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消えたシャルロット・③ショコラ編

   【引き離されたショコラ】


 長方形の鏡に、一人の女の姿が映っていた。

 犯罪者がするような、怖ぁい目つきに、酷ぉい仏頂面。なぜそのような表情なのか、明確な理由を、ぼくちんは知らないけど、物事が予定どおりに進んでいないのが原因の一つなんだろう。

 だけど、そんな表情を顔面に張りつけていても、輝くばかりの美貌は呪いのように消えることはなかった。ちなみに、ぼくちんは、これを上回るほどの美しい女を未だ見たことがない。

 アーモンド型の目に、細く形のいい眉。ボブカットと呼ばれるショートヘアは、毛先までが艶やかな漆黒だ。唇には妖しいほどの真っ赤なルージュが引かれている。

 彼女が今日、めかし込んだ服装は上下ともに真っ黒で、両肩と鎖骨を破廉恥なまでに露出させたものだった。隠しもしない肌は、衣装とは対照的で、ミルクそのもののようだった。

 可愛いや綺麗なんて言葉を凌駕するほどの美しさを放っていた。

 この生きた宝石のような人が、ぼくちんを創ってくれた主さま。ぼくちんは、カゲ姉と呼んでいる。

 カゲ姉の装飾品として右耳から吊されているのが、ずばり、ぼくちんだ。

 左耳にも、瓜二つなのがいて、セットで、幸せのショコラと微妙な呼び名で通っている。

 外見はお行儀良く座り込んだネコちゃん。アニメのキャラクターを連想させるほど、丸っこく作られている。

 自慢じゃないけど、これでも人語を多少なら理解できる。カゲ姉が映画を鑑賞したり、読書にふけっている際に、努力家のぼくちんは少しずつ学習していった。時計の針だって間違わずに読める。

 今は昼まえの十一時半。

 場所はオバ家で、彼女の部屋だ。

 鏡に映ったカゲ姉が腕を組み、いら立ちを醸しながら、

「娘っ子は、いったいどこへ行ったのかしら?」疑問を口から零していた。

 相変わらずだな、カゲ姉は。留守中の家に鍵がかかっていないからって、勝手にあがり込んでよ。

 不法侵入開始から約十分間、カゲ姉は、昨日知り合った少女の名前を声に出しながら、一部屋ずつ覗いて回った。が、見つからず、小さな建物での家捜しは呆気なく終了した。

 んで、やることを失ったカゲ姉は、玄関近くの、おそらくオバの部屋だろう場所にふらりと入ったんだ。この家に似合った、狭っ苦しく息苦しい和室だった。

 テレビもゲーム機もない。広げたままの敷き布団と、お菓子関係の本がマンガより多く並べられている本棚。学習机。姿見と、タンス。これくらいしかなかった。

 姿見の前から離れて、カゲ姉は、室内の右側にある大窓を全開にした。縁側が造られてあった。

 真昼の日差しが畳を強く熱していた。

 風はない。セミだけが一生懸命になっちゃって、こちらの神経を逆撫でするほど喚き散らしている。カゲ姉は、小麦色の畳にだらしなくあぐらを組む。上半身をやや後方に傾け、顎を上げて天井を呆然と眺めた。丈の短いスカートが、すすす、と捲れてシミ一つない太ももが露わとなる。膝の裏から内股までの輪郭がエロティックな雰囲気を引き立てている。

「どこへ行ったのか知らないけど、早く戻ってきてほしいわね」

『それよりもよぉ、この殺傷能力の高い暑さを何とかしてほしいぜ』

 半永久的に生き続けられるぼくちんでも、日光の餌食となるのは辛い。

『ったく、太陽なんて何の為にあるんかね? カゲ姉だって、アイスが溶けているみたいだぜ。ちくしょー。太陽のばか野郎!』

 ぼくちんは、力一杯叫んだ。叫んだら、

『止めよう』虚しさを感じた。

 その時。カゲ姉の肩が、急に震えた。

「誰……娘っ子かしら?」

 何かの気配を察知したみたい。体を素早く起こす。ネコそのもののように、じっとして神経を研ぎ澄まし、微音を拾おうとしているようだ。

 残念なことだけど、ぼくちんには何も聞こえないし、何も感じない。

 すると、玄関の方から、本当に物音が響いてきた。獣のネコの耳は、人間のおよそ三倍の聴力があるらしくて、自身から音源までの距離を掴むというが、この人はそれと同レベルの聴力を持っているということなのか?

「娘っ子とは、戸の開け方が違いますわね」

 さらに音の違いに気づいたらしい。カゲ姉はそろりそろりと忍び足になって、玄関へと移動した。

 ぽっちゃり少年が立っていた。昨日、カゲ姉と、初めましてをした人物だ。

 彼は、シャツの襟をぱたぱたと扇いで、火照った体を冷ましていた。

 確か名前は、フジヤだっけか。

「あら、随分早く到着しましたわね?」

「……え、あれ?」

 まさかのオバ以外の存在に、フジヤは驚きの表情を浮かべていた。目を開け、ふさぐのを忘れた唇。実に愉快な顔だった。

 続いて、露出度の高い女にどぎまぎする様子がうかがえた。

 フジヤは、視線を自分の足もとへ向けるという困惑の仕草を取る。しかし、見まいとしても、視線は、カゲ姉の輝かしい肉体へ戻っていく。足首から腰へとあがり、豊満な胸を通ってカゲ姉の顔に到達する。すると彼は赤面し、またさりげなく自分の足もとを見るのだった。

「どうして……。あ、表の車、あなたのだったんですね」

 言葉を詰まらせながら、やっと言う。

「まあまあ、立ち話もなんですし、あがって待っていましょ」

 そんな彼をからかうように、カゲ姉は、フジヤの腕をぐいっと引っ張った。

 わわっ、と慌てながらも、フジヤは流されるように靴を脱ぎ始める。

 第一歩を踏んで、何かに気づく。「あれ? ちょっと待ってください。今の口振りからだと、オバちゃんは家にいないことになりますよ」

「ええ。娘っ子は不在ですわ」

「不在? って、だめでしょ。不法侵入ですよ。もうしてますけど――」

 ごもっともだぜ、フジヤ。でもよ、そんな不審者を見るような顔をするなよな。

「というか、何の用で来たんですか?」

「ほほほ。心配しなくても、怪しまれるようなことはしてませんわ。ここへ訪れた理由もね、娘っ子に招待されたからなの。坊やの誕生日会にね」

「カゲノさんが、ですか?」

 何が気に食わないのか、フジヤは合点のいかない顔をした。

「ええ。昨日、娘っ子にケーキの作り方を教えてあげたら、ぜひと誘われたわ」

「オバちゃん、ケーキを作っていたんですか?」

「それも、バースデイケーキ。台所にあるはずですから。ついて来てください」

『おいおい、我が主よ、ケーキを見せるのはオバの役目だろ。こら、フジヤ、おまえもついていくな!』

 ぼくちんの渾身の叫びに気づかない二人は、自分の家のように歩く。特に、フジヤの足取りは、浮かれていた。

 二人は台所に入る。

 台所は、昨日最後に見た時と比べて、すっかり片づけられていた。カゲ姉の顔が、奥の冷蔵庫に向いた。磁石で多くのメモが貼りつけられた箱は、ちゃんと使えているのかと、心配するほど旧い型だった。

「きっとこの中に、ケーキがあると思いますわ」

 躊躇いなく人さまの冷蔵庫に手を伸ばして、当たりまえのように開けた。飛び出した冷気の塊が直撃した。

 カゲ姉は色白の腕を、冷蔵庫に突っ込ませ、「ありましたわ」と囁く。

『あーあ、とうとう見つけちゃったよ。フジヤのやつ、顔をにやけさせているだろうな』

 予想どおり、ってか。フジヤは短い首を伸ばして、カゲ姉の手もとを覗き込んだ。

 二人して、今日の主役であるケーキを見下ろした。

「え!」

 二人分の声が、いい感じに重なった。

 ぼくちんは、ケーキを持つカゲ姉の手が、ぶるぶる小刻みに震えていることに気づいた。

「これは、どういうことですの?」

 手の震えは収まらない。ケーキを落とすんじゃないかと心配していたが、無事、カゲ姉はテーブルへ、それを運んだ。

 二人の度肝を抜いた理由は何だったのか。答えはすぐに分かった。

 可愛らしく完成されたはずのケーキが、人間なら、首をちょっとばかし傾げてしまうほど、変だったのだ。

 カゲ姉は怒り心頭のご様子だけどな。

「あの小娘、何を考えているのかしら!」低く、忌々しげに呟いた。

『あれほど真剣な眼差しでケーキ作りをしていたオバに、何があったんだ?』

 ぼくちんの記憶にあるケーキは、円形のスポンジに真っ白な生クリームがふんだんに塗られていて、上表面にはアルファベットを象ったデコレーション用のお菓子が盛りつけられていたものだった。ちなみに、HAPPY BIRTHDAY、と書かれていたはずだ。

 問題は、そのデコレーション用の菓子の配置。

 HATI D。HRP。

 何のこっちゃと言いたくなるような、アルファベットの組み合わせが、二つ。残りの、Y、Y、B、A、Pはなくなっていた。明らかに変だ。

 まさか、誰の目にも届かない冷蔵庫の中で、その菓子たちが、悪戯に動いたのだろうか?

 文字の並びが変わった、これを何と読むのかは知らない。ぼくちんは、この世には英語なんて必要ないと考えているので、簡単な単語以外はさっぱり読めなかった。

「まったく。坊や、何をぼさっとしていますの? 早く電話で呼び出しなさい」

 不機嫌丸出しの言葉遣いに、フジヤはおどおどと従う。ポケットをまさぐって、ケータイという便利な道具を取り出した。親指で巧みに操作して、音を奏でる。そして、電話機を自分の耳へ当てた。

 フジヤが連絡を取っている間、カゲ姉は、ケーキに視線を落として、じっとしていた。いったい何を思っているのやら。

「あれ? おっかしいな」

 隣から怪訝そうな声が届いた。反射的に、視線をフジヤに向ける。彼は止むを得ずといったふうに、ケータイをポケットへ戻していた。

 察するところ、相手とは繋がらなかったらしい。

「ふふふぇっふぉふぉは、ふぇんらくがふぉれましふぁの?」

 カゲ姉が呪詛を唱えた。いや、日本語のはずなんだけど、口をもごもごとさせているらしく、和訳不可能だった。

『あ! カゲ姉のやつ、ケーキを食ってやがる』

 しかも手癖が悪いな。どこから出してきたのか、フォークを握っている。銀色の先端で、問題的なケーキをざくざくと削って、口に運んでいる。

「何をしているんですか?」フジヤも、そりゃあ驚いた声をあげた。

 ケーキの、綺麗な円形を崩して、カゲ姉は手を止めた。

「何って、味を見ていたのですわ。そんなことよりも、娘っ子に連絡は取れまして?」

 カゲ姉の返答に納得のいかない顔をしつつ、フジヤは、「電源が切られているみたいです」そっぽを向いた。

「腑に落ちない、そんな感じですわね」

「……ええ」フジヤは、うつむく。「オバちゃんは、今年の春に、念願だったケータイをやっと買ってもらえたそうなんです。よほど嬉しかったみたいで、常に肌身離さずに持っている状態でした」

「そんな娘っ子が、休日のこの日に、電話をかけても応答がない。確かに変ですわね」

 カゲ姉は顎に手を当てて、しばらく静止した。

 ふむふむ、なーるほど。ぼくちんは、推理してみた。どうしてオバが、この時間帯に不在で、連絡が取れないのか、を。

 それは、こうに違いない。

 オバは、ぼくちんらがこの家へ訪れる直前に、誕生日に欠かせない、あれを買っていないことに気づいて、出かけたんだ。

 あれとは、勿論、クラッカーのことだ。

「あら?」考え込んでいたカゲ姉が、ふっと呟いた。「片づけ方が、変ですわね」

 片づけ方が、変。この言葉がフジヤを、大いに困惑させたってのは、言うまでもない。

「ど、どういうことです?」

「この薄力粉を見てください。今では調理棚にしまっていますけど、昨日、娘っ子はこれを冷蔵庫から取り出していましたの」

「置き場所が変わっているってこと?」フジヤが首を傾げた。「でも、薄力粉を冷蔵庫に入れて保存するのも、変だと思うけどな」

 カゲ姉が、分かってないですわね、というような溜め息を吐いた。

「夏場の薄力粉は、高温多湿と直射日光を避けられる場所、つまり冷蔵庫で保存するのが最良なのですわ。外で開封しますと、匂いに誘われて虫が寄ってきますのよ」

 フジヤは、へえ、と頷いた。

「そう説明されると、薄力粉のこの置き場所は不可解ですね。でも……」

 彼は弱くなるように、次第に言葉を詰まらせた。ま、言いたいことの大体は察しがつく。

 結局、謎が増えただけで、オバの居場所については皆目見当もつかないってことだろ。

 カゲ姉は、何も答えない。またしても深く考え込んでしまったようだ。

 沈黙の濃度が増して、耐えきれなくなったのか、フジヤが言った。

「ケーキ、もうしまいましょうよ」

「そうね」溜め息混じりの残念そうな声。

 カゲ姉は、名残惜しそうに冷蔵庫をゆっくりと開けた。そこへケーキを戻して、はい、お終い。本来ならそのはずだった。

「あらあらあら」

 主ちゃまは嬉しそうになった。ケーキは一応、中へ収められたけど、別の箱を発見しちゃったみたい。

 相変わらずの探り癖だね。ぼくちんは、物を漁るその行為を恥ずかしく思うよ。

「そうそう。これも」

 箱を掴んで、優しくテーブルへ置いた。細長い指で、上部分をなぞる。すると魔法をかけられたかのように、箱はぱかりと口を開けた。

『ひゃあ。これ、シュークリームかよ。でっけえ。惚れ惚れするぜ』

「オバちゃんが買ったやつですね。先に言っておきますけど、食べたらだめですよ」

「心配しなくても、ただ確認をするだけですわ」

 カゲ姉の言葉に、フジヤは明らかな疑いの表情を浮かべた。まあ無理もないよな。

「ほほほ。これは、イチゴ味ですね」

 二つある内の一つを手にして、主ちゃまは囁いた。

「えっ、外見だけで中身が分かるんですか?」

「ほほほ。造作もないことですわ。ちなみに、こっちは、納豆味ですわね」

「納豆……」フジヤは眉を歪めた。「うえ、不味そう」

「あら、知りませんの? 納豆はデザートとしても最適ですわよ。納豆シュークリーム、納豆プリン、納豆アイス。特有の臭みが消えて、クリームとの相性はうっとりするほど素晴らしいのですわ」

 そう説明されても、と言いたげに、フジヤの表情は冴えない。納豆に対する先入観が勝ってしまったのだろう。

「でも正直、悪ノリした商品としか思えませんよ」

「やはりそう考えてしまいますわよね」

 くすりと笑って、主ちゃまはイチゴ味を戻し、今度は納豆味に手を伸ばした。

 掌に載っかったシュークリームに、ぼくちんは違和感を抱いた。

「あら、この納豆味、少し潰れていますわ」

 確かに、そいつの上部分がやや欠けていた。クリームが垂れたであろう跡が残っている。

 オバって、食べ物の扱いが酷いのな。

 がっくし。と、落ち込んだ、その時だ。

『そ、こ……の。そこの、おまえ』

 人間とは違った声。直感が働いたぼくちんは、一秒が経つよりも早く、どこからそれが発声されたのかを、ずばり感知することができた。

『話しかけているのは、あんたか?』

 納豆味のシュークリームだった。

『……はあはあ。……おまえたち、あの小娘を、捜しているのだろう? だったら……伝えておきたいことがある』

 小娘って、オバのことか? それを必死になって伝えようとしているってことは、つまりこいつは重要なことを知っている。そういうことだ。

『いったい、オバの身に何があったんだ?』

 まだオバの身に何かが起こったと決まったわけではないが、知らず知らずの内に決めつけてしまっていた。嫌なもんだ。こういう時に限って、考えは悪い方向にいっちまう。

『昨日、襲われた、のだ――』

『何だって? もっと詳しく聞かせてくれ』

 悪い知らせを聞いて、ぼくちんはシュークリームに強く問い質した。納豆味は、やばいくらいに苦しそうで、答えようとするまで時間がかかった。

「ちょっと、何をしているんですか」

 今度は人間の声があがる。それがあまりにも唐突だったので、ぼくちんは、つい驚いてしまった。不覚にもシュークリームから意識が外れ、声をあげたフジヤに視線がいった。

 泣きっ面にハチとはこのことか。カゲ姉が手にしていたシュークリームを、フジヤが横から奪い取ったのだ。

『ああ』思わず呻いてしまった。『なんてこったい』

 シュークリームが、ぐぅんと離れた。ひび割れた、か細い声が急激に遠退いちまって、何も聞こえなくなった。

 ぼくちんは脱力した。でもそうさ、何となく予想はしてたさ。映画や小説なんかと同じ。こういった場合のほとんどは、何の情報も得られないもんだ。

『……っだ』

『ん?』

 今、何か声が、確かに聞こえた。

『ミッ、ミキ……という名の人間がっ!』

 空っぽになるまで絞り出したような、掠れ声。紛れもなく、納豆味のシュークリームだった。幻聴では断じてない!

 細部までは聞き取れなかったが、ミキという人間が、そいつが、オバに危害を加えたって言うんだな。

 決死のメッセージ、確かに受け取ったぞ。

 フジヤの手によって納豆味のシュークリームは、ゆっくりと箱へと戻された。

「随分と、乱暴ですわね」カゲ姉が面白くなさそうに言った。

「止めなきゃ、あのまま食べていたでしょ?」

「いいえ」カゲ姉が首を振る。「声を、聞いていましたの。その子たちならオバについて何か知っていると思いましてね」

「はあ?」

「その顔、信じてくれていませんわね」カゲ姉がやれやれと肩を竦める。「いいこと、物には記憶が宿りますの。あたくしは、その記憶を、声として聞き取ることができますのよ」

 得意がるカゲ姉に対し、フジヤは、何と言えばいいのか分からなかった様子だ。

 あんぐりする彼をほったらかして、カゲ姉は饒舌に続けた。

「では、これからあたくしが、シュークリームから聞いた話をもとに、オバがどうなったのかを推理してみせますわね――」

 カゲ姉が、おほん、と咳払いを一つ。

「高い確率で、オバは、誰かに襲われましたわ」静かに断言した。「時間は、十九時過ぎ」

 いかにも、シュークリームから聞き出したような口振りだけど、実はそうではない。

 ぼくちんらがオバ家から出た十九時頃、建物の近くで不審な人影を実は見かけていた。

 思えば、あいつ、危険な臭いをぷんぷんさせていた。

 待っていたのかもな。オバが一人になるのをよ。

「い、いったい誰に?」フジヤの声は不安のせいか、震えていた。

 そんな彼に、カゲ姉は躊躇せず、

「分かりませんわ。けど、何者かが、ここへ踏み込んだのでしょうね」

 フジヤは、顔面蒼白だった。それでも体は動かせたみたい。携帯電話をポケットから抜き出した。

「警察にかけようとしているのなら、お止めなさい」

 平手打ちをくらわすような物言いに、フジヤはびくりとした。

「どうして? 早く警察に連絡しないと……。オバちゃんが」

 カゲ姉は、ふぅ、と短い息を吐いた。

「今、話したことは、あくまで推理なのよ」

「はい?」空気が抜けたような、きょとんとした声。

「所詮は推理。証拠なんて何もありませんわ。もしかすると娘っ子は、ただ買い物へ出かけただけなのかもしれません。違和感を抱いた片づけ方も、単なる娘っ子の気まぐれと考えるのが普通ですわ」

 しばらく沈黙を置いて、

「そ、そうですよね」フジヤははっとした。「確かに、そう考えるのが普通ですよね」

 しかしやはり、不安は拭い切れないようだな。

「ですから、警察への連絡は、最後の最後の最後の最後の手段。ほほほ。もっと具体的に言うなら、娘っ子の身に危機が絡んでいると確定するまで、ね」

 カゲ姉の言動は少し妙な感じだった。オバは襲われたと強く推測するくせに、警察は呼ばない。ま、憶測だけで警察を呼びたくはない、という気持ちは分からんでもないが。

『でもよ、カゲ姉、オバは間違いなく事件っていう面倒くせーことに巻き込まれたんだぜ』

 ぼくちんは言ってやった。届くことがないって、分かっているけど。

「分かりました。そうします」

「安心しなさい。事件に巻き込まれたにしろ、そうでないにしろ、娘っ子は必ず見つけ出して、坊やの前に連れて来てあげますわ」

 心配するフジヤに、カゲ姉は豊満な胸を張って、根拠のない自信を見せつけた。そして押しつけた。

「わ、分かりました」彼は同じ返事をした。

「さて、ならそろそろ行きましょうか」

「え」フジヤは、目を丸くした。「どこへ?」

「ほほほ。あなた、娘っ子は家にいませんのよ。いつまでもここに留まっているわけにはいきませんわ」


   *** ***


「さ、お乗りになって」

 家から出た二人は、停めてあった、黒くて細長い、高級感を漂わせる外装の車に乗り込んだ。車内は、物静かな空気で満ちていた。

 助手席へ遠慮気味に乗り込んで、フジヤが訊ねた。

「それで、どこへ向かうのですか?」

「娘っ子の居場所に関しては、生憎見当がついていません。ですが、あの子と関係がありそうな所へ車を走らせるつもりです――」

 カゲ姉の言葉を合図に、エンジンが獣のように唸る。

「そういえば娘っ子、本当ならハチの巣で買い物をする予定、でしたわよね?」

 思い出したようにカゲ姉が言う。

「まさか、欲しかった物が昨日手に入らなかったから、今日も店に向かった。そう考えているんですか?」

「ええ」カゲ姉はきっぱりと頷いた。

「うーん。あのオバちゃんが、人との約束を蹴って、そんなマネをするとは思えないなあ」

 オバを信じようとするフジヤの言葉が、車内に弱々しく浸透した。

「とにかく、他の場所も思いつかないことですし、ハチの巣へ向かってみましょう」


   *** ***


 退屈で緩やかな車道を通行して、行き着いたのは、駅に近い駐車場だった。

 カゲ姉が車から降りると、快適だった車内からは考えられないほどの、むぁとした熱気が、ぼくちんを包んだ。

『ぐっはー! ここは地獄かよ』

 真っ昼間の空から射る日差しが酷暑を生んでいた。往来を行く人々と、車は、激しい騒音を奏でていた。ぼくちんは、げんなりした。

 人が多いわけだから、カゲ姉はその分、注目の的となっていた。カゲ姉を瞳に宿した人間たちは、あまりの美貌にびっくりしてしまい、男は、あからさまに鼻の下を伸ばしていた。たまーぁにだが、目を細め、軽蔑の眼差しを向ける者もいた。

『人間ってのは、いい意味でも悪い意味でも美しい肉体に視線を奪われる、てことか』

 当のカゲ姉は、全然意識していないみたいだけどな。

 そんな人の目も、駅の真ん前を過ぎてしばらくすると、次第に少なくなる。つまり、ある程度は人混みが減ったってこと。

 ここから先は商店街。なんだけど、商店街とは名ばかりで、そこいらと何も変わらない通りだ。車道だって普通に敷かれてあるし、日の光だってさんさんと降り注いでいる。でも人通りは、どうしてだか、寂しい。

 商店街らしいといえば、左右の歩道に様々な店舗がずっと先までくっついて並んでいる、てとこだけだな。

 目的地であるハチの巣は、この連なった店舗の間に建てられてある。

 カゲ姉たちは、独特の異臭を垂れ流す靴屋、営業しているのか疑わしい不動産屋の前をてくてくと通過し、次の喫茶店にさしかかったところで左折。アスファルトにかけられた白い橋を踏んで向こう側へ渡った。

 ここでようやく洋菓子店、ハチの巣との対面だ。

 ハチの巣はこぢんまりとした店だ。隣の建物の影と上手く同化していた。

『いつ見ても、色気のない地味な店だな』

 しかし、建物のほとんどが木材という、随分と凝った造りをしていた。まるで木の家だ。本物か作り物か、蔦まで這ってある。

 吊るされた横長の看板があり、『ハチの巣』と味のある字体で黒く綴られていた。

 店の顔である正面入り口は、イカダをそのままはめ込ませたような、手の込んだ代物。そこへ取っ手として打ちつけられていたのは、太い木の棒だ。

 その取っ手に、二人が触れることはなかった。

「オバちゃんを見つける以前に、今日は休みのようですね――」

 ハチの巣を前にして開口一番、フジヤはカゲ姉に顔を向けた。

 聞いているのか、いないのか……いやこの様子は聞いてないな。カゲ姉は黙ったまま、ある一点を見つめていた。

「それに冷静に考えてみれば、オバちゃんが欲しがっていたシャルロットも、もう手に入らないし」

 イカダ式のドアには、四角い小さな窓が、中を覗けるように作られていた。正面の壁にも同じ理由でか畳一枚分ほどの窓がある。

 それが今、どちらの窓にも、建物の内側からシャッターがおろされている状態だった。

「これは、どういうことですの?」

 カゲ姉のやつは、苛立っていた。感情を込めて靴音を鳴らし、入り口に迫る。

「昨日の一日だけなら目をつぶろうと思っていたのに、二日続けて店を開けないなんて、許さないわ。奴のやり方に、あまり口を挟みたくなかったけど、もう我慢なりません」

 近くにいるせいか、恐ろしさが全身をびりびりと震えあがってしまいそうなほど伝わる。

 まあ待てよ、カゲ姉。何か理由があって、こうなっているのかもしれないぜ。

 我が主はその手で、ショルダーバッグをぼふっと殴った。じゃなくて、腕を中に突っ込ませた。まさぐって取り出したのは、ケータイ。

 すぐにコール音が鳴った。

 しかし、気が立っているカゲ姉は数秒しか待たない。連絡がつかないと分かると舌打ちをして電話を切るのだった。

 ケータイを戻して、次に登場させたのは、カゲ姉ご自慢の、手帖みたいな機械。ぴっぽっぱっ、と素早く操作をして、何かを確認していた。

「やっぱり。店の電源が数カ所、オンのままですわ。こうしちゃいられないわ」

 電源がオンのままってことは、電気メーターがあがり続けている、っつうことか。加えて言えば、カゲ姉の不機嫌メーターもぐぃーんと盛りあがり中、ってか。メーターを振り切ると、大変なことが起きるかもな。

 カゲ姉は機械をバッグへ収めると、何の説明もなしに、ずかずかと足を動かし始めた。いつもの優雅な足取りからは想像もできないほどの、大股で。

 建物との間にできた、薄暗い路地裏にするりと入る。そこは、大人なら、通る際に両肩を擦りつけないよう配慮しなければならないほどの狭さだった。

「えっ、ちょっと、どこに行くんです?」

 背後から、戸惑いに満ちた声が飛んでくる。

 カゲ姉は、振り返らない。もちろん、質問に答えることもない。今の彼女は、怪奇、動く石像なのだ。口をきゅっと閉じたまま、ただただ前を行く。

 もう二つ三つと、フジヤは質問を投げるが、カゲ姉は相変わらずの石像っぷりを発揮していた。完全防御。すべてを弾いた。彼の困った声は、路地裏に良く伸びた。

 弾切れを起こすと、フジヤはすっかり黙り込んでしまっていた。消沈したような靴音だけが、あとをついてくる。それも、狭い路地に四苦八苦しているような。

 その先にあるのは、ハチの巣の裏口だ。洋菓子店とは思えない、そして表通りにはない、淀んだ世界が広がっていた。

 表の可愛らしかった造りからは想像もできないだろう、夢ぶち壊しの空調設備の室外機。伸びた配管に、スチール製のドア。脇には、折りたたまれたダンボールが紐で縛られ、いくつか積まれていた。

「どうしてこんなところに?」

 狭い所から、やっと抜け出せた彼は、ほっと一安心した様子で訊ねた。

「店の中に入ります」

 短く言って、カゲ姉は、バッグから無造作に、銀色の鍵を抜き出した。店の鍵だ。俊敏な動作で、鍵穴に剣状の部分を刺そうとする。が、直前で、体を硬直させた。

「鍵が……」合点のいかない、怪訝な声。

 そして、鍵を差し込まない状態で、ノブを握った。ゆっくりと右へひねる。

 されるがままに、ノブは回転した。このことに、カゲ姉は驚きを隠せなかったらしく、息を、一度短く吸い込んだ。ノブを手前に引くと、ドアは自分から動いたようにすんなりと隙間を空けた。

「あ、開いた?」フジヤが信じられなさそうに呟いた。

 カゲ姉は何も言わない。この黙りが、ちょいと怖く感じる。

「あの、入らないのですか?」

 フジヤの言葉に押されるようにして、カゲ姉は、開いたドアの隙間から、するりと忍び入る。靴音がもう一つ、来なくてもいいのについて来る。二人が建物に侵入すると、ドアは静かに閉じられた。

 ずっと密閉されていたわりには、やけに涼しい。太陽光を浴びて蓄積された不快感が、一気に吹き飛んでいく。

「へえ、裏はこんなふうになっているんですね――」

 フジヤが、興味を掻き立てられたような声で、後ろから話しかけた。

「それにしても、狭いですね」

 うん、狭いね。視界に、真っ先に映ったのは、事務用の大きな机と、回転イスだった。

 事務室と呼ぶべきなのかもしれないが、これはどう見ても、事務用机とイスを通路の片隅に配置しただけだ。

「狭い広いは、さほど関係ありませんわ。上手く扱えば、どんな空間でも十分にやっていけますわ。逆に、扱いが下手ですと、どんなに広い空間でも窮屈に感じるものですわよ」

「なるほど。じゃあ、ここの店長さんは、物の扱いが良かったみたいですね」

 卓上には、まとめられた用紙やら、固定電話などが設置されていた。十分に整理整頓されていて、上手く活用できているようだ。机をくっつけた壁には、何枚ものメモ用紙がテープで貼られている。

 そこには、一昨日の日付と、商品の売れ残り、廃棄されたケーキの種類とその個数が汚い字で走り書きされていた。

 カゲ姉は、そのメモに目をとおした。

「昨日の分の記入がされていない。毎日必ず記入するようにと言っていたのに」

 これまで欠かすことのなかったメモ。それが今回、記入されていない。

 そして事務スペースから先は、安っぽい照明が一定の間隔を空けて、これまた安っぽい橙色の明かりを灯していた。照明は点いたままだった。

 おいおい、いくら何でも変すぎやしないか? 施錠されていなかった裏口に、書き足されていないメモ。点いたままの明かり。うっかりがこうさせた、にしては度がすぎるぜ。

 妙な胸騒ぎを覚えた。

 さすがのカゲ姉も、ここは怒りを鎮めて、旦那に何かあったのではないのか、と心配するだろう。

 カゲ姉の重い息を吐くのが聞こえた。

「あの野郎、ぶっ殺してやる」冗談とは思えない、殺人宣告が出ちゃった。

 心配する気はないのね。それにしても、こんなカゲ姉は初めてだ。てか別人みたいだ。

 お淑やかなお嬢さんのカゲ姉も、怒髪天を衝くと、こうなっちまうのか。恐ろしいぜ。

 ん、待てよ。もしかすると、とぼくちんは閃いた。ケーキ屋の旦那はまだ店にいるんじゃないのか?

 あーでも、だとすれば、どうして正面入り口にシャッターが下りているのか。その説明がつかないか。

 こつこつと、厨房へ向かう足音が、冷えた静寂に規則正しく反響する。他に音がないせいか、緊張感が、ぐんぐん高まる。ぎらぎらと、はち切れそうだ

 ぽつぽつと弱々しい明かりを抜けて、厨房に入る。そこは、強い光で満たされていた。どこに何があるのか一発で見つけられるほどだ。

 中央に定置された作業台。端に冷蔵庫。大きなオーブンに、焼き型。メタルラックと呼ばれる収納家具があり、袋詰めにされたケーキの原料が隙間なく並べられていた。

 ちなみに、隣の売り場は、かなり薄暗い。ショーケースの中の商品を目立たせるためだろうか。

「そういえば、昨日のことなんですけど」

 フジヤが声をかけた。

 だがこの時、カゲ姉は足を止めて、一定の箇所に視線を取られていた。彼の言葉を一から十まで聞いている場合じゃなかった。

 それはぼくちんも同じだった。

 二本の足が見えた。この店のだろう白い調理着を穿いた、男特有の足。それが作業台の死角からにゅっと飛び出て、ごろんと転がっていた。上半身は隠れていて、この位置からじゃあ見えない。もう少し近づかないと。

 あれほど怒り心頭だったカゲ姉から、みるみる熱がさがっているのを感じた。

 しかし、さすがはカゲ姉というべきか、全然取り乱していない。落ち着いた様子で、一歩前に出た。もう一歩。近づくにつれ、男の、腰から胸、がっしりとした両肩がゆっくりと視界に映る。スクリーンの中の映像がスローモーションで動いているかのようだった。

 ぼくちんは、映画の世界を鑑賞している時と同じ感覚に陥って、これから映ろうとする頭部を想像した。

『ぐっちゃぐちゃの、めっちゃくちゃに潰れていたらどうしよう』

 おぞましい光景を心で描いているうちに、問題の頭部が登場した。

 ぐっちゃぐちゃ、ではなかった。というかあまりにも普通と変わらなすぎて、拍子抜けした。

 うつぶせの状態なので、顔は確認できなかった。ただ、後ろ頭は中年を感じさせるほど、くたびれたものだった。それでも恰幅は厳つく、ケーキ屋にいるよりも、むしろ格闘技が似合うほどだ。

 頭部周辺には調理道具などが散乱している。小さな道具から、人間の胴体と同じくらいの紙袋までもが地面に、ずっしりと寝そべっていた。

「ひっ」息だけの、短い悲鳴がした。

 後ろにいるフジヤのだろう。そりゃあ、見ちゃうよな。

「なるほど。こういうことでしたのね」カゲ姉が冷静に、納得の声をあげた。

 それから、確認をとるように、倒れている男の横にしゃがみ込んだ。

「こ、この人」フジヤの声は震えている。

「ええ。ここの店長、キハラよ」

『やっぱり、キハラの旦那だったか』

 カゲ姉は、旦那が倒れた原因を探している。焦がすような視線で、動かない体のあちこちをさしていた。

『気をつけろよ、カゲ姉。体には触れないようにな』

 はいはい心配無用、と答えるかのように、カゲ姉は、細い肉体を針金と同じくらい器用に曲げ、旦那を調べあげていた。

 数秒して溜め息混じりに結果を告げた。

「左後頭部を強打。死亡は……していないですわ」

 フジヤは安堵の息を吐いた。

「ほほほ。そんなに心配しなくても良かったのに。このオヤジ、悪運は強いですから」

 そんなこと言われてもよ、さすがにびっくり仰天するよな。こんな光景を目の当たりにしちゃったら。

 しっかし不思議なのは、どうしてこんな事態になっているのか、だな。

 悩んでいると、ぼくちんの素晴らしい思考が教えてくれた。この散らかり具合が鍵だと。

 つまり、キハラの旦那は、道具にやられたんだ。

 確信した時、散乱する道具の中に、果物の缶詰が転がっているのを目撃した。側面がくしゃりと、大きく凹んでいた。

『ほほぉ! 分かったぞ。真相が見えた』

 倒れるまえ、旦那は調理に必要な物を、一度作業台に並べた。ところが準備の最中に、あろうことか転がっていた缶詰で、うっかり足を滑らせてしまった。前のめりになって、倒れる途中、反射的に腕を伸ばして作業台を掴んだ。が、一時的にだけ。初老の肉体は呆気なく転倒した。悲劇は追い打ちをかけるようにしてやってきた。台に並んだ道具たちが、旦那の後頭部へ……どさり!

『完っ璧すぎる。ぼくちん最高。絶好調』

 気分が良くなった。そんなぼくちんを横切って、フジヤが前に出た。

「あれ、これって、変だぞ」

 何か知らんが、喚いている。

「少し落ち着きなさい」

「だって、こんなのあり得ない」口調が若干強くなる。「ちょっと、聞いてます?」

 カゲ姉は強情だった。彼の言うことを聞き入れたとしても、呑気に返事をくれてやる気はないらしい。考えごとに集中している。

「心配せずとも、あとでちゃんと聞きますわ。今は、やるべきことをしましょ」

 フジヤは不満ありげな表情を浮かべ、

「……分かりました」渋々頷いた。「でも、何をすれば?」

「そうね。じゃあ、坊やは病院に連絡を――」

 言いかけて、カゲ姉は口を閉ざした。体を硬直させ、耳を澄ましている。

「音? これは救急車のサイレンかしら」

 フジヤは、きょとんと小首を傾げた。

「救急車? あ、本当だ――」

 じわりじわりと風船が膨らむように、サイレン音は確実に大きくなる。

「近づいているような。まさかこの店に?」

「そうだとすれば、いったい、どこのどなたがあたくしたちに代わって連絡を入れたのかしら。いいえ、今は考えるよりも行動ですわ。早急に店から引きあげますわよ」

 カゲ姉は折っていた膝を素早く伸ばした。

「えっ、出て行くんですか? この人を置いて? というか、このお店開いていないんですよ、来るわけ……」

「言いましたわよね。こいつの悪運は昔から強いと」カゲ姉は顎で旦那をさした。「救助隊は必ず駆けつけますわ――」

 本気だった。本気で、このハチの巣に救急車が到着すると信じているようだ。

「分かりました。仮にそうなったとしますよ。だからといって、僕たちが店から出て行く理由ってあるんですか?」

 フジヤのもっともらしい質問に、カゲ姉は面倒くさそう、かつ早口で答える。

「正当な理由はありませんわ。ただ、救急隊の方々と対面して、変な誤解をされるのは、嫌ですわ。あたくしたちがオヤジを襲った、とかね。最悪の場合、警察を呼ばれて、尋問を受けるかもしれませんわよ」

「け、警察……尋問……」

 警察という組織の名を出してフジヤを脅かしたわけだが、カゲ姉はきっと、やっかいごとに巻き込まれたくない、てのが大半なんだろうな。

「ほほほ。悪い想像でもしましたの? なら、早く退出しましょう」

 フジヤは少し迷った素振りを見せたが、やがて外に出ようと決心したようだ。

 しかしこの時、遠くでやまびこが響いている程度だったサイレンは、もう本当に近くまで迫ってきていた。一分もすれば間違いなく、ハチの巣の前に救急車は停まっている。

 カゲ姉は決して狼狽えない。太い根を張った神木のように、悠然と厨房を抜けて正面入り口まで移動する。彼女の背中を追って、小判鮫みたくついて来るフジヤ。

 このまま、そそくさと外へ脱するのか、と思えば、通せん坊をするシャッターの前で、カゲ姉は足を止めた。その場にしゃがむ。

「何してるんです? 早く出ないと」

 フジヤの呼びかけに答えるどころか、振り返ろうともしない。

 カゲ姉の視線が、じっとそいつを睨んでいた。

 入り口のドアに、門番の如く並んだ、でかいハチのヌイグルミ。

 カゲ姉は、右側に立つそいつに手を伸ばした。ヌイグルミは背中のファスナーをつままれて、バナナの皮を剥くように、くいっと引っ張られた。

 度肝でも抜かれたか、フジヤは動かず声も出ずといった状態異常にかかっていた。

「突っ立ってないで、シャッターをあげてくださらない? 閉店状態ですと、せっかく来てくださる救急隊の方々に悪戯だと思われますわ」

 盛大に垂れ流されているサイレン音は、もうこの辺りで停止するか、それとも通り過ぎるかの境目ぐらいにまで膨らんでいた。

 静止した。おそらく、この建物の前で。

「げっ、本当に来た」

 フジヤだけが冷静さを失い、シャッターを力任せに持ちあげた。

 隠れていた正面入り口が、一気に姿を現した。

 フジヤは、ばんざいのポーズのまま動きを止めた。大きく開けた口と瞼から、驚愕が覗える。見てはいけないものを目の当たりにしてしまった時のものだ。

 気がつけば、ヌイグルミはもとの状態に戻されていた。

「さて、店を出ますわよ」

 カゲ姉は立ちあがろうとした。が、隣で微動だにしないフジヤの姿を視野に入れてしまったせいか、動きを止めた。動かない方がいい、と察したのだろう。

 はっとしたように、フジヤも素早く腰を落とした。こっちに顔をゆっくりと向ける。今にも泣き出しそうな情けない顔だ。

「どれくらいまで、近づいていますの?」カゲ姉が囁いた。

「す、すすすぐそこに。どどどうしましょう? 急いで裏に回りますか?」

 フジヤが中腰になって移動に備える。が、肩を掴まれ、気持ちと動きを制された。

「いけませんわ。このドアの向こう、すぐそばに人が立っています。ここで動けば、間違いなく気づかれるでしょうね」

 その通りだった。一人の男が、外から窓を透して、店内を覗いている最中だった。これでは、カゲ姉たちが動けないのはもちろん、男がちょいと目線をおろしただけでも見つかってしまう。二人は氷のように身を硬くし、息を殺していた。

 ガチャ! 外側から、ドアを開けようとする物音がした。

 二人は同時に、ドアの小窓に視線を向けた。

 フジヤは絶望の眼差しで、今にも悲鳴をあげそうだ。

「おや」ドアの向こうから低い声がした。

「どうかしました?」これは、別の男だ。

「いやね、このドア、鍵がかかっているんだよ。店内も妙に暗くて、確認ができん」

「鍵? 悪戯でしょうか?」

「どうかな。店開きする直前で何かあったのかもしれない。このまま帰って、もしものことがあったら大変だ。とりあえず、他に出入りできる場所があるはずだから探してみよう」

「了解」

 男たち二人は、ドアから離れた。

 血のけがひいて、卒倒してしまいそうだったフジヤは安堵の息を吐いた。カゲ姉は、表情こそは見えないが、この人のことだ、悪い顔でほくそ笑んでいるに違いない。

 しばらくして、「ここから建物の裏へ回れそうですよ」外から声が響いた。

 耳にしたカゲ姉は、直後、

「今こそ好機ですわ。彼らが裏口に向かってくれている、その間に表から出ますわよ」

「い、今っ? ここで、ですか?」フジヤは、まさかと驚いた。

 しかし、本当に、この瞬間しかないと察したらしい。分かりました、とゆっくり頷いた。

 双方一致したところで、カゲ姉が確認のためか窓を覗く。

「やっかいなのが待ちかまえていますわ」

『上手くいかないもんだな。前の道路に車を停めてやがる。こりゃあ隊員が、運転席に一人残っているかもしれないぜ』

「最悪の場合、このドアを開けただけで気づかれますわね」カゲ姉の口調に真剣味が増す。「裏へ回ろうとしている二人にも」

「でも、出るなら今しか」フジヤのおろおろした口調が、カゲ姉の背中を押していた。

『そうだ。野次馬が集まっていない、今こそが最善のタイミングだ。しかし、怖いのが、残った隊員の目だな。店を出た際、見つからないといいが』

「待ちなさい。今、時間はどうなっています?」

「じ、時間? ええと、もう一時になるところですけど」

 自分のケータイを見て、フジヤはそう答えた。

「ほほほ。あたくしの運も、捨てたもんじゃないですわね」

 意味深な笑い声を、カゲ姉はあげる。すると、機関銃で弾丸をぶっ放しているかのような、けたたましい音が、建物の外から周囲に轟いた。


   *** ***


 普段は、うるさくて嫌いなんだが、今回ばかりはそれに救われた。二人は、入り口の鍵を外してハチの巣から出た。食べ物を盗んだ泥棒ネコが、何ごともなかったかのように家から出て行くって感じだった。まさに。

 カゲ姉たちは、横断歩道を渡って真向かいの、おしゃれな喫茶店を目指していた。

 そこは正面の窓が大きく、店に入って窓際の席に腰かければ、ハチの巣の様子、キハラの旦那がどうなるのかが容易に確認できる、打ってつけの場所だった。

 窓を透してさっと店内を覗う。客の姿は見当たらない。建物の横に停めてある自転車も、一台だけ。間違いなく客は、いるかいないか、という程度だ。

 つまり、ハチの巣からひょっこり姿を現したカゲ姉を、見た人間はいない。

 カゲ姉が、ガラス扉を押す。入ってすぐさま、右手の窓際の席に腰をどーんと落とした。溜め息を一つ。それから外を凝視した。

 ぼくちんは、店内を見渡す。

 ぼくちんの読みどおり、客はいない。客入りの悪い時間帯なのか、店そのものが繁盛していないのか。

 厨房に、エプロンを着用した店の者らしき若い女が、見事なまでに姿勢を正して、一人じっと突っ立っていた。

 人形、か? と思ったら、女は、びっくりしたぁ、と今にも声を出してしましそうな表情で、こっちを見ている。

 飛び込むように入店したから、驚いたのだろう。

 あるいは、カゲ姉らのことを変に思っているかもしれない。なんたって、外ばかりを気にしている、怪しい客なんだからな。

「あ……」

 フジヤの声に釣られて、ぼくちんは視線を窓の方に向けた。

 救急車という遮蔽物の向こう側から、えっちらおっちらと担架を手にした男が二人、姿を現した。担架には、頭をやられた旦那がいた。救急隊は淀みない動作で、でっかい体を車内へ収容する。そして、救急車を走らせた。

 邪魔だ邪魔だぁと遠ざかるその姿が見えなくなるまで、カゲ姉とフジヤは窓にかじりついていた。

 初めから何もなかったかのような、しんとした空気が戻ってくるのを感じた。

「思い通りにいってくれましたわね」

「はい。でも本当に、ヘリが通過してくれて良かったですね」

「ほほほ。あれほど盛大にプロペラ音を響かせてくれますと、他の音も聞こえなくなるものですわ」

 上品な笑みを零しながら、カゲ姉は、テーブルに置かれてあるメニューに手を伸ばした。

「さて、そろそろ注文しないと、お店に失礼ですわね」

 何を注文するか決めていないのに、カゲ姉は右手をあげて店員を呼んだ。

 と同時に、からんころん、と鐘の音が鳴った。

 カゲ姉たちが振り返る。視線の先に、背の高い男の姿があった。

「ただいま――」店に入ってくるなり、彼はそう言った。

 そしてカゲ姉らに気がつくと、

「ああ、いらっしゃいませ。少々お待ちください」

 軽く頭をさげながら、すたすたと店の奥へ足を進める。厨房で待機していた女店員と、一つ二つ言葉を交わしながら、エプロンを首にかける。

 準備が整ったらしく、男は背筋を伸ばして、こちらに近づいた。

 薄地だが、こんなくそ暑い日でも、長袖のシャツを着ていた。なよなよと貧相な体つきに、ほっそりとした感じの顔。切れ長の目がこちらを見下しているようで、冷たい威圧感があった。

「お待たせしました。ご注文ですか?」疲れた感じの、物静かで、低い声。

「ええ」カゲ姉はメニューに目をとおす。「ふうん。このお店、ドローンといいますのね」

 どろーん? 泥を扱ってんの?

 メニューの一番上にアルファベットが五つ並んでいるけど、これのことか? ってか、こいつは凄い。右から左、上から下まで甘い食べ物の名前しかないぜ。シュークリームだけでも、種類が豊富で大きさまでもが選べるのか。

 そこで、ぼくちんは見知った名を発見した。

『イチゴ味に、納豆味……』

「ほほほ、面白いですわね。では、カスタード味のシュークリームセットにしますわ」

 言って、メニューをフジヤに渡す。

「えぇと、ショートケーキセットでお願いします」

 こんなに珍しいメニュー表なのに、フジヤの奴は顔色一つ変えずに注文しやがった。さては、一度ここに来たことがあるな。

 男は、受けた注文の確認を取ると、「少々お待ちください」深々と頭をさげて、厨房へと戻った。

 思い出したように、カゲ姉が口を開けた。

「倒れていたオヤジのことで、何か話すことがあるんじゃなくて?」

 数秒間、フジヤはぽかんと口を半開きにして、時間が止まったように固まった。

「あ。そうです。忘れるところでした」

 いや、忘れていただろ? ぼくちんはそう突っ込みたい気持ちになった。

「聞かせてくださる?」

 フジヤは、頷いた。

「僕がシャルロットを買った時のことなんですけど。あの店長、昨日お店にいなかったんですよ」

「いなかった?」

「で、どうしたのかと訊ねたら、酷い熱が出たらしいのでしばらくお休み、って教えてくれたんです」

 カゲ姉が首を傾げた。「いったいどなたから?」

 フジヤは、相手の反応が予想外だったらしく言葉を詰まらせた。もじもじと、どう説明すべきか悩んでいた。

「えっと」上目遣いで、唇を動かす。「初めて見る人でした。確か、バイトだって、その人は言っていました」

「それはあり得ませんわ。彼、バイトは雇わないと頑として仰っていましたのよ――」

 カゲ姉はすぱっと切り捨てた。

「一時期は、お手伝い程度に肉親を使っていましたけどね。息子か娘かは失念しましたが」

 息子と娘、どちらなのか、カゲ姉の記憶が曖昧なのは、赤ん坊の頃しか会っていないからだ。電話口で旦那と喋っていた時も、そのテの話は大雑把にしかしていなかった。

「厳しい人でしたわ。あたくしと一緒に行動していたころとは大違い。自分の店を持った途端一変して、物っ凄ぉーく堅苦しいやつになりましたの。手伝ってくれていた自分の子に対しては、役立たず、などと罵倒していたそうですわ――」

 フジヤが見たというバイトくんの正体から、話がどんどん逸れてしまっている。

 そのことに気づかないフジヤは、そうなんですか、と相づちを打っていた。

「人相も強面になってしまってね」カゲ姉が二本の指で、自分の目尻をあげた。「その結果、奥さんに逃げられたそうですわよ」

「店を手伝っていた人はどうなったんですか?」

「今から二年まえ、二十歳になった途端に家を出て行かれたそうですわ」

「そ、そうなんですか。えっと、捜そうとはしなかったんですか?」

「放っておく、と一言だけ。どちらも、もういい歳ですし、オヤジも諦めていましたわ」

 カゲ姉はここで、急に身を乗り出して、顔をフジヤに接近させた。間近で見るフジヤの瞳は若くて綺麗だった。そこにカゲ姉のにんまりとした表情が映る。

「実はね、そのオヤジの子が、この一件に関わっていると思いますの。犯人か、あるいは共犯として。それこそ坊やがハチの巣で見た、バイトがそうかもしれませんわよ」

 だとすると、缶詰で足を滑らせたというぼくちんの推理がはずれたことになる。

「あたくしがどうしてそういう考えに至ったのか気になるでしょう? ほほほ。簡単ですわ。あそこには防犯カメラがありましたのよ」

 フジヤは手を顎に当てて考える素振りを見せた。建物の構造を思い起こしているのだろう。「……天井の隅にあったやつですか?」

 ちっ、ちっ、ちっ。それじゃあないんだな。

「いいえ、そちらはダミーですわ」カゲ姉はくすくす笑う。「入り口の両端にいたハチのヌイグルミ、分かります?」

 ファスナーを下ろして、中身をいじくり回していたやつだ。

 フジヤが首を縦に振る。

「このことは店に関わった者しか分からない情報。あの中に、本物の防犯カメラを仕込んでいましたのよ」

「あっ、あの中にですか?」

 カゲ姉が、はい、と頷く。

「でも、カメラはすでに抜き取られていましたわ。けどね問題はそこじゃないの。大事なのは、ダミーには触れられた形跡が一切なかった、ということですわ」

 説明を聞くと、フジヤにも糸口が見えてきたようだ。

「そうか。本物のカメラだけが触れられていた、だから店の手伝いをしたことのある、店長さんの息子が疑わしいのですね」

「そういうこと。ところで今あなた、どうして息子だと?」

「男の人だったんです。ハチの巣で見たバイトが。……あー、顔は憶えていないですけど」

「男性、でしたのね?」

 ったく顔も憶えていろよな。

 カゲ姉だったら、絶対に忘れていないだろうな。

「それにしても、店長さんを気絶させて、どうしてそのまま放っておいていたんでしょう?」

 確かに気になるな。旦那に殺意を抱いていたのなら、車に乗せて山にでも埋めればいいのに。それをどうして厨房なんぞに寝かせたままにしておいたのか。謎だ。

「放置していた意図の把握はできていませんわ。ただ、厨房の散らかり具合から考えると、事故か何かに見せたかったのかもしれませんわね」

『じゃあぼくちんは、まんまとしてやられた、てことかよ』

 しっかし、事故に見せかける犯行、てのはけっこう危ない橋を渡るもんだよな。

 キハラの旦那を殴り倒して、事故だと思い込ませる。ここまではいいとしてもよ。相手が意識を取り戻したら、計画は一発で、おじゃんだ。被害者の証言をもとに、犯人は捕まっちまう。

「まあ、何かしらあるのかもしれませんわね。放置、事故に見せかけた理由が」

 ちょうどカゲ姉が言い終えた、その時、すぐそばで、人の気配を感じた。

『おわっと、びっくりしたぁ。幽霊かと思ったぜ』

 さっきの男店員がすぐそばで立っていた。曲げた左肘で器用に挟んだお盆には、二人が注文した品が載っかっている。

「お待たせしました。シュークリームセットとショートケーキセットです」

 力のない声で伝え、テーブルに二種類のセット品を移そうと、右手で皿をつまむ。その手は緊張しているのか、微かに震えていた。だが、男の表情は冷静そのものだ。

 コーヒーが丁寧に並べられる。続いて、ミルクを入れた、小さな小さなカップが二つ。

 その次。ことん、と置かれた容器に、ぼくちんは見事釘づけとなった。マグカップほどの瓶に、黄色い液体が満たされていた。天井から明かりが、そいつに降り注ぐもんだから、きらきらとした輝きが放たれていた。

「これは、ハチミツね」カゲ姉が気づいた。

「はい。コーヒーに垂らしますと、苦みが薄れ、あっさりとした味わいになります」

 瓶詰めになったハチミツの使い方を説明する。カゲ姉はそれを、どこか面白そうに、

「なるほど。だから、お店の名前が、ドローンなのね」

「あの、ドローンって、何て意味なんです?」割り込むように、フジヤが訊ねる。

「ほほほ。自分で調べてみなさい」

 さすがカゲ姉。意地悪だな。

「ちぇ。じゃあ、帰ったら調べてみますよ」

 そんな二人のやりとりを聞きながらか、店員はもくもくとお皿を移す。

 今度は、ケーキの類だ。

 柔らかい雪を盛ったかのような、ふわふわ感溢れるホイップクリーム。丸々とした艶のあるイチゴ。上下のスポンジに挟まれた、イチゴの果肉を混ぜ合わせた生クリーム。いたってシンプルなショートケーキだが、輝くような高級感を漂わせていた。

 そして、シュークリームが運ばれた。

 メニューで名前を見た時から、もしやと思っていたが、やっぱりオバの家で見たのと同じシュークリームだった。

 フジヤも、ぼくちんに続いて気づいたらしい。声には出さなかったけど、あっ、とでも言いたげに表情を変えていた。

 持ってきたお皿を並び終えると、男は一礼をして、テーブルから離れようとした。

「少々、お訊きしたいのですが」

 カゲ姉が妖艶な声を投げると、男は踵を返して、こちらに向き直した。

「何でしょう?」男は怖いくらい無表情だ。

「そこのケーキ屋さんについてなんですけど。昨日の正午、不審な人物などを見ませんでした?」

 男はやはり無表情で答えた。「ハチの巣さんのことですか? 特に不審な人物などは見てませんが」

 期待に反した返答だからか、カゲ姉はつまらなそうに片肘をついて、ふぅん、と呟いた。

「それにしても、あんなしょぼくれたお店の名前を、良くご存じですわね」

「目の前にあるお店ですからね。嫌でも頭の中に入りますよ。ちなみに、開店した際には、挨拶として、向こうの店長さんに会いに行ったこともあります」

 カゲ姉の体が、くすりと笑う。

「その話なら、ハチの巣の店長から聞いたことがありますわ。今時の若い者がこんな店にも、律儀に挨拶にやって来るんだな、と。嬉しそうにね。たしか名前は、キミ……いえ、シロミだったかしら?」

 カゲ姉が、男から名前を聞き出そうとしている。

「いいえ。ミキです。ミキ、マコト。ここの店長をしています」

 女みたいな名前だな。

『って、おい! ミキだって。その名前、オバを襲った野郎の名前じゃないのかよ。納豆味のシュークリームが教えてくれた! まさかここで会えるとはな』

 オバが買っていたシュークリームもこの店のものだったしよ。こりゃ間違いない。

 これは大きな情報を得たぞ。

「そうそう。ミキ、そういう名前でしたわ」

 ごめんなさいね、とカゲ姉が笑いながら、謝る。

『おいおい、流暢に会話している場合じゃないぞ。早くこの男、とっちめないと』

 必死こいて叫んでいるのに、我が主の耳には、ちぃっとも届いていないみたい。

「あちらにいる方は?」

 そんなことはどーでもいいのに、カゲ姉は、厨房にいる女店員について訊ねた。

「あれは、調理担当です。開店当時から、随分と助けられています」

 それは、自分は料理が全くできません、と言っているように聞こえる。

「つまり彼女が、このケーキたちを作っていますのね。ほほほ、なるほど。良ければ、名前をお聞きしたいのですけど」

 カゲ姉の視線が、ミキマコトへ戻った。

 すると、ほんの一瞬だけ彼は瞳孔を動かして、困った表情を浮かべた。口を開けて答えようとするまで、時間がハチミツのようにどろりと流れた。

「きゃあああああああああああああ!」

 金属を切るような甲高い声が、店中に響いた。

『うわわわっ、な、ななな、何だぁ?』

 不意打ちもいいところだぜ。常に冷静沈着を貫いているぼくちんでも、そりゃあもう天晴れなくらいに驚いてしまったさ。

 ぼくちんだけじゃない。この場にいる全員が、体をびくりと震わせて、同時に一カ所に注目していた。的となったのは、今まさに、ミキから名前を教えてもらおうとしていた、調理担当の女店員だった。

 地味な人間のくせに、あれほどの絶叫を発せられるのか。

「も、申し訳ありません――」女は深く頭をさげた。

 それから怖々と、こちらを向く。

「あの、マコ店長。すいません。ちょっと……」

 弱々しく呼ばれたミキマコトは、「ああ、分かった」頷いた。

 失礼します、と彼は言い残し、早足ですたすたとぼくちんらから離れていった。

 厨房に戻ると、二人は向き合って口々に何かを囁き合っている。やや遠くて、ぼくちんにはさっぱりだ。

『でも、カゲ姉なら二人の会話を……って、この人、シュークリームに夢中だよ』

 カゲ姉が手を出したシュークリームは、上部分の取り外しが可能だった。鍋の蓋みたいにつまんであげると、カスタードがそこに満たされていた。いやそれだけじゃない。ハチミツが贅沢なほどに垂らされてある。カゲ姉は、その奇妙なクリームをスプーンで弄ぶようにかき混ぜた。よほど弾力があるらしく、掬うと、とろけたチーズのように軽く伸びた。

 外側の生地と一緒に口にする。おいしい、と一人囁く。続いてもう一口。

 三口四口とパクつきながら、「坊やは難しい顔をして、考えごとかしら」カゲ姉は声をかけた。

 うつむいていたフジヤが、はっと顔をあげた。

「あ、いえ。そんなことないですよ――」

 いかにも考えごとをしてました、って面だった。

「ただ、この喫茶店にあんな店長いたかなぁ、と思って」

「と、言いますと?」

「ずっとまえに、オバちゃんに連れられて来たことがあるんですけど、厨房にいる女の人しか記憶にないんです」

『女にしか目がいかなかったんだな』ぼくちんは、すぐにそう思った。『すけべだねぇ』

 カゲ姉は、シュークリームを口に含んだまま、違った意見をあげた。

「彼が、たまたま休みをとっていただけかもしれませんわよ」

 変に考え込んでいるフジヤに伝える。

「そう、ですかね」

 納得したのか、していないのか、はっきりせずにいた。銀色に輝くフォークの先端を、イチゴに突き刺して、彼はイチゴを口に放り込もうとする。

「待って」

 カゲ姉が、大きな声を出した。あんなに大きかったシュークリームをいつの間にか片づけていた。

「な、何ですか?」驚きのあまり、彼は見事にぴたっと静止した。

「せっかくのショートケーキですわ。あたくしがケーキ占いをしてあげますわ」

「ケーキ占い?」

「ええ。坊やのそのイチゴ、底にくっついた生クリームを見て占いますの」

 フジヤは、ちらりとイチゴに目をやった。イチゴには、切り離されたヘタの代わりに、何とも形容し難い歪な形をしたクリームが、ごっそりと付着している。

「面白そうですね」興味が湧いたようだ。「ぜひ占ってみてください?」

 カゲ姉は頷いて、イチゴを睨んだ。短く唸って、ゆっくりと語り始めた。

「あなたは一本の細道を歩いていますわ。しかし、先へ進もうとしても、目の前には壁があって、現在地から動けていません。あなたは、その壁を壊そうとしている。ですが残念なことに、壊し方が分からない」

「壁……?」

「でも、分からないからといって、闇雲に壊そうとしてはいけません。むしろ、動かずにじっとして、自然に壊れる時がくるのを待つべきです」

 おしまい、と言葉を足して、占いは終了した。

 占いを受けたフジヤは困った様子だった。どういう意味なのか、壁をどうすればいいのか。それらを訊きたくてたまらなそうだ。

 だが相変わらず、うちの主は人の期待に応えるつもりがないらしい。黙ったまま、コーヒーを啜るだけだった。

 こうなると、カゲ姉から返答を聞き出すのは無理。フジヤもそう察したようだ。ため息を漏らして、イチゴを口の中へ放り込んだ。

 あとは、まるで気を紛らわそうとするように、残りのケーキをがっつき始めた。食器と金属が触れあい、小鳥のさえずりみたいな音が立つ。

 カゲ姉は、頬杖を突いて左横を向いていた。

 ハチの巣を眺めているっぽい。

 無人となった建物は、すっかりと存在感をなくして、廃墟のように何だか物寂しくなっていた。

「……蜂の巣で見た店員。シャルロット。娘っ子の失踪」

 コーヒーを啜る。唇から、誰にも聞こえないだろう声を静かに吐く。この様子から、カゲ姉が長考にふけっているのだと感じた。

「あたくし、すべて分かりましたわ」

「はい?」間の抜けた声を発する。

 食器に触れる音が静止した。フジヤが手を止めたのだ。

 からかうような笑い声があがった。顔の向きを、寂しげな洋菓子店からフジヤに変えた。

「ねえ、坊や」ネコ撫で声、というよりは、妖しげな声。

 異様な気配を感じたか、フジヤは、ぎくりと上半身を仰け反らした。

「そう驚かずに」カゲ姉は甘い声で、「取り引きをしたいのですわ」

「取り引き? いったい今度は何を企んでいるんです?」

 カゲ姉が、にやりと不気味な笑みを浮かべた。……気がした。

「昨日の続き。シャルロットをかけた取り引きですわ」

 滑舌の良い声と、その内容に、フジヤは眉を歪めた。

「でも、シャルロットは」

「お忘れ? あたくしはシャルロットの居場所を知っていますのよ。ただ、所有権を未だ手にしていないだけ」

「つまり、オバちゃんを見つけ出す代わりに、シャルロットの所有権をくれ、と?」

 ぼくちんの体が揺れる。カゲ姉が大きく頷いたってことだ。

 フジヤは、合点がいかない表情で訊ねた。

「一つ、教えてください。シャルロットがどこにあるのかを知っているんでしょ? だったら、黙って持って行けばいいじゃないですか。取り引きなんかせずに」

 ふっ、とカゲ姉が笑った。「それだと泥棒みたいでしょ?」

「本気で言ってます? 不法侵入の常習犯が」

「あら酷い。あたくし、善人でしてよ」

 フジヤの中で答はすでに決まっていたようだ。決断は早く、こくんと首を縦に振った。

「分かりました。オバちゃんを見つけてくれたら、シャルロットはあなたのものです」

「嬉しい返事ですわ。……そうだ。坊やには、これを差しあげますわ」

 カゲ姉の手が耳もとまで伸びて、二つで一つのぼくちんらを無情にも引き離した。

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