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短編

それは言わない約束だ

作者: 間宮 榛



「俺さ、老けたんかな?」

 琥珀色のロックウイスキーを片手で持ち、すでに酔いが回っているのか少し虚ろな目で、背広姿の男はカウンターの向こうに問い掛ける。

「なぁに、何かあったの?」

 きらきらと夜空に散りばめられた星屑のように光るラメの入った、鮮やかな藤色のカクテルドレスを身にまとったこの店の主人――所謂いわゆるバーのママ――が、綺麗に整えられた眉を僅かに寄せながら聞き返した。

「アタシに何でも話しちゃいなさいよ、真田さなだクン」

 その言葉と共に、ママはこの夜の蝶たちが舞う店には似合わない出汁巻卵を小皿に乗せて差し出した。添えられたピックは子供向けなのか、愛敬のある顔をしたキリンさんだ。

「お、さんきゅ。いっつも思うんだけど、津守つもりってこーゆーおかず、どこで作ってんの?」

 真田と呼ばれた男はキリンさんのピックを当たり前のように持ち、出汁巻卵を半分に切って突き刺すと口に運ぶ。出汁巻卵の表面は店内の弱めにしてある照明を浴びキラキラと輝き、切り口からはじわりと出汁を滲ませる。

「もぉ、ホントの名前で呼ばないでよ。今はママって呼んでちょーだい?」

 ママはマニュキアで美しく彩られた、作業に邪魔にならない程度に伸ばされた爪の生えた人差し指を真田に突きつけ、少しむくれたように片頬を膨らます。綺麗なママがその幼い行動をしても、可愛らしさが増すだけであまり違和感がない。

「昔を知ってる親友にそれを要求するなよ」

「過去は封印したの。アタシは今を生きてるんだから」

「じゃあ俺はもう親友じゃないのか。冷たいな」

 盛大な溜息を吐いて肩を落とす真田を見て、ママはその頭にクスリと笑いを降らせる。

「やぁね、今でも真田クンのコトは大好きよ」

「そりゃ良かった。お前にまで見捨てられたら、真剣にへこむ」

 相変わらず景気の悪い顔をしている真田の頭を、ママは折れそうに細い指で優しく撫でる。その顔は本当に愛しいものを見るときの表情で、母のようであり、一人の女としての顔でもあった。

「……そんなにショッキングなコトだったの? 今ならタダで聞いてあげるわよ」

 薄明かりに妖艶な笑みを浮かべ、両肘をカウンターについてママは前のめりになる。自然と真田の目前に、胸元の大きく開いたドレスからさりげなく輝くラメの塗られた美しいデコルテと、その鎖骨に沿ってチェーンを曲げる蝶をかたどった小振りで上品なネックレス、その下で両腕に寄せられ更に深く出来た谷間が覗く。そこから立ち上るように感じられる女性特有の色気に、昔を知っている親友だとわかっていながら、真田はそのむせ返るような強いモノに、瞬間、眩暈を感じた。

 それから目を逸らすように顔を背け、真田はその薄めの唇を一度グラスにつけて湿らせてから、ようやく重い口を開いた。

「……年の離れた兄貴、いるって前に言っただろ」

「あぁ、一回り上の素敵なお兄様?」

「おにーさま……」

 ママの大仰な言い方に軽くずっこけ、聞き慣れないその言葉を聞かなかったことにして真田は話を続ける。

「その兄貴の子供で、俺の姪にあたるがいるんだけどさ。今年十七歳の」

 そこまで喋り、真田はキリンさんのピックを持ち直し、残りの出汁巻卵を口に放り込む。出汁巻卵を頬張る真田を眺めながら、ママは頬杖をつく。

「……確か中学の時だったかしら、真田クンったら『産まれたーっ!』て狂喜乱舞してたわよね。そのあと赤ちゃん見に行ったら真田クンメロメロになっちゃって、すっごく溺愛してたっていうあの娘?」

「乱舞はしてないぞ、乱舞は」

「写メとかないの? 一度見てみたいわぁ」

「あーあるある。高校入るときのが……あ、これ」

 真田は背広の胸ポケットから薄型のスマートフォンを取り出し、素早く操作して目的のものを見つけるとママの方に画面を向ける。その広々とした液晶画面に写し出されたのは、某ブランドのようなタータンチェックのスカートに白いブラウス、深めの赤いリボンを首元に付けてブレザーを着用した可憐な少女だった。両隣には背広を着た父親とスーツ姿の母親と思われる男女が立ち、皆笑顔で玄関前に立っている。特に中央の少女は花が咲きほころんだ時のように楚々とした、どことなく人を魅了する笑顔で写っている。

「やだっ、可愛いじゃない! お兄様の面影もちゃんとあるし、お隣の美人な奥様にも似てるのねぇ。お名前は?」

「華の香りって書いて、華香はなか

「名前負けしない器量よしねぇ、華香チャン。この娘が原因なの?」

 ほぅ、と口元に手を添え感嘆の息を吐きながら、不思議そうにママは真田に訊ねた。華香はわざわざ好き好んで他人といさかいを起こすような娘には見えないからだ。

「……昔は可愛かったんだよ。俺のことしゅうちゃんとか修兄しゅうにいとか呼んでさ、家も近いからよく会ってたし、俺にかなり懐いてたし」

 カラン、と琥珀の中の氷が、真田が持ち上げたグラスにぶつかる。真田の後方で、他の客が夜の蝶たちと笑いさざめく声が霧のように広がった。

「昔は兄貴を差し置いて、『大きくなったら修ちゃんのお嫁さんになる』なんて、可愛いこと言ってたのにさ」

 空いた手で頬杖をつき、持ち上げたグラスに薄く入った琥珀色の液体に語り掛けるように、真田は続ける。

「世界中のお父様からブーイングされちゃいそうね、その台詞」

 口を隠すように指先を唇に当て、ふふふ、とママが笑い声を洩らす。

「父親の憧れだよな、この台詞は。兄貴も怒ってた」

 真田のアルコールで虚ろになっていた瞳に微かに光が戻り、口の端が僅かに吊り上げられる。ママは空になった小皿の代わりに、新しく小鉢に盛られた肉じゃがに割り箸と箸置きを添えて、真田の目前に置いた。グラスを置き、パキンと軽い音を立てて割り箸を割ると、真田は飴色になってくたりとした玉葱を一枚剥がして、口に運ぶ。勿体ぶった食べ方を特に言及することもなく、ママは艶めく唇をゆっくりと開いた。

「それで……華香チャンに何されたの?」

 花びらが幾重にも重なった芍薬しゃくやくが綻ぶときのように、ママは全てを知っているかのようにやわらかく笑む。

「いや、されたというか……むしろ言われたんだけど……」

 歯切れ悪く唸りながら真田は難しい顔をして、肉じゃがを割り箸でつつくだけで食べようとはしなくなった。割り箸にいじられるだけの肉じゃがは、少しずつ角が欠けたり割れたりと、形を崩しはじめる。

「……華香がさ、俺のこと……――って、言ったんだよ」

 意を決したように真田は箸を止め、ぼそりと微かな声で呟いた。その声は店内に充満するアルコールの匂いや話し声に掻き消され、ママの耳まで明確な形のまま届かない。

「え、なぁに? そんな小さい声じゃ聞こえないわよ。もっと大きな声でリピート! さんはいっ!」

 俯く真田を元気づけるようにわざと大きめの声で促すママに、真田は深々と大きな溜息をひとつ吐いてから、自棄のように言葉を吐き捨てた。

「……華香が俺のこと、オッサンって言ったんだよ」

 その言葉に、マスカラによってそれでなくとも長いのに、更に伸ばされた睫毛に囲まれた目を丸くして、ママはぱちくりと瞬きをした。

「え……オッサン? ホントにそれだけなの?」

 身を乗り出して訝しげに確認をするママに、今度は真田が驚く番だった。

「本当にそれだけだよ。オッサンだぞ、オッサン。酷いと思わないか?」

 真剣な顔で問い質すママの迫力に押され、眉を寄せ不満を吐きながらも真田の体はじりじりと後方へ下がる。ママはしばらく真田を凝視した後、眉間に指を添えて首をゆるく振りながら大きく溜息を吐いた。漫画のように効果音をつけるとするならば、『やれやれ』がぴったりとくるような反応である。

「たったそれだけであんなに凹んでたなんて……」

「え、何その冷たい反応。何で呆れてんだよ」

「華香チャンのコト溺愛しすぎて呆れてるのよ。たかだか『オッサン』の一言でしょう? クソジジイやハゲよりよっぽどマシだと思うけど?」

 ママは真田のショックをあっさりと切り捨てる。そんなものショックを受ける要因にすらなり得ない、とでも言いたげだ。そんなママに真田は負けずに食い下がる。

「俺はまだ二十九だぞ。まだ三十になってないのにオッサンだなんて酷いだろ、十分」

「ピチピチの女子高生から見たら、二十九も三十も一緒よ。同レベルよ」

 ママはその優しげな外見からは想像もつかないような、頭をかち割るような衝撃的な言葉を、その小さく形のいい口からさらりと言ってのけた。聴覚神経を伝って脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた真田は、しばらく口を金魚よろしくパクパクと無意味に開閉したのち、悔しまぎれに小さな反撃を試みた。

「…………お前だって三十なんだし、オバサンって言われたら凹むだろ」

「え、どうして?」

「は? 凹まないのか?」

 理解不能、と顔に馬鹿正直に書き出したまま、真田は首を傾げる。

「だって『オバサン』ってことは、『女』に見えてるってコトでしょう? 女に見えるのは純粋に嬉しいわよ」

 にこにこと満面の笑みでママはさらりと答えた。

「……あっそ。お前に相談した俺がバカだった」

 文字通りがっくりと項垂れて、真田は肉じゃがの大きなじゃが芋に、割り箸を突き立てた。

 ママ――本名・津守太一郎――は、計算された美しい栗毛色の巻髪を揺らし、仄暗い店内で妖艶に微笑んだ。





 ――――ここは、夜の蝶とも蛾とも形容しづらいモノたちが舞い集うニューハーフ・バー『ヴァイオレットバタフライ』。

 今宵も、美しく着飾った元男たちに、暇と金を持て余した男どもが群がる。



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