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消えたシャルロット・②シュークリーム編

   【潰れたシュークリーム】


「本っ当に、腹が立つわ!」

 店中に、やかましい声が響き渡った。

 わしの目の前には二人の人間がいて、向き合う形でテーブルに着いていた。一人は、先ほどの怒鳴り声を発した、若い女。もう一人は、ここの従業員で、大人の女性だった。

「そう、いらいらしないで」

 大人の女が、若い女に言った。掠れたような、囁くような声だった。聞いただけで、気弱な性格の持ち主だと想像させられる。

 わしは、じっと見つめる。まず、見栄えがしない。それどころか、何というか、よう分からんが、地味だった。喩えるなら、生クリームにイチゴを乗せただけの、つまらないショートケーキだ。胸も乏しいし、女が抜けとるよ。

 それでも、長い頭髪を後ろで結ってあったわけだから、微かだが女らしさを感じられた。

 女らしさ以上に欲というものが感じられない。

 それでも彼女は、よほど教育が良かったらしい。イスに座る姿勢がいい。

 比べて、もう一方は、だらしがない。

「だって今日は、八月の二十二日。ハチの巣で、あのシャルロットが売られる、特別な日なんですよ――」

 騒がしい女は、作った握り拳でテーブルを叩き、窓の外に顔を向けた。どれほど生きてきたのかは知らんが、中身は駄々っ子。若い女ではなく、子供と呼ぶに相応しい。

「なのに、なのにぃ、お店が閉まってるって、どういうこと! 信じられない」

 容姿もそうだ。幼さが抜けきっておらず、いまいち物足りない。切り揃えられた短い髪に、ちょこんと出た鼻。背の低い体は、肌が浅黒く、チョコクッキーを連想させる。

「はあ――」うるさかった女から、今度は気が抜けたような溜め息が聞こえた。とてん、と小さな音を立てて、額をテーブルにくっつけた。

「バースデイケーキは、いいものを用意しようと決めていたのに」

「バースデイ? あっ、もしかして、オバの話に良く登場するフジヤくんのこと?」

 この子供、オバ、というのか。ふん。変な名前だな。

 そのオバが頭をあげて、えへへ、と照れたように口を綻ばせた。

「店長がお休みだった時、お店に連れて来てくれたことがあったわよね」

 今、この場にも、その店長の姿はどこにもない。

 少しまえに、どこかへ出たきり、戻ってきていないのだ。

「うん。そのフジヤにね、びっくりさせるような、どっきりバースデイケーキを用意したいの」

「うふふ。一つだけ、いい手があるわよ」

「本当に? さっすがミキさん。教えて教えて」

 甘い蜜のような誘惑に乗って、オバはすがる眼差しを相手に向けた。

 相手の名前は、ミキというらしい。

 二人は、互いに顔を近づけて、ひそひそと小人のような会話を始めた。

 店内に二人しかいないのに、その会話方法に意味はあるのか?

 耳を、ミキの口もとに寄せたオバは、うんうん、と何度か頷いて、

「うーん。これは難しそうね」と一声あげた。「でも、すっごく面白そう」

「実行するなら、急がないといけないわよ。今、五十二分だから」

「まじ?」イスから勢い良く立ちあがる。「こりゃ全力で自転車をぶっ飛ばさなきゃ、だめね。ごめん。コーヒー頼んだけど、飲めそうにないわ」

 突風みたいに立ち去ろうとする。

「待って」冷静な声が、オバを呼び止めた。「何か買って行った方がいいかも」

 落ち着け、と言われて、オバは考えた。

「んー、そうね」提案に頷いた。

 くるり、とこちらを向いて、大股で歩み寄る。小さな体はどんなに近づいても、大きく見えることはない。

『まったく興味をそそらせない体だな。つまらん。わしは処分間近の商品だが、こんな発育に乏しい女に、食われるのは、ごめんだぞ』

「じゃあ、こいつと、こいつ。買っていくわ」

 ガラスケースの前に立った女が、わしに指をさした。

『おい、指をわしに向けるな!』

 必死の抵抗も虚しく、店の女は、早い対応でお持ち帰り用の箱を用意し、わしをガラスケースから取り出した。

『止めろぉ』

 すると、店のドアが音を立てて開いた。反射的に二人は首を捻って、そちらを向いた。

 男だった。片方の手をポケットに突っ込んで、どこか疲れ切っているように思えた。痩せた体がさらに細く感じられた。不機嫌なのか、目つきが悪い。

「ちっす。マコ店長! おかえりなさい」

 オバの小娘が、びしっと敬礼をした。えらく親しそうだな。

「ああ、君か。ただいま」

 ここの店長は、苦笑いを浮かべながら低い声で返す。

 気のせいか、男の体から甘い匂いが、うっすらとしていた。


   *** ***


『不愉快だ』

 ここは上下左右隙間なしの部屋で、わしは激しい揺れを体感していた。部屋といえば、聞こえはいい。が、箱の中というのが真実。狭っ苦しい場所に、閉じこめられているのだ。商品として。

 そしてその箱を、どうやら大きめの袋に入れているようだった。

 箱と袋が、わしらを日の光から守ってくれている。おかげで周囲は暗く、激しい揺れの正体は分からない。ごうごうと風がぶつかっているのだけは分かった。

 がこん。時折、音を立てて跳ねたりもしていた。箱が小さく浮いただけなのだろうが、暗闇で突然襲いかかる衝撃は、苦しいものだ。

『もう少し丁重に扱ってほしいぞ』わしは叫んだ。『おまえも、そう思わないか?』

『いつまで文句を垂れているのです? あなたも彼女と変わらず、駄々をこねますね。わたしはそんなに嫌な気分じゃないですよ。彼女は、わたしたちを買ってくれましたからね。食べ物として生まれたわたしたちからすれば、これは至高の喜び、というやつでしょう。それともあなたは、誰にも買われず静かに売れ残って、惨たらしく廃棄処分されたかったのですか? それとも、路上でネコの餌になるのがいいのかな』

 暗闇からの返答は、わしの意に反したものだった。フォークの先端で、ざくざく削られるような言葉。発したのは、イチゴ味のシュークリームだ。箱に詰められる際に、確認したのだから、間違いない。

 その姿は、人間の掌を横に二枚並べたほどの、些か大きいものであった。外装のパイ生地も、中身が漏れないよう、丈夫に作られている。

 イチゴシュー。こやつの場合、その名から察するところ、イチゴに関係した何かが、内側に入れられているのであろう。

 赤く熟れたイチゴが、一個丸々とあるのか。それとも、クリーム状となっているのか。などと考えを巡らせてはみたが、正確な答えは出ない。

『それに、気づいてます? わたしたちが二つ三つと喋っている間に、強い揺れはなくなっていますよ』

 イチゴシューの言ったとおりだった。揺れは、気づかぬ間に落ち着いていた。しかし、気づいていなかったと、認めるのが嫌だったので、『知っておる』と早口で答えた。

 どうやらオバは、歩いているみたいだった。何やら、ぶつぶつと呟いている。

 それから、しばらくして、

「もしもーし。わ、た、し――」大きな声だ。

 誰かと会話を交わし始めたらしいな。

「いやさ、普通にケータイの方に電話をかけても、つまんないでしょ。だから、家の電話機の方にかけて、びっくりさせてやろうと思ったの」

 がはは、と豪快な笑い声があがる。

 それから、些細な会話がしばらく続いた。

「あ、そうそう言い忘れていたわ。フジヤ、十四歳の誕生日おめでとう」

 フジヤか。さっき、店でちらっと聞いた名前だな。

「と、いうわけで、明日、私ん家で誕生日会をやるわよ。どーせ暇なんでしょ」

 えらく強引な誘いだな。

「さすがの私も、夏休みが終わると高校受験で忙しくなるからさ。今のうちに愉しんでおこうと決めたの。それにね、渡したい物も用意してあるんだよ――」

 渡したい物……。こいつは、わしらのことを言っているみたいだぞ。

「と言っても、本来渡すはずだったものが、手に入らなかったから、大したものじゃないわよ。……はあ。本当はね、ハチの巣で、ケーキを買う予定だったの。で、ついさっき、ハチの巣に行っていたんだけど。……うん。でもね、店が閉まっていたの。わけが分かんないわ」

 オバが、落胆の息を漏らす。うじうじとされるのは嫌いだが、この女の場合、これくらいが静かでいい。

「ええ?」オバが大きな声をあげた。「じゃあ、フジヤ……あんたハチの巣で買い物したってこと? それって、いつ?」

 女の口調は強く、問い詰める。

「くっそー。で、今はどこに置いてあんの? ……ふむふむ。よし。それ、私もいただくから、食べずに待っていなさい」

 最終的には命令口調となっていた。わしは、オバの話し相手であるフジヤに同情した。今までも、苦労してきたに違いない。

 ふと、オバが、急に黙りこくった。

『む。何だ、いったいどうしたのだ?』

 しかし、女が黙っても、静寂が訪れることはなかった。わしの機嫌を悪くさせる別の音が、今度は上から降ってきた。騒音を通り越した、激しい音。わしらに直接、危害が及ぶ様子はなかったが、このまま黙って辛抱するのは無理な話だった。

『あーっ、何なのだ。この不必要にうるさい音は。誰か説明をしてくれ』

 いったい、外では何が起こっているのだ? さすがのわしにも不安が過ぎる。イチゴシューも、わしと同じ気持ちか、先ほどみたいな反論をしてこない。

『気分を害するには十分ですが、少し冷静になってみれば、なぁに問題ありませんよ。音の正体は容易に想像できます――』

 あなたみたいな頑固者には、一生分からないと思いますけどね。とイチゴシューは加えて言った。

『まあ辛抱してみてください。ほら』

 イチゴシューの合図を受けたかのように、炸裂していた音は、どんどん萎んで、やがて消えてしまった。

『音の正体は、上空を通過する、何か、だったのです。その何かが音を発していただけ。だからわたしたちは、被害を受けなかったのですよ』

 なるほど。言われてみれば、確かにそのような感じであった。

「ごめんねー。ヘリとか、うるさいのが通っている間は、あんまり喋りたくないからさ。だってお互いに声が聞き取りにくいじゃない」

 会話とともに、オバは歩きだした。喋る声は、妙に喜びを増しているように感じた。どことなく、足取りも軽い。

「それとね、もうすぐでフジヤん家に着くから。出迎え、よろし……ありゃ、電池切れだ」

 不都合に見舞われたらしいが、特に困ってはいない様子だ。一つ、軽く舌を打って、やっと黙ってくれた。靴音だけが、微かに聞こえる。これこそ、わしの待ちわびていた心地良さだ。

 それも一瞬でしかなかった。近くで、がらり、と物音が立った。その先から、声が飛んできた。

「わっ。びっくりした」初めて聞く声だった。

「おっす」オバが男らしい言葉で返す。「来たぞー」

「うん。いらっしゃい――」

 この声の主が、フジヤか。その姿を、わしらは確認することができないが、なるほど、十四歳という若々しい声だ。そしてこれは男だな。しかしオバと比べて、えらく物腰の低い人間だな。

「さ、あがってあがって」

 フジヤが誘導して、オバがついていく。真っ暗で何にも見えないが、そんな気がした。

 二人は、建物に入り、ぺたりぺたりと足音を立てていた。

 屋外と違って、雑音がない。

「ずいぶん大きい袋だね。それくらいだと、ずばり中身はケーキってところかな?」

 フジヤは、オバが何を買ったのかを当てようとした。ケーキだと彼は思っているらしいが、残念ながら、オバが手にしているのはシュークリームである。わしは少しだけ笑った。

「へへへ。秘密だよ」オバは、正解とも間違っているとも教えなかった。「正解は明日にね」

「ちぇ。つまんないの」

「そんなことより、私のシャルロットちゃんは、ちゃんと残っている?」

「私のって、僕が買った物だよ」

 フジヤとやらは、オバの言葉を受けて、半ば呆れたような反応で答えた。

「ふふふ。いずれは私の胃の中に消えてなくなる定めなのだよ」

「そう言っていられるのは、今だけだよ。びっくりするよ。シャルロットって意外と大きいから」

「ほー。そいつは楽しみね」オバが、くっくっ、と笑う。「そういや噂だと、シャルロットはかなり絶品らしいわね」

「みたいだね。年に一度しか売られないせいもあるかもだけど、ハチの巣のシャルロットを食べるのは、僕も今日が初めてなんだ。何度もハチの巣に足を運んでいたけど、いつも売り切れでね」

 幾度も通い、やっと手に入れることができた、それほど入手困難な代物なのか。さぞかし人気があるようだな。

『こいつは興味深い。できれば、一度お目にかかりたいものだ』

 わしがそう何げなく言うと、悪戯っぽい声がかかる。

『無理ですよ。わたしたちは、箱の中なんですから。同じ場所で、取り出されない限りね』

『そんなことは分かっておる。ただの独り言だよ』

 とは言ったものの、こうも断言されると、多少、悲しさを味わってしまう。

 その間に、二人は目的の場所、というよりはどこかの部屋へ着いたようだ。

「せっかく、オバちゃんも来たことだし、コーヒーでも用意するね」

 フジヤは上機嫌そうだった。

 しかし突然、彼は狼狽え始めた。

「え、あれ?」

「んー、どうしたの?」オバは、あっけらかんとした態度で訊いた。

「そんな……」

 困惑やら動揺やらをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた声。フジヤには、オバの声が届いていないようだ。

『がたがたと、うるさいなー』

『何かを、探しているみたいですね』

「ない!」フジヤは言った。「シャルロットが、なくなっている」

「シャルロットって、買ったやつ?」

 訝しみながら、オバが確認を取る。

「うん」大きく落胆した返事。

 この瞬間から、先ほどまでの、軽快で愉しげな空気が、がらりと一転した。

「置いてあったシャルロットが、ちょっと目を離した隙に、消えた、ってこと?」

 返事は聞こえなかった。

「ねえ、もしかして冷蔵庫じゃないの?」

 沈黙。そして、か細く鳴る足音。少し離れて、また戻って来る。

「なかったよ」

「どうする? 警察でも呼ぶ?」

「嫌だよ。買ったケーキが消えた、なんて警察に説明すると、笑われるか、怒られるかのどちらかだよ」

「そりゃそうだ」オバは苦笑を漏らした。

 その時だ。遠くの方から、ぴんぽーん、と間の抜けた音が、一つ鳴った。

「誰か来たみたいよ」

「聞こえているよ」

 フジヤの口調から機嫌の悪さが察せられる。そんな彼をからかうかのように、ぴんぽーんと鳴る。そして、

「ごめんください」別の、人間の声が、遠くから流れてきた。

『女だ』わしは興奮した。『綺麗な声だ』

『顔も知らない人間に、なに欲情しているんですか、あなたは。はあ、嫌だわ。この、好色魔!』

『うるさい』

 だって好きなんだから、しょうがないだろ。とは、とても言えない。

「はぁい」フジヤが、気怠そうな声をあげた。

 そして、彼のものだろう、重量感のある足音がした。歩き方にも、感情が染みついているな、とわしは苦笑を浮かべた。

 足音が、わしらから少し距離を空けた。本当に、三、四歩ほどの、少しだけだ。

「ちょっと――」

 近くで、不意にフジヤの声があがる。

 離れた足音が、二つ、攻められるように戻ってきた

「何ですか、勝手に人の家にあがり込んで……」

「ほほほ。おじゃましますわよ」

 フジヤや、オバたちとは違った、妖艶なその声に、わしはどきりとした。

『なんと色っぽい。これこそが成熟した女性。貴婦人というやつか。ううむ、顔を見てみたいものだ』

 だがいくら顔を覗きたいと願っても、婦人に関する情報は声だけなのだ。

 わしは想像力を必死に働かせた。婦人は……きっとずば抜けたスタイルの持ち主だ!

『あーあ。つまんないの! あんたなんか、腐っちまえばいいんだ』

 わしの不埒な考えに、勘づいたのか、イチゴシューが忌々しげに毒を吐く。

 いや、毒を放出させているのは、イチゴシューだけじゃない。

「あなた、いったい何者なの? 警察呼ぶわよ」

 オバが、つっけんどんな言い方をする。がるる、と威嚇しながら睨んでいるのだろう。

 おお怖い怖い。

 しかし、婦人は臆さない。ほほほ、と余裕の笑みが聞こえた。

「失礼しましたわ。そうですわね、カゲノ、と名乗れば分かりますかしら?」

「カゲノ?」フジヤが怪訝に呟いた。

 どうやら名前を聞いても、ぴんと来なかったようだ。

「カゲノ!」だがオバは、大きく反応した。「もしかして、あのお金持ちのカゲノ?」

 袋ががさりと音を立て、箱もぐらりと揺れた。この女、驚きのあまり前のめりになったな。興奮しているのか、鼻息を噴出させている気がする。

「オバちゃん、知っているの?」

「フジヤは知らないの? ここら一帯のケーキ屋を仕切る親玉会社で有名じゃない」

「へ、へえ。そうなんだ」

 フジヤはとぼけたような、間の抜けた返事をする。

「もーぅ、あんたはこの十数年間、何を見て育ってきたの? そんなんだと」

「ああ、分かった分かったから」フジヤが、口うるさいオバから逃げる。「で、そのお金持ちが何の用ですか? 勝手に人の家にあがり込んで」

「そうそう。今、ちょっとしたミステリーが起きているんですから」

 オバも何だか偉そうに言葉を投げた。

「ほほほ。あなたたち面白いですわね。では手短に用件を伝えますわ。フジヤさん、あなたが、ハチの巣でお買いになったシャルロット、それを頂戴しにやって来ましたの」

「ええっ」フジヤとオバの声が、見事に重なった。

 そんな少年少女の驚きに、何も感じなかったのか、カゲノと名乗る婦人は滔々と続ける。

「本当は、ちゃんとお店で買うつもりでしたのよ。でも、おかしなことにハチの巣が閉まっていましたの。ですから仕方なくこのお家へ伺ったのですわ。まだ、お食べになってはいないのでしょう? フジヤさん」

『これはまた、無茶苦茶なこと言う人が現れましたね。でも、冗談だとは思えないんだな、これが』

 イチゴシューの言葉に、わしも同感だった。婦人が冗談を言っているふうに聞こえない。

 これは、フジヤもオバも、同じではないのだろうか。

 くすり、と嘲笑らしきものが聞こえた。わしは想像する。婦人が、目を妖しく細め、にやにやとしている、その顔を。

 そこでやっと、フジヤにスイッチが入ったようだ。

「た、確かに、僕がフジヤですけど、どうして名前と、シャルロットのことを知っているのですか?」

「ほほほ。簡単ですわ――」

 婦人の、落ち着き払った言葉を、わしらは静聴した。

「あなたたち……そうねぇ……坊やと、娘っ子が、互いに名前を呼び合ったからですわ」

「坊やぁ?」フジヤが素っ頓狂な声を出した。

「娘っ子ぉ?」オバもだ。

「あら、変かしら? お似合いな呼び方だと思ったのですが」

 少年少女は声をなくしてしまったかのように、黙った。そんな不服な反応に、婦人は一切気づいていないらしく、脱線した話を戻した。

「娘っ子は、オバちゃんと呼ばれ。坊やは、フジヤと呼ばれていましたわね。名前なんてこれだけで十分に察しがつきますわ」

 そう考えるか。婦人に感嘆した。イチゴシューのやつも、何も言おうとしない。

「なるほど。納得できました。じゃあ、シャルロットについては」

「それに関しては、これを見れば分かりますわ」

 婦人がフジヤの言葉を遮る。口調が、やや得意がっているように聞こえた。

「何、それ、電子辞書なの?」

 今度はオバが口を開く番のようだ。

「どうぞ」婦人の色っぽい声。「ご覧になってみてください」

 どっぷりと闇で満たされた箱の中からでも、オバが、婦人から何かを受け取ったことが分かった。

「すっごーい」

 きーん、と黄色い声が、鋭く響いた。

 何を渡されたかは知らんが、よほど興味を引かれたみたいだな。

「この電子機器に、坊やの求める答えが載ってありますわ」

 どうしてカゲノ婦人が、フジヤ家にシャルロットがあると知っていたのかってやつだな。

「あっ、十二時の欄に、僕の名前と、シャルロット購入って書いてる」

 フジヤが実に不思議そうな声をあげた。

「ほほほ。この電子機器には、ハチの巣のデータがほとんど載ってありますの。売りあげのデータとかね」

「もしかして、会員カードを作った人のプロフィールなんかも、分かったりする?」

「娘っ子は、いい勘をしていますわね。そのとおり。会員カードは、ポイント加算だけの役割ではありませんの。お客さまが、いつ、何を、幾つ買ったのか、それらの情報がレジを通って、一瞬でこの電子機器へと送信されるようになっていますの」

 早口、かつ聞き取りやすい説明であった。おかげで零さずに聞き取ることができた。

『それは大層な代物だな』

「ふーん。だからフジヤがシャルロットを買った、と確信を持てていたのね」

「さて、すべての問いかけにお答えしましたわよ。どうかしら? もやもやしていた疑問が、綺麗に晴れたと思うのですが?」

『疑問は晴れたが、すっきりとはしないな』

 カゲノ婦人がより謎めいてしまった。

「待って」平手打ちみたいな声があがる。「私にも質問させて」

「何かしら?」婦人は快さげに了承した。

「どうして、ハチの巣の大事な情報を、カゲノさんが持っているの?」

「その答えは、娘っ子が自分で言っていたじゃない。カゲノの人間がどんな人物かって」

 カゲノの人間は、会社で、ほとんどのケーキ屋を仕切っているのであったな。

 オバも、そのことを思い出したらしい。

「ほほほ。まあ、ハチの巣は、少々特別ではありますけど。過去に、店長のオヤジとちょっとした付き合いがありましたから」

 その過去とやらに何かあったのだろうか。婦人は、懐かしそうであった。

『というか、お店の人と知り合いなら、後日、そのシャルロットとやらを直接受け取ればいいと思うんですけどね』

 イチゴシューの考えは、もっともだ。

『何かしらの理由があるのかもな。でなけりゃ、人の家なんざあがって来ないだろう』

 実際、どうなのかは知らないが。

「長年付き合ってくれたお礼に、彼の昔からの夢、店を出すことに金銭的な協力をしてあげましたの」

「うひゃあ! お店を」オバが声を上擦らせて叫ぶ。「金銭的な協力!」

「大したことじゃありませんわ」平然と、ごく当たり前のように言ってくれる。「ただ、条件として、ハチの巣に関するデータを頂きましたわ」

「お金持ちっていいですね」

 何だぁ? オバのやつは、打って変わって尊敬の念を抱いているぞ。つっけんどんとした態度はどこにいったんだ?

「ほほほ。で、もう終わりかしら? 質問は」

 婦人が、二人に確認する。

「あ」針のような、ついつい出てしまったと思われる、細く小さな声。

「まだ何か?」

「僕のシャルロット」声の主は、フジヤだった。「もしかして、あなたが盗ったのですか?」

 彼の何げない一言が、わしを熱くさせた。

『カゲノ婦人がシャルロット泥棒だと? ふざけた発想をするやつだ。その根拠はいったいどこから出てくるのだ。こんなに胸の大きい女性が犯罪など犯すわけがないだろう』

『まあまあ、そう熱くならないで。どうせ、わたしたちの声なんて、聞こえやしないのですから。それに、カゲノさんの胸が大きいとは限りませんよ』

 相変わらず攻めることが好きなイチゴシューに、また色々と言われてしまった。

「聞き間違いかしら」婦人は怪訝な調子であった。「あたくしがシャルロットを盗みました、と――」

『この様子、冷静を装っているみたいですけど、内面、結構驚いているっぽいですね』

『そりゃそうであろう。いきなり疑いをかけられたのだからな』

 直後、わしは思い違いをしていたことに気づかされる。婦人にとって、盗っ人扱いされたことなど、大した問題ではないのだ。

「つまり、手もとにシャルロットがおありでない。どこにあるのかも知らない。そういうことになるのかしら?」

 やはり、婦人は自分が疑われることよりも、シャルロットに気をかけている。

 婦人の態度に戸惑いながら、「そ、そうです」フジヤはシャルロットが消えていたことを伝える。

「なんてこと――」

 今まで、妖しく、濡れたように艶めかしかった婦人の美声が、急激に五十歳超えまで老け込んだ。

「計算外ですわ」婦人は何やら呟いている。「いえ、まだ何とかなるかも」

「もしかして、カゲノさんは盗ってない?」フジヤはやっと気づいたようだ。

「ええ、残念ながら。でも坊や安心して。これから、あたくしが消えたシャルロットの謎を解いてさしあげますわ」

「えっ! 分かるの?」

 フジヤとカゲノ婦人の間を割って入ったオバ。驚いた、というより信じられない、と言いたげである。

「ほほほ。消えていると気づくまでの経緯を聞かせてもらえれば、造作もないことですわ」

 婦人の物言いは、瑞々しい果実と同じくらい、あっさりとしていた。

「謎を解いてくれるのなら、話しますよ」

 餌に食いついたのは、フジヤだった。シャルロットがどうして消えたのかを、心底知りたがっているのだな。

「フジヤ、ちょっと待って」

 謎解きを頼もうとするフジヤを、オバが慌てた様子で制した。

『む。婦人に憧れを抱いていたオバなら、フジヤ以上にシャルロットの行方を知りたがると思ったのだがな』

 オバは、婦人の内面までは信用してないってことか。

「子供じゃないんだから、少しは相手の言葉に用心しなさいよ。解決できるかどうかも分かんないのに。あとで高額請求がきても知らないよ」

 姉が弟を叱っているみたいだな。

 ちなみにわしも、婦人がシャルロットを見つけられるとは信じられない。信じられないが、婦人の言葉から真実味が感じられた。

『カゲノ婦人は、どう出るかな?』

 婦人は、ほほほ、と変わらぬ上品な笑い声を聞かせた。

「請求書を突きつけるようなことはしませんわ。シャルロットも、見つけ出しますわよ」

『これは、見事だと惚れ惚れしてしまうほど、自信たっぷりな発言ですね』

 感心しているイチゴシューに、『本当にな』わしも合わせた。

「必ず見つけ出す? その根拠は」

 オバがそう訊ねたが、婦人は、

「さあ、坊や。話を聞かせてくださらない?」

 フジヤに無視されたショックからか、オバが、「けっ」と吐き捨てた。

「でも、何をどう話せばいいのか」

「そうですわね。坊やが家に帰って来られたのは、いつ頃かしら?」

 短く、間が空いた。フジヤは考えているようだ。「……ハチの巣から帰った時は、一時になる少しまえでした」

「家に着いてから、シャルロットをどうしましたの?」

 婦人が第二の質問を放つ。

「真っ先に台所に持っていって、テーブルの上に置きました。その直後、だったかな。電話がかかってきました。相手は、そこのオバちゃんです」

「電話? ケータイではなくて?」と婦人。「その時、シャルロットは?」

「家の方の電話にかかってきました。僕は、台所から出てすぐそこの親機を使いました。通話している間は、シャルロットから離れていました」

「そのあとに娘っ子がやって来ましたのね」

「はい。玄関でオバちゃんを迎えて、二人で台所に入りました」

「で、シャルロットが消えているって気づいたわけなのよ。箱ごとね。どう? これだけの情報で何か分かる?」

 彼らの証言を聞き終えた婦人は、「なるほど」静かに言った。

『すでに答は出ている、といった感じだな』わしは直感した。

「およその察しはつきましたわ」

「本当ですか?」フジヤと、

 オバは、「嘘ぉ?」えらく驚いたみたいだった。

「通話の真っ最中に、確かヘリが通りましたでしょう?」

「通っていたけど、何か関係あるの?」

 オバは質問に答え、おかえしの質問を投げる。

「とってもね。もっとも重要なのは、ヘリが飛行していた時間。知っていたかしら? ヘリは、土、日曜の二日間、きっかり一時にこの辺りを通りますのよ。なぜなのかは分かりませんが」

「この辺りを飛んでいるのは知っています」

 フジヤと、オバが声をぴったりと重ねる。

「賊はね、その規則正しいヘリの巡回を利用しましたのよ」

「えっ、どういう意味ですか?」

 フジヤは困惑し、細かい説明を求めた。が、婦人は、やはり自分のペースで話を進めた。

「次は侵入経路について考えてみたいのですが、この台所、出入りが可能なのは、どう見ても二カ所しかありませんわね」

「あの……」

 フジヤは、婦人に問いかけようとするが、あきらめたのか途中で言うのを止めた。

「出入りできる箇所は二つあるけど、廊下側の入り口からは侵入不可能よね。泥棒が透明人間でない限り」

「僕が台所の目の前で、オバちゃんと電話してたからね」

「となれば、台所の勝手口に決まりですわね。賊の侵入経路は」

 オバとフジヤから情報を聞き取って、カゲノ婦人は確信していた。

「待ってください。それが、そうとも限らないんですよ」フジヤが強く発言した。「勝手口は、内側から鍵がかかっているんです。外からは開かないんです」

『むぅ。では、シャルロット泥棒はいったいどこから入ったというのだ?』

 出入り口は二つあるというのに、どちらも侵入口として利用されていないということなのか。わけが分からんぞ。

 こればっかりは、さすがのカゲノ婦人も、難儀に思うのではないだろうか。

「鍵さえあれば、外からでも開けることは可能かしら?」

 婦人は変わらぬ冷静沈着な声色を発した。

「そりゃあ、まあ開けられますけど、鍵はちゃんと隠していますよ」

「どこに?」

「一応外からでも開けられるよう、植木鉢の下に……」

「ちょっとフジヤ、そんなことまで言っちゃっていいの?」

「あ」

 オバに言葉を遮られて、フジヤは、自分が余計なことまで口走ろうとしていたことに気づいたらしい。

「ほほほ。素敵な解答感謝しますわ。おかげで、賊の行動と形が、頭の中で鮮明になってきましたわ」

 賊の行動と、形が鮮明になっただと? シャルロット泥棒が何者なのか、分かったという意味なのか。

 ごくり。誰かの、唾を呑む音がした。婦人に翻弄され、周囲に緊張味が増した。わしも同じだった。婦人が次に何を言ってくれるのか、そればかりが気になっていた。

 焦らされているのか。婦人が口を開くまで、えらく間が空いている気がした。

「あああああああああああああ!」

 予測不可能。奇声が突然あがった。さすがのわしも驚きを隠せずに、『ぎょっ!』情けない声を漏らした。

「分かった。分かったわよ! シャルロットを盗んだ犯人が分かったわ」

 一気盛んにはしゃいで、歓喜していたのは、オバの小娘であった。

『ぬう。うるさい奴だ。いっそ、大声を出した拍子に、顎が外れてしまえばいいのだ』

『あらあら。良く聞こえなかったのですか? 彼女も、犯人が分かったと言ったのですよ。興味深いじゃないですか。彼女が、どのような推理をするのか、ね』

 それもそうだな。

「あら、娘っ子も?」婦人は愉しそうだ。

「オバちゃん、分かったって本当なの? じゃあ教えてよ。犯人は、どうやってシャルロットを盗み出したのか」

 感情を昂揚させたフジヤに、オバは、「ふふん」得意げに笑った。

「簡単簡単。聞いて驚かないでね。シャルロットが消えたのは!」

 オバの自信に満ちあふれた一言一言は、まるで鉄砲の弾丸であった。力強い言動に、周囲の空気が震えていた。

 犯人が分かった、と言い切った女の、先に続く台詞は、出し惜しみされることなく、すぐに聞けた。

「ケーキコレクターの仕業だったのよ!」

 のよ! と、オバのはきはき声が響いた瞬間、周囲は妙な何とも表現し難い沈黙に包まれた。

『ケーキ……何だって?』

『ケーキコレクター、そう言ったみたいですよ。それが何なのかは分かりませんが』

 イチゴシューも、いつもならフォークで突くような返答をするのに、今回ばかりは違った。

「ケーキコレクター、て何だい?」

 人間のフジヤですら、オバの言葉にチンプンカンプンのようだ。

「ケーキコレクターというのはですね、今から二十五年ほど昔に、この町で悪事を働いていた泥棒の、つまり呼び名ですわ。ケーキ泥棒とも呼ばれていましたわね」

 わしらの疑問に答えてくれたのは、オバではなく、なぜかカゲノ婦人であった。

「二十五年!」

 それは、フジヤの声を上擦らせるほど、昔のことらしい。

「それとね」オバが解説を加えた。「そのケーキコレクターは、世にも珍しいお菓子なんかを集めては、コレクションとして食べずに飾っていると聞くわ」

『愚かな!』イチゴシューが憤怒の声をあげた。『食べ物を口にせずに、飾るだけなんて、生き殺しじゃないですか。これじゃあケーキたちが何のために作られてきたのか、さっぱり分からないですよ!』

『お、落ち着け。わしらが何と言っても、無駄なのであろう?』

 それに、ケーキコレクターとやらはここにはいないぞ。

『うるさい。この、おたんこなす! この怒り、言葉にしないと収まらないから、言うのです。相手に伝わらないことなど、百も承知』

 怒りを爆発させたあまり、中身のイチゴがどうにかならなければいいのだが。いや、もうすでにイチゴシューの表面に赤味が増しているかもしれない。

「へぇ。宝石とかじゃなくて、ケーキを飾るんですね。変なの」

「いいえ。少しも変ではありませんわよ。見たことがあるでしょう? 食べるのがもったいないと感じてしまうほどの、美しいケーキやお菓子を」

「言っていることの意味は分かりますけど」

「きっと、綺麗に彩られたお菓子の魅力に気づいたのね――」

 まるで、自分もそうだと共感しているように聞こえた。熱くなったオバは言葉を続ける。

「ケーキコレクターのどんなところが凄いかというとね、お店に並べてあるものから、人が買ったものさえも、盗んでしまうらしいのよ。それらしい痕跡を微塵も残さずにね」

「大胆かつ奇抜な犯行ゆえに、盗られた側は、数時間気づかないと聞きますわ。やっと気づいても警察へ通報する者は少ないそうですわ」

「警察へ連絡しない……その気持ち、今の僕と同じですよ」

 フジヤは溜め息混じりに言う。

「その心理をついての犯行でしょうね。捜査を頼む者もいたでしょうが、どれもこれも警察は半信半疑でまともな捜査を行わない。結果、今日のこの日まで、賊の正体が男なのか女なのか、それすらも分からないまま時が過ぎたそうですわ」

「はあ。ある程度は理解できました。オバちゃんは、そのケーキコレクターが、僕のシャルロットを盗んだと考えているんだね?」

「それしか考えられないわ」オバは断言した。

『ケーキコレクターに関する情報を、ふまえた上での推理ならあり得ないこともない。だが、何か引っかかる。本当に、そいつが犯人なのだろうか』

 すると、オバの考えを小馬鹿にでもするかのような嘲笑がすぐ近くであがった。

「ほほほ。娘っ子のその考え、話としては面白いですわ。でも残念。坊やのシャルロットが消えたのは、ケーキコレクターの仕業ではありませんわ」

「え、違うの?」

 まさかの否定に、フジヤは驚いた。

「坊や、ケーキコレクターが世間を騒がせたのは二十五年も昔のこと。今では、ケーキが盗まれるような珍事件は起きてませんわ。それどころか、ほとんどの人がケーキコレクターの存在を忘れているでしょう。その理由はなぜかしら?」

 婦人が、遊んでいるような問いかけをする。

 沈黙が流れた。

「どうしてなんですか?」フジヤには分からなかったらしい。

「ほほほ」婦人は愉快そうに教えてくれた。「歳をとったからですわ」

『なるほどな』思わず感嘆の声を放った。

 フジヤとオバも、これは盲点であったと考えているのだろう。言葉をなくしていた。

「断言しますわ」婦人は、二人に追い打ちをかけるように言った。「この犯行、ケーキコレクターではございません」

 シャルロットを盗んだ犯人について、意見が割れた。

「なら、誰がシャルロットを盗ったっていうの?」

 オバの語気は平常に思われたが、どこかしら通常とは雰囲気が違っていた。

「ほほほ。心配せずとも、先ほども言ったように、賊の正体はもちろん、シャルロットがどういうふうに盗まれ、現在どこにあるのか、これらの答えは用意できていますわ」

 悠然と喋る婦人に対し、オバはとうとう言葉なしとなった。

 しかし、口はもう一人分ある。

「本当ですか?」フジヤだった。「なら、早く教えてくださいよ」

「ええ。お望みとあらば」

 フジヤの興奮は、この一言で最高潮に達したに違いない。

「ただし――」

 この三文字が、フジヤの歓喜していた空気を一気に凍りつかせた。

「取り引きをしてもらいますわ」

「と、取り引き?」

「ほほほ。怖がる必要はありませんわ。お金も頂戴しませんし。実に簡単なこと。消えたシャルロットの謎を明かした報酬として、そのシャルロットを頂きたいのですわ」

 そういえば、婦人はシャルロットが目的で、この家にあがり込んだのであったな。

『シャルロットのありかを知る代わりに、そのシャルロットを失う。こんな無茶苦茶な選択を用意するとは』

『それでも、彼なら条件を呑むでしょうね。随分と、シャルロットのことで焦らされていましたし』

 イチゴシューはそう思い込んでいた。

 婦人は、フジヤに迷う余地すら与えないつもりらしく言葉を加えた。

「あ、そうそう料金のことを忘れていましたわね。ケチなことは言わずに払いますわよ。元値の三倍で買い取りますわ」

 ここまで言われたら、フジヤでなくとも二つ返事をするだろう。

 ほら、今すぐにでも了承の声が……。

「だめえ!」

 ずん、と鈍器で横殴りされたような声が響く。そして箱全体が激しい揺れを起こした。 オバは声を荒げ、箱を振り回しているかもしれない。

「だめよ! フジヤ、止めときな」

 語気が強くなり、箱の揺れも凶悪なものとなる。本格的にやばい、とわしは感じた。こうなれば、何が起きてもいいように、覚悟を決めとかねば。

「ほほほ。あたくしは、坊やに訊ねていますのよ」

「何を言っているの」オバが、婦人に反撃した。「自分の物でなきゃ見つける意味がないじゃない。ね、フジヤもそう思うでしょ?」

 オバの矛先が、フジヤへ向けられたようだ。

「う、うーん」フジヤは呻いた。

「年に一度しか買うチャンスのないシャルロットを、手放していいの? いいや、だめよ。だって、私も食べたいもの。つまりシャルロットは、あんただけのものじゃないのよ!」

 オバの怒濤は、うんざりするほど続いた。

『これは、気の弱そうな彼のことですから、きっと逆らえませんね』

「だから、だめなの。分かった?」ごつんと拳でぶつかのようなオバの口調。

「あ、う、うん」フジヤは逆らわなかった。「分かったから、耳もとで叫ばないで」

 オバの猛攻撃はそこで静止した。嵐が止んだのだ。わしはほっとした。

 得体の知れない人物から、フジヤを守ろうとしているのかどうかは知らないが、オバのやつも必死だな。

 その分、カゲノ婦人を気の毒に思う。さぞかし悔しいことであろう。

「聞いた? フジヤは渡さないってさ」オバは強く出た。

「そうみたいね。仕方ないわ。あたくしの負けですわ。目的の品が手に入らないのでしたなら、もうこの家に用はありませんわ」

 婦人の声からは、落胆が感じなかった。ここから遠ざかろうとする一人分の足音も、一定のリズムを保っていた。

『随分と引き際がいいですね。あの人なら、まだ何か言ってきそうな気がしたのですけど』

 訝しがるイチゴシュー。わしも同じ気持ちであった。

 しばらくして、「では、ごきげんよう」砂糖菓子のような甘い声がした。

 婦人の気配が、完全に家から消えた。

『帰ったな』わしは呟いた。

 婦人の登場に、わしの心は踊り、喜々としていたが、どっと疲れた気分であった。

『変ですね。シャルロットがないと聞いた時は、あんなに取り乱していたのに。今は、取り引きに失敗しても、平気そうな素振りで出て行った。もう少しで手に入りそうだったのに』

 次の企てに取りかかっているのではないだろうか。婦人の行動が、わしにそう思わせる。

 婦人が去ってから、二人は黙り込んでいた。沈黙には、嵐が過ぎ去ったあとのような倦怠感が含まれていた。

「じゃあ、私も帰るわね」

 はっと意識を取り戻したかのように、オバが言葉を発した。

『そうだな。オバは、早く自分の家へ帰るべきだ。そして、早くわしらを、安全な冷蔵庫へ放り込むべきだ』

 幸い、フジヤは、オバを引き止めなかった。二人は、床板をぺたぺたと踏み鳴らしながら移動をする。そして、フジヤかオバのどちらかが、建物の出入り口と思われる戸を、がらりと開けた。

「明日は誕生日を祝ってやるんだから、ちゃんと忘れずに家に来るのよ。もし来なかったら……」

「大丈夫大丈夫。お昼くらいに行くよ」

 フジヤの言葉を受け取ると、オバはすっかりご満悦となった。

「よろしい。じゃあね。小太りちゃん」


   *** ***


「あっつぅーい!」

 フジヤ家から出て、本当にすぐのこと。オバは、我慢の限界値を飛び越したらしく、あらん限りの声量を周囲に放出した。

『うるさいなあ』

 そしてまた、あのがたがたと箱が小刻みに揺れるのをわしは味わっている。先ほどよりは揺れは強くはないが

『人間というのは、そうとう太陽の熱気に弱い生き物だな』

『確かにそうかもしれませんが、どうやら彼女、それほど苦しくはないみたいですよ』

 イチゴシューの返した言葉を聞いて、わしは気づいた。

 太陽からの熱気でまいっているはずなのに、オバの機嫌は良さそうなのだ。

「ケッケッケッ、ケーキは甘い。それはどうして? さっさっさっ、砂糖が入っているから。クリームと一緒にね。でも人生は苦いのよぉー、ひゃっはぁ♪」

 妙ちきりんな歌が、オバの口から流れていた。それが変に上手く、わしは腹が立った。

「二番、いっきまーす」

 わしは本当に心配になってきた。一刻でも早く、この歌と、暑さから解放されたかった。

 心から願った、その時。

「ご機嫌ですわね。そんなに陽気になって、手に提げている物の中身は大丈夫かしら?」

 涼しげで清々しい美声。わしの心が、どきんとした。

 キィッと音がして、オバの動きが止まったのを感じた。そしてオバが声のした方へ、ゆっくりと振り向いているのが分かった。盛りあがっていた歌は、もう聞こえない。

『嫌な予感って感じね』

『それよりも、さっきの声……まさか!』わしの心は、期待で一杯になるほど膨らんだ。

「あ、あなたは……カゲノ、さん」

「ほほほ。先ほどはどうも。暑いですわね」

 カゲノ婦人はどうしてだか、爽やかだ。

 オバは、言葉を詰まらせていた。

「そう怖い目で睨まないで」婦人は笑みを含ませて言った。「コーヒーでもいかが? きんきんに冷えていますわよ」

 ごくり。オバのものだろう、喉が大きく鳴っていた。

 しかしなぜだ?

『受け取ろうとする気配がないな』わしは疑問を抱いた。

『毒が盛られているんじゃないかって、疑っているのですかね?』

 オバは、変わらず動こうとしない。頑固なのは結構だが、この悶えるような暑さの中では、冷たい飲み物は魅力的なはずだ。

 そこでオバは、いよいよ行動を選んだ。

 婦人から逃げた……のではなく、コーヒーを受け取ったのであった。

 すぐさまオバは、喉を鳴らした。ごくごくと、何度も続く。液体を、体内へ勢い良く流し込んでいる。

『何と、呑みっぷりのいい女なのだ』

「ぷはーっ」オバは大きく息を吐いた。「苦ぁい」

 出たのは、不服の言葉であった。

「あら、そこがいいんじゃない」

「苦いのは、だめだめなんだよねぇ。でも残すのは、だめだめだめ。だから全部飲むわ」

 オバは勇ましく言い切ると、残りを一気に呑み干したようだ。

「ごちそうさま。それで、いったい、何が目的なんですか? 親切だけでコーヒーをくれたんじゃないんでしょ」

 オバは真面目な口調で訊ねた。

「目的が何なのか。ほほほ。本当は分かっているくせに」

 この言葉を聞いた時、わしは強烈な視線を感じた。これは絶対に婦人の熱い眼差しであると、確信した。婦人はわしらを欲しているのだ!

 オバはまるで、婦人の意地悪そうな言葉から逃げるように黙り込んだ。沈黙が漂う。

『険悪な、雰囲気ですね』

『いざこざはごめんだぞ』

 会話だけでは計り知れない、女の睨み合いが起こっているのは明らか。

 名状できぬ不安に、わしは身震いする思いであった。

「どういたします?」

 カゲノ婦人は、なかなか口を開こうとしないオバに、柔らかい口調で問う。

 空気が、どろりと濃度を増した気がした。

「いいわ。言うとおりにするわ」オバは、早口で悔しそうに言った。

「そう言ってくれると、信じていましたわ」

 婦人は、期待どおりの返事に満足したらしい。子供みたいに喜んでいた。その上機嫌っぷりは、先ほどのオバ以上であり、歌って、踊りだしてしまいそうだった。

「待って」オバは、すかさず声をかけた。「お願いがあるんです」

「何かしら?」

「いやね実は明日、さっきまで一緒にいたあいつ……フジヤの誕生日なの」

「ええ。それで?」

 婦人がちゃんと話を聞いてくれていると感じたのか、オバは流暢になって続けた。

「それでね、この私が、フジヤのために誕生日会を開いて祝ってやろうと決めたの。優しいでしょ? そこで、誕生日といえばやっぱりケーキ!」

 オバのお喋りは、止まる気配がなかった。なのに、お願い、というやつはまだ語られそうにない。

「バースデイ用と言えば、やっぱり白ね。祝福されてるって感じでさー。というか私はいつも思うのよ×××♯$%○×△□☆※……」

「分かりましたわ。ケーキの作り方を教えてほしいのですね?」

 婦人は、見事にオバの願望を言い当てた。ぺらぺらと饒舌になっていたオバが、間が抜けたように、沈黙する。

 そして、「大当たり」爽やかに答えた。

「ほほほ。お安いご用ですわ」

「本当に? じゃあ、家に案内するね」

 箱が、揺れを再開させた。しかし、強くはない。穏やかなものであった。地面を踏みしめる足音が二人分聞こえる。そよそよと風の吹く音がした。重く渦巻いていた険悪な空気は、風とともにどこかへ流れたようであった。

 二人の仲は、互いの年齢差のことなど角砂糖一個分も考えていないだろうほど、良くなっていた。

「さっきから気になっていたんだけど、その綺麗な猫のイヤリング。どこで買ったの?」

 イヤリング? 婦人はイヤリングをしているのか。

「これのことかしら?」

「うん」

「これは、買ったものではありませんの。幸せのショコラといいましてね、あたくしが作りましたの」

「幸せの、ショコラ? ぷっ。もうちょっとマシな名前はなかったの? でも、チョコなんだよね。てか、自作って凄い」

 ばかにしているのか、それとも感心しているのやら。

「ほほほ。そうでしょう」

 婦人はいたって普通。大したことではない、と言っているように聞こえた。

「腐らないの?」

「眉をひそめて心配しなくてもいいですわよ。特殊加工をしていましてね、真夏日でも融けることや、腐ったりすることはありませんのよ」

 質問に答える、カゲノ婦人。すると、わしの隣から、不機嫌そうに、『ふん』吐き捨てるイチゴシューの声がした。

「いったい、どんな特殊加工を?」

「残念ですが、お教えできませんわ」

「ちぇ。つまんないの」

 少しまえにフジヤが言ったセリフを、そのまんま今度はオバが口にした。

 多少口をすぼめた言い方だったが、案外気にしていないらしい。

「あ、ここ。ここがオバ家ですよ。お化けが出るかもー、なんちて」

「まあなんと、ぼろっちい家ですこと」とカゲノは微笑を浮かべた様子であった。


   *** ***


 オバの家を直接見たわけではないが、そこは確かに間違いなく、ぼろっちい家であった。

 玄関戸を開けようとするだけで、がたがたと痛々しい音が鳴り、屋内には古ぼけた空気が重々しく充満していた。

 オバがいそいそと靴を脱いで、玄関からあがったのが分かった。すると、こいつは何を踏んだのか、とっ、と足音が急に重くなった。

「これほど旧く、日焼けした畳は初めてですわ」

 婦人に対し、オバは、「貧乏両親の股から生まれた定め」とか何とか笑って説明した。

 わしはどんどん気が滅入っていた。なぜこんな貧乏小娘に、食われなきゃならんのか。

「これから調理をお始めになるのでしょう? 台所を長い間使うことになりますが、大丈夫ですの? 途中でご両親に止められるようなことは」

「心配ご無用。母も父も、人生初の旅行中なの。帰りは、明後日の予定だって」

「聞いて安心しましたわ。ですが、どうして、ご両親と同行しなかったのです?」

「ヘヘヘ」オバは、恥ずかしそうであった。「両親より、フジヤを選んじゃった」

「ほほほ。素敵で可愛らしいですわ」

 婦人は愉しそうにからかう。

「言っとくけど、別に恋愛感情とかじゃあないんで。毎年恒例なのよ、誕生日会が! 仲がいいってのも親どうしの付き合いだから……って、ちょっと止めてよね。そんな目で見ないで。違うんだって……」

 いつの間にか足を止めて、オバは説得力のない言葉を必死になって並べていた。

「ええ。あなたの仰りたいことは良く分かりましたわ。確かに坊やは可愛いですものね。ほほほ、ほほほほほほ」

 二人しかいない、おんぼろ屋敷に、艶やかな笑い声が響く。

「くあーーーーっ!」

 怒声か悲鳴か、あるいは両方か、一言で表すなら、怪獣じみた叫びだ。

 直後。ばんっ、と平板を蹴飛ばしたかのような音が鳴った。

「もう台所に着いたから、この話題は終わり! ここに入った以上、もうあとには引けないからね。よろしいかしら?」

「ほほほ。望むところですわ」

 ふざけ合いながら、オバは、長い間その手に提げていた、わしらを入れた袋を、どこかへと着陸させた。やっと落ち着けるぞ。わしは心安らいだ気分となった。

 ただ、どうして冷蔵庫へ移してくれなかったのか、それが疑問であった。

「さっそく始めたいと思うんで、ちゃちゃーっと準備しますね」

 あちこちから、がちゃがちゃと道具を引っ張り出す音がする。

 そんな準備の最中、ふと気になったのか、「そういえば」婦人がぽつりと口にした。

「あなた。お菓子作りなどはしますの?」

 つまりどれほどのレベルなのか、と訊ねているのだろう。

「んにゃ。調理は今回が初めて。だから、カゲノさんに救援を求めたんじゃない」

「これは骨が折れそうですわ。良くそれで作る気になりましたわね」

「ヘヘヘ。実は私、ケーキ屋を持ちたいという夢が最近できたの」

 オバは無垢な子供のように発言した。

『そいつは素晴らしい夢だな。でもよ砂糖と塩だけは間違えるなよ。しくじれば、性格がかなり邪悪なものとなるからな』

『あなたのように、好色魔になっちゃいますからね』

『う、うるさい。わしは断じて女好きなのではない。胸が大きい、成熟した女性がいいというだけだ』

 わしは力を込めて抗議した。

 すると、『はいはい』冷たくあしらう声が返ってきた。

 わしらが色々話しているかたわら、婦人らは、オバの夢について喋っていた。

「ご両親には、お話しましたの?」

「まあ」オバの声は糸のように細い。「でも両親には笑われてしまったわ。冗談だと思われたんだと思う」

「あら、それは可哀相に」

「正直、むかっとしたわ。でも、おかげで夢が強くなったの。絶ぇーっ対に夢を叶えて、金なし夢なし希望なしの両親を見返すんじゃいって決めたの。……とか何とか言っているけど、今やっていることは勉強だけ。アイディアを考えたり、色々と調べたりね」

 静聴していた婦人が、口を開いた。

「なるほど。勉強、ね。だからケーキコレクターをご存じでしたのね?」

「まあ、そんな感じ」

「ほほほ。勉強もいいですけど、調理の方はもっと大事ですわよ」

「大ぃ、丈ぅ、夫ぅ!」

「ハチミツみたいに甘く考えているのではなくて? 実際は華やかしいものではないですわよ。朝早くからずっと立ち続け、休みのない細かい仕事。そして何より、優れた美的感覚とその技術が必要とされますのよ」

「そんなの、すでに知っているわ」オバは不敵に笑い飛ばす。「それに、困難だからこそ面白いのよ」

 その言葉を、婦人はえらく気に入ったらしい。

「ほほほ。その調子を保ち続けていられれば、きっといいお店を出せますわね」

 婦人がおだてると、オバは、さらに情熱を燃やしたようであった。狂気乱舞する。

「本当! よっしゃ! カゲノさんに言われると嬉しいなぁ」

「ほほほ。未来の夢に燃えるのもいいですけど、まずは明日のケーキを作りましょう」

 婦人が調理開始を促してくれたおかげで

「はぁい。じゃあその前に、買ったこいつらを冷蔵庫に、っと」

 オバにこいつら呼ばわりされて、むっとしたが、ようやく冷蔵庫という静逸を取り戻せる場所へ移されることになって安堵した。

 箱が袋から取り出されるのを感じて、わしが心安らいだその時、叫び声があがった。

 考えるまでもなく、オバのものだった。

「どうかしました?」

「カゲノさん、ごめん。まずは買い出しが必要みたい」

 どうやら、必要な材料が冷蔵庫の中にはなかったようだ。

「あら、台所に入ったらもうあとには引けない、でしたわよね?」

 カゲノ婦人の意地悪な言葉がオバを突っついた。

「……戦略的撤退ってことで、勘弁して」


   *** ***


 どれくらい時間が経ったのか。あまりにも気持ちが良すぎたため、わしは自分でも知らぬうちに眠ってしまっていた。

「えーーーーっ!」

 ばかでかい声に、わしの意識は叩き起こされた。相変わらずの暗さだが、間違いなく、ここは現実なのだと察することができた。

「帰っちゃうの?」

 落ち着きがなく、狼狽えていた。

『帰る? いったい誰のことを言っているのだ』

『この状況で、帰る人物といったら一人しかいないでしょう』

 このちくちくする言い方、イチゴシューのことをすっかり忘れていた。

『まさか、まさかわしが眠ってしまっていた間に、ケーキ作りは終わってしまったのか?』

『残念ながら、そうらしいですね』

 暗闇に、そっけない答えが広がった。

「カゲノさんのおかげで完成させることができたんだよ。買い物に出かけた時も、私の分のバス賃をくれたんだし。もうちょっとゆっくりしていってよ。ほら、一緒にシュークリーム食べよ」

 わしらは冷蔵庫の中にいるはずなのに、オバの声がはっきりと聞き取れていた。もしかするとこの冷蔵庫、きっちり閉められていないのかもな。

 そして、婦人がわしを食ってくれる機会は今しかない。そんな気がした。

「娘っ子が買ったシュークリームも、明日の誕生日会に出すべきですわ」

「そ、そんなぁ」オバは、子ネコが鳴くように、寂しげだ。

「ふわぁああ。あたくしにとって、この時間帯はもう眠いですわ。ふわぁあ。ですから、帰りますわ」

 上品な言葉遣いとは合わない、だらしなく寝とぼけた声であった。

「え。まだ、七時だよ」

「ほほほ。早寝早起きこそ美容に必要不可欠。あなたも、早く寝てしまいなさい」

「はあ」大きな溜め息。「じゃあ、カゲノさんも明日一緒に愉しみましょうよ」

「誘ってくれますの? なら、遠慮なくお邪魔させてもらいますわ――」

 心底嬉しそうだが、婦人の声は、やはり眠たげだった。

 同じ調子で、カゲノ婦人は言った。

「さて、約束のものを渡してくださいな」

「はぁい」オバは了解した。

 こちらへ近づく足音が聞こえた。冷蔵庫の戸が開く音。外からの光りが、箱を照らしていることが、辛うじて分かる。

 誰かが手を伸ばして、冷蔵庫の中の何かを掴んだ。わしらの入った箱ではなかった。取り出した物が何であったかは、想像もつかない。

 冷蔵庫のドアを閉めようとしたらしいが、やはり閉まりが悪いようだ。まだ人間の声が微かに届いていた。

「ほほほ。確かに頂戴しました」婦人は大いに喜んでいた。「では明日の朝に、顔を見せますわ。それまで、ごきげんよう」

 婦人が別れの挨拶をして、二人の会話は糸が切れたように終わった。婦人のものだろう控えめな足音が、ぼろ屋に浸透するように消えていった。

 婦人の気配が完全になくなった時。冷蔵庫が、再び開いた。

『全く。さっきから何度も何度も。冷蔵庫をおもちゃに……うおっ』

 今度はこちらの箱が掴まれた。持ちあげられ、冷蔵庫から外へと運ばれる。

 テーブルだと分かる真っ平らな場所におろされた。すぐそばで、作られて間もないケーキの微弱な存在を感じた。

「はぁ。何で帰っちゃうかな」退屈そうに呟く。

 口内に溜めたていた不満を言葉に変換させて、ぶつぶつと零しているようなものであった。

 次第に、女の不満は、言葉から振る舞いに変わる。箱の蓋部分が、粗っぽく割れたのだ。

 今まで真っ暗だった内部に、強力な光が差し込む。突然の眩しさの中に、人の頭がぼんやりと浮かんでいた。

「こうなったら、やけ食いしてやる。明日までなんて待ってられないわ!」

 乱暴な言葉を撒き散らしながら、箱の中へ腕を突っ込ませる。無骨で、浅黒い肌。華奢っぽさの欠片もない腕が、よりによって、わしを鷲掴みにした。

『おー、ようやく食べられますね』

 イチゴシューは、うらやましがるような、いや、からかっているだろう口調であった。

『ぐぎぃやああああああああああ!』

 しかし、わしに言葉を返す余裕はない。迫るオバの顔面に恐怖していた。

 裂けんばかりに開いた大口に、ずらりと並んだ歯。それ自体は問題ないはずなのに、口の中で糸が引いているせいか、今のわしには、それが怪物じみた不気味なものに思えた。

『ぐぎぃやああああああああああ!』

 情けないが、も、もうだめだ。こんな化け物に食われて、終わってしまうとは。

 そう観念した時、オバの動きが、ぴたりと止まった。わしを、もとの位置へ戻す。

『あらあら、せっかく食べられるチャンスでしたのに』

『うるさい。怖かったんだぞ』

 安堵感はあるが、嫌な予感は止まない。

 気がつけば、妙な音が遠くから響いていた。これは、たてつけの悪い玄関戸の音だな。

「こんな時間に? あ、カゲノさんかな?」

 オバは顔を喜色で染め、どたどたと急ぎ足で、ここから離れた。

 うるさい音は、しばらくすると足音と一緒に、止んだ。

 建物内は、物音とは縁がなかったかのように、ぞっとするほどの静寂に包まれた。

 その時だ。

「きゃああああああああああああ!」

 尋常ではない、突き刺すような悲鳴。

『何だ、あの悲鳴は』

『まさか、強盗ですかね』

 イチゴシューは冷静だった。

『強盗? バカな』わしは信じられなかった。『きっと気味の悪い虫と遭遇しただけだろ』

 床板を強く踏みつける、激しい物音。こっちへ近づいていた。

「お願いです。止めてください!」

 甲高さを、一段と増した悲鳴が空気を切り裂いた。

『これは大事だぞ』

 わしは確信した。オバは、何者かに襲われている。

 台所に、オバが飛び込んできた。混乱気味に思えたが、素早くドアを閉じた音がした。

 上擦った声で、「なんで、なんでこんなことに」狼狽えた言葉を吐き捨てていた。

『必死になって、逃げ込んできたみたいですけど、この部屋はまずいですね』

 イチゴシューの言うとおりだ。逃げ込んだ場所は台所。出入り口は一つしかない可能性が高い。

『ああ。オバは追い込まれたようなもんだ。フジヤや、カゲノ婦人に助けを呼ぶ手段があればいいのだが……』

 どぉん! 鈍い音が走った。

 まさか、台所のドアを破壊しようとしているのか。どすん、とまた鈍く響いた。ドアに怒りという感情をぶつけているようだ。

 しかしオバに動く気配はない。何をやっておるのだ。これでは、相手に侵入を許してしまうのも時間の問題だぞ。

『そうだ。ここは台所。対抗できる物が色々とあるはずだ』

 わしを否定する声がすぐにあがった。

『ばかですね。誰かを傷つけて助かるなんて、最善の道じゃあないですよ』

『じゃあ、どうすれば助かるのだ? このままでは』

 言葉の続きが恐ろしすぎて、声が出なかった。なぜだ? あれほどうるさかった小娘が、別にどうなろうと、わしらには関係ないはず。なのになぜ、わしはこんなに心配している。

「ミキさん。何かわけがあるのかもしれませんが、もしそれ以上続けるなら、ケータイで警察を呼びますよ」

 オバが叫ぶ。

『ミキだと。まさか、あの女のことを言っているのか』

『そのようですね』

 どん! と、相手の勢いは強くなる。悲痛な祈りは通じなかった。

「どちくしょうが!」

 恐怖心を吹き飛ばすくらいの声を、オバは吐き出した。そして動き始めた。ずんずんと、勇ましい気配が、わしらのそばまで近づく。

『手を動かして、何かをいじっているみたいだな。あの位置にあるものは』

『バースデイ用のケーキですね。何をどういじっているのかは、分かりませんけど』

『それも気になるが、なぜ今、ケーキと向かい合って、手を加えようとしているのだ?』

 ドアは、止まぬ打撃に、今この瞬間にでも破壊されそうだ。

「よし。これでいいわ」

 納得の言葉を吐くと、オバは流れるように動いた。暴力的に冷蔵庫を開け、わしらの入った箱を奥へ投げつける。続いて、あれこれいじっていたケーキを、今度は丁寧な扱いで冷蔵庫へ納めたようだった。

 ばたん、と音を立てて、冷蔵庫内は暗闇に覆われた。機械的な冷気と、不安による冷たさが、体に染み込む。

 わしは、はっと気づいた。自分の体の、パイ生地が割れて、中身が垂れていたことに。

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