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消えたシャルロット・④ショコラ編

   【忘れられたショコラ】


『……変な気分』

 きっと、主ちゃま以外の人と一緒にいるせいだ。こんなのは、今日が初めて。

 ここは、フジヤの部屋。とにかく物がいっぱいだ。出しっぱなしで薄く埃を被ったゲーム機に、雑に積まれたマンガ。丸く、くしゃくしゃになった衣類。

 男の子っぽい匂いがした。

 じぶんは、机の上に置かれていた。近くの時計に視線を向ける。ちょうど、十七時を報せていた。部屋の主、フジヤはゲームに夢中だった。

 主ちゃまが所有している、灰色のゲーム機とはまた色も大きさも違っていた。

 彼は、格闘ゲームをしていた。かなり没頭している。でもまるで、今日起こった出来事と、まとわりつく不安を、忘れようとしているみたいだった。

 学習机から、そんな彼を見下ろして、ふと思った。

 主ちゃまはどうして、じぶんをフジヤによこしたのだろう。


*** ***


 ――数時間まえ。喫茶店でのことだ。

「分かりました。オバちゃんを見つけてくれたら、シャルロットはあなたのものです」

「嬉しい返事ですわ。……そうだ。坊やには、これを差しあげますわ」

 主ちゃまは、提案した取り引きが成立して喜んでいた。イヤリングであるじぶんを耳から取り外して、フジヤに渡した。

 同時に、『ああ』悲痛な叫び声がした。片割れの、あいつの声だ。

「これは?」彼が、主ちゃまに訊ねる。

「これはね、幸せのショコラといいますの。肌身離さずに持っているといいですわよ」

 幸せのショコラとは、装飾品目的で作られた、じぶんのこと。食べ物なのに、味覚を与えることはない。おかしな話だ。酷な状況だと呪ったこともある。

 でも、主ちゃまと長い間一緒にいて、考え方が変わった。

 日常の素晴らしさを知った。特に、テレビゲームがいい。あれは人間が生み出した、最高の娯楽だ。

「はあ。ありがとうございます」

 胡散臭そうな目つき。フジヤは、霊感商法の類だと勘ぐっているかもしれない。

 二人は席を立ち、主ちゃまのお金で会計をすませた。

 店を出る。

「では坊や、明日のお昼に、あたくしのお家へ来てくださいな。その時に、娘っ子とシャルロットの姿をお目にすることができると思いますわよ。ほほほ」

 その言葉を最後に、主ちゃまと別れた。


   *** ***


 コントローラーを握って、ボタンを連打していたフジヤの指が止まっていることに気づいた。

 疑問に思うと、ふっと動いて、ゲームの電源を落とした。

 のそりと立ちあがり、ベッドに倒れた。仰向けになる。天井をじっと見つめている。眠いのか、考えごとをしたいのか。

「本当に、オバちゃんはどこにいるんだろ。カゲノさんは見つけ出す、て断言してたけど大丈夫かな?」

 心の呟きを、口からそのまま漏らしていた。しかも、彼はそのことに気づいていない。

 不安に駆られているように、右へ左へと寝返りを打つ。そして、上半身を起こした。

「でも、カゲノさんも十分怪しいよな。自信満々すぎるし。案外、全部が自作自演だったりして――」

 無茶苦茶で、荒唐無稽な発言だ。主ちゃまがそのようなことをするはずがない。

 それでも彼の、疑いたいという気持ちも分かる。確かに、主ちゃまは怪しすぎるだろう。今回のこと、すべてに関わっているから。

「って、そんなわけないか」

 思ったことを、すぐに苦笑混じりに訂正した。そして、口をつぐんだ。彼の頭にまるで重い疑問が乗っかったようだ。

 沈黙は長くなるだろう。

 行方不明のオバ。誰かに襲われたキハラ店長。抜き取られていたカメラ。

 これらを解くには、オバを見つけ、キハラ店長を襲った犯人を捕まえるしかない。

 もう一つ、フジヤにだけ謎が余分にあった。消えたシャルロットの行方だ。

 多くの謎が、紐みたいに絡まって、複雑になる。

 ふいにフジヤが顔をあげた。「そうだ――」

 ベッドからおりて、こっちに近づく。忙しい人だ。

「忘れてた。ドローンが何なのか、調べるつもりだったんだ」

 学習机のイスにフジヤは座った。手を伸ばして、一冊の本を取る。鈍器のような本だった。側面には、英和辞典と書かれている。

 えーと、と呟きながら、ぱらりぱらりと辞書を開く。薄っぺらい紙を捲る音が、なんだか心地良い。

「確か、綴りは、Dから始まって、R、O、N、E……」

 熱心に調べごとをする。顔を目一杯に迫らせていた。

 アルファベットを聞くと、オバが仕上げたケーキを思い出す。

 HATI D。HRP。

 これがどういった意味で、オバは何を伝えたかったのか。じぶんは、どろーんの和訳よりも気になっていた

 紙の音が、そっと止んだ。

「ドロー……ン。ええと、意味は、オスのミツバチ。また、退屈な話をする人。役立たずな人、か」

 ふぅん、と溜め息を吐いて、彼は辞典を閉じた。イスの背もたれに上半身を預ける。ぎし、と軋んだ。

 腕を組んで、「……ミツバチかあ」うんうんと難しい顔をしていた。

 ミツバチ、ミツバチ、と反芻させている。すると、いつの間にか「ハチの巣」に言葉が変わっていた。

「僕がシャルロットを買っていた頃にはもう、店長は襲われていた。僕が店から出たあとじゃなくて、そのまえに――」

 フジヤは、悔しそうに片肘をついた右手で頭を掻いた。

「もうちょっとなんだけどな。あのバイトの顔が思い出せない。くっそ。……思えば変な話だよ。店長が休みなのに、新人らしいバイトが一人で店を営業しているなんて」

 昼間の喫茶店も、入ると調理師が一人だけだった。店長は遅れて登場した。

「ん、バイト? 店長? あああぁっ――」

 彼は爆発したように立ちあがった。反動でイスが、ばたん、と倒れた。

「あの人だ! 間違いない」

 言い方から、フジヤはバイトの顔を思い出せたみたいだ。

「それに、あのケーキのメッセージ。なるほど、そういうことか」

 同時に大変なこと、ケーキの暗号じみた文字の意味を解いたらしかった。

「きっとシャルロットも、あの人が。だとすると、動機は何だ?」

 真剣な顔。フジヤは部屋中をうろうろし始める。

「まさか」とか、「いや違う」などと推理して、仮定を大量に生産している。頭を悩ませているのは明らかだ。

「考えれば考えるほど、辻褄が合ってくるぞ」

 フジヤの中で、何かが繋がろうとしている。

「けど、証拠がない。可能性はあるかもしれない。でも全部が全部考えたとおりだとは思えない」

 随分と弱気な口調だ。

 今にして思えば、フジヤが複数いて、これからの方針を立てているみたいに聞こえた。

「それでも、賭けてみるべきだよな。少しでも可能性があるのなら」

 まるで自分自身に、行動しろと言い聞かせていた。

 机から彼を見る。決意が宿った目が確認できた。強くて、頼りがいのある目だ。

 こっちを向かれて、目が合った。

「幸せのショコラか……」

 手を伸ばしてきた。軽く握り締められた掌から、フジヤの体温が伝わる。

 すぽっと胸ポケットに落とされた。狭苦しい。胸で押さえつけられる感覚は、好かなかった。

 物の、そんな気持ちに、フジヤは気づかない。彼は慌ただしくなった。足音から興奮が感じられた。部屋から飛び出て、階段を踏む。そんな光景が浮かんだ。

「どこか出かけるの?」

 ふと、女性の声が飛んできた。この一言で、彼の勢いの火が少し弱まる。囃子太鼓みたいだった足音が静まる。

「ああ、うん。そうだけど」

「そっか」女の声は思い出したように、「今日は、オバさんの所へ出かけるんだっけ?」

「うん。……誕生日祝ってくれるみたいだから」

「まだ五時過ぎなんだから、お風呂に入ってから行けば?」

「ううん。急いでるの。もう行かなくちゃ」

 彼は早口で伝え、そそくさと動きだす。

「はいはい。でも、あの子の家、今はご両親が不在なんでしょ? 遊びすぎて火なんか使わないようにね」

 火なんか使わないように、ってこの女の人は心配性だ。家の中で花火でもやると思っているのだろうか。

「行ってきます」

 聞いていたのか、いなかったのか、フジヤは早足で家から出た。

 昼と比べて、多少落ち着いてきてはいるが、服越しに日差しの明るみを感じた。優しく吹いた風が、薄いシャツを透る。

 それでも、外は暑い。

 靴音がして、あとから自転車のチェーンの回転する音が鳴った。

 ばたばたと、風がぶつかって服が煽られる。軽快な速度だ。緩むことなく、早々と前進する。目的地がどこかは知らないけど、静かな通り道を進んでいた。

 清々しい気持ち。こんな気分も、思えば初めてだ。主ちゃまはいつも車だからな。

 胸ポケットからでも、人の気配が、ぽつぽつ程度に浮かびあがっているのを感じた。少し進むと、それが喧騒と呼べるところまで膨れあがる。

 やがて、疾走する電車の低い音が、遠くから響いてきた。

 彼が行こうとしている場所が分かった。

 時間が経つと、急停止をした。タイヤの摩擦で、嫌な音が響く。

 フジヤが自転車から降りた。盗られないよう、ちゃんと鍵をかける。靴音が規則正しく聞こえ始めた。

 周囲は雑踏で混み合っている。しかし、フジヤの靴音だけは、どことなく力強かった。


   *** ***


 答えのある場所に辿り着いたみたい。フジヤは息を吸って、吐いた。

 扉を押す。すると、素っ気ない接客の声が飛んできた。

「いらっしゃいませ――」

 低い、静かな声は特徴的だった。相手の姿、顔が、すぐ浮かびあがる。

 細く長い体。痩せて、尖った顎。鋭く、冷たい目つき。喫茶店、ドローンの店長だ。

「お一人さまですか?」

 店長の名前は、ミキマコト。寡黙という、じぶん好みの人間だ。でも、この人からは、危険な匂いがした。

「はい。あ、あの……」。

 フジヤの声は弱々しく、やや震えていた。

「では、お好きな席にどうぞ」

 店長は、言葉をかけられたことに気づかない。

「あの」彼が、もう一度、言う。

「何か?」

 服越しからでも、彼の緊張と不安が伝わる。

「実は、話したいことがあって来たんです」

「話したいこと。私に、ですか?」

「ええ」彼ははっきりと言った。「大事な話です」

 店長は、数秒だけ沈黙を置いた。

「大事な話? ま、いいでしょう。他に客もいないことですし」

 了承される。これに対して、フジヤは何も言わなかった。礼の言葉すらも。

 心の中では、良し、と呟いているかもしれないけど。

「ですが、ここは喫茶店です。席について、何か注文をお願いします」

「……そうですね。そうします」

 お互いに納得して、やっとその場から動く。

 さっと席に着いて、適当に注文を済ませた。

「少々お待ちください」店長は機械的な受け答えをして、その場から離れた。

 彼は、溜め息を吐いた。そして、小言を漏らす。

「ここからだな。肝心なのは。頼むぞ、幸運のショコラ」

 フジヤは、幸運を、胸ポケットにいるじぶんに祈った。

 お守り感覚で、じぶんは持って来られたらしい。

 注文した品が運ばれるまで、時間はかからなかった。

「どうぞ。コーヒーです。ハチミツを垂らして呑んでください」

 男性の声と、陶器の音。

「これで、僕の話を聞いてもらえるんですね」

「そう焦らずに。……少々のお待ちを」

 再度、店長のものらしき靴音が鳴った。それが遠くなる。

 何をするつもりだ?

 すると、店内が若干薄暗くなった気がした。次に、流れていた音楽が停止する。

 やけに静かだ。空気に、重みが増しているようだ。

 周りの家具たちも、これから何が起こるのかと興味を持って、二人の会話に聞き耳を立てているのかもしれない。

 じぶんは、ただただ嫌な予感を覚えていた。

 このまま、無事にここを出られるのか。不安が横切る。

 近くでイスが動いた。フジヤと対面する形で、誰かが腰を落ち着かせたか。

「さて――」

 冷え切った手が、全身を鷲掴みにする。そんな感じがした。

 ミキマコト店長だ。

「今日の営業はもう終いです。窓のブラインドもさげて、表の看板も裏返して、閉店にしました。厨房担当のあいつには、奥で片づけをさせています。ここには私たちしかいません。ゆっくりと、話してください。フジヤさん」

「え。どうして、僕の名前を?」フジヤは訝しんだ声をあげた。

 じぶんも、これは変だぞと思った。フジヤの名前を、どうしてミキマコトが知っているのだろう? 昼間、主ちゃまと話していたのを、聞かれたのかな。いや、違う。主ちゃまは、フジヤと呼ばないんだ。

 つまり、ミキマコトは以前からフジヤのことを知っていた、ということになる。

「ははっ。そんなに不思議に思うほどでもありませんよ。厨房にいるあいつと、君の友達のオバが仲良しでね、姉と妹みたいにたくさん話をするんです。その会話の中に、フジヤさんが頻繁に登場するものですから、私も名前を覚えてしまった、それだけですよ」

 ケータイで撮られた写真も見させてもらいましたよ、と店長は加えた。

「……ああ、それで」フジヤは納得した。

「はい。っと、逸れましたが、私に何のご用で?」

 ここからが、本題だ。

「ハチの巣のことで来ました」

「ハチの巣? そこのケーキ屋のことですか?」

 単刀直入すぎたせいか、ミキマコトは訊き返す。

 フジヤは、はい、と頷いた。

「知っていましたか? ハチの巣の店長、昨日、誰かに襲われたんですよ」

「襲われた?」ミキは、頓狂な声で驚いた。「待ってください。いったい、どういう」

「店の厨房で気を失って倒れていたのを見つけました。頭を強く殴打されているらしかったです。僕は、客としてやって来た人物に不意をつかれて殴られたんじゃないかって思ってます」

「そんな。確か昨日、営業はしていなかったような……」

「いいえ。店はほんのわずかですが営業していました。店長を気絶させたあと、犯人がすぐに店を閉めたんです」

 フジヤは、ここで一度、溜め息を吐いた。

 そのタイミングを見計らったのか、ミキマコトが推理に口を挟んだ。

「なるほど。ところでフジヤさんは、どうして事件と断定するのですか? もしかすると、本当は犯人なんかいなくて、足を滑らせて転んだだけかもしれませんよ」

「カメラです」フジヤはすぐに答えた。

「カメラ?」ミキマコトが疑問符を加えて繰り返した。

「防犯カメラですよ。ハチの巣では、それが普通なら考えもつかない場所にしかけてあったそうです。なのに、カメラは消えていました」

「だから犯人がいる、と。しかし、そのようなカメラが持ち去られたとなると、犯人は、ハチの巣に深く関わったことのある人物となりますね」

 わざとらしい。狙ったような喋り方だ。

 フジヤも、ミキマコトから何かを感じ取ったのだろうか、

「……ええ」遅れて返事をした。

 沈黙の空気が短く流れた。くつくつと、どちらかが含み笑いを浮かべている。

「もういいですよ」ミキマコトだった。「フジヤさんは、私を疑っているのでしょう?」

「……はい」

「つまり、私と、ハチの巣の彼との間に接点がある、そうお考えだ。当然、根拠もあるのでしょう? 聞かせてくれますか」

 彼はどこか愉快げに口調を強めた。

 じぶんの中にある悪い予感が、ぐるぐると掻き回される。

「ハチの巣の店長には、息子が一人いると聞きました。父親は随分と厳しい人だったみたいです。息子はそんな父親に嫌気をさしたのか、二年まえに家を飛び出しました。それが、あなたです」

 相手の勢いに気圧されまいと、フジヤも強く出た。

「私が、あの人の息子?」

「家を出たあなたは商店街に戻ってきた。でも父親の店には帰らなかった。わざと父親の店の前で喫茶店を開業させたんです。喫茶店の名前も、ハチの巣に合わせるように、オスバチという意味のドローンと名づけて」

「どうやら私は、自分がつけた喫茶店の名前のせいで、犯人だと疑われたわけですね。おまけに動機も、厳しくされたからその仕返し、復讐だと安易に決めつけられたわけだ――」

 まるで、フジヤをばかにした言いぐさだ。

「実に暴論ですが、私を疑ってしまうのも無理もない」

 全く臆した気配を感じさせない。それどころか、余裕を背負っている。口もとを歪めた、店長の顔が思い浮かんだ。

「しかし、私が、彼の息子でないことを証明できたなら、その推理は崩れますね――」

 フジヤは、言葉を切らしていた。青ざめている気がする。

「そんなこと……」できるはずがない。と、彼は言えなかった。

「本当、せっかく推理をしてもらって申し訳ないのですが、私は、あの人の息子ではない。

これを見てください」

「え……」フジヤが、凍りついたように身を硬直させた。

「保険証です。名前を見てください。ハチの巣の店長とはまた違う名字です」

 そうだ。ハチの巣の店長さんは、キハラが名字だ。でも、フジヤが疑っているのは、ミキマコト。

 叩きつけられた事実。フジヤは唇を落としたように、何も言えなくなっている。心臓の鼓動音が聞こえるほどの沈黙。敗北を悟っているようにも思える。

「嘘、だ」フジヤは声を震わせ、絞り出すように言った。「僕は、思い出したんだぞ。昨日、あなたがハチの巣にいたのを」

 か細いわりに、強い確信がこもっていた。

「……それは」

 ミキマコトが、困った声をあげる。

「人違いです」

 答えたのは、ミキマコトではなかった。

 もちろん、フジヤの声でもない。別の誰か。女性の掠れた声だった。囁くような、気の弱そうな。あっ、と思い出した。厨房にいたあの人だ。

 突然現れた、予想外の人物。男二人は喋るのを忘れてしまっていた。

「なっ、どうして来たんだ」先に声を出したのは、店長の方だった。

「マコ店長。すいません、ちょっとだけ聞かせてもらいました――」

 女はまず、話に耳を傾けていたことを詫びた。「そしたら、つい黙っていられなくなっちゃって」

「いや、それは、かまわんが」ミキマコトは、優しく許した。「しかしだね」

「ねえ、マコ店長。手っ取り早く、あれを見せたらどう? そうでもしないと、疑いなんて晴れないだろうし」

 どきん、とフジヤの胸が強く鳴ったのを感じた。

 あれって、何だ?

「そうだな」仕方ない、といったふうにミキマコトは低い声を吐いた。

「何ですか?」怖ず怖ずとフジヤが訊ねる。

「少々きついかもしれないが、疑いを晴らすためだ。覚悟してくれよ」

 彼が何を出すつもりなのか、見当もつかない。

「ひっ」フジヤは驚愕の声をあげた。

 どうしたのだろう。何を見せられたんだ?

「驚かせてすまない。二十五年まえ、五歳のころに体験した、車の事故のケガさ」ミキマコトは暗い口調のまま、「おかげで自動車免許証はもちろん、私がウエイターやっているのもこいつのせい。調理の道も閉ざされてしまったわけ。重い物を持つだけで両手が震えてしまってね」

 じぶんには、その傷が見えない。だから作り物かもしれない、一瞬そう考えた。でも、フジヤの口を閉じさせているほどだ。傷は本物なんだろう。

「どう、これで人を襲うなんて無理でしょ」

 気の弱そうだった彼女が、強く出た。

「疑いは晴れたでしょうか?」ミキマコトも続く。

 二人が、チェックメイトをかけてきた。

 フジヤはどう答えるか。何も言えなければ、それは負けを意味する。

 首を横に振るか。それとも、推理が間違っていたと認めるか。

 フジヤは沈黙した。

 長く、長く考え返事をした。はい、と。それは消え入りそうなくらい小さな声だった。

 スッキリしていない。思いどおりにならない歯痒さ。もどかしさ。これらを、皮膚から滲み出していた。彼の思いが、静電気みたいに伝わる。

 肩を落とし、頭を垂らす。そんな悄然とした姿が見えた気がした。唇を噛んで、悔しがっているだろう。

「帰ります!」唐突に腰をあげた。「お会計、お願いします」

 ぎくしゃくした動作で歩く。

 すると、後ろから、

「お代はいただけません。コーヒー、一口も呑んでいないからね」

 言われると、フジヤは黙ったまま店を出た。その場から逃げてるように思えた。


*** ***

 

 家を出た時の力強さは、どこにいったのか。

 そう感じさせるほど、自転車の速度は遅い。ペダルを踏む力が弱いからだ。それとも、敗北という重しを背負っているからか。鈍すぎて、今にも傾き、倒れそうだ。

 夜の帳もおりたせいか、夏の夜特有の、どろりとした空気は濃度を増していた。賑やかだった通りは消えかかった火みたい。フジヤと同じで、どこか寂しげだった。

 自信があった推理を否定されて、苦汁を飲まされたのだ。

 落ち込むのも、無理もない。

「あの店長、本当に犯人じゃなかったのかな。いいや、ハチの巣で確かに見たんだ。でも、あのケガは本物だった。どういうことなんだろうか」

 彼はそれからも、めそめそと泣くようだった。

 あいつが犯人だ。いやでも、違うかも。などとそればかりだ。

 多くの人がいた場所から、どんどん遠ざかる。比例するように、夜が深くなっている気がした。コーヒーに苦みが増すように。

「ん――」

 自転車を、きいぃぃっと叫ばせて急停止させる。すると彼は、その場で、サドルから尻を浮かせたようだった。自転車を固定させたらしく、二本足で歩き始めた。

 何だろう?

「おかしいな」と彼は言った。「家の前に誰かがいた気がしたんだけど。気のせいだったかな――」

 家の前? 

「もしかして、中か?」

 がたがたと音が鳴る。これは、ガラス戸か。

 てことは、もしかしてオバ家なのか。

 がたがた、がたがた。彼からすれば、音が出るのを抑えているつもりだろう。でも、ガラス戸は周囲に良く響いた。

 音が止むと、今度は死のような静寂に包まれる。

 フジヤが玄関戸を開けたんだと分かった。空気が重い。チョコレートを融かしたみたいだ。その液体に、身を浸した感覚になった。

 感覚が、フジヤは家に入ったのだと、教えてくれた。明かりは、ない。真っ暗だ。

 彼が腰を曲げる。靴を脱いでいるんだ。

 控えめに、彼の足が畳に沈んだ。みし。ぎし。爪先立ちでゆっくりと進んでいるみたいだ。けど、どうしても、足もとから気味の悪い音が鳴る。

 それにしても、家にあがり込もうとよくぞ決めてくれた。気が動転しているようにしか思えない。

 本当は人影なんて見ていないんじゃ。などと疑わしく思う。

 ぎし。

 家にあがり込んで、ちょうど十歩目。空気に変化が訪れた。

 その些細な変化に、フジヤも気づいたらしい。反射的に足を止めた。咄嗟に、身構えようとしたらしい。けど、遅かった。何者かに、彼の両肩はグッと掴まれた。

「動くな」刃のような鋭い声。

 でも、この声って……!

「ぎゃ!」短い悲鳴。

 同時に、じぶんは浮遊感を味わった。これは落下しているんだ。

 彼の上半身が崩れた。腰を抜かしたんだ。そう察した瞬間、どすん、と鈍い物音がした。

 おかげで、『きゃあ!』じぶんも恥ずかしい声を出してしまった。

 いったいどんな倒れ方をしたんだ。じぶんは、フジヤの胸ポケットからするりと抜けた。

 ぽとっ、と着地した場所は、畳の上。

 周囲は、物を焦がしたような黒煙で充満されているようだった。暗すぎる。視界を閉ざすような黒。

 そこに、ぼうっと見えたのは、人の形。ずっと上から、二つの目玉がぎょろりとこっちを見ていた。

「あら、誰かと思えば、坊やでしたの?」

 艶やかな声に懐かしさが湧く。

『主ちゃま!』飛びつきたいほど、じぶんは嬉しさで一杯になった。

 片割れのあいつも、彼女の右耳にいる。挨拶するように揺らいでいた。

「カ、カゲノさん。なんでここに」

 フジヤは顎をあげて、主ちゃまに釘づけだった。この様子だと、幸せのショコラの存在が、すでに頭にないのかも。

 そんな時、ある疑念が浮かびあがる。

「家でじっとしていなさいって、占いで遠回しに言ったつもりでしたのに」

 ぼそり、と早口で主ちゃまが呟いた。

 あれ? じぶん、もしかして気づかれてない?

「え、何か言いました?」

 あれ、から始まった悪い予感。それは的中していた。

「いいえ」ほほほ、と笑ってとぼける。「ところで、坊やは、どうしてここへ?」

「僕はですね……。オバちゃんを助けたくて、全部分かった気になったんだけど上手くいかな……んぐっ!」

 フジヤの唇が突然ふさがれた。というより主ちゃまが両手で、彼の頭と顎を挟んで、口を閉じさせたのだ。

「やっぱりごめんなさい。少し静かにしてくださる?」

 主ちゃまは妖しく囁いた。

「ナイトがお姫さまを助けるお話は、面白そうですが、それは後日、コーヒーと、甘ぁいケーキをいただきながら、ゆっくりと興じたいですわ」

 ほほほ。と不気味な笑い声が闇に響いた。

 フジヤはじたばたし、身を強くよじった。

 彼の大きな体が、細い腕からやっと抜けた。

「い、いったい何を?」

「落ち着いて。そして、感覚をナイフのように研ぎ澄ますの。鋭く、鋭く。それを玄関へ集中させなさい。そろそろやって来ますから」

「来る? 来るって、何が」顔を歪ませて、問う。

「しぃ――」

 主ちゃまは人差し指を立てる。そして、フジヤの口に当てた。すると彼の唇は、不思議と動かなくなる。

「決まっているでしょ。坊やも知りたがっている人物。犯人ですわ」

「は、犯人? ど、どうして、何で、この家に」

 フジヤは混乱していた。じぶんも、彼と同じ気持ちだ。

 その時。通常なら聞こえないだろう、そんな音が微かだけど、した。

「あ、足音……」フジヤが漏らす。「本当に来た」

 誰なのか確定はできない。けど、主ちゃまはこの事態を予測していたんだろう。

「とうとう、来ましたわね。待っていたかいがありましたわ。さ、早く隣の部屋へ」

 言って、主ちゃまがフジヤの腕を掴む。すぐ横の襖を開けて、隣の、オバの部屋へ放り込む。続いて、主ちゃま自身も身を潜めた。

じぶんだけが、置き去りにされる。暗い、夜の海の底にいるみたいだ。

すすす、と内側から戸は閉められていた。それが途中で止まる。隙間がわずかだが残されていた。

 くっつき切らない二枚の戸。奥から、声がする。こそこそと囁き合うような。

「この部屋に来て、何をするつもりなんですか?」

 恐る恐る、フジヤが訊ねた。

「決まっているじゃない。相手の虚を突いて、捕まえますのよ」

「捕まえる? どうやって」

「相手は、こちらに人がいることを知らない。そう思ってあがり込んでくる。この好機を利用し、奇襲をかけますの」

 やる気満々の、主ちゃま。だけど、その奇襲作戦は無理だ。

「あ、あの、それは、やばいですよ」

「どうして?」

 フジヤが言いづらそうに口を開く。

「ぼ、僕、靴を、脱いだ靴を玄関に置いたままなんです。それに自転車を家の前で停めていて……」

 言葉を零す度に、フジヤの体が萎む。そう思わせるほど、力がなかった。

「なるほど。それは困りましたわ。相手は、あたくしたちの存在に気づくでしょうね。警戒も当然――」

 主ちゃまが、連ねようとしていた言葉を切る。

 じぶんも、はっと気づく。さっきまで聞こえていた足音がなくなっていた。

 引き返した、とは思えなかった。とうとう家にあがり込んだんだ。さっき主ちゃまが閉めた戸の向こうに、誰かがいる。

「ど、どうしましょう?」

「狼狽えないで。とにかく、坊やは、家の外へ出て、警察へ電話をかけて頂戴」

 主ちゃまの口から遂に出た、警察の言葉。そして、言葉を足した。

「そ、そんなぁ」

「心配しなくても、坊やが外へ出られる方法なら、考えてありますわよ」

 簡単そうに言う。でも、本当に大丈夫なのか。追い詰められている状態なのに。

 玄関の方から明らかに人の気配。それは鉛みたいに重い。

 主ちゃまたちも、気がついたか。どちらかが、唾を呑んだ。

 すっ、と一枚の戸が横に滑る。人影が、ぬっと姿を現す。呻くような息遣いが聞こえた。闇に浮かぶ、そいつの顔はまだ確認できない。影は、慎重だった。中に誰もいないことを確認して、一歩を踏み出した。

 ここ、この一間に入り込んだ。

 人間の足が、じぶんの目の前を、ゆっくりと通過した。

 その人物を見て、声をあげずにはいられなかった。

『こ、この人……!』

 心の中で、何で? と疑問が浮かびあがる。

 ばぁん。何かを叩きつける音がした。オバの部屋の戸が開いたんだ。

 奥から、人の形をした何かが飛び出した。妖しげなオーラを放つ。俊敏で、ネコみたいな、しなやかな影。それが闖入者にしがみついた。

 主ちゃま!

「うあっ」相手は驚きのあまり、声をあげた。

「今ですわ!」主ちゃまが叫んだ。

 それは合図だった。オバの部屋から、もう一人、飛び出る。脱兎の如く。でも、ウサギは太っていた。どたどたと鈍い音を立てて逃げる。

 フジヤだった。

「ああ……」

 相手が、フジヤの存在に驚く。いや、二人目がいた、ということにだ。

 過ぎ去ろうとする彼の姿に目を奪われる。そして無意識にか、手を伸ばそうとした。が、寸前のところで届かない。

 主ちゃまは、その一瞬を逃さなかった。二本の腕は細いが、器用に扱う。素早く、相手の腕を掴んで逆さにねじりあげた。そして背後に回り込む。

 身動き、力を即座に封じることができた。

「くっ、離せ!」

 暴れて、逃げようとする。体を左右に激しく振るから、物音が鳴る。

 そのせいで、フジヤに不安が生じた。数歩先にいる彼は、足を止めようとしていた。

「立ち止まっては、だめ!」主ちゃまが叫んだ。「行きなさい!」

 フジヤは足を止めてしまった。でも、振り返らなかった。

「あたくしなら大丈夫。それに走るのが苦手なの。だから、坊や、早く警察へ連絡して。これはあなたにしか、できないことなのよ」

 主ちゃまの張った声。フジヤは、背中を押されたみたいに動きだす。彼の体がこの家から出て行く。

 相手の抵抗はまだ続いた。が、その度に主ちゃまに、腕を軋ませられる。苦痛に顔を歪める。はあはあと、荒い呼吸が両肩を上下に揺らす。

「ほほほ。店の奥で静かに作業をしていたあなたにも、こんな歪んだ面がありましたのね」

「……」

 主ちゃまは唇を、相手の耳に寄せた。

「ねえ、キハラミキさん」

 嘲笑を含めて、さらりとその名を口にする。知っていて当然、といった感じだ。

 すると相手の体が、びくん、と震えた。結った後ろ髪が、力なく揺れる。その背格好は、喫茶店で見た、彼女だった。

 キハラ、ということは、彼女が肉親なのか。ハチの巣の店長の。息子ではなく、娘だったんだ。フジヤの推理は、この時点で間違っていたんだ。

 色々と、衝撃が走る。

「あたくしが、あなたの名前をどうして知っているか、驚きでしょう? 簡単ですわ。あたくし、あなたを知っていますの。キハラミキ。現在二十四、いえ、昨日で二十五歳になった、でしたわね。幼いころから父親の厳しい仕事を手伝わされながらも、中学、高校を無事卒業……」

 滔々と、キハラミキの履歴を口から流す。

 当のキハラミキは、唇を噛みしめていた。声を出そうとしない。まるで感情を殺しているようだった。あるいは、何かを考えている、か。

 しかし、口を開くまでに時間はかからなかった。

「父が話していた、昔の仲間……やっぱり、あんたのことだったんだ。店で一目見た時から、そう思っていたよ」

 低く、特徴のある、掠れ声。

「ほほほ。気づいていらしたの。察しがいいわね」

「だけど分からない。逆にあんたは、いつ気づいたんだ? 私が、あいつの娘だって」

 店でフジヤと話していた時とは、別人だ。剣みたいな鋭い目つきで、主ちゃまを睨む。

「ほほほ。そうねえ――」

 子供を相手にするような笑い声。臆する素振りもなく、悠然としていた。

「お店でシュークリームを口にした時ですわ。ほほほ。相当オヤジに、作り方を仕込まれたようね。アレンジを加え、調理方法を変えたみたいですけど、教わって染みついた癖は、消し去れなかったようですわね」

「……忌々しい。あいつの作りが未だに残っていたなんて」

 細々とした恨めしい物言いだ。

「ほほほ。悔しがっても、手遅れですわよ。坊やが警察を呼んでくれてますからね」

「なら、警察を呼ばれるまえに、阻止するわ」

 キハラが腕に力を込める。主ちゃまは若干、それに負けていた。

 やがて、主ちゃまの腕を押しのけた。キハラは背を向け、玄関へ走り出した。フジヤを追うつもりだ。

「仮に阻止できたとしても、あなたに逃げ場はありませんわ――」

 キハラの体が、静止した。

「だって、救急車を呼んだでしょ?」

 キハラの力が、わなわなと抜けていく。明らかな動揺。体は震えていた。今にも、膝が折れてしまいそうだ。

 待てよ。救急車……? それって、ハチの巣にやってきた、救急車?

 キハラは、ぐっと黙り込んでいた。

 主ちゃまのペースに呑まれないようにしている。でも、その行為が肯定を表しているように感じた。

「未だに自分でも不思議に思っているでしょ? 憎かったオヤジを殴り倒してやったのに、気持ち良さなんて、虚しいほど皆無。いいえ、それだけではなく、人形みたいに倒れた父親の姿を見て、冷や汗で服が濡れたのではなくて?」

 まるで、その出来事を遠くから覗いていたかのようだ。

「結果、病院に、父が倒れていると連絡を入れてしまった。自分が捕まるかもしれないのに」

 キハラミキの心の中にある文字の連なりを、そのまま読みあげているみたいだった。

「そ、そんなことまで」

 キハラが、閉ざしていた唇を割った。主ちゃまの方へ振り返る。

「親子の血というのは、そう易々と消せるものではないですのよ――」

 主ちゃまが囁いた。腕をあげ、細い人差し指を向けた。

「あなたの敗因は、抜き取った店のカメラではなく、親子の血。そして中途半端な覚悟ですわ!」

 キハラミキが歯を軋ませた。鬼女のような形相に、顔が歪む。

「親子の血……?」拳を強く握ったのが分かった。

「ええ。それに、その瞳、本当にオヤジにそっくりですわ。店のことを考えて、必死になっていた、あいつの瞳に。やはり血は争えないわね」

「父と……、いや、あいつとの間に、親子の縁など、あるものかぁ!」

 静かに萎んでいた殺意が、狂気が、一気に膨張し、周囲の空気を一変させた。あれほど綺麗だった顔立ちが、著しいほど変化していた。憎悪に溺れ、今では醜い鬼だ。

 ずんっ、と力強く、主ちゃまに一歩近づく。

 キハラの肉体から攻撃性が溢れ、あちこちに放たれる。闇で満たされた室内が、危険な色に染められていた。

 ぬめっとした液体を思わせる、おぞましい気配。それがゆっくりと視界全体に行き渡る。

 しかし主ちゃまの冷静さは一貫していた。取り乱すどころか、相手の殺意すら物ともしない。そんな余裕の態度が、決め手となったのか、キハラの膝に力がぐっと溜まった。そして飛びかかった。

『きゃあああああ!』

 じぶんは取り乱してしまい、かつてない絶叫をあげてしまっていた。チョコである自分に、こんな感情があったのだと、初めて知った。

 完璧で、幾度となく危機的状況を軽々と回避してきた、苦の文字を一切知らない主ちゃまが、痛い思いをする。

 その光景を想像するだけで、恐ろしくて、苦しくなる。視界を遮断したい。意識を遮断させたい。

 でも、それは無理だ。じぶんには、見る、考える、の二つしか行動ができない。

『え、これは……』

 目の前の光景に、驚くしかなかった。何が起こったのか、理解できなかった。

「ほほほ。上手く誘いに乗ってくれて、助かりましたわ」

 先ほどよりもずっと強く、キハラは、主ちゃまに羽交い締めにされて、体の自由を奪われていた。足掻こうとするが、今度は抜け出せないようだ。

「もう、逃がしませんわよ。つまり、ゲームオーバーですわ」

 にんまりと、口もとを悪魔みたいに歪める。

「……どうかしら? こっちだって、簡単に終わるつもりはないよ」

 苦し紛れのものか。それとも秘策があるのか。キハラは頭を垂らした状態で、どこか強気な発言をした。

「ほほほ。ゲームを続けたいなら、コインを入れてコンティニューするしかありませんわ。でも残念ながら、あなたにはそのコインがない」

 じぶんも、主ちゃまと同じ考えだ。キハラに挽回は無理だと、決めつけていた。

 それがいけなかったのか。

 気がつけば、誰かが近づいてきていた。幽霊のような透明な存在感で。

 そいつは、すでに玄関をあがっている。

 フジヤが帰ってきた、ではなさそうだ。醸し出す雰囲気が違っていた。

 空気が一気に張り詰める。その方へ、視線を流す。

 室内の闇よりもずっと濃い色をした人の形。黒の背景に、黒の折り紙を貼ったよう。

「残念だったな。ゲームはもう少し続く。あんたの負けでエンドロールに突入するんだ」

 くつくつと低く笑っている。

 暗闇に良く通る声。聞き覚えがあり、考えるより早く、彼の顔が浮かんできた。ドローンで話をしていた、ミキマコトの顔だ。

 まさか、と思いつつ、闇に目を凝らす。曖昧だった姿が、徐々にはっきりとしていく。

『ふ、二人?』

 ひょろっと細長いもの。もう一つは、太く丸っこい体つきをしていた。

「あらら」残念そうな、溜め息混じりの声。「やはり、二人組でしたか」

「マコ店長」キハラが安堵の声をあげる。

「と、いうことは、捕まってしまいましたのね」

 言いながら、肩を竦める。

 ミキマコトとフジヤが、すぐそこに立っていた。

 でも、ただ突っ立っているんじゃなかった。ミキは細い腕で、フジヤの襟を掴んでいた。

 フジヤの身体に、ケガなどはなさそうだった。けど、動きを封じられていたようだ。彼は申し訳なさそうに顔を伏せている。肩を落として、悄然としていた。動こうとすらしない。

「ああ。こいつ、何も知らずに、家の外へ飛び出て来たからな。呆気なく捕まえることができたよ」

 つまり、警察に助けを呼べていないのか。

 それよりもどうして、彼は逃げようとしないんだ?

 襟を掴まれていたって、振り払えるはずだ。ミキマコトには握力がないんだ。

 そこまで彼は、腑抜け人間なのか。

 いや、動けない理由は、確かにあった。

 答えは、ミキの手の中にあった。

 ずっしりと重そうで、黒く不吉な物体。

 拳銃に似た、物恐ろしさ。

 それが、フジヤの横っ腹に添えられていた。

 しかし、形状は、拳銃とは違う。タバコの箱を少しだけ長くしたような感じだ。シンプルで、決して大きくはない。でも、氷づけにされるような威圧感を持っていた。

 その名称を、思い出した。

「なるほど。そのスタンガンで脅して、家の中まで押し戻したのね」

 スタンガン。あの黒い塊の内部で電圧を発生させて、相手の体に電流を流し込む道具だ。実物を目の当たりにしたのは初めてだ。ドラマや、聞いた話だと、神経網を刺激して、体の制御が利かなくなるらしい。

「そんなところだな」

 主ちゃまの顔つきもさすがに険しくなる。

 それにしても、何とも奇妙な光景だ。

 キハラと、ミキ。主ちゃまと、フジヤ。四人が、行方不明中のオバの家に集まっている。

 主ちゃまは、犯人が来ることを予測していた。すると本当に、キハラとミキが訪れた。この家に。

 一つの仮定が、浮かびあがる。油のように、しつこくまとわりつく。

 いや、そんなことは、まずないだろう。思い浮かんだ考えを振り払う。

「でも――」

 主ちゃまが口を開く。気がつけば、いつもの笑みを見せていた。追い込まれた状況には似合わない、強い表情。美しく、凛々しいその姿に、つい目を奪われてしまった。酔うように思考が鈍る。

「そうやって物騒な物を使って凄味を利かせていますけど、こちらにも人質がいることを――」

 言いながら、キハラの背中を乱暴に押した。人質を見せつけるように。一歩、前に出た。

「忘れないで、くださいね。ほほほ」

「ふん」ミキマコトは強気に鼻を鳴らした。「忘れていないさ。ただ、そいつがどうなろうと俺にダメージはない」

「では、両手両足をへし折ってやりますわよ」

 本気か、それとも脅しか?

「好きにすればいい。言ってしまうが、俺はそいつを利用しただけにすぎんのだからな」

 ミキの言葉は、冷たい剣みたいだった。

「利用。なるほど」話を聞いて、主ちゃまは頷いた。「ですから、キハラミキ、なのね――」

 言葉の意味に気づいたのか。キハラミキの肩がぴくりと揺れた。

「察するところ、あなたが、キハラの娘に関わった理由は、ハチの巣の情報と、店そのものに近づくため」

 的を射る。それほどの答えだったのか。ミキと、キハラは、この推測に口を挟まない。

 主ちゃまは、続けた。

「その答えは、ずばり復讐ですわ」

 現実味を帯びない、虚構の世界ならではの単語だ。

「ふ、復讐?」

 発してからフジヤの体が、ぶるっと震えた。不穏な言葉の力がそうさせたみたいだ。

「坊やは気づいていたかしら? ミキマコトの腕。彼ね、ケガをしていますのよ――」

 フジヤの視線が、自然と、ミキの腕に流れた。

 夏には不似合いの、長袖。それで隠された、腕の傷痕。

「そのケガが、オヤジを襲った動機」主ちゃまが、口もとを歪めた。

 知っていますのよ、と言いたげだった。

 ……待てよ。主ちゃま、傷のことをどうして知っているんだ?

「随分と、詳しそうだな」

「ええ。詳しいですわよ。事故のことなんかもね」

「事故……」フジヤが呟く。

 喫茶店でした会話のやり取りを思い出したのだろうか。

「見ただろ? 俺の両腕の傷を。あれはな、キハラのくそ野郎にやられたもんなんだよ」

 右足で、一発、地団駄を踏んだ。

 ミキは顔を紅潮させて、狂ったように喚く。

「奴が事故を起こしてくれたせいで、俺の腕は……! くそ!」

 さらに一発。さっきよりも強く踏み鳴らされた。

 じぶんの中で、何かが蔓延する。

 まずい。今の彼なら、どんな行動を起こしても不思議じゃない。そんな嫌な予感しかできなくなった。

 主ちゃまも、警戒の体勢に入った。

「だ、だから」フジヤが声を震わせながら、発言した。「襲ったのですか。あの、ハチの巣の店長さんを。オ、オバちゃんを……」

 彼は怒りを露わにしていた。か細いロウソクの火のように、弱々しいが。しっかりと、ミキから目を逸らさないでいた。

 そんなフジヤを、ミキは鼻で笑った。

「そうさ」同時に、彼の右腕が、ぴくりと動いた。「こうやって襲ってやったんだよ!」

 直後。

 眩しいほどの青白い光が瞬いた。室内に充満した、泥沼に近い、濃い闇を掻き消すほどの激しい閃光。そして、栗が火の中で爆ぜたような音が響いた。

 スタンガンだ。

 送り込まれた電流に、フジヤが苦しむ……。そんな光景が鮮明に浮かびあがる。

 もうだめだと、絶望した。

 ところが、それは杞憂だった。

 フジヤは、紙一重で避けることができていた。後ろから引っ張られたように、さがった。

 いつもは鈍そうな、そんな彼が、不意の一撃に対応できたことに驚いた。

 何はともあれ、フジヤはミキから離れられたんだ。もう一度、警察に助けを求めることができる。

 でも、実際は少し違っていた。反射的にミキから飛び退いたんじゃない。フジヤの腕を、主ちゃまが引っ張ったんだ。

 キハラから手を離し、拘束を解いてしまった主ちゃまの姿が、そう思わせた。

 自由の身となったキハラは、走るネズミのように、ミキの横まで逃げた。

 キハラが、ミキと並んでいる。その光景を見て、じぶんはやっと気づいた。

 ミキの目的は、フジヤにスタンガンを撃つことじゃなかった。狙いは、主ちゃまの体を動かすことだったんだ。

 身動きが封じられていたキハラを助けるため。

 思惑どおりにことが上手くいったからか、ミキの顔に安堵感があった。キハラの無事を、横目で確認していた。

 キハラのことを荷物だと、冷酷な言葉で言っていたのは、演技だったんだ。

 主ちゃまから視線を逸らさずに、「体は動くか?」キハラに訊ねた。

 彼女は、ミキの顔を一瞥し、ゆっくりと頷く。ひゅーひゅーと掠れた吐息を聞かせた。

「そうか。なら、次の段階に移るぞ」

 次の段階? 何の話をしているんだ。悪い予感しかしない。

「何をするつもりなのかしら?」

 そして、悪い予感ほど当たるもんなんだと、彼の次の言葉を聞いて痛感した。

「ふふ。何の役にも立たんガキを、やっとの思いで取り戻したところ悪いが、あんたらには眠ってもらう。当然、こいつでね――」

 躊躇いの欠片もない言葉。そして彼の右手から、青白い電流が発光された。

 主ちゃまが、腰を低くして身構えた。

「おお怖い怖い。俺に力がないことを知っているから、奪おうとしているな。でも、残念」

 ミキは笑って、右手に持つ黒いそれを隣にいるキハラへ回した。おまえがやれ、ミキの目が彼女に命令していた。

 受け取ったキハラ。震えはしなかったものの、手には、コゲみたいな不安がこびりついているようだった。

 自らの手で、試しに電流を放つ。

「分かった。任せて」

「無闇に扱うなよ。下手をして奪われたら、終わりだからな」

「大丈夫」

 落ち着き、整った口調。

 キハラは、ナイフを構えるような格好で、スタンガンを標的に向けた。そろりそろりと、摺り足で迫る。ゆっくりとした動作は慎重すぎるほどで、わずかな隙さえ与えないつもりらしい。

 主ちゃまも、眉一つ動かさないほど集中していた。眼光を刃の如く鋭くして、チャンスを窺っていた。

 フジヤは、今にも発狂してしまいそうだった。

 距離は、時間の経過に比例して縮む。

「うわああああ!」

 迫る恐怖に、フジヤは耐えられなかったようだ。叫び声をあげて、キハラの脇をくぐろうと飛び出した。

 咄嗟の行動だったが、キハラには、ハエを叩くより簡単だったらしい。

 どこから電気を流されたのか、フジヤは心臓麻痺でも起こしたかのように、太い体をぐにゃりと崩した。

 倒れゆくその様を、キハラは見開いた目で見届ける。

 どさり、と重く、鈍い音がした。

「さて、残るのは」

 ようやくキハラが頭をあげた。

 だがこの時、キハラは油断していた。逃げようとしたフジヤに気を取られ過ぎていた。

 わずか二秒にも満たないが、主ちゃまには、好機だったに違いない。ネコ並の俊敏さを活かして、音も立てずにキハラ目がけて突っ込んだ。

「くっ、ぅ!」

「お、おい……!」

 驚きのあまり、キハラは反応できず、体を硬直させてしまったようだ。それは、ミキマコトもだった。

 いける。キハラからスタンガンを奪い取れる。……いける!

 遅れて、キハラの右手が動いた。スタンガンの先端を光らせながら、無我夢中で主ちゃまに突きつけようとする。

 しかし、主ちゃまの、冷静で精悍な目つきを見れば分かる。相手の腕の素早さと軌道を、見切れていたようだ。

 襲いかかる右腕に対し、主ちゃまは左腕を伸ばした。白く透明感のある左手の甲が、キハラの悪意に満ちた右手首に触れ、内側から外側へ払いのけようとした。

 これで、スタンガンという脅威を拭い去ることができる。じぶんの中で、それはもう決定されていた。

 が、どうしたことか、その展開は覆されてしまっていた。

 青白い光が瞬いて、フジヤに続き、主ちゃまの痩躯が、脆く崩れる。

 視界に映る光景に、じぶんは納得できなかった。

「一瞬、ひやっとさせられたが、これで一安心だな」ミキが笑みを零す。

 一方、キハラは、長い安堵の息を吐いた。声の出し方を忘れてしまったように、呼吸が荒い。

 緊張と、警戒心が一気に緩んだみたい。二人の体は、空気の抜けた風船みたいだった。

 その分、不安と絶望が、じぶんに注ぎ込まれた気がした。膨れた感情の中に、希望の文字はなかった。

「ほほほ。随分と、安心されているようですわね」

 息も切れ切れで、発言も苦しそう。なのに、セリフはどこか不敵で、唇に冷笑を浮かべていた。主ちゃまにはダメージが蓄積されないのか。と思い込んでしまうほどだった。

 敗者が作る顔じゃない。何か企んでいる。この危機的状況から抜け出すつもりの顔だ。

 有利なはずのミキでさえ、今の主ちゃまには、不思議で納得がいかなそうだった。

「驚きだな。スタンガンってのは、威力が強くない限り、マンガやドラマのようにあっさりと気絶させられないもんなんだが、それでもそこまで流暢に舌を動かせるとはな」

 じゃあ、フジヤは、当たり所が悪かったのか。ぴくりとも動かない。

「あたくしからすれば、スタンガンを手にしているあなた方に、驚きですわ」

 言葉最後に、ほほほ、と主ちゃまが薄く微笑む。

「何か知らんが、気に入らないな。仕方ない。少しは怖がらせるためにも、教えてやろう。おまえたちがこれからどうなるのか」

「ぜひ、お聞きしたいですわ」

「おまえたちは、この家と一緒に燃えることになっている。結果、仲良く灰になって、あの世行きだ」

 ミキは役者のように両手を広げて、

「新聞に載った内容はこうだ。両親のいない間に。自宅が全焼。崩れた瓦礫の底から子供二名と大人一名が死体として発見される。誕生日会ではしゃぎ、誤って家に火を点けてしまったと思われる、とね」

 淡々と並べられる冷酷な言葉。じぶんは心が痺れたように、物事が考えられなくなっていた。

「それは、大変ですわね」

 主ちゃまは、こんな時まで冷静だ。

「幸いこの家にはバースデイ用のケーキがある。誕生日を祝っていたとアピールさせるため、一緒に焼いてやるさ」

「それはけっこうですが、もう一人、足りませんわよ。瓦礫の底から子供が二人、出てくるのでしょう?」

 主ちゃまは何を考えているのだろう。

「オバのことか? 安心しろ。すぐここへ連れて来てやるさ。キハラくん、オバを連れてきてくれ。ただ油断するなよ。あいつは暴れ馬だからな」

「知っているよ。昨日も縛りあげるのに苦労したから」

 会話から察するところ、オバも、体の自由を奪われているらしい。そして、この家のどこかに隠しているみたい。昼に探した時、少女の姿は見当たらなかった。簡単な家捜しだったから、見つけられなかっただけだろうか。

「うむ。なら急ごう。くくく。これでようやく、長かった面倒がすべて片づく」

 唇をくいっと歪め、ミキが妖しく笑う。崩れたその顔に、ハンサムの文字は欠片もない。あるのはただならぬ狂気。本当にこんな人が、喫茶店を経営して、人に食べ物や飲み物を与えていたのか。そう考えると、少しばかり悲しくなった。

 キハラは、スタンガンをミキに渡した。そして、玄関とは真逆の、奥の戸を開けた。

 先にあるのは、フロ、トイレ、台所だけ。これらのどこかにオバが、隠されていた、ということになる。いや、もう考えたって意味がない。みんな焼かれて終わってしまうんだ。

「マコ!」

 絶叫と言えるくらいの、大声。キハラが慌てて戻ってきた。

 どうしたのだろう?

 彼女の様子から、ただならぬ事態を感じたのか、ミキは解いていた警戒を再び戻した。

「どうした?」緊迫した声。

 ミキに問われ、キハラは上擦った声で、ゆっくりと答えた。

「オバが、いない……!」

 直後、ミキの顔色はさあっと青くなった。捕まえて、自由を奪っていたはずのオバが、いつの間にか逃げだしていた。

「ど、どうしよう」

 キハラは泣き出しそうな子供みたいに狼狽える。

「待て。慌てるな。まだ、そう遠くへは行っていないかもしれない。今すぐ探し……」

 その時だ。

 地響きがした。大太鼓を激しく連打するような轟音に、ミキは反射的に言動を閉ざした。彼だけではない。キハラも、驚きのあまり唇と体を硬直させたようだ。

 ただ一人、主ちゃまだけ、当然だと言わんばかりの涼しげな、穏やかな表情を浮かべていた。

 玄関方面から、大岩がこっちに転がって来ている。そう感じた。

「とぅうおおおおおおおおおおおお!」

 豪快!

 この二文字を背負って、雄叫びをあげながら飛び込んできた濃い影は、まるで猪であった。そいつがミキに体当たりした。いや、蹴り飛ばした。

 ミキの細い体躯は、丸めた紙くずみたいに脆く吹っ飛んだ。握り締めていたスタンガンが、掌から抜け落ちる。

 周囲に小さなどよめきが起こる。

 今まで、行方不明となっていた人物が、すぐそこに立っていたからだ。

「残念だったなあ」強気で、誇らしげな一声。

 家が、その人物の帰還を喜ぶように、短く震えた。

 懐かしく感じる少女の言葉は勇ましかったが、その姿は幽鬼のように青ざめていた。空腹と疲労が頂点に達している様子だ。たった一日、食事を与えられなかっただけでこうも変わるのか?

「オバ……。どうやって、縄から」

 キハラは、幽霊を見る目を浮かべ、唇を震わせた。

「ふふん。一日もあれば、あんなミミズみたいな縄、自力で何とかできるわよ」

 縄? 縄で縛られていたのか。しかもそれを自力で解いたって。

 驚きのあまり、無意識に少女の手首を見た。

 オバの小さな手を見て、ギョッとした。オバは、ミミズみたいな縄、と簡単に言ってのけたが、本当はどんな縄だったんだ? 左右の手首が、惨たらしく、不気味なほど赤黒く染まっている。これは強く縛られてできた跡なんかじゃない。皮膚が剥がれ、赤黒い肉が露わになっているんだ。

 オバの、力ずくで縄を解こうとする狂人めいた行為を想像した。

「それと、自分の家が焼かれるっつーことを聞いたら、じっとせずにはいられないわよ。それが、バカヤローな、あんたらの犯行なら特にね!」

「な、んだと」

 苦悶に顔を歪めながら、ミキは立ちあがる。膝は笑っていた。

「だってそうでしょ? 他人のせいでケガして、料理の道が閉ざされたからって、復讐心をたぎらせたまま店を経営しちゃってさ。だからお客が来ないのよ!」

 事故のことを知っているようだ。つまり、ミキらが凶行に及んだ原因、腕のケガの経緯を、ずっと昔から知っていたみたいだ。

「あたしだったら同じ状況でも、マコ店長より上手くやっていける自信があるわよ」

 喉からありったけの怒声をぶちまける。吐き出す怒りの中に、悲痛な想いが感じられた。

 無理もない。オバには、キハラやミキたちと長い関係があり、信頼もそれなりにできていたはずなんだ。なのに今回の一件でそれがガラス細工みたいに壊された。今のオバがどのような気持ちなのかは、じぶんには計り知れない。

「ミキさんも」オバは、今度はキハラの方へ顔を向けた。「話は全部聞いたわ」

 キハラは泥沼に沈んだように何も言わない。

「いくら自分を否定されて悔しいからって、お父さんを憎んじゃダメだよ。なんでこんな復讐劇に加担するのよ。悪行に走れるくらいの覚悟があるんだったなら、お父さんの言葉なんか無視してさ、自分の好きな道に走ればいいじゃない。店を持つなどして、相手を納得させりゃあいいだけの話じゃない」

 キハラは、うつむいて泣いているかのように、肩を震わせていた。

 そうだ。キハラも別の形で覚悟を決めていたら、こんなことにはならなかった。

「う、うるさい」キハラは力のこもっていない言葉を吐き捨てた。「どうせあなたみたいな、何の不満もないお子さまには分からないでしょ。こっちの気持ちなんて」

 いいえ、とオバははっきりと言った。

「少し形は違うけど、分かるわ。私も、自分の貧乏家族には正直うんざり。もうちょっとだけでも裕福だったら、なんて何度も夢想したわ――」

 オバは、言葉休まずに、一気に続けた。

「でもね、両親を恨んだって、全っ然、変わらない! 結局は自身の力で這い上がるしかないのよ。自分の努力が足りないのを、両親のせいにしたって、何も始まらないわ!」

「ああ……あああ」キハラの体がよろめいた。

「くっ。小娘が偉そうに、好き放題言いやがって。分かっているのか? こっちは二人いるんだぜ――」

 ミキが、忌々しげに言った。

「マコ」キハラの掠れた声が、悲しげに広がる。「悪いけど、もう耐えられないよ」

 それに、もう動けそうにない、と加え、ぺたりと座り込んだ。

 ミキが眼球を落っことしそうなくらい、瞼を広げた。キハラを見つめる。唇を上下に割るが、上手く言葉を出せないようだった。

「な、何を言うんだ? 小娘にあんなふうに言われて、悔しくないのかよ。憎たらしくないのかよ」

「…………」キハラはもう何も喋れなさそうだ。

「それに俺たちにはもう、こいつらを殺して、逃げるしかないんだ」

「はは。逃げられると思ってんの? 残念だけど、すでに警察に連絡入れておいたから――」

 悪戯っぽい女の喋り方だ。

「ほら。まさにご都合主義ってタイミングで、パトカーのサイレンが聞こえてきたわよ」

 オバが顎をくいっとあげて外をさした。するとまるで合図に応えたかのように、パトカーのサイレンが遠くから響いてきた。

 ミキは肩を落とし、放心した顔で、「ははは」力なく笑った。

 これで本当に終わったのだ。とは思えなかった。

 彼の全身には、狂気と執念の塊が、未だに、鍋の中のコゲのようにしつこくこびりついていた。

「全く。余計なことをしやがってよぉ!」

 目の色を変えて、ミキは再び吠えた。落としたスタンガンを拾って、掲げた。そしてオバ目がけ、猛虎の勢いで飛びかかった。

 少女は怯まなかった。堂々と、ぺったんこな胸を張って、牙を剥いた野獣を迎え撃った。

 互いの距離が縮む。オバが射程に入ったのを確認すると、ミキはスタンガンを力任せに、突きだした。

 おどろおどろしい電気の光りを放ちながら、黒い塊がオバの顔面に迫る。

 しかし、怒りに身を任せた彼の動作は、読みやすかったようだ。オバは冷静に前屈みになり身を低くした。髪の毛すれすれに避ける。

 右手を突き出したミキの体は無防備そのものだった。彼の懐に潜り込んだオバは、拳を脇っ腹に引きつけた状態で、待ってました、と言わんばかりの笑みを浮かべた。

 次の瞬間、決着がつく。じぶんは、今度こそ、絶対の確信を得ていた。

「ちぇすとぉおおおお!」

 オバは潜り込んだ際に、縮ませた両膝を、真っ直ぐ伸ばし、畳みを蹴った。昇竜の如く跳ぶ。勢いのあるジャンプの流れに身を載せて、右拳を垂直に突きあげる。

『あの動き、主ちゃまが気晴らしにやっていた格闘ゲームの技にそっくりだ』

 昂揚のあまり、じぶんは思わず叫んだ。

 女とは思えない格闘技の拳が、ミキの顎を打ち、全身をわずかながら持ちあげた。端正だった輪郭が痛々しいほどの変形を見せて、どすんとミキは畳の上に無様に倒れた。

 彼を慕うキハラには、酷な絵だったかも。彼女は、手の平で両目を覆っていた。

 開け放たれていた玄関から、びゅぅううう、と風の声が聞こえた。

 まるで、ミキマコトが泣いているように感じた。

 感動的な幕の引き方だけど、大きな問題が一つ残っていた。

 じぶんが、忘れられていること、だ。

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