昔話
小説を書いていると言うと、人からよく色んな話を聞かされる。昨日今日の出来事から子供のころの思い出、それに自分が出会った変わった人の話などなど。あくまで善意として、なにか小説のネタにでもなればと思ってしゃべってくれているのはわかるのだけど、 話している人たちが面白いと思えば思うほどその話は面白みに欠け、それでも懲りずに語れば語るほどオチから遠ざかっていくのが関の山だった。
だから亀田社長の運転手の話も、最初は満腹気味だったぼくの興味を惹くものではなかった。
その夜、社長主催のパーティーにぼくは顔を出していた。根っからのパーティー嫌いだったが、パトロンの顔を立てないわけにはいかず、いつものように一時間ほどは聞くに堪えない話を聞いているフリをして、それから「執筆途中なので」などと適当な言い訳をつけてお暇した。作家が執筆中とあれば、どんな輩も大抵は納得してくれる。それは傲慢ちきな成金社長でも例外ではない。
パーティー会場をあとにしたぼくはホテルのフロントまで行って、社長の車を玄関まで回してもらった。社長に呼び出されたときは決まって送迎つきだったが、その日ベンツのドアを開けて待っていたのはぼくの知らない運転手だった。こじんまりした体格で、白髪交じりの頭を見たところ五十代前後だろうか。体格に不釣り合いな肩パット入りの黒いダブルのスーツ姿で、ロクに自己紹介もないままぼくを車に押し込めるとバンっとドアを閉め、何も言わずにさっさと車を発進させた。
その不躾な態度にちょっとイラっとしたけど、ぼくはなにも言わずシートに身を預けて目を閉じた。すると、運転手は「兄さん、作家さんなんだって?」と話しかけてきた。
ぼくが目を開けると、運転手はバッグミラー越しにこっちを見て笑った。
「酔っ払うといつも自慢してくるんだよ。今や俺は芸術家を応援してる、立派な実業家なんだって・・・・ったく、カメの分際で調子に乗ってるよな」
「カメ?」
「あいつとは付き合いが長くてね」と運転手は言った。「今は立場こそ雇われだけど、昔の好でついそう呼んじまう」
ぼくはなにも言わずただうなずいた。些細な好奇心は余計な話をただ長引かせるだけだし、一度話し始めたらそれを止めることはできない。お互いのことを思ってあえてそうしたのだが、こっちの気も知らないで運転手は「今でこそ落ち着いたが、こう見えてもむかしはけっこうヤンチャしててさ」と話を続けた。
「若気の至りっつうか、まぁ、救いようのないガキでね。ここらじゃ浦島っていやぁ、それはそれは恐れられたもんで。お兄さん、聞いたことない?」
「浦島っていったら亀を助けた人くらいしか・・・・」
と、ぼくはそこで言葉を切ってうつむいた。「浦島」の単語につい作家的思考が咄嗟に反応してしまっただけで、からかうつもりなんてなかったから。目つきの悪い視線を感じながらこのままタイミングを見計らって車から逃げ出そうかとも思ったけど、それも現実的ではないと判断し、覚悟を決めて顔を上げた。
運転手はバッグミラー越しではなく、運転席からこっちを振り返っていた。もちろん車は止まっていない。スピードを落とさず、真っ直ぐに夜の街道を走っていた。
「そう、それそれ」と十分な間を溜めてから運転手は嬉しそうに笑った。「なんだ、やっぱ俺のこと知ってるんじゃん」
「・・・・まぁ、有名な話ですから」
ご満悦そうに何度かうなずくと運転手は前を向き、窓を開けて唾を吐いた。
「べつに助ける気なんてなかったんだけど、あの日はとにかくむしゃくしゃしてて。それで偶々ガキんちょ三人が一人を寄ってたかってイジメてるのを見ちまったもんだから、こりゃちょうどいい憂さ晴らしになると思ってやっちまったのが運の尽きよ。最初は軽く脅してやるくらいのつもりだったんだが、「なんだ、このジジイ」って言われた瞬間にパンって理性が弾けちまって、それで気がついたときには足元に血塗れのガキんちょが横たわってやんの。そのときにはもう残りの二人もイジメられてたガキもいなくて、だれかが通報して駆けつけたマッポにお縄でジ・エンド。言い訳のしようもなく、そのまま晴れてムシヨ送りに・・・・」
「ちょっと待ってください」とぼくは堪らず口を挟んだ。「亀を助けたのに、なんで竜宮城じゃなくて刑務所に?」
「竜宮城?」と運転手はバッグミラー越しに顔をしかめた。「なんだ、そりゃ」
ぼくは自分が知るかぎりの竜宮城のことを、作家としての語彙力をフル活用して運転手に説明した。でもいくら説明しても運転手にはピンとこないようで、それでも作家として必死に説明を続けるぼくのことを慰めるように、「そんなところにいる夢ならムショで何度も見たけどな」と言った。
「作家さんほどの想像力はないが、ムショの中じゃそんな妄想をするくらいしか楽しみもないからね。時間も金の心配もいらない天国みたいな自由な世界で女をはべらせ、好きなだけ酒を呑んでやるだけヤッて、眠くなったら寝る。そんな毎日が一日という区切りがないまま、ただ垂れ流されているような時間を、俺はムショの中で思う存分満喫してた・・・・ おかげでいざ出所ってなったときはそれはそれは困った。何せ、そんな生活に慣れ切っていわゆるムショボケになっちまってたからよ。自分の意思で出ようと思って出たならまだしも、ある日突然「はい、もう出て行って」なんて放りだされたら、これが現実なのかどうかわからなくなるのも無理はないって」
そこまで言うと、運転手は口を塞ぐように煙草をくわえた。火をつけ、深く吸ってゆっくり煙を吐き出す。その視線は窓の向こうを流れていく夜の喧騒の向こう側、ここではないどこかを見据えていた。
「それからはまさに地獄だったよ」と運転手は言った。「自分の居場所を見つけることができず、路上で生活を始めるもそこにはそこのルールがあって、俺は居場所のないまま踏地から踏地へと移動を繰り返しながら、どうにか生きた。何年くらいそういう生活を続けたのかはわからない。明るくなったら朝で暗くなったら夜、曜日も時間もない垂れ流しの毎日で、それは野生動物と変わらない生活だったし、社会から見たら俺の存在もまたそう見えていたに違いない。蔑む視線に聞くに堪えない言葉。それだけならまだ耐えられたが、 理由なき暴力にはほんと困った。目が合っただけで殴られたりするのは日常茶飯事で、 路地裏で寝ているときに何人かの影に囲まれるなんてことも珍しくはなかった。むかしの俺なら抵抗したし、相手が数人でも負ける気はしなかった。でもムショでの生活がそういう闘争本能を俺からすでに奪ってたから、やられるがままそのときが終わるのを待った。その終わりが死かもしれなかったけど、それでもよかった。このまま死ねればあの天国みたいなところに行けるんだと思うと、俺は喜んで死を受け入れるつもりだった・・・・カメに助けられるまではね」
目のまえの信号が青から赤に変わる。車はゆっくりと速度を落とし、静かに停車した。 運転手は吸いかけの煙草を窓の隙間から道路に向かって指で弾いた。吸い殻は真っ赤な弧を描きながら反対車線に消えていった。
それからぼくのマンションに着くまでお互いに言葉は発さなかった。時間にして十分程度だったが、それは永遠と思えるほど長くも感じたし、あっという間にも感じた。要するに僕と運転手との時間軸がまるで違っただけの話で、並列する時間軸のせいでそう感じていただけだった。
車がマンションのまえで止まり、ぼくはなにか一言言おうか迷ったが、結局なにも言わなかった。ポケットに入ってた小銭をいつものようにドアを開けてくれた運転手に渡し、マンションのほうへと歩きだした。
すると運転手はぼくの背中に「兄さん」と声をかけた。
「今日の話は小説のネタの足しになりましたかね?」
ぼくは立ち止まり、そしてちょっと間を置いてから「ありがとう」と言ってマンション
のエントランスに向かって速足で歩きだした。べつに逃げ出したわけじゃない。頭に浮かび始めた言葉たちが一文字でも失われるまえに、早いところ仕事にかかりたいだけだった。




