見上げ「皆、夢があるけん!」アパートの軒先から溶けた雪の塊が音を立て足下に落ち信二は黙ったままそれを踏んだ。


信二は東京で2年目の春を迎えた。相変わらず早朝からの新聞配達と大学での単位を取るためだけの生活に追われた。しかし自らの人生目標が何なのかもがいていた。大学では様々なサークル活動に参加したがどれも自分の置かれた環境と回りの学生たちとには溝があった。キャンパスでの生活は長続きはしなかった。久しぶりに彼は五番館を訪ねた。ママは相変わらず信二に優しく接するのだった。ママは言った。「ゲイはゲイよ。ゲイとして生きて行けばいいのよ。

」耳元で囁くハスキーな声と女性ではないカラダに信二は癒された。

しかし、そのままのめり込むことはなかった。何かを探そうとしていた。


深夜、電話が鳴った。映子からだった。「部屋に行っていい」唐突だった。「理由は後にして」映子はそう伝え電話を切った。いつもの普段着で多少疲れた様子で映子は信二の部屋にやってきた。もとより狭い部屋でしかもベッドが部屋の三分の一を占めていたため信二はベッドに座って「どうした、何かあったの?」突然部屋にやって来た映子に尋ねた。「ルームメイトが彼氏呼んでるの。隣の部屋から声が聞こえるし眠れないから一晩泊めて。」映子はそう言って信二の差し出したペットボトルのお茶をすすった。「彼女はコリアンだよね。」「そうコリアンでその彼氏はアメリカ人。横田基地にいて非番の時アパートに時々連れてくるわ」信二はペットボトルを飲む映子に対し「そうなんだ。隣の部屋だと分かっちゃうな」そうベッドに横になって呟いた。「信ちゃんとなら平気よ」映子は信二がベッドの下に敷いた布団に横になり笑って言った。「いいよ自分は。明かり消すよ。」信二は天井から釣り下がった紐を引っ張り毛布を頭からかぶった。静まりかえった狭い部屋で映子の寝息だけが下から聞こえ、自分も暫しの眠りについた。異性との初めての夜だった。


その日は休刊日で朝の仕事はなく、ぐっすりと眠った。起きると既に映子は布団を畳んでいた。「おはよう」映子はほくそえんだ。信二はベッドからゆっくり起き上がり「起きてたんだ」と言い残し部屋の外の廁へ立った。流し台で顔を洗い、歯を磨いて部屋に戻ると映子はトーストを焼き、ハムエッグを二人分作っていた。信二は用意してくれたオレンジジュースを飲みながら映子も不思議に感じているだろうと思った。これだけ近くにいる映子に対して指も触れようとしない自分を男として疑っているにちがいないと。

「一緒に部屋まで送って」映子は一人帰宅しずらいようで信二に一緒に部屋までついて来てくれるよう頼んだ。マンション風の洒落たドアに鍵を差して回した。ロックが外れ映子は信二を連れ中へ入った。リビングには今起きたばかりという格好で乱れたネグリジェ姿のコーヒーを入れる女性がいた。映子はグッドモーニングと彼女に声をかけた。後ろに信二がいることに気付いた彼女は頬を明らめけだるそうな表情でお互い様素敵な夜だったようねと英語で挨拶し、まだベッドにいたボーイフレンドを呼んだ。「へイ!グッモーニン」バスローブを着た上背のある白人男性が眠たそうに現れた。

いかにも兵隊として鍛え上げたカラダを信二に見せつけるかのようであり、太い鍛えた二の腕に信二も触手が動くのを感じたのだった。


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