境界の楼主
蝋燭の炎が揺れている。白い炎が中心で光を放ち、その周囲を橙が覆っている。
その光に照らされて、座敷の畳に影が映し出される。蝋燭の炎も影も、どこか粘ついていた。
影は不規則に震え、畳の目を這うように伸びる。部屋の隅には香が焚かれていた。
その香によるものか、それとも場に漂う空気によるものか。座敷には不自然なまでに甘い匂いが立ち込めていた。美しい花の香りというよりも、腐りかけたような甘さだった。
何枚もの襖が連なっている。そこに描かれた蜻蛉の群れは、金泥がところどころ剥落して、翅の輪郭だけが亡霊のように浮いている。
この部屋は蜻蛉楼の最奥、鏡花の間。
蜻蛉楼はこの国最大の遊郭であった。
蜻蛉楼の夜は、いつもわずかに現実味に欠けている。
部屋の灯りは粘つき、香は甘い。女たちの笑い声は障子や襖に吸われ、男たちの欲を宿した目線も、ここではどこか輪郭がぼやけている。
蜻蛉楼は世の果て、現世から外れた者が最後に行きつく場所。
そう呼ばれていた。
男は五十がらみだった。丸い肩には厚い脂肪が乗り、帯の上に腹が垂れている。顔に脂汗を滲ませながら、慣れた手つきで猪口を口へ運んでいた。
蜻蛉楼に長く出入りしている商人で、名を虻沼と言った。虻沼は蜻蛉楼の古い客でもあった。
卓の上には徳利が二本。片方は空で、片方はまだ温い。猪口が三つ。うち一つは伏せてある。
——ああ、懐かしいなぁ。あの頃のこの楼は本当に良かった。今みたいに静かすぎることもなくてな。
「いやね、秋津さん。あんたみたいな若い衆に言うても分からんかもしれんがね」
虻沼は猪口の縁を親指で撫でながら、赤ら顔に染まった目を細めた。頬の赤みが耳の裏まで広がっている。
「志乃、って遊女が昔おったんだ。知っとるか? ああ、知らんだろうな。あんたは三十路くらいだろ。あれはもう二十年も前の話だし」
秋津と呼ばれた男は卓の向こう側で、片膝を緩く立てた姿勢のまま、猪口を両手で包むように持っていた。指が白い。骨の形がそのまま透けて見えるほど皮膚が薄く、爪は硝子のように半透明で、その下にうっすらと血管が走っている。
整った美しい顔をしていた。美しいが、生者の持つ美しさとは質が違った。面長の輪郭に沿って流れる髪は烏の濡羽のように黒く、燭台の灯りを吸い込んで青く光る。長い睫毛は瞬きのたびに頬に影を落とす。唇は薄く、笑んでいるのかいないのか判然としない弧を常に描いている。肌の色は蝋のように白く、美しいが温度がない。
痩躯な印象ではあったが、意外なほどに肩幅はあった。柔らかな顔立ち、小柄な体だったが、姿勢は乱れず、一本の刃が背に芯を通しているようだった。
秋津は猪口の中の酒を見つめたまま、「ええ」とだけ応じた。声は低く、わずかに掠れている。
虻沼は、その返答の薄さに対して特に反応を示さなかった。自らの話に夢中になっているようだった。身振り手振りを交えて昔の話を続ける。話に興が乗り、卓に両手をつくと、その脚が軋む音がした。
「志乃はなあ、そりゃあ別嬪だったんよ。この蜻蛉楼で一番と言ってよかった。肌が白くてなぁ、こう、月みたいに光っとった。髪も長くて、腰の下まであってね。で、何より声よ。声が最高だった」
虻沼は恍惚とした表情で天井を仰いだ。ごくりと喉仏が上下する。
「鈴を転がすっちゅうのは、ああいうのを言うんだな。唄わせたら客が泣くんよ、本当に。わしも何度か聞いたがね、背中がぞわっとするような、色気のある声でなぁ」
秋津は猪口を唇に近づけたが、飲まなかった。縁に唇が触れただけで、そのまま静かに卓に戻す。指先が猪口の表面をゆっくりと撫でる。その動きだけが、秋津が確かに聞いていることを示していた。
「でもまあ、ああいうのは旬があるもんでね」
虻沼の声が、不意に色を変えた。恍惚とした感傷が抜け、代わりに入ったのは、品定めをする商人の目の冷たさだった。猪口を置き、袖で口元を拭う。
「毒にやられたんだとか。この楼はそういう場所だからなぁ。幽世の瘴気だか何だか知らんが、長く居すぎるとああなる。肌はぼろぼろ、髪は抜け落ちて、最後に見た時はもう、見る影もなかったわ」
——ああ、あの時の顔。まるで干物だったなぁ。あれが志乃だと言われても分からんかった。
虻沼は鼻を鳴らした。そこには一転して嘲笑が混じっている。
「で、声もなくしてしまった。喉がやられて、蟇蛙のような呻き声しか出なくなった。ああなってしまってはな、秋津さん。正直、もう生きとっても仕方ないだろう、と思ったよ。遊女ってのは花なんだから。花が枯れたら、そりゃあもう終わりでしょうよ」
男は言葉を切り、卓の上の空の徳利を持ち上げて振った。からん、と乾いた音がする。
「ただの枯れ草よ。見苦しいだけだ。誰も金を出さん。顔も声も失った女がこの楼にしがみついとったのは滑稽だったなぁ。何を大事にしとったのか知らんが、もう商品にもならんものが」
「虻沼さん」
秋津の声は、それまでと寸分も変わらなかった。
低く、掠れて、穏やかだった。責めてもいない。遮ってもいない。ただ名前を呼んだだけだ。それなのに、虻沼の喉がひとりでに閉じた。言葉が途切れ、男は反射的に秋津の顔を見た。
秋津は微笑んでいた。
口元にうっすらと弧を描いた、いつもの、あの体温のない笑み。目元は和らいで、睫毛の影が頬に落ちて、一見すれば穏やかな遊郭の若い衆が客をあしらっているだけに見える。
だが、何かが違った。
虻沼にはそれが何か、まだ分からない。
「お酒、もうないですね。持ってきましょうか」
答えを待たずに秋津は緩やかな動きで立ち上がった。着流しの裾が畳を擦り、絹が微かに鳴る。立ち姿は柳のようだった。細い体が重力に逆らわず、ただ自然に伸びている。徳利を手に取り、襖の方へ歩きかけて——立ち止まった。
振り返った横顔に、蝋燭の影が落ちる。
「ああ、そうだ。少し、窓を開けましょうか」
秋津が障子に手をかけた。指先が桟に触れると、乾いた木が小さく軋んだ。障子が三寸ほど開いた。
風はなかった。音もなかった。窓を開けたにもかかわらず、そこには何も入ってこなかった。
いや、音もなく、匂いもなく、風でもないものが窓から座敷に流れ込み、座敷の空気がほんの微かに薄くなった。
虻沼は寒気を覚えた。
上等な酒を飲み、女たちと遊び、暑いくらいだったはずの体がわずかに震える。
秋津は障子の前に佇んだまま、外の闇を見ていた。蜻蛉楼の最奥から見える景色は闇であり、常人の目には何も映らない。廊下の先に灯りはなく、闇が壁のように立っている。その闇の奥から、かすかに水の匂いがした。
「この楼は」
秋津は振り返らないまま言った。声は独り言のようでもあり、虻沼に向けているようでもあった。
「昔から、そういう場所なんですよ」
虻沼は猪口を手に取ろうとして、指先がわずかに震えていることに気づいた。酔いのせいだと思った。
「世間から外れた者。現世に居場所をなくした者。そういう人間が最後に流れ着くのがこの城です。虻沼さんもご存じでしょう。あなたは長いこと、ここに通われていますから」
秋津の声は平坦だった。抑揚がない。感情の起伏を意図的に消しているのではなく、もともとそこに感情がないような、あるいは感情の代わりに別の何かが詰まっているような声だった。
「蜻蛉楼は、その城の中でも最奥の地です」
秋津が振り返った。微笑みは消えていなかった。むしろ深くなっている。唇の弧がわずかに上がり、目が細められ、燭台の灯りを受けた瞳の表面に小さな光が二つ、揺れている。慈愛、と呼んでもよかった。その表情を見た者は皆、優しい顔だと言うだろう。
「現世と幽世の境界。ただ、その境界がね。ひどく曖昧なんです」
虻沼の額に汗が浮いていた。座敷の温度は変わっていないはずだった。蝋燭は燃えている。香の煙は立ち上っている。だが、何かが、何かの均衡が、先ほどから少しずつ傾いでいる。畳の目が歪んで見えるのは酔いのせいか。天井の木目が、先ほどより深くなっていないか。
「命は軽く、死は日常。ここではそういうものです。虻沼さんのような、現世に根を持つ生者にとって、幽世の空気は猛毒ですから」
秋津は歩いた。音がしなかった。足袋が畳に触れているはずなのに、衣擦れの音だけが絹のように座敷を滑る。虻沼の正面に戻り、静かに腰を下ろす。片膝を立て、頬杖をつく。指が自分の顎に触れる仕草は、どこまでも気怠く、優雅だった。
「ですから、ここに長く居る者たちは、私も含めて大切にしているものがあるんです。これだけは絶対に手放せない、そんなものがね」
虻沼は口を開こうとした。声が出なかった。喉が渇いている。いや、渇いているのではない。喉の内側に膜が張ったように、空気の通りが悪い。息を吸う。吸えている。吸えているはずだ。だが、肺の底まで届かない。
——なんだ。何が起きている。酒か? 酒に何かを。いや、同じ徳利から注いだ。こいつも同じものを。
「虻沼さん」
秋津の声が、すぐ近くで聞こえた。卓を挟んでいるはずなのに。距離がおかしい。近い。息がかかるほど近い。白檀でも麝香でもない、冷たい水のような、何の感情も含まない匂いが鼻腔を掠めた。
「この楼に流れ着いた女たちはね、いろいろなものを失ってきたんです」
秋津の瞳が、虻沼を見ていた。黒曜石のような瞳の奥に光がない。燭台の灯りを映していたはずの小さな光点が、いつの間にか消えている。黒い。ただ黒い。底がない。
「名前を失った者がいます。家を、親を、子を失った者もいる」
虻沼の指先が痺れ始めていた。猪口を持とうとした右手が、畳の上にだらりと落ちる。力が入らない。腕が重い。鉛を括り付けられたように重い。膝が畳に縫い止められたように動かない。
「肌を失った者。髪を失った者。声を失った者」
秋津が声に言及した時、微笑みがほんの一瞬だけ、深くなった。穏やかな顔だった。虻沼に向けたものではない。この座敷にいない誰かに向けた、静かな、底の見えない慈しみだった。
「それでもね、虻沼さん。ここに辿り着いて、それでもなお生きた人間には最後にひとつだけ、残るものがあるんです」
虻沼の視界が滲んでいた。涙ではない。空気そのものが濃度を変えていた。座敷の隅から、闇が滲出している。障子の隙間から入った無が、今や部屋の半分を浸している。蝋燭の炎が青白く変色し、畳の色が褪せ、柱の木目が蠢いている。香の煙が床に沈み、這い回っている。匂いが変わった。あるのは古い水の底の匂い。朽ちた木と泥が堆積した重い匂い。
幽世の匂いだった。
「尊厳です」
秋津は、ほとんど囁くように言った。
「何もかも奪われて、体も声も朽ちて、それでも最後まで手放さなかったもの。他の誰の目に映らなくなっても、存在価値を見出されなくても、本人だけが握りしめていたもの。それを、私たちは大事にしています」
虻沼の呼吸が浅くなっていた。肩が上下している。吸えない。水面に空気を求める魚のように口を開いている。額から顎へ汗が伝い、畳に落ちる。腕に力が入らず、上体がゆっくりと卓の方へ倒れかかる。
——なんだこれは。死ぬ。俺は死ぬのか。こいつが何か。いや。こいつは何もしていない。何もしていないのに。
「ですから」
秋津は傾いでいく虻沼を、頬杖をついたまま見つめていた。微笑みは変わらない。一度も変わっていない。最初から最後まで、同じ弧。同じ温度のなさ。同じ、底の見えない静けさ。
「失った美しさを笑うのは、よくありません。この場所では」
虻沼の肘が卓から滑り落ちた。どん、と鈍い音がして、男の太い体が畳に崩れる。横倒しになった体が痙攣している。指が畳を掻き、爪が畳の目を毟る。目が見開かれ、白目の血管が赤く浮き、瞳孔が散大している。
秋津は動かなかった。
「失った声を軽んじるのも」
座敷の蝋燭が、一本、音もなく消えた。残った一本の炎が青白く揺れ、秋津の顔の半分だけを照らしている。影に沈んだ半面は闇と溶け合って、輪郭が曖昧になっている。人間の顔と、そうでないものの境界が揺らいでいた。
虻沼の痙攣が弱まっていた。指の動きが鈍くなり、胸の上下が小さくなり、喉から微かに、ひゅう、と空気の抜ける音がした。最後の呼吸だった。管の潰れた笛のような、薄い、頼りない音。それきり、男は動かなくなった。
座敷に沈黙が降りた。
秋津は頬杖を外し、着流しの膝を払い、音もなく立ち上がった。虻沼の体を一度だけ見下ろした。その目に怒りはなかった。悲しみもなかった。あるのは、ただの確認だった。起こるべきことが起こったと、ただそれだけを受け止める目。
襖に手をかけた。乾いた木が軋む。廊下の闇が口を開け、その向こうから微かに琵琶の音が聞こえていた。誰かがまだ爪弾いている。蜻蛉楼の夜は長い。
秋津は廊下に出て、振り返らずに言った。
「片づけてください」
声は低く、掠れて、穏やかだった。それきり足音もなく闇に溶け、着流しの裾が廊下の角を滑るように消えた。座敷には虻沼の体と、燃え尽きた蝋燭の焦げた匂いと、幽世の空気だけが残されている。
廊下の奥で、琵琶が嫋と鳴った。




