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消えたシャルロット・①シャルロット編


   【消えたシャルロット】


 ふっと誰かの視線を感じて、わたしは眠りから覚めました。

 悪い夢を見ていたせいかしら、目覚めは良くありません。

 人間が突然現れて、酷いことをする。そんな夢だった気がします。

 とにかく嫌な気分でした。

 それでも、優しく包んでくれている甘ぁい香りに癒されて、ぼんやりとしていた意識は、ゆっくりと調子を取り戻していきました。嫌な気分も、雪が溶けるように、自然と薄れて消えていきます。

 落ち着くと、一人の少年が、こちらに目を向けて立っていることに気がつきました。ずっと、わたしを見つめていたのでしょうか。だとすると、わたしを恐ろしい夢から起こしてくれた視線は、彼のものだったということになります。

 ぐっと見つめて、視線をなかなか離そうとしない大きな瞳。

 そこから、ある感情が、ひしひしと伝わってきました。

 美味しそう、という気持ちです。

 わたしを、美味しそうと思ってくれている少年。優しい人なんでしょうね。それが初めに抱いた感想でした。

 なかなか膨よかな体型をしていて、それにリンゴのような赤味を含んだ頬。爽やかで涼しげな黒髪。これらが、可愛らしさ、温厚な印象を、わたしに与えてくれるのでした。

 幼いように思えますが、それなりに背が高く、顔も整っていたので子供ではないように感じました。

『彼に、買われたいなあ。食べられたいなあ』

 わたしは、ついそのような理想を呟いていました。

『わたしったら。何てことを。は、恥ずかしいです』

 そうです。気がつくとわたしは、彼に好意を抱いていたのです。

 けれど、いくら想いを寄せても、彼がわたしを買ってくれる可能性は低いでしょう。

 このお店には、美味しいケーキや、お菓子がたくさんあります。それぞれが良く売れるようにと計算され、並べられているのです。

『はあ』

 わたしは思い浮かべた理想を、自ら砕き、砂糖よりも細かくしました。

 それにしても気になります。こんなに見つめられているわたしは、いったいどのような形をしているのでしょうか。

 どこかにヒントがあるかも、と思ったわたしは、あちこちに視線を投げました。

 屋内は、全体的に薄暗いです。でも、悪い感じはしませんでした。

 木製の床、壁、天井が、橙色の照明を一杯に受けて、まるでハチミツに浸っているような雰囲気を醸し出していました。

 甘い色でたぷたぷに満たされた室内に、わたしは視線を自由に泳がせます。すると、妙な物にぶつかってしまいました。

『あれは?』

 子供の背丈ほどありそうな、大きなハチさんが二匹、建物の入り口を挟むようにして立っていたのです。といってもその正体が、ヌイグルミと呼ばれている愛らしい物だと、わたしには一目で分かりました。

 きっと小さい子たちに人気があるのでしょうね。

 でも、その位置は少々後ろすぎる気がします。もっと前に、可愛いのですから、部屋の真ん中くらいにまで出ればいいのに、とわたしは思うのです。

『何でしょう、手に何か持っていますね』

 左右のハチさんたちが、四角い木の板を抱えていることに気づきました。板には文字が書かれています。

 右の板に書かれた文字を強く見つめて、読みあげました。

『八月二十二日。本日の目玉商品は、年に一度の、イチゴのシャルロット』

 イチゴの、シャルロット? 知らない名前でした。

 それにしても、年に一度だなんて、凄いです。いったいどんな食べ物なのでしょうか。ケーキなのかしら、それともお菓子なのかしら。イチゴの他に、何種類の果物が使われているのかも気になります。やっぱり年に一度なのですから、うんと贅沢なくらいに豪奢で大きいのでしょうね。

 あれこれと想像するわたしの心は、飛び回るように踊っていました。

 答えは、もう片方のハチさんが手に持っていました。

 なになに、と木の板の文字を読みます。

『シャルロットとは、女性の帽子に見立てて作った洋菓子で、可愛いリボンが結ばれています』

 ふむふむ。

『バターに浸したパン生地を型に貼りつけて、その中に、冷やしたホイップクリーム、チョコレート、ピーチ、リンゴと、ふんだんに詰め込んだイチゴの洋菓子』

 なるほど、大体は想像できました。大変美味しそうです。

 もしかすると少年は、シャルロットを買いにお店へ来たのでしょうか。

 幼いながらも、少年の顔は、真剣そのものです。

「すいません――」

 初めて聞く、中性的な声。長く時間をかけた彼は、ようやく買おうとする商品を決めたらしく、お店の方に声をかけました。

 腕をあげて、わたしに指をさしました。

「ええっと、シャルロットください」

「はい。シャルロットですね」

『ええぇ!』わたしは驚きました。

 少年がシャルロットを選んだことに驚いたわけじゃありません。

 むしろ、当然だと思います。

 ただシャルロットが、わたしであることに驚いたのです。とっても。

『はは……そんな』声が震えます。

 いえ、きっと聞き間違いです。わたしが、本日限定の商品なわけがありません。わたしなんか、もっと地味な……何か、ですよ。

『そう、あなたはシャルロット。目玉商品の、シャルロット』

『とっても綺麗なシャルロット。可愛いシャルロット』

 ショーケース内に、二つの歌声が響きました。声の持ち主は、わたしの右隣にいるケーキさんたちでした。

『素敵な彼に買われて、幸せ一杯。美味しい美味しい、と食べられる』

『ああ、うらやましい。うらやましい』

『わたしたちは、売れ残り。格下商品』

『いずれ捨てられる運命。悲しい幕引き』

 わたしは、恨みがましい歌声に恐怖を抱きました。自分がシャルロットだと分かったのは、いいのですけど、気分良く喜べません。

『あ、あの……』

 わたしは、何か言わねばと慌てました。しかし、困りました。こういう場合、どう言えばいいのでしょう。

 歌声はまだ続きます。

『でも、外には危険が一杯』

『悪いこと、悪い人がたくさん』

『ここで、おとなしくしてれば良かったのに』

『最後に後悔。悲しい幕引き』

 不気味な余韻を残して、それはぴたりと止みました。

 ほっとしますと、どうしたのかしら、わたしは、急に怖くなったのです。

 歌のせいかしら。さっきまで平気だったはずの薄暗い店内が、急に不気味に感じるようになりました。

 嫌な気分。夢から覚めた時と同じです。

 先のことに不安を抱いていますと、ショーケースの一部が横に滑って口を開けました。

 店の人が腰を屈めてケース内に腕を入れます。わたしを取り出すため、そっと触れました。大きな手でした。

 少しくたびれた感じの、男性でした。

『緊張しているのかしら?』

 わたしを持つ指が、微かに震えていました。彼は、それを少年に悟られないよう気を使っているみたいでした。必死に笑みを浮かべ、平静を装っています。

 しかし、直接触れられているわたしには丸分かりです。彼の両腕の力がどれくらい危ういのか、よく伝わってきます。うっかり手を滑らせて、わたしを床へ落としてしまうのではないかと、内心、冷や冷やしていました。

『これが、悪い予感の正体なのでしょうか?』

 被害妄想に手伝われて、床へ落ちてしまった時の映像をつい思い浮かべてしまいました。

 落下の衝撃で押し潰されたように砕けたパン生地の外装。割れた隙間から、中身のイチゴたちが、ただの果肉の塊となって、ぐちゃぐちゃにはみ出しています。そこから滴る赤い汁が、つぅっと一本の線となって表面を艶めかしく流れます。

 そんなわたしの残骸が、一瞬だけ映ったのです。

 どうしよう、どうしようどうしよう。

 と、落下の心配をしている内に、わたしはとある台の上でした。

 わたしを安定した場所に移した彼は、少年の方へと振り返りました。

「保冷剤をおつけします。冷蔵庫まで、どれくらい時間がかかりますか?」

「十五分くらいです」言い慣れたように少年がさっと答えました。

 お店の人は軽く了解の意を見せて、

「では、入れときます」

 彼は、わたしを一枚の厚い紙に載せました。

 これから、何が始まるのかしら?

 疑問はすぐに晴れました。お店の人は、敷いた紙を手際良く箱へと変型させたのです。わたしの左右前後に立つ壁が、思った以上に密着していて、狭苦しさ、居心地の悪さを容赦なく与えました。

 そして彼は箱の蓋部分を閉じようと、手をかけました。触れていられた橙色の光が、徐々に細くなります。

 蓋の影によって、わたしの全身が黒く染まりつつありました。

 まさにその時です。

 箱の中に、ぽろりと何かが放り込まれたのでした。体の表面を転がります。

 しかし、箱中はもう真っ暗です。正体の確認が間に合いませんでした。

『な、何ですか?』

 さっきから悪いことを考えてばかりだったからでしょうか。見えないそれに、わたしは不安を抱きました。かといって、こればかりは、どうすることもできません。

 わたしは、じっと身を強ばらせて、何も起こらないことを祈りました。

 すると突然、不思議な気持ちを体験したのです。

 こんなに窮屈な思いをしているのに、どうしてでしょう、涼しさを感じます。密閉した箱は、苦しい暑さで一杯かと思っていたのですが、逆に、冷気しかありません。

 あ、なるほど。先ほど放り込まれたあれが、きっと涼しくしてくれているのですね。

「お待たせしました。こちらが商品となります。お会計お願いします――」

 わたしの、高いのか安いのか分からない料金のやりとりを、お店の人と少年がしています。すると、少年がいるだろう方向から、ちゃりんちゃりん、と金属のぶつかり合う音が細く聞こえました。

「ありがとうございます。代金、ちょうどいただきます」

 これは、お店の人の声ですね。

 彼の細々とした言葉からは、感情がなく思えました。わたしは、まさかこの人もヌイグルミなのでは、と変な想像を働かせてしまいました。

「あ、すいません。あと、これをお願いします」こっちは少年の声ですね。

「これは?」

 直接見えたわけではないのですが、少年は、お店の人に何かを手渡したみたいですね。

「ええと、ここの会員カードなんですけど。ポイントが溜められるやつ」

 少年は、具体的に、それがどんな物なのかを説明しました。

 それでも、両者の間には、困った沈黙が流れていました。

「申し訳ありません」ぼそりと、くぐもった声が答えます。「私も入ったばかりのバイトでして、詳しい説明をまだ受けていないんです」

「はあ。あの、店長さんは?」少年が耐えかねた様子で問いました。

「店長はしばらく休む、とのことです。なんでも酷い熱が出たらしくて」

「そうですか。あ、でも簡単なんですよ。そのカードをレジの横の機械に通すだけなんですよ」

 一目見ただけでは想像もつかなかった、少年の強引な性格に、わたしはやや驚きました。

 お店側の人間からすれば、少年は困ったお客さんだったでしょうね。

「分かりました」

 渋々、少年の要望に添う行動を選んだようです。

 そうです。何でも行動です。わたしもささやかなエールを送りました。

 すると、機械音が数回、鳴りました。簡単だと言われたわりに、上手くいかないみたいです。

 それでも、しばらく試行錯誤を繰り返していますと、鳴り続けていた機械音が、ぴたりと停止しました。長かった低迷からようやく抜け出せたのでしょうか? それとも男が手を止めただけなのかしら?

「えぇと、フジヤ、様ですね。はい。確かにポイントを加算させていただきました」

 フジヤ。これが、どうやら少年の名前のようです。

「はい」

 フジヤさんが満足そうに返事をしました。

 あとはカードをフジヤさんに返すだけ、ですね。

「あっ」

 明らかに、予想外なことが起こったぞ、という声でした。

 どうしたのかしら?

 機械を扱っていた、お店側の方が、言い辛そうに、

「申し訳ありません。カードが、その、機械に入れたまま、その、出てこなくなってしまいまして」

 そのことにフジヤさんも多少なりと驚いたみたいです。「えっ、こういうのでも引っかかったりするんだ」と独り言を思わず漏らしたようでした。

「明後日までには何とかしておきますので、後日、取りに来ていただけると、ありがたいのですが」

「うーん」どこか納得いかなそうでしたが、「分かりました。じゃあ、そうします」

 フジヤさんもこう答えるしかないらしく、大人しく引きさがりました。

「では商品をお渡しします」

 わたしを入れた箱が小さく揺れました。お店の方から、買い手であるフジヤさんの手に渡ろうとしています。

「どうも」

 礼の一言を残して、フジヤさんは、わたしを連れてこつこつと歩き始めました。


   *** ***


 お店から出たあとは、色んなものが箱越しにぶつかってきたので、目を回してしまいそうなくらい色々と大変な思いでした。

 一番初めにぶつかってきたのは、押しつけるような熱気でした。冷気に包まれた状態のわたしでも、体中を蝕まれていく錯覚を起こしました。

「暑いなぁ」

 人間でも、やっぱり辛いようです。フジヤさんは、バターがぬめりと溶けた、そんな声を口から吐き出していました。

 それから彼は、わたしを安定した場所に落ち着かせました。急に、持ち運ばれているという浮遊感が消えたので、何ごとかと不安に思いましたが、どうやら乗り物を利用したみたいでした。軽快に移動するのを感じて、そう察することができました。

 一番びっくりしたのは、移動中のことでした。

 すぐ目の前を重みのある何かが、狂気的な速度で横切ったのです。それも唐突に。左右から、大きな塊が、ぶおおぉぉぉん、とまるで血の通っていない雄叫びをあげながら、立て続けに走り去っているみたいでした。

 何とも言い難い、恐怖の種を植えつけられてしまい、

『なるべく早く、どこか、あの音の届かない場所へ移動してくれないかしら』

 わたしは本気でフジヤさんに訴えました。

 もし、もしも得体の知れない物体が、こちらに向かってきたら、わたしたちはどうなってしまうのでしょう。だ、だめ。恐ろしくて考えたくもありません。

 正体の分からない物に怯えて、わたしの元気が抜けていくようでした。

 その時、ケーキさんたちの、あの歌を思い出しました。

 外には危険が一杯……。

 悪いこと、悪い人がたくさん……。

 ここで、おとなしくしてれば良かったのに……。

 ……最後に後悔。悲しい幕引き……。

 本当に、危険が一杯で、悪いこともたくさんだと思い知らされました。

 ですが、ショーケースから取り出される直前まで、わたしが密かに興味や憧れを抱いていた外の世界。

 その光景は見えませんが、間違いなく、わたしはそこにいるのです。

『後悔や、悲しい幕引きなんて、ないに決まってます』

 前向きになると、恐怖心も不思議と薄れました。

 しばらく進んでいたら、静かな場所に出たみたいです。

 自然と共存している虫の鳴き声と、そよそよと吹く風の音だけがそこにありました。

『わあ』久しぶりに、心安らぐ気持ちになるのでした。

 道も、揺れをさほど感じさせないくらい、緩やかなようです。おかげで、フジヤさんが目的地に着くまで、苦しい思いを体験せずにすみました。

「はあ。やっと家に着いた」

 フジヤさんの呟きと同時に、移動していたそれが、ぴたりと止まります。

 土を軽く踏む、二つの音。フジヤさんが、乗り物から降りた、といったところでしょう。

 想像を膨らませていると、箱がしっかりと掴まれ、慎重に引きあげられました。

 箱の外側から、こつこつという硬い物を踏む音が、一定のリズムで聞こえました。前後に揺れる感覚も、おまけとして伝わります。

 そして、建物のドアを開けたようです。

「ただいま」

 何も考えていないような、ぼんやりとした声。無意識に出たものだと思います。

 彼はその場に立ち止まって、下半身をもぞもぞと動かしていました。歩いている感覚とはまた違います。二本の足だけを動かしているだけのようです。

 靴を脱いでいたのですね。と、行動の意味に気づいた時、フジヤさんはもう家にあがり込んでいたみたいでした。

 とっ。

 歩調は変わらずに、足音が低くなっていました。

 とっ。とっ。

 まるで、板の上に、大きな水の粒が落ちて儚く弾けるような音です。それが広い空間に、薄く伸びていました。足音は家に入ってから、立て続けに鳴ります。

 とっ、とっ。ゆっくりと、とっ、とっ。

 揺れが、ふっとおさまりました。フジヤさんの足が止まったのです。

 ドアを開けようとする仕草が伝わってきました。掴んだ取っ手を押している、フジヤさんの姿が想像できました。

 どこかの部屋に入ったようですね。室内の様子はさっぱりですけど。

 フジヤさんが静かに三、四歩だけ動きました。

 すると、わたしはゆっくりと降下されるのを感じました。すう、と糸で垂らされるように。とん、とお尻に固い何かが触れて、着地に成功したことを知りました。

 やっと落ち着きましたね、なんて考える間は与えられませんでした。

 フジヤさんが、箱を開けようとしていたのです。とても丁寧な扱いです。彼の思いやりを感じて、とても言い表せない心地良さと、ぼーっとするような快感を受けました。

 頭をなでられた動物さんたちも、こんな気持ちなのでしょうね。

 真っ暗な空間に、細く小さな裂け目ができました。そこから、帯状の明かりが内部に差し込みます。じわりじわりと広がって、とうとう蓋部分が全開となりました。久しぶりに見る外は、眩しいです。

 視界の先に、フジヤさんの顔が覗えました。相変わらずの、ふっくらとした輪郭と、柔和な表情です。長旅の疲れもどこかへ飛んでっちゃいそうでした。

 フジヤさんが、こちらに両手を伸ばします。左右の掌が、わたしをそっと優しく掴みました。

 わたしの体が冷えていたのかしら、それともフジヤさんの体温が高かったからでしょうか。血の通った、生きている掌を熱く感じました。

 わたしは、そのまま彼にゆっくりと持ちあげられます。しっかりとした手から、頼もしさが伝わってきます。このような男性に食されるわたしは、ケーキとして幸せものに違いありません。だから、こちらも素直に身をゆだねようと決めました。

 それでも、箱から徐々に露わになりゆく自分の姿を想像してしまい、わたしは、かあっと恥ずかしくなりました。

「…………」

 フジヤさんは、取り出したわたしをいったんテーブルに置くと、真剣な表情になって、まじまじと見下ろしました。よほど考え込んでいるのでしょう。身動き一つしません。

 あまりにも彼が、強い眼差しを向けるものですから、わたしは、何だか照れてしまい、ついそっぽを向いてしまいました。

 恥ずかしさで顔が合わせられないわけですから、必然的に、わたしの視線は、ぐるーっと、あちこちを行き来することになります。

 目の前。正面を見れば、ぶーんと唸り声をあげる冷蔵庫が、その大きな存在感をアピールしていました。

 左側の奥、隅っこで静かに立っているのは、重くて頑丈だと一目で分かる食器棚でした。中には、うっとりするほどのいい艶をした食器が、几帳面に、大事そうにしまわれていました。

 食器棚と向かい合う右側の壁には、コンロや流しといった調理場が設備されていました。

 この部屋は、どうやら台所みたいですね。

 しかし、気になることが、一つ。この部屋には、ドアが二カ所にあるのです。

 一つは、自分の背後に。フジヤさんはここから入って来たのだと思われます。

 もう一つは、流しの横に小さなドアが、さりげなく作られてあるのです。

 ドアの見えない向こう側を、あれこれと想像します。

 すると、フジヤさんから溜め息を吐く音が聞こえました。

「ううん、困ったな」

 溜め息混じりに、困った、と発言されて、反射的に彼の方へ視線を戻します。

 彼は、変わらず、わたしを難しい顔で見つめていました。

 わたしは不安になりました。まさか、食べてくれないのですか?

「大きすぎる」驚きと、心配を混ぜ合わせた声でした。「僕でも、一人だと厳しいぞ」

 どうやら、大きさに対する感想だったみたいです。わたしは、自分が欠陥商品だとばかり思い込んでいたので、ほっと安堵しました。

 でも、大きいだなんて。何か問題でもあるのでしょうか。大きければいい、というわけではないのでしょうか。

「ま、細かいことなんて気にしない気にしない。さてと、フォークフォーク」

 フジヤさんが、子供らしい陽気な笑みを作りました。

 この言葉にわたしは、正直言いますと、気持ちがぐんぐんと高揚していました。

 ああ。ようやく、わたしは食べられるのですね。それも、優しくて思いやりのあるフジヤさんに。心が嬉しさで満たされる思いでした。

 いよいよ彼は、いただきます、と幸せの言葉を唱えました。

 すると、そのタイミングをまるで見計らったかのように、単調な音楽が、大きく鳴り出しました。閑散とした空気に染み込んだのは、喜々を連想させる明るい曲調です。

『な、何かしら?』

「このタイミングで、電話かよ」

 フジヤさんが短くぼやきました。

 彼は、重そうな腰をイスからあげました。そしてわたしを残して、早足で部屋から出て行きます。

 とっ、とっ、とっ、とっ、とっ。足音は五つ鳴ると、ぴたりと止みました。同時に、流れていた音楽も止んでいました。

 代わって、中性的な声色が、細々とわたしの所まで届いてきました。

「はい。フジヤです。……何だ、オバちゃんか。どうしたの、家の方に電話してきて。ケータイは?」

 彼の声は、お店でやりとりをしていた時と違って、明らかに愉しそうでした。親しい人間と会話をしているのでしょうか。

 笑い声があがりました。会話は弾んでいるようです。

 わたしはその分、小さな孤独を感じました。

「へえ、オバちゃんもハチの巣に行っていたんだ。えっ、店が閉まっていたの? 僕が行った時、店は開いていたよ。うん。二十分くらいまえ。普通に買えたよ。へへへ、今日は念願のシャルロットを買ったんだ。……ああ、今、台所に置いてある。これから食べるところ」

 フジヤさんは、いったいそのオバちゃんと、どういった関係なのかしら?

 わたしは、フジヤさんの話相手であるオバちゃんに、嫌な気持ちを抱きました。

『フジヤさんも、フジヤさんです。わたしを、ほったらかしにして。味が悪くなってもしりませんからね! 消えちゃっていても知りませんからね!』

 つんつんとした人間の仕草で言ってやりました。何が変わるわけもない、と知っておきながら。

『ちぇっ』

 と、寂しさが強まった時です。

 ばらばら。ばらばらばら。妙な音がしていることに気がつきました。

 建物の外、それもずっとずぅっと上の、空からです。初めは微々たるもので、気になりませんでした。が、次第に、妙な音はけたたましさを増して、わたしに意識させるほどになったのです。

 音はぐんぐんと、とんでもないほどに盛大になり、攻撃性を増していました。

 静寂を紙切れみたいに、いともあっさりと破りながら、音はこちらへ迫ります。

 フジヤさんの話し声はもちろん、すべての物音が掻き消されました。

 正体不明のそれに苛まれ、何かがピークに達した時、わたしの中の恐怖心が爆発しました。

『早く。早く、この音から解放してください』

 叫びながら、わたしは懇願しました。

 当然、冷静さを失っていました。

 もうだめです。わたしは食べられることなく、壊れてしまうのです。

 でも、でも、最後にフジヤさんに買われて良かったです。

『……あれ?』

 気がつくと、あのにっくき世界の敵ともいえる騒音は、雲みたくどこかへ流れようとしていたのです。

 そうと分かれば、もう怖くありません。冷静に冷静に、と自分に言い聞かせて、落ち着きを取り戻すことに成功しました。

『ふう。これでもう安心――きゃあああああああああああああああああああ』

 発狂してしまいました。

 だって、わたしの知らない間に、文字どおり、人が立っていたのです。

 煙のように姿を見せた、なんてもんじゃありません。本当に、ぱっと現れた感じでした。どう見たってフジヤさんではありません。彼とはまるで正反対。顔も。にんまりと歪めた口もとが悪そうでした。

 相手は、わたしの右後ろに立っています。

 どうやら、あの、調理台のすぐそばのドアから姿を現せたようです。

 相手は、足音を殺し、存在感を消しています。

 わざと、人に気づかれないようにしているのですね。

 もしそうだとすれば、図太い神経の持ち主です。部屋から五歩出た先には、フジヤさんがいるというのに、少しも臆していないみたいです。それとも、人が他にいることを知らないだけでしょうか。

 わたしがあれこれ考えていますと、相手が、滑るようにしてテーブルとの距離を縮めました。

 いったいこれから何をするというのかしら。

 再び、恐怖心が滲み出ました。しかし、この方の目的を、わたしは密かに知りたがっていました。

 相手はもう一歩、前に出ます。腰を、くの字に曲げ、両手を、こちらへ伸ばしました。

 どきりと緊張が走ります。

 この人の目的は、わたし、でした。

 左右の掌でしっかりと挟まれます。そのままわたしを素早く移動させます。フジヤさんと違って、とても粗暴な振るまいでした。

 またあの箱に入れられるようですね。

『わたしは、これからどうなってしまうのでしょうか?』

 さっきまで、自分の置かれていた場所を見つめて、ぽつりと呟きました。

 返事は当然ありませんでした。無言のまま、わたしは箱にはめられ、蓋が閉じられます。

 それが答えのように感じました。

 真っ暗闇。

 降り注いでいた轟音は、聞こえるか聞こえないかのところまで、薄くなっていました。

「ふうぅ」

 人間の呼吸が一つ。

 続いて、細く小さい、一歩一歩を感じさせる、揺れ。

 わたしは、お店で見た嫌な夢を、思い出しました。

 あの夢は、この出来事を、予知していたのですね。

 わたしが、ふっと消えてしまうことを。 

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