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ビターチョコ

作者: 月石 靡樹



 世間が甘い甘いヴァレンタインとやらに浮かれている日に俺は消毒液くさい病院へ足を運んでいた。

 半年前、不整脈で倒れ病院へ運ばれたときは百キロを越えていた体重も病院の(まずい)料理と(嫌気が出る)運動で入院期間の二ヶ月間で三十キロ以上のダイエットに成功した。身長のことを考えるとまだ肥満体なんだろうがそれでも今は階段の上り下り程度では息を切らさなくなったし、一メートルをゆうに越えていたウエストもビッグサイズのコーナーへ行く必要がなくなるほど細くなっていた。

 そう言った意味では病院様様だ。もっともその間、好きなお菓子を我慢し揚げ物も我慢していたわけだから俺の努力も認めて欲しいものだ。

 そして現在はその経過報告を兼ねて月に一度程度通院している。一気に体重を落としただけに病院側としてもリバウンドの心配があるようだ。入院中も隠れて甘いお菓子を食べていた俺がどれだけ信用されていないか如実に分かる。・・・少しくらいいいじゃねえか。

 まぁ、今頃学校では昼休みの真っ只中でチョコの受け渡しなんかが行われてることだろう。俺にチョコをくれるような物好きは十七年間生きてきて一人もいなかったんだから今年はむしろこの日に病院へ行けることに密かな喜びを感じていた。看護婦さんの誰かが俺に、せめて義理でもいいから・・・そんな思いがあった。

 が、もちろんそんなことはあるはずもなく、俺は初老の担当医に「少し太ったね」という小言を言われて「るせージジイ」なんて思いを隠しつつ待合室で会計を待っていた。

 「山瀬君」

 声をかけてきたのは見覚えのある看護師だった。間違いなく二十代だと推測できる潤いに満ちた肌と穏やかな表情。それでいて芯の通った強さのあるまっすぐな瞳が自分の好きな女性そのものだった。

 「お久しぶりです」

 軽く頭を下げた目線の先には白衣の下から膨れ上がる大きな桃が二つ・・・じゃなくて大きな手提げ袋があった。

 「まさか、それって・・・」

 心の中でつぶやいたはずが思わず外に駄々漏れていた。

 「うん」

 そう言うと彼女はその手提げ袋を差し出した。

 「キミに渡して欲しいって言われててね。同室にいたゆりちゃんからだよ。憶えてるよね?」

 なんだ、という思いと同時に生意気だった小学生の女の子の顔が頭をよぎった。

 「もちろん。退院したんですか?」

 「退院、まぁ転院だね。違うところに移ったんだよ。それでお世話になったから、渡して欲しいって預かってたんだ。小学生にまで手を出すなんて一歩間違えば犯罪だよキミ」

 冗談交じりに言われるが俺はそいつのことを口説いた憶えもないし、可愛がっていた記憶もない。むしろ初対面で「デブ」と言われ、それ以後くそ生意気なガキにイライラしていた。俺が隠し持っていたお菓子も隠れて食いやがって、あー思い出しただけでも腹立たしい。

 でもそのガキがなんだって俺に、もしかしてその気があったのか?

 世に言うツンデレってやつだったのか?

 俺はその袋を受け取ると会計を済ませ病院の食堂へ足を運んだ。まずい飯しかないけれど学校へいく気はないのでここで時間をつぶすことにする。カツ丼とラーメンを食し、多少の物足りなさを感じつつ、おそらくは彼女の母親が用意したであろうお菓子の詰め合わせが入っている袋へ手を伸ばす。

 しかし、最初に出てきたのは一冊の大学ノートだった。『五年二組、小笠原 由利』と俺よりも綺麗な字が表紙に綴られている。生意気な・・・

 『四月一日。病院で新学期を向かえる』

 『四月十日。去年まで来てくれていたかおりちゃんがついに来なくなった。幼稚園のときから一緒にピアノを始めたのに私はもう半年近くピアノに触っていない。もう追いつけないと思う』

 『四月十五日。新しく担任になった男の先生が挨拶に来た。若いけど頼りない感じ。たぶん前に来た若い先生みたいにお母さんたちの嫌味だとか小言に耐えられなくてノイローゼになると思う。もしくは不倫するんだろうな。男の人はみんな不倫する。お母さんがそう言ってた』

 ・・・なんだ、これ・・・

 『五月三日。ゴールデンウィークなのにお母さんもお父さんも来てくれない。お母さんは会社の若い部下と、お父さんは経理の人と一緒なんだと思う。新しいお父さんも新しいお母さんもいらないのに、お母さんもお父さんも新しい家族を作ろうとしてる。私はどっちとも一緒に行きたくない』

 『五月十一日。お母さんが新しいお父さんを連れてきた。私はあいさつしたくなかったからずっとお腹が痛いふりをしていた。呆れたようにお母さんは帰った。そんなお母さんの肩を抱きしめて歩くその男の姿は私がもっと小さいころのお父さんとお母さんの姿そっくりだった』

 俺はその先を読んでいいものかどうか分からなくなってそのノートを勢いよく閉じた。バンっという音が人気のまばらな食堂に響き渡り、その音が静まっても俺の動揺は収まることがなく再度開くのにしばらく時間がかかった。見てはいけないパンドラの箱の中身はいつだって希望さえも駆逐する絶望だけが敷き詰められている。この先に何が書かれているのか、俺は怖くてさっき食べたカツ丼とラーメンが胃を逆流しそうだった。どれだけ食べても戻したことがない俺の身体が小学生の文章に負けようとしている。

 恐る恐る続きを読むと俺が入院した日が目に入った。

 『八月十二日。隣りにまん丸の生き物がやってきた。私は思わずその人を見て「デブ」といっちゃった。「ごめんなさい」を百回心の中で言ってから眠ることにしよう』

 『八月十三日。隣りにきた人が山瀬 勇次さんという高校生だと分かった。病院のご飯じゃ足りないらしくていつもおなかを鳴らしている。そしていつもゼーゼーいっている。もしかして私よりも悪い病気なのかもしれない。心配だけど、昨日のこと謝りたいけど、話しかけられない。嫌われちゃってるよね・・・』

 そんなことない。嫌ってもいないし、誰かに心配されるような重い病気でもない。全部自分が悪いことなんだ。

 『八月二十日。夜中、変な音で目が覚めた。山瀬さんが隠れてお菓子を食べている。 「八月二十日。夜中、変な音で目が覚めた。山瀬さんが隠れてお菓子を食べている。ものすごい勢いでものすごい量を食べていた。私は少し怖くなって慌てて目を閉じて耳を塞いだ』

 『八月二十一日。昨日見た怖い夢よりも怖い顔をした先生と看護婦さんに山瀬さんが怒られていた。昨日のことがばれたらしい。大きな身体がものすごく小さくなって、まるで大きな子供みたいだった(笑)』

 このガキ・・・

 『九月一日。細くなってきた山瀬さんだけど隠れてお菓子を食べる癖は治っていないらしい。私が注意しようとしたら、優しい笑顔で「食べる?」とチョコレートをくれた。そのチョコレートは今まで私が食べたどのチョコレートよりもおいしくて、山瀬さんから全部もらって食べてしまった。「このチョコレートは高いけどおいしいんだ。黙っててくれたら、またあげるよ」・・・私も誘惑には勝てなかった。だっておいしいんだもん』

 そのチョコというのは俺がよく行くケーキ屋さんの裏メニューで濃厚ミルクショコラという一ダース千五百円する俺にとっては小遣いが入った日の自分に対する御褒美のようなものだった。俺は悪友たちに頼み、隠れてそれを初めとするお菓子を差し入れとしてもらっていた。それがなかったら退院はあと半月早かっただろう。

 『九月三日。あのチョコの味が忘れられなくて山瀬さん秘蔵のお菓子箱へ手を伸ばした。いびきのうるさいこの門番はいつだって寝顔は甘いお菓子を食べているときの幸せな表情をしている。見てるだけで笑ってしまう。ついでに私のお父さんより大きなそのおなかをさすってみたくなる。おいしいものがいっぱい入ってるんだろうなぁ』

 やっぱり隠れて食ってやがったな、このガキ・・・

 『九月十二日。まん丸の生き物がやってきて一ヶ月がたった。いつの間にか打ち解けていたけどやっぱり素直に話すことができない。もっと仲良くなったらもっとおいしいものを食べさせてくれるかな』

 俺の頭にいつも仏頂面でつまらなそうにしているその子の顔が蘇る。何か言うと、「別に」とか「黙ってて」とか可愛くないことばっかり言うのにあのチョコを食べるときは本当に年相応の幸せそうな顔になる。

 小さい頃から病弱で、入退院を繰り返していた彼女だが年齢を重ねてもその病気がよくなることがなく、逆に一年のほとんどを病院で過ごすようになっていたらしい。病名は俺もよく憶えていないし当の本人もどこが悪いのかよく分からないが時折激しい痙攣と血を伴った堰をする。それを見るたびに俺は自分がいかに贅沢な病気で入院しているのか痛感させられた。ここに長くいていいのは彼女のような病気の人なんだと、それから少しは真面目に減量へ励むようになったわけだ。

 『十月二十日。山瀬さんが退院する。ここへきたときとは別人になるくらい痩せたけどまだまだ太ってる。お菓子食べるのをやめればもっと痩せるのに、いろんな意味で残念だ。でもまたチョコを差し入れに来てくれるらしいから期待して待ってるとしよう』

 『十月二十一日。綺麗になったシーツに、あの大きな子供がいなくなった真っ白なベッドを見るとなぜだか涙が出た。みんな私を置いて退院していく。お母さんもお父さんも、私を置いていく。私は大きな声を出すことができない病室で枕の中に一日中顔を押し付けていた』

 ・・・くそ生意気だった少女の、ガラスみたいに繊細な心を垣間見るとしばらく感情の起伏なんかなかった心にひびが入ったような痛みに襲われる。

 『十月三十日。自称、「新しいお父さん」がやってきた。いやらしい顔で私を見ては私の髪を撫でたり身体を触ったりした。私はその日、泣きながらいつも以上に身体を綺麗に洗った。それでもあのいやらしく私を見る表情を頭の中から消すことができなかった。私は悔しくて悔しくて気が付けば血が出るくらい唇をかみ締めていた。あんな人がお父さんなんて絶対に認めない!』

 俺はニュースで耳にする児童虐待とか性的虐待とかはなんだかんだいってゲームや漫画の中とかわらない非現実世界の話だと思っていた。でもそうじゃなかった。たった二ヶ月だけど、俺の隣りにいた十年ちょっとしか生きていない女の子がそれに近いことを受けていたのだ。

 しかしその次のページからしばらく日付だけが残され、日記自体は空白が続いていた。

 『十二月二十四日。気が付いたら手術が終わっていたらしい。覚えているのはずいぶん前に朝ごはんを戻したという記憶だけ。どうせなら一年が終わってくれていればよかったのに。今年もクリスマスにサンタは来てくれない。願うことならあのまん丸おなかの高校生がチョコを沢山持ってバカみたいな笑顔で幸せを運んできてくれればいいと思う。とりあえず靴下は枕元においておくとしよう』

 子供らしいところがあるじゃないか。生憎俺はサンタになれなかったけど・・・

 『十二月二十五日。もう一日あるから、このまま眠る。体調が悪い。お願い。もう多くを願えないんだから、せめて一個くらい叶えてよ・・・神様・・・』

 大人びた小学生の生意気な表情が弱弱しく歪んでいたであろう文体にケーキのホール食いをしていた自分を恥じる。ここに来ていれば小さな女の子の生涯で最大の願いを叶えてあげられたかもしれないのに・・・

 『十二月二十六日。もう神様なんか信じない』

 殴り書きにされたその言葉が鈍器となって俺の胸に襲い掛かる。何度も、何度も、そのたびに俺は抑えきれない感情を必死にこらえる。

 『一月一日。たぶんこれが最後のお正月。できれば・・・』

 その後、再び空白のページが続いた。ページをめくる手が震えていく。それが最後じゃないと信じて、彼女のたぶんが戯言であると信じて・・・

 「あった・・・」

 思わず声が出ると同時に全身から力が抜けた。

 『一月二十五日。まだ生きてる。たぶん私はこのまま病気が治って、中学生になって、恋をして、彼氏とか出来て、高校生になって、中学生よりもいっぱい恋をしておいしいものを食べて、アルバイトして、大学生になって、合コンとか言って、お菓子屋さんになりたい。そしてあのチョコレートよりもおいしいチョコレートを作りたい・・・』

 それが希望的観測であることは明らかだった。あれほど綺麗だった彼女の字体がもはや初めて文字を書き始めた子供のような見るに耐えないミミズのようなものに変わっている。

 『一月二十六日。できればチョコレートのお礼だけしたい。せめて次に生まれてきたときはいい子になれるように・・・』

 次のページは空白だった。次も、次も、次も次も次も次も次も、もうその先に文字がかかれてはいなかった。

 俺は紙袋をひっくり返して他に何か入っていないかどうかを確認する。彼女が残したものがこのノートだけでは寂しすぎる。

 テーブルの上に転がった彼女の最後の希望は俺が入院中何度も破り捨てた小奇麗な、ちょうど一口大のチョコレートが十二個入るくらいのリボンが巻かれた箱だった。

 同時にひらりと便箋が落ちた。

 見慣れた小箱ではなくその便箋を開くと、そこには彼女の母親の名が書いてあった。

 続きを目で追う俺は途中からその文字の全てが滲み始めたことに気付く。

 食堂に雨が降っているようだ。

 便箋がどんどん濡れていく。

 大粒の雨だ。

 こんな大雨は俺が知る限り見たことがない。

 『娘の誕生日プレゼントを送ろうと、娘が願ったチョコレートの売っているお店を探したのですが見つけることができませんでした』

 俺はゆっくり、いつもなら難なく解けるリボンに手をかけるが今日に限ってはリボンに触れることさえままならない。

 『娘の最後の願いでさえ聞いてあげられないダメな母親です。直接会うことなどおこがましいと思います。しかし娘はあなた様に会えて希望を持つことができました。病院に通うようになってから子供らしくなくなった娘がやっと夢を綴ったのです』

 リボンを解いて上蓋を外すとパンドラの箱にはやはり最後に希望が残されていたことに気付く。とろけるほどに甘い香りが消毒液の匂いさえ消毒するように食堂一面に広がる。

 味なら知っている。

 嫌というほど食べた。

 一日百個だろうと二百個だろうと食べられる。

 でも、でも今は・・・

 『これは娘にはもう必要のないものです。どうか娘の向かう先が白い病室ではなく甘い香りの漂うチョコレートの国であることを祈っていてください』

 生まれて初めてそのチョコレートの味が苦く、しょっぱく感じた。

 俺はそのまま食堂のテーブルにうずくまってしばらく止まらない感情をそのまま垂れ流していた。

 せめてまっすぐチョコレートの国へ行ってほしいものだ。

 脳裏によぎったあの満面の笑顔が俺を責めるようにしばらくは消えずに残っていた。


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