過労死したので「外に出ると神託を失います」と嘘をついたら、働きすぎの王太子に「君は寝ていてくれ」と求婚されました
行くな。舞踏会には人間がいる。
レーヴェンハイト王国、王都ノルデンの外れにあるアーベントロート伯爵邸。その二階のいちばん奥で、十七歳の私は毛布の繭に収まり、画面の令嬢へ忠告していた。
枕元には蜂蜜を練り込んだ焼き菓子。銀の盆には冷めないよう蓋をしたお茶。手の中には女神から授かった安息の石板。画面では、昨日から見始めた連続物語の主人公が、身分を隠したまま舞踏会へ潜り込もうとしている。
私は菓子をかじり、画面を指で送った。音声は小さめ。カーテンは閉鎖。予定は白紙。完璧な職場環境だった。職場ではない。ここ重要。
前世の職場は、午前二時でも昼より明るかった。後輩の失敗を直し、上司の思いつきを企画書にし、取引先の無茶を笑顔で引き受けた末、送信ボタンへ手を伸ばしたところで私は死んだ。明日の会議に出なくていい、と分かった瞬間だけ、信じられないほど肩が軽くなった。
次に目を開けると、雲の上らしき白い場所で女神ソムニアが黒い石板を差し出していた。
「あなたは前世で人を助けすぎて死にました。今度こそ休みなさい」
「ありがたく」
一言で人生の方針が決まった。説明会のない転職ほど素晴らしいものはない。
目覚めた先は、すでに十四年を生きていた伯爵令嬢の身体だった。前世の記憶と石板だけが同じ朝に枕元へ現れた。学校へ行けとも就職しろとも言われない身分だと知り、適応には三分もかからなかった。
十四歳で前世を思い出して以来、私は三年間をかけてこの楽園を整備した。着替えは寝台の脇。水差しは腕を伸ばせば届く。読み終えた本を置く棚と、まだ読まない本を置く棚は別。改善活動とは、仕事を増やすためではなく、寝たまま生きるためにある。
「やはり、お嬢様はお美しいのに! 初夏の庭にも出ず、夜会の星にもならず、毛布の奥で月のように隠れておしまいです!」
茶を運んできたマルタは、背に定規でも仕込んだような姿勢で嘆いた。
「安息こそ、我が務め」
三つ数えてから答えた。前世では即答すると、検討中の頼みまで承諾扱いされた。その反省で身につけた間だが、のちに周囲は神意へ耳を澄ます沈黙だと誤解する。
実態は、出たくない。以上。
石板は私の魔力で動く。伯爵邸を囲む古い結界の内側なら通信できるが、身体を動かすほど画面の隅の残量が減った。敷地を出れば結界が魔力を留められず、通信も切れ、残量は一気に失われる。寝返りを一度打つ。九十九が九十八になる。
寝返りが有料。なんという悪徳仕様だろう。
しかも他人には黒い板にしか見えない。マルタが盆を置く拍子に触れても、画面は暗い鏡のままだった。秘密を守る点では優秀だが、感動を共有できない。
推しが尊いとき、一人で毛布を蹴るしかないのは、少しだけつらい。休めば誰にも傷つけられない。頼られもしない。その代わり、笑った理由を渡す相手もいない。安全と孤独は、ときどき同じ静けさをしていた。
蹴ると残量が減るので、今日は耐えた。
次の回はまだ配信されていなかった。自動再生は、百年前の港町を襲った熱病の記録へ移る。医師が患者の家を地図へ印し、発症の偏りから見えない共通点を探す話だった。指を動かして止めるのが面倒で、そのまま眺めた。働かないために得る知識は、いくらあっても困らない。
「本日はどなたにも会いません」
「ですが、旦那様が」
扉が三度、控えめに叩かれた。
この部屋を完成させて三年。楽園に、初めて納期が来た。
「来月、社交界へ出てもらう」
父ゴットハルトは、扉の内側で宣告した。
私は毛布を鼻まで引き上げた。社交界。立食。挨拶。知らない人の顔と肩書を一致させる暗記試験。前世でいうなら、終業後に自費で参加する異業種交流会である。しかもドレス着用。業務命令より悪い。
「病を得ました」
三秒置いて告げた。
「医師は健康だと言った」
父は咳払いを一つした。
先週、マルタに頼まれて診察を受けたのが裏目に出た。健康診断は敵に回すと強い。
「心が動きません」
「昔からだ。いや、穏やかな娘だと思っておる」
短い断定のあと、父は必ず自信を失う。押せば勝てそうなのに、家の当主として踏みとどまっている。腰へ当てた片手が微妙に震えていた。ここで同情したら負けだ。前世の私は、困っている人を見るたび業務を拾って死んだ。
今世では拾わない。床に落ちた紙も、できればマルタに拾ってほしい。
「社交は、死を招きます」
私は目元に力を入れた。涙の一滴くらい、十七歳の令嬢なら装備しているはずだ。
出なかった。
水分補給が足りないのかもしれない。泣くにも段取りが要る。
父はもう一度、咳払いをした。
「脅しではない。リーゼ、お前は一人娘だ」
「承知しています」
「婿を迎えねば、家が絶える」
言い切った父の声は低かった。
これは無茶振りではない。期限と責任者が三年前から決まっていた案件を、私が未開封のまま寝台の下へ押し込んでいただけだ。正論は身体に悪い。
「わしも急かしたくはない。だが、候補を見ることまで拒まれては困る」
父は言葉を続けた。
「舞踏は免じよう。夜会も一度でよい。まず三人と会え。それだけだ」
「今度の夜会には、王太子ユリアン殿下も臨席される。夜会へ書類を持ち込むほどの仕事人だそうだ。せめて家の娘として挨拶を」
同じ過労予備軍なら、会わずに互いの休息を守りたい。
要求仕様が具体的になった。最悪である。曖昧な依頼なら解釈で逃げられるが、数値を出されたら工程表が生まれてしまう。
私は石板を胸に抱き、三秒を数えた。
「俗世を捨てました」
「昨日、菓子を六つ頼んだな」
俗世、おいしい。
父は寝台へ近づかなかった。毛布を剥がしもせず、声を荒らげもせず、扉のそばから私を見ていた。
「リーゼ。お前の安息を奪いたいわけではない」
そこで言葉を切り、また咳払いをした。
「家を残す方法を、一緒に探してほしい。わし一人では決められん」
その言い方はずるい。命令なら反抗できる。助けを求められると、前世の悪癖が起き上がる。
だが、起き上がったのは悪癖だけだ。身体は毛布の中に残した。
「三日後に返事を聞く」
扉が閉じる。
手の中の石板では、連続物語の舞踏会が始まっていた。画面の中の令嬢は笑顔で踊っている。
私は停止ボタンを押した。
二日目の夜、私は働かずに縁談を消す方法を考えていた。
正攻法は全滅した。病気は医師に否定され、信仰生活は菓子の発注履歴に敗れ、国外逃亡は部屋から出る時点で却下。残るのは、父が私を外へ出せない理由を作ることだった。
「占術を極めました」
三秒黙ってから、私は告げた。
寝台の前に置かれた椅子で、父の咳が止まった。
「いつの間にだ」
当然の確認である。私も知りたい。
「三年の研鑽です」
配信と検索に費やした三年を、研鑽と呼んでよいなら嘘ではない。検索窓へ言葉を入れ、見つけた答えを読む。行為だけ抜けば文献調査だ。広告代理店は言い換えで予算を取る場所だった。前世の技能が最低の形で役立っている。
「外では力を失います」
これはほぼ本当だった。敷地を出れば通信が切れ、石板の残量も急速に減る。嘘には事実を混ぜる。企画書の鉄則である。良い子は真似してはいけない。
父は指を組み、私を見た。
「証しが要る。いや、疑いたいわけではないが、さすがに要る」
身内の温情で審査基準を曲げない。うちの当主は地味に優秀だった。今は困る。
「二つ、示します」
「では、明朝の空だ」
父は窓の外へ顔を向けた。
「庭師は晴れると言う。雨になるか」
相談者が深刻に問題を述べ、私は沈黙した。父には天意を読む時間に見えるだろう。実際は検索語を考えている。面倒だ。天気予報のアプリはこの世界を知らない。
王都ノルデン、明日、天気。
当然、何も出ない。この世界の言葉では見つからないので、地球の似た空模様へ置き換えた。
夕焼けの上に伸びる薄い雲。風向きの変化。窓辺の金具にまとわりつく湿気。指で検索すると、温暖前線が近づく際の特徴が並んだ。百パーセントではない。だが、今さら降水確率六十パーセントですとは言えない。占い師に求められるのは免責事項ではなく断言だ。
私は石板を伏せた。
「明朝、雨が降ります」
父はうなずかなかった。感動もしない。審査は継続らしい。
「もう一つだ」
父は、長く座ると痛みが出ること、立ち上がった直後は脚まで重くなることを淡々と述べた。
再び沈黙する。熟慮に見えるらしいが、頭の中では、二件目を同日に入れるな、と抗議していた。先に言ってほしい。検索のタブを分けたのに、脳のタブが足りない。
この国の椅子や病名を入れても、地球の情報には届かない。症状と座り方だけを地球の事例へ置き換えた。
父の執務椅子は、座面が高い。以前、部屋へ連行されかけたときに見た。机の威厳に合わせた結果、足裏が床へ届いていなかった。背もたれは装飾優先で、身体を支える位置が妙に遠い。
診断は医師の領分だ。私が言えるのは、負担を減らす配置だけ。
「椅子を二寸下げなさい」
父は椅子の背を指で二度叩いた。
「背に畳んだ布を」
「それだけか」
「七日、続けなさい」
短く荘厳に言うと、生活改善も神託に見える。包装の力は恐ろしい。
父は立ち上がった。
「明朝、また来る」
翌朝、窓を打つ雨音で目が覚めた。
石板の画面には午前六時十二分。こんな時間に起きるだけでも損をした気分なのに、扉の外から足音が近づいてくる。マルタが開けた扉の向こうで、父は濡れた外套を抱えていた。
「降った」
父は外套をマルタへ渡した。
「椅子も直した。立つときの痛みが、昨夜は軽かった」
天気は運もある。椅子は配置改善。二件を合わせて、父の中では偶然という逃げ道が消えたらしい。私の逃げ道まで一緒に消えている。
「空が告げました」
雲です。
父は椅子へ座らず、扉の前で頭を下げた。
「神託を疑った。許せ」
訂正する機会はあった。
私は毛布の中で石板を握り、九十六と表示された残量を見た。社交界を避けるための方便が、朝一番で社内承認されてしまった。
マルタが六日目の朝、寝台の周りへ薄布を垂らした。
「やはり神秘には演出が必要です! お嬢様のお姿を軽々しく見せてはなりません! 天幕の奥から御声だけを届けるのです!」
私は止めなかった。相談者と目を合わせずに済む。布一枚で対人負荷が下がるなら、経費として承認しよう。
最初に通された男爵夫人は、夫が冷たいと訴えた。
「帰宅しても仕事の話ばかり。贈り物もございません。もう心が離れたのでしょうか」
すすり泣く声が天幕の向こうから届く。
私は三秒黙った。外からは恋の行方を読む神秘的な時間。内心は、知らんがな、である。夫婦の事情を初対面の引きこもりに委ねないでほしい。
石板へ王国の名と男爵家の名を入れても、黒い検索窓は地球の結果しか返さない。この世界の言葉では見つからないので、地球にある似た相談へ置き換えた。
夫 会話 仕事の話だけ 愛情がない。
検索結果には、不仲の兆候もあれば、安心できる相手に一日の出来事を共有している可能性もある、と並んでいた。どちらか断定できる材料はない。占術、意外と証拠主義。
「心を決めつけてはなりません」
「では、何を信じれば」
自分から質問はしないが、される分には答えられる。
「望みを一つ、告げなさい」
「一つだけでよろしいのですか」
「夕食を共に、と」
「ああ、なんと慈悲深いお導きでしょう! 愛を試すのではなく、まず同じ食卓へ戻れと仰せなのですね!」
そこまで言っていない。恋愛コラムを十三文字に圧縮しただけだ。
男爵夫人が帰ると、画面の残量が七十二から七十九へ増えていた。
故障を疑った。今夜は連続物語の最終回が配信される。検索と寝返りを含めれば、残量は八十ほしい。次の相談を断れば休めるが、一足りない。受ければ検索で減る。ただし、今の増加が相談者の敬意に反応したのなら、差し引きで増えるかもしれない。
働いて電池を稼ぐ。認めたくないが、最終回を見逃す方がもっと嫌だった。
「通して」
入ってきた代官は、声からして夫婦仲より胃に重い案件を持っていた。
「同じ畑だけ、年々実りが減ります。肥料を増やしても戻りません。先の豪雨で王都の下町まで水が出たと聞いてから、領民は天の怒りだと騒いでおります」
昼寝を延期された内心は、断固として抗議中だった。その騒ぎを舌の裏へ押し込み、石板へ指を滑らせる。天幕の外にいる代官には、深い熟慮に見えたらしい。
同じ畑 同じ作物 収穫量低下 肥料。
連作障害。病害虫。特定養分の偏り。原因を一つに断定せず、輪作と休耕を小さな区画で試すのが安全そうだ。畑まで比較試験を求めてくるとは、社畜技能の適用範囲が広すぎる。
「畑を三つに分けなさい」
「三つに」
「穀物、豆、休耕」
「順に移すのですか」
「記録を残しなさい」
代官は床へ膝をついた。
「土の機嫌ではなく、使い方を見よとの託宣! 領民を迷信からお救いくださった!」
まだ救っていない。小さな区画で試して、結果を記録しろと言った。成功報告は来季まで保留でお願いします。
代官が退室した瞬間、石板の残量が百になった。
私は画面と扉を見比べた。相談者が私を敬うたび、魔力が戻る。女神の石板は崇敬を充電へ変えているらしい。
怠け続けるには、働いて崇められなければならない。
運営会社を呼んでほしい。仕様が思想に反している。
「お嬢様! やはりお力は本物です! 求婚のお手紙も、こんなに!」
マルタが両腕で抱えた封書を机へ積んだ。見なかったことにして毛布をかぶる。
その山の頂上に、金の封蝋を押した一通が載せられた。
窓の下で車輪が止まる。王家の紋章を付けた馬車だった。
九日目の午後、閉じたカーテンの縁が日差しに白く焼けていた。三日前に書状だけを届けた王家の馬車が、また伯爵邸の玄関前へ止まった。
降りてきたのは王太子ユリアン一人だった。供を玄関へ残したのではない。本当に連れてきていないらしい。両腕には紐で束ねた書類が三つ。王太子が自分で運ぶ量ではないし、人間が面会へ持参する量でもない。
いやな親近感が湧いた。
父とマルタが天幕の手前に控えると、ユリアンは書類を床へ置いた。紙の角がきれいに揃っている。片づける暇はなくても、揃えずにはいられない人の仕事だった。
「母の症状を述べます」
質問ではなく、宣言から入った。
王妃アデルハイトは、ひと月ほど前から食欲が落ちた。腹部の痛みが続き、指先がしびれ、朝になっても身体の重さが抜けない。熱はない。宮廷医の薬を替えても改善しない。
なぜ医療案件が無資格の引きこもりへ回ってくるのか。内心の監査請求をひと呼吸かけて押し殺した。その間、天幕の向こうでは王家の運命を読む沈黙だと思われている。責任が重い。毛布まで重くなった気がする。
石板へ王妃の名を入れても、地球は何も知らない。この世界の名では探せないため、並べられた症状を地球の似た事例へ置き換えた。
腹痛。手指のしびれ。倦怠。食欲低下。長期。発熱なし。
候補は多い。私は診断できない。画面を送りながら、暮らしの中で変わった物がないか、彼が自分から述べるのを待った。私から質問しない方針が、初めて不便に働いている。
ユリアンは書類を一枚開いた。
「症状の前に、白粉を替えた」
次の紙を置く。
「食器も同じ月に替えた」
さらに、王妃は酸味の強い果実水を好み、新しい器へ入れたまま一晩置くことがあるという。ユリアンは使用人の記録から、白粉を使う日と腹痛が強い日まで抜き出していた。私の占いより、彼の調査の方がよほど神がかっている。
有能。こちらが聞く前に変更履歴を用意している。会議に一人ほしい。会議そのものは要らない。
白粉。腹痛。しびれ。彩りのある食器。検索語を足すと、鉛による中毒の記事が並んだ。地球では古い化粧料や釉薬から体内へ入った事例がある。確定ではない。しかし二つ同時に始めたなら、二つとも止める価値はある。
私は石板を伏せた。
「白き粉を捨てなさい」
ユリアンは紙へ書く。
「彩る器も、すべて」
羽根ペンが止まらない。
「古い器へ戻しなさい」
「医師の診立ては続ける」
「水と食を絶やさずに」
「厨房まで調べさせる」
「果実水を置かないで」
「ガラスの器へ移す」
「他の者も診せなさい」
王妃だけに症状が出ているとは限らない。化粧を手伝う者、器を洗う者、同じ食事を取る者。軽い症状を疲労だと思っている可能性もある。
ユリアンは三枚目の紙を開いた。
「関わった者を調べます」
判断が早い。反論のための反論も、体面を守るための保留もない。前世でこの速度の決裁者に会っていれば、私は午前二時に死なずに済んだかもしれない。
父の喉が鳴った。マルタは胸の前で手を組んでいる。過剰な感動が始まる前に、ユリアンが書類を閉じた。
「二人で話します」
父は迷った末に退室した。マルタは「やはり天意には王族すら平伏するのです!」と三文ほど言い残したが、扉の向こうへ押し出された。
ユリアンは天幕へ向き直った。
「あなたのそれは占いではありませんね」
指が止まる。
まずい。もっともまずい相手に、演出を見抜かれた。
「石板は私には見えない」
彼は断定を重ねた。
「だが、あなたは読んでいる」
言い逃れを考える。神秘が見えないのは信仰不足です。王族相手には危険。天の文字です。なら読めるのはなぜか。詰みである。広告の不祥事会見でも、もう少し逃げ道がある。
「暴きません」
ユリアンは書類を一つ、脇へ押した。
「あなたの道具を守ります」
「神託を求めません」
彼は、私が最も警戒していた条件を先に捨てた。
「働くかは、あなたが決める」
こちらの秘密を握った人間が、追加業務ではなく拒否権を渡してくる。交渉術だと疑うべきなのに、持参した書類へ私の名は一度も書かれていなかった。王妃の症状、使用した品、変更日。彼は私を成果として記録せず、判断に必要な事実だけを持ってきた。
私は布越しに彼を見た。
「代価は」
「ありません」
「信じられません」
「では、共犯と呼びます」
代価より重そうな単語が来た。ただ、彼は私の秘密を使って仕事を増やすとは言わなかった。王家のために毎日神託せよとも、社交の場へ出よとも言わない。
彼が持ってきた書類の山を見る。一番上に置かれた一枚には、決裁を示す印がびっしり並んでいた。視線を上げると、彼の目の下には私とよく似た隈があった。
「ヴェールを外してください」
私は布をつかみ、顔の前から下ろした。
差し込んだ光が、頬から鼻梁へ続く整った線を照らした。三年間も人前から隠れていた顔には、その造作に不釣り合いな隈が貼りついている。
ユリアンの手が、書類の上で一拍止まった。理由は分からない。私は自分の目元を指した。
「同類ですね」
彼は自分の書類をすべて閉じ、寝台から二歩離れた床へ座った。許可を求めない代わりに、私を動かそうともしない。見事な距離設定だった。
「共に見ます」
「あなたには映りません」
「声は聞こえます」
私は止めていた連続物語を再生した。
画面は彼にとって暗い鏡のまま。それでもユリアンは、舞踏会から逃げ出した主人公の台詞を聞きながら、書類へ手を伸ばさなかった。
画面の主人公が噴水へ落ち、私は毛布の中で腹を抱えた。ユリアンには何が起きたか見えない。それでも私が笑い終えるまで再生を止めたまま待ち、続きを急かさなかった。
笑い終えると、私は噴水へ落ちた理由を彼に説明した。見えない相手へ筋を語るなど、これまでなら余計な労働だった。それなのに、次の笑いどころも伝わればいいと思った。
誰かと同じ部屋にいて、帰ってほしいと思わなかったのは、前世を含めても初めてだった。
「隣国の第三王子は、毎夜の晩餐会を望んでおる」
十二日目の朝、父は一通目の求婚状を読み上げた。
私は毛布の奥へ三センチ潜った。毎夜。それは婚姻ではない。定例会議である。
「北方辺境伯は、お前に領内の慈善院を任せたいそうだ。いや、名誉ある役目なのだが」
二通目。
お断りします。慈善は必要だが、責任者には常勤の方を置いてください。過労死経験者を名誉で釣るな。
父は三通目を開いた。
「南の公爵家は、社交界の華として迎える、と」
「お断りします」
三秒待つのを忘れた。
「三人ともか」
「妻でなく、職を求めています」
父は三通の求婚状を並べた。
「婚姻には務めもある。いや、お前だけに背負わせてよいとは言わんが」
「務めで身を削りません」
前世を知らない父には、怠け者の宣言に聞こえただろう。それでも彼は否定せず、三通を封筒へ戻した。
「ならば、共に担う者を選べ」
具体的で、逃げ道のある条件だった。父も少しずつ、私の取扱説明書を学んでいる。
父が咳払いをした。マルタは背後で「やはりお嬢様ほどのお方には、どの家も国中の務めを差し出してしまうのです! 天上の星を燭台に使おうとするようなもの! なんともったいないことでしょう!」と求婚者側まで褒めている。解釈が折れない。
求婚状の内容は違っても、要求は同じだった。人前へ出ろ。家を仕切れ。慈善を率いろ。美しく働け。
私を妻にしたいのではない。無料で付いてくる役員を採用したいのだ。せめて求人票を出してほしい。
「これで最後だ」
父が金の封蝋を切った。
王太子からの書状には、求婚の二文字がなかった。
王妃は白粉と食器を替え、三日目の朝には少量の食事を取れた。腹の痛みも軽くなっている。医師の診察は継続する。礼として、寝台に座ったまま身体を伸ばせる長椅子を贈る。
末尾には一行だけあった。
あなたの生活は変えません。
狙いが正確すぎる。宝石より長椅子。舞踏会より現状維持。広告なら、対象顧客の分析で満点を出せる。
「返事は」
父が聞いた。
「礼を伝えます」
「それだけか」
「それだけです」
求婚されていないのだから、こちらから話を広げる必要はない。必要はないのに、書状を返す気にはなれず、石板の下へ挟んだ。
玄関の呼び鈴が鳴った。
マルタが応対に出て、いつもの三倍は速く戻ってきた。彼女の後ろから、黒い手袋をはめた女が部屋へ入る。
「したがって、噂は事実でした」
女は名乗る前に結論を置いた。
「私は聖アウロラ大聖堂の審問官、ベアトリクス。アーベントロート嬢、あなたは屋敷の外で力を失うと称した」
「さようです」
「『外で失う』。しかし、その主張は屋敷の内側でしか確かめられていません」
同じ言葉を反復し、逃げ道を先に塞ぐ。嫌な会議の進め方を知っている人だ。
私は黙った。石板へ手を伸ばしても、論破の検索結果は出ない。そもそも彼女の指摘は正しい。嘘を事実で補強してきた私に、事実確認の専門家が来てしまった。
「ゆえに、出られません」
「出られない。いいえ、出なければ証明できません」
ベアトリクスは父の抗議を、黒い手袋の指一本で制した。
「したがって、拒否は疑義を深めます。王妃殿下の御身へ関わった以上、私情では見逃せません」
ベアトリクスは脅しではなく、適用されうる法を読み上げた。偽りの神託で王家の判断を誤らせたと認定されれば、私は聖堂監督下の修道院へ終身移される。伯爵家も領地運営の権限を審査され、父の代で失う可能性がある。
悪人ではない。職務に正しい。正しい人は嫌いではないが、いま来る正しさは嫌いだ。
彼女は封をした書面を机へ置いた。
「十四日目の正午、大聖堂へ出頭してください」
神託を守るためについた嘘が、私を部屋の外まで追いかけてきた。
門までの距離が、私の人生で最長の道に見えた。
十四日目。正午の鐘が鳴る前に、私は父の馬車へ押し込まれた。マルタが毛布を三枚、菓子を二袋、茶器を一式積もうとしたので、毛布一枚だけを採用した。出頭であって移住ではない。
マルタは採用された毛布の端を直した。
「必ず、お戻りください」
叫ばない彼女の声は、初めて聞くほど小さかった。
「戻ります」
車輪が伯爵邸の門を越える。
石板の画面から通信の印が消えた。
覚悟していた。それでも、世界とつながっていた窓が黒く閉じる光景は、肺から空気を抜かれるよりきつかった。検索窓を押しても白い画面が残るだけ。残量は百から六十四、三十一へと落ちていく。
その黒い画面から顔を上げると、三年ぶりの外気が馬車の窓から頬へ触れた。陽光は閉じた瞼の裏まで白く、濡れた石畳は若葉色の空を映している。焼きたてのパン、香辛料、馬の汗。指先の窓が死んだ途端、現実の王都は部屋よりずっと臭く、うるさく、思っていたより鮮やかだった。
邸内では寝返り一回で一減った。外では座っているだけで二十減る。料金体系が凶悪すぎる。
聖アウロラ大聖堂へ着いたとき、残量は一だった。白い石段の上には尖塔が伸び、扉の向こうから蜜蝋と香の匂い、歌声の低い反響が流れてくる。中へ入ると空気は冷え、色硝子を抜けた青と赤の光が石床を細く切っていた。
私が石床へ足を下ろす。数字が零へ変わり、画面が消えた。
笑えなかった。
三年間、眠る前にも目覚めた後にも触れていた。前世の情報も、好きな物語も、孤独を孤独と思わずに済ませてくれた声も、すべて指先から消えた。ただの黒い板になった石板を胸に抱き、私は審問の間へ入った。
ベアトリクスが正面に立つ。ユリアンは壁際に書類を抱えていた。王妃の件に関わる審問として、自分の意志で同席したらしい。
「したがって、ここで力を失ったと主張するのですね」
「失われました」
一拍置いて答えた。演出ではない。声を出すだけで残量を削られる気がした。
「『失われた』。いいえ、初めから何もなかった可能性が残ります」
ベアトリクスは手を差し出した。
私は石板を渡した。彼女が表を押し、裏を返す。何も映らない。誰に触れられても秘密は漏れず、異端の証拠にもならない。その安全設計が、いまは私の言葉まで否定している。
「したがって、この板は証拠になりません」
一度目だった。
ユリアンが書類を置く。
「母は回復へ向かっています」
「『回復した』。しかし、宮廷医の処置も同時に続けています。彼女の言葉だけが原因とは確定できません」
二度目。
完璧に正しい。正しさで床に縫いつけられると、反論の糸口さえない。
「占術ではありません」
私は言った。
「知を借りています」
ベアトリクスが石板を机へ置く。
「借りた知。いいえ、出所を示せない知識は、王国の判断基準にはできません」
「承知しています」
だから相談室の看板など出していない。噂を増やしたのはマルタと父で、私は部屋で寝ていただけだ。被告席へ来ても責任分界が曖昧である。
扉の外で鐘が激しく鳴った。
審問の机へ、下町から届いた報告書が置かれる。ベアトリクスは目を通し、声に出した。
「アッシェ通りで熱病。今朝から十九人が発熱と腹の下る症状を訴えています」
紙をめくる。
「患者は通りの東側に集中。全員が同じ共同井戸を使用。三日前の豪雨後、井戸水が濁ったとの申告あり」
部屋にいた者が一斉に動いた。ユリアンは書類の裏へ何かを書き始める。ベアトリクスは報告書を読み直した。
私は黒い石板を見た。
検索できない。似た事例を探せない。病名も、治療法も、画面の向こうに置いてきた。
それでも、毛布の中でぼんやり見た熱病の記録が頭に残っている。医師は患者の家を地図へ印し、発症の偏りから共通点を絞っていた。
報告書の事実を一枚に並べる。患者は東側に集中。全員が同じ井戸を使った。豪雨のあと、水が濁った。番組がくれたのは答えではない。散らばった事実を結ぶ方法だった。
井戸が外れれば、水を運ぶ手間が増える。止めずに当たれば、病人が増える。なら、先に止める。
「井戸を封じなさい」
ベアトリクスがこちらを向いた。
「したがって、井戸だけが原因とは断定できません」
「断定は不要です」
「『不要』。いいえ、根拠のない封鎖は下町の生活を止めます」
一度、突き放された。
「代わりの水を運びます」
ユリアンが紙を掲げた。上町の井戸から水を運ぶ荷車、薪、大鍋、通りを見張る者。必要な物がすでに列挙されている。
ベアトリクスは彼の紙を見ても退かなかった。
「しかし、アーベントロート嬢には医術を命じる権限がありません」
二度目。
「命じません」
私は立ち上がった。
「先に、止めます」
「ならば石板なしで示してください」
返された黒い板を握り、大聖堂を出た。
アッシェ通りまでは、馬車を待つより走った方が早い。三年間まともに歩いていない脚には、石段十段で退職願が出た。二十段で労働争議。けれど、ここで止まれば十九人が使った水を、二十人目が口にする。
早く終わらせて帰って寝たい。
そのために走った。
ユリアンの命令を受けた荷車が、途中で私たちを追い越していく。大鍋と薪、封鎖用の縄、清潔な水を積んでいた。私が必要物を説明する前に揃っている。彼は私の判断を奪わず、実行だけを先回りした。
通りへ入ると、閉じた窓の奥から咳と苦しげな声が聞こえた。共同井戸の周りでは、何も知らない住民が桶を並べている。
私は井戸の縁へ両手をついた。
「この水を飲まないで」
荘厳さを保つ余裕がなく、声がそのまま出た。
「井戸を封じなさい」
ユリアンが縄を受け取り、自分で滑車へ回した。王太子が先頭に立つと、人々の手が止まる。
「飲み水は沸かします」
大鍋が火へ掛けられる。
「食器も、手も洗って」
「運んだ水を使います」
ユリアンが補った。私はうなずく。
「病人と食を分けなさい」
「名簿を作る」
彼は書記用の紙を広げた。
「井戸水を使った店も」
「すべて閉じさせる」
「違います」
ユリアンの筆が止まった。
「水だけを替えます」
店を閉じれば、食べる物を失う家が出る。危険な工程だけを止め、残りは動かす。全部止める方が命令は楽だが、現場は一日で苦しくなる。前世で何度も見た全面停止の副作用だった。
「沸かした印を付けて」
「赤い紐を結ばせる」
「朝と夕に数を」
「私へ報告させる」
必要な判断は私が出し、権限の要る部分を彼が引き取る。言葉を奪い合わずに工程だけが組み上がった。
熱のある家、症状の始まった時刻、井戸水を飲んだ者。私は告げ、彼が項目にする。ベアトリクスは報告書と家々の位置を照らし合わせ、井戸の東側から順に確認を始めた。
「したがって、患者の分布は井戸を中心に重なります」
ベアトリクスは地図へ印を足した。
「ただし、原因の確定には水と土の調査が必要です」
「続けてください」
彼女はうなずかなかった。けれど、調査のための瓶を受け取り、自分で井戸水を封じた。
誰も私を聖女と呼ばなかった。泣いてすがりもしない。鍋へ水を入れ、桶を遠ざけ、家族の名を伝える。いま必要なのは崇敬ではなく、同じ手順を全員が守ることだった。
黒い石板は零のまま。それでよかった。
日が傾く前に、井戸には封がされ、代わりの水が各家へ渡った。新たに水を汲んだ者はいない。病人は宮廷医の指示を受けられる場所へ順に移された。
ベアトリクスが私の前へ立つ。
「したがって、井戸は調査が終わるまで封鎖します」
賛同ではあるが、声から敵意は消えていない。
「あなたの知識も、引き続き調べます」
謝罪はなかった。彼女は一度だけ頭を下げ、確認作業へ戻った。
私の脚から力が抜ける前に、ユリアンが腕を差し出した。
「帰します」
「お願いします」
今度は間を置けなかった。
帰邸したころには夜半を過ぎ、日付は十五日目になっていた。寝台へ倒れ込み、私はようやく十四日目の仕事を終えた。
十四日目の労働時間、推定四時間。前世なら半日休暇の範囲だが、今世の私には年間上限を超えている。脚は熱を持ち、喉は乾き、毛布だけが変わらぬ忠誠を示していた。
石板を結界の内側へ戻すと、画面に光が戻った。残量は零から一、十、二十七へ増えていく。井戸で指示に従った人々の思いが、遅れて届いているらしい。
充電より先に筋肉痛を回復してほしい。
「私と結婚してください」
ユリアンは寝台の横へ書類を置いて言った。
前置きがなかった。花も指輪もない。あるのは、井戸の家ごとの症状をまとめた一覧と、代わりの水を運ぶ当番表。色気の代わりに実務が正座している。
私は三秒黙った。断る文句を考えたのではない。求婚を求婚として処理するまで、疲れた脳に時間が必要だった。
「王太子妃は多忙です」
「私が全部やる」
ユリアンは書類を一枚、裏返した。
「君は寝ていてくれ」
反則だった。
「井戸の礼に見えます」
「違います」
ユリアンは迷わなかった。
「九日目に決めました」
初めて同じ部屋で配信を聞いた日だ。
「あなたが笑った後も、ここにいたいと思った」
画面も見えないのに、噴水へ落ちた登場人物より、毛布の中で笑う私を見ていたらしい。情緒の照準まで、求婚状を送った三人とは違っていた。
他の求婚者は、私に何をさせるかを書いてきた。この人だけが、私に何もさせない方法を準備してきた。
「家が絶えます」
父が扉のそばで咳払いをした。反対ではない。そこだけは譲れないという合図だった。
ユリアンは次の書類を置く。
「婚姻特許を用意します」
「リーゼロッテが伯爵位を継ぐ。将来の第二子が、その爵位を継承する」
父が紙を受け取り、最初の行から読み始めた。家の存続まで工程表に入っている。準備がよすぎる。求婚ではなく稟議なら、もう決裁欄しか残っていない。
「王宮へは出ません」
「ここを王家の別宮とします」
「人前にも出ません」
「公務は私を通します」
「神託も毎日はしません」
「必要なときだけでよい」
要件を追加するたび、受領済みの印が押されていく。交渉相手として強すぎる。こちらの無理難題を断るのではなく、制度へ変えて差し出してくる。
「理由を」
私はそれだけ言った。
ユリアンは質問の形を取らずに答える。
「あなたは私にない知を持つ」
称賛ではなく、事実を置く声だった。
「私はそれを外へ運べる」
井戸で彼が揃えた鍋と薪を思い出す。私一人なら、正しい手順を知っていても、通りの家々へ水を配ることはできなかった。
「あなたの部屋では、書類を閉じていられた」
今度は、彼自身の事実だった。
私の石板は彼に見えない。彼の仕事を私が代われるわけでもない。それでも、同じ部屋で別のものを見ながら、二人とも手を止められる。
女神ソムニアの言葉が、一度だけ胸へ戻った。
今度こそ休みなさい。
休むことは、一人になることだと思っていた。誰かといても休めるなら、その方がいい。
それに、この人にも休んでほしかった。役に立つからではない。書類を閉じた彼が、私の隣で息を抜けるようにしたい。誰かへ仕事を足すことでしか好意を示せなかった前世の私には、初めて持てた望みだった。
涙は一筋だけ落ち、毛布に吸われた。
「条件があります」
「受けます」
「夜は書類を閉じて」
ユリアンは自分の書類の山を見た。即答しない。そこだけは、簡単に守れると嘘をつかなかった。
「鐘が九つで閉じます」
「ならば、お受けします」
マルタが歓声を上げた。
「やはり天は、お嬢様へ最良の寝台守を遣わされたのです! 働かぬことを尊ぶ王太子殿下こそ、千年に一人の伴侶! この婚姻は王国に安息をもたらします!」
父は婚姻特許を読みながら、まだ困った顔をしていた。ベアトリクスから届いた書面には、井戸の封鎖継続と、私の知識を今後も審査する旨が記されている。誰もが全面的に納得したわけではない。
それでいい。全員が同じ意見になる会議は、たいてい誰かが黙らされている。
三か月後。
アーベントロート伯爵邸の東棟は、王家の別宮になった。父から伯爵位を譲られた私は、同じ部屋の同じ寝台で、王太子妃として毛布に収まっている。
共同井戸の石組みからは、豪雨の排水が入り込む裂け目が見つかった。封鎖後も数日は発症者が出たが、十二日目を最後に新たな報告は止まり、井戸は修復された。治療中の者はまだいる。だから私の手柄話にしてはいけないのだが、マルタの中ではすでに「黒き石板で死の水を退けた救済譚」へ育っていた。訂正は諦めた。訂正にも労力がかかる。
男爵夫人からは、夫が毎晩仕事を話すのは彼女に聞いてほしかったからだと判明し、週に一度は同じ夕食を取るようになったと手紙が来た。代官の試験畑では豆が芽を出した。収穫結果は来季まで保留。それでよい。神託より記録の方が信用できる。
父は執務椅子を直して以来、神託を一語ずつ記録している。ベアトリクスは月に一度、私の言葉の根拠を確かめる書面を送ってくる。敵意は健在で、質問には検索結果の出所と確度を添えて返すことになった。面倒だが、暴走防止の監査役としては信頼できる。
最初の書面の末尾にだけ、「なお、井戸封鎖の初動は妥当でした」と一行あった。謝罪ではない。彼女なりの事実認定だった。
王太子妃の公務は、私が眠っている間にユリアンが会議へ持っていく。午後、彼が寝台へ運ぶ報告は一枚だけだ。
「本日は、救貧院の冬支度を承認しました。返答は要りません」
「残りは」
「私が処理しました」
起こされて署名を求められることも、善意の名で役目を増やされることもない。彼は私を休ませると言った。その言葉を、制度だけでなく毎日で守っていた。
夜、鐘が九つ鳴る。
ユリアンの手が次の束へ伸び、鐘の余韻の中で止まった。私は毛布の端を持ち上げ、その手首へ掛ける。
「閉じて」
「閉じます」
彼は約束どおり書類を閉じ、寝台の脇へ座った。彼には画面が見えないので、私は配信の筋を短く説明する。彼は映らない物語の声を聞き、私は彼の手が書類へ戻らないことを確認する。
菓子の皿は二人の間に置いた。ユリアンは一つ取るたび、私の分を同じ数だけ残す。私が笑う場面では音声を聞き逃さないよう手を止め、私が眠れば画面に触れず、毛布だけを掛け直す。
王太子妃らしい生活かは知らない。少なくとも、私たちらしい休み方にはなった。
私は毛布の中で寝返りを一つ打った。画面の隅は、百のまま動かなかった。
連続物語が、いちばん気になるところで終わった。
「次を」
私が再生一覧を開くと、扉の外で聞いていたマルタが駆け出した。
「やはり妃殿下が、次なる託宣をお求めです!」
違う。次の配信である。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は短編として完結していますが、反響があれば長編化を検討しています。
王太子妃になっても部屋から出ないリーゼロッテ、彼女の部屋でだけ仕事を止められるユリアン、偽神託を監査し続けるベアトリクス。長編版では、三人が王宮や領地から持ち込まれる難題を解決していく結婚後の物語を描く予定です。
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