婚約破棄されたので、隠していた聖女の力で聖樹を咲かせてみました
「見て。偽聖女の分際で、よく顔を出せたわね」
「まあ……きっと婚約破棄されて自暴自棄になっているのだわ。お可哀想に」
王都で最も格式高い女性たちの社交サロンで、イザベラ・アッシュフォードはある意味"時の人"となっていた。
周囲の令嬢たちが、遠慮のない視線と囁き声を向けてくる。
しかし、イザベラはそれらすべてを無視してティーカップを持ち上げると、優雅に紅茶を楽しんだ。
(ふむ、茶葉の質は……まあまあかしら。でも淹れ方がちょっと雑ね——って、そんなことより)
イザベラは内心で溜息をついた。
(あーあ。やっぱりこうなったか)
◇◇◇
イザベラが婚約者である第二王子アレクシスから呼び出しを受けたのは、三日前のことだった。
彼の私室に通されたイザベラは、そこで予想外の言葉を告げられた。
「イザベラ。お前との婚約を破棄する」
イザベラは目を瞬かせた。
(え、マジで? いや待って、今更そんなこと出来んの? 婚約してから十年は経ってるけど?)
「……理由を、お聞かせ願えますか」
努めて冷静に尋ねる。内心ではめちゃくちゃ動揺していたが。
「お前には聖女の資質がない」
アレクシスは横柄に足を組むと、アゴを上げて言った。
「キャサリン・オットマンこそが真の聖女だ。彼女は光の魔法を使い、傷を癒すことができる」
(あ、はい。あの初級光魔法が使えるだけの子ね。知ってる)
「それに引き換え、お前は聖女の血筋というだけで、何もできないじゃないか。地味で、暗くて、いつも黙っている。王子である俺には相応しくない」
(私が黙ってたのは、あんたが「女は黙ってろ」って言ったからだが? 言いたいことは山ほどあったけど。「その髪型似合ってませんよ殿下」とか「その政策は失敗しますよ殿下」とか「こっそりサボって昼寝してましたよね、ヨダレの跡ついてますよ殿下」とか!)
アレクシスはそんなイザベラの心情など知る由もなく、一枚の書類を差し出した。
「これに署名すれば、俺たちの婚約は無効になる」
「しかし、殿下。婚約は私の一存でどうこうできるものではありません。まずは陛下のご意向を——」
「このことは父上も当然承知している」
アレクシスはきっぱりと言い切った。
(いや、絶対嘘でしょ。あのことを知ってる陛下が、承知するわけないじゃん)
だが、イザベラには確かめる術がなかった。
いくらバカ王子の婚約者といえども、ただの侯爵令嬢ごときが、直接陛下に確認を取りに行くのは不敬に当たる。
(正直、今から婚活はダルいけど……この男と一生添い遂げるよりはマシか)
イザベラは盛大にため息をつきたいのを堪えて、無言で書類に署名した。
「賢明な判断だ」
そんな一見従順に見えるイザベラの態度に、アレクシスは満足そうに頷いた。
「まあ、今更婚約破棄されたお前が、ろくな結婚ができるとは思えないがな。修道院にでも入ったらどうだ? あそこなら、お前のような地味な女でも受け入れてもらえるだろう」
(この野郎……! 私にだって、愛を誓い合った男くらいいますけど? 『ぼく、おおきくなったら、イザベラをおよめさんにする!』とか言ってくれて。可愛かったなあ、ルシウス(五歳)……今どうしてるかな?)
イザベラは騒がしい脳内を一切表に出さず、綺麗な作り笑いを浮かべると、その場を立ち去った。
◇◇◇
そんなことをぼんやりと思い出していると、いつの間にか、イザベラの目の前にふわふわとした金髪の令嬢が立っていた。
——キャサリン・オットマン。
アレクシスの新しい婚約者候補であり、自称「真の聖女」である。
「まあ、イザベラ様。こんなところにいらしたのね」
キャサリンの甘ったるい声は、胸焼けをおこす。
イザベラは紅茶を飲むことで、その不快感を誤魔化した。
「婚約破棄、お気の毒でしたわ。でも仕方ありませんよね。だって、イザベラ様は、自分が聖女だと偽っていたんですもの。でも、本物の聖女はこの私。アレクシス様もそれを見抜かれて、婚約を破棄なさったんですのよ」
(……やっぱり。噂の出所はこの女か)
まるで周りに喧伝するかのようにベラベラと喋り続けるキャサリンに、イザベラは冷めた眼差しを向ける。
国王の同意を得ぬままおこなった婚約破棄を、あの馬鹿王子がこんなにも早く口外するとは思えない。
おおかた、適当に既成事実でも作って、国王が同意せざるを得ない状況に持ち込んでから公にするつもりだったのだろう。馬鹿だから。
それをこの女は、そうとは知らずに自ら台無しにしているのだ。
イザベラは内心鼻で笑いながらティーカップを置くと、キャサリンを見つめて小首をかしげた。
「キャサリン様。確かに我が侯爵家は聖女を多く輩出しておりますが、私は一度も自分が聖女だと言ったことはありませんよ?」
「で、でもっ! アレクシス様は——」
「アレクシス様が勝手に早とちりしただけでしょう」
イザベラの口調は、まるで物分かりの悪い子どもに言い聞かせるようだった。
「それに、キャサリン様。あなたが使えるのは初級光魔法だけですよね。擦り傷を少し早く治す程度の。聖女としては少々力不足なのでは?」
「な、何を……!」
「私、見ましたの。この前の夜会で、あなたがアレクシス様の擦り傷を治療していたところを。あれ、だいぶ時間がかかってましたよね。しかも、完全には治っていませんでしたし」
イザベラの言葉に、周囲からざわめきが起こる。
「そ、それは、私が本気を出していなかっただけで……!」
「あら。じゃあこれなら本気を出していただけるかしら?」
そう言うと、イザベラは近くにあったケーキ用フォークを手に取り、一切躊躇することなく自らの腕に突き刺した。
その異様な光景に、サロン中に令嬢たちの悲鳴が響き渡る。
「それとも、この国の第二王子の治療にも出さない本気を、私程度には見せていただけないかしら?」
血が流れ落ちるフォークが刺さったままの腕を眼前に差し出され、キャサリンは顔面蒼白になって後ずさった。
しかし、逃す気のないイザベラによって、すぐに距離を詰められてしまう。
「わ、私は……アレクシス様が認めた、聖女、よ……!」
結局、キャサリンはそれだけ言い残すと、貧血を起こして気絶してしまった。
「まあ、どうしましょう。聖女様は血を見ただけで倒れてしまわれたわ」
少しも困ってなさそうな声音でイザベラが言うと、周囲の令嬢たちが慌ててキャサリンに駆け寄っていく。
その隙にフォークを抜くと、傷口は光に包まれ、瞬く間に塞がっていく。
腕を触って完全に治ったことを確かめてから、イザベラは倒れているキャサリンを冷めた眼差しで見下ろした。
「キャサリン様、大丈夫かしら? ……まあ、随分自信がおありのようですし、きっと大丈夫よね」
打って変わって満面の笑みを浮かべるイザベラに、令嬢たちは化け物を見るような眼差しを向ける。
「——アレクシス様は、婚約者の持参金を自分のお小遣いだと勘違いして、使い込むような方だけど」
イザベラはそう言い残すと、颯爽とサロンを後にした。
◇◇◇
その夜。
アッシュフォード侯爵邸の自室で、イザベラは窓の外を眺めていた。
「お嬢様、本当に大丈夫なんですか?」
侍女のマリアが心配そうに声をかける。
「大丈夫よ、マリア。むしろせいせいしたわ」
「でも……」
「もう演じなくていいのよ。寡黙で、おしとやかで、何も言わない令嬢を」
イザベラはそう言うと、開放感から深く息を吐いた。
十年間。幼い頃に婚約が決まってから、イザベラはずっと演じ続けてきた。
アレクシスを立てるために、三歩下がって影を踏まない、控え目で従順な淑女を。
——そのために、聖女の力すら隠し通したのだ。
イザベラは八歳の時、聖女の力に目覚めた。
驚いた彼女は、すぐに婚約者の父であり、国の最高権力者である国王に報告した。
国王は喜び、イザベラを褒め称えた。しかし、すぐにその表情を曇らせてしまったのだ。
『……イザベラ嬢、申し訳ないが、この力のことは秘密にしてほしい』
国王はそう言うと、重々しいため息をついた。
『アレクシスは、その……まだ幼いため精神が未熟で、自分より優れた者を嫌う性質がある。もし君が聖女だと知れば、嫉妬心から何をしでかすか分からん』
まだ幼かったイザベラにはその理屈が理解できなかったが、それでも自分の力がアレクシスにとって歓迎できないものだということは分かった。
『とはいえ、聖女の力が使えないとなると、この国にとって大きな損失だ。頼む。あいつの精神が成熟するまでの数年だけ、その力を隠していてはくれないか』
イザベラは了承した。
尊敬する国王のため。そして、一応婚約者のため。
彼女は聖女の力を封印し、大人しい令嬢を演じ続けた。
アレクシスから「女は黙ってろ」と言われた時は危なかったが、それでも心の中で中指を立てるだけにとどめて、表面上は大人しく従った。
(……でも、もうこれでおしまい)
イザベラはゆっくりと右手を伸ばした。
その手のひらから、柔らかな光が溢れ出す。
そしてそれはあっという間に、部屋中に広がっていった。
「見てて、マリア」
光は窓から外へと流れ出し、庭園へと降り注いだ。
侯爵邸の庭には、樹齢三百年という聖樹がある。
かつては美しい花を咲かせていたが、十年前から枯れ始め、今では完全に朽ちかけている。
その聖樹に、光が触れた瞬間——
幹に生気が戻り、みるみるうちに葉が生い茂っていく。
そして、瑞々しい蕾が次々と芽吹いていった。
間もなく、純白の淡く光る花が咲き誇り、辺りは神聖な空気に包まれた。
真夜中だというのに、庭園は昼間のように明るく輝いている。
「まあ……」
マリアが息を呑む。
その様子を満足そうに見つめると、イザベラは微笑んで宣言した。
「さあ、始めましょう。私の新しい人生を」
◇◇◇
翌朝。
アッシュフォード侯爵邸の奇跡は、瞬く間に王都中に広がった。
枯れてしまったはずの聖樹が、一夜にして満開になったと。
王宮でも、その噂は広まっていた。
「聖樹が開花しただと?」
だらしなくベッドに横たわっていたアレクシスは、キャサリンの言葉に眉をひそめた。
「はい、司教様たちが集まって、それはもう大騒ぎに……」
「あり得ない。あの聖樹は完全に枯れていたはずだ」
「まさか……イザベラ様が——」
「馬鹿言うな」
アレクシスはキャサリンから受け取った水を一口飲むと、口の端を歪めた。
「あの女に聖女の力などあるものか。十年もそばにいて、一度も奇跡など起きなかったぞ」
そう吐き捨てると、アレクシスはグラスをキャサリンに押し付け、再び横たわった。
「——そんなことより、昨日の夜の続きはないのか?」
「もう、アレクシス様ったら…!」
キャサリンはわざとらしく視線を伏せ、媚の含んだ笑みを浮かべた。
拒む素振りも見せず、アレクシスの手に身を委ねた——その時。不躾なほど強いノックの音が室内に響いた。
「失礼いたします! 陛下がアレクシス殿下をお呼びです。至急、謁見の間へ」
「父上が?」
アレクシスは首を傾げつつも、乱れた服装を適当に整えると、謁見の間へと向かった。
そこには国王と、大司教。そして、イザベラが待っていた。
「父上、お呼びでしょうか」
「アレクシス、お前に話しておかねばならぬことがある」
国王の表情は厳しかった。
「昨夜、アッシュフォード侯爵邸で起きた奇跡……あれはイザベラ嬢の力だ」
「え……?」
アレクシスは目を見開いた。
「イザベラが……?」
「そうだ。彼女こそが真の聖女だ」
大司教がその言葉に強く頷く。
「私も確認いたしました。間違いございません」
ようやく事態が飲み込めたアレクシスの顔が、青ざめていく。
「ま、まさか……」
「お前は四日前、彼女との婚約を破棄したそうだな」
国王の声は冷たかった。
「私に確認もせずに、勝手に」
「それはっ……」
「アレクシス。お前は『婚約破棄は父上も承知している』と、イザベラ嬢に言ったそうだな」
アレクシスは言葉に詰まった。
「私がいつ、そんなことを承諾した?」
「……」
「イザベラ嬢が聖女だということは、十年前から私は知っていた」
国王は静かに言った。
「彼女が八歳の時、力に目覚めて私に報告してきた。だが私は、彼女に力を隠すよう命じたのだ」
「なぜですか……?」
「お前がその事実を知ったら、プライドを傷つけられたと癇癪を起こすと思ったからだ」
国王はアレクシスを睨みつけた。
「だが、それも結局無駄だった……お前は私の名を騙り、勝手に彼女との婚約を破棄した」
アレクシスは何も言えなかった。
そんなアレクシスにため息をつくと、国王はイザベラに向かって頭を下げた。
「イザベラ嬢。十年間、苦しい思いをさせて、本当に申し訳なかった」
「そんな……どうか顔をお上げください、陛下」
イザベラは穏やかに言った。
「婚約者として殿下を正しい方向に導くことができなかったのは、私の力不足です」
「本当に、なぜ……こんなに立派な婚約者がいながら、馬鹿息子は……」
国王は頭痛を堪えるような顔をすると、再び深く頭を下げた。
「どうか、今後は君の望むように生きてほしい。必要であれば、新たな縁談もすぐに用意させる」
「ありがとうございます、陛下」
その時、アレクシスが叫んだ。
「ま、待ってください! イザベラ! 僕と、もう一度やり直そう!」
その言葉に、イザベラはゴミを見るような眼差しをアレクシスに向けた。
「お断りします」
「どうしてだ! 僕は王子だぞ! お前に相応しい男は僕しかいない!」
「いいえ」
イザベラは面倒くさそうに首を横に振った。
「あなたは昨日こう言いましたよね。“お前は地味で、暗くて、何の取り柄もない”と。そんな私ごときが、殿下に相応しいだなんて、とても思えませんわ」
「あ、あれは……!」
「黙れアレクシス! ……お前には人の心がないのか? 侮辱までして一方的に婚約破棄をしたイザベラ嬢に復縁を申し込むとは……恥を知れ」
国王の叱責に、アレクシスは口をつぐむしかなかった。
「イザベラ嬢。改めて聞く。君の望みは何だ」
「そうですね……」
イザベラは少し考えてから、にっこりと笑った。
「アレクシス殿下には、しっかりと責任を取っていただきたいです」
「責任……?」
「はい。預かっていただいていた私の持参金を、私的に使い込んでいたそうですから」
その言葉に、国王の目が鋭くなった。
「……何だと?」
「確か……金貨五百枚ですね! 全額耳をそろえて返済していただきたいです」
アレクシスの顔が真っ青になった。
「ご、五百枚……!」
「あら、使ったのはあなたでしょう?」
イザベラは首を傾げた。
「まさか、返せないなんて言いませんよね? 王子様なんですから」
「……」
「それから、婚約破棄に関する慰謝料も請求したいです。私の名誉は著しく傷つけられましたから」
イザベラは指を折って数えた。
「んー……金貨二百枚くらいでいいかしら」
「馬鹿言え! 合わせて金貨七百枚だと!?」
「アレクシス」
国王は冷たい声で言った。
「当然だな。全額支払え」
「ち、父上!」
「お前が使い込んだ金だ。返すのは当たり前だろう」
国王は疲れ切った表情で、こめかみを押さえた。
「返済できるまで、お前の所領からの収入は全て差し押さえる。足りなければ、お前の私物を売り払え」
「そんな……」
「それから」
国王は続けた。
「お前の王位継承権は剥奪する。今後は、王都から離れた辺境の領地で謹慎しておけ」
「あ、あり得ない……!」
「不服か?」
「当たり前です! 父上、お願いですっ……せめて王位継承権だけは……!」
「お前がイザベラ嬢に何をしたか、忘れたのか」
国王の声は容赦なかった。
「国王の命令で十年間も力を隠し、お前を支え続けた彼女を、お前は私の名を騙ってまで侮辱して捨てた。その報いだ」
「で、でも……!」
「そもそもお前は、何もわかっていない。なぜ婚約相手が他国の王族ではなく、アッシュフォード侯爵家だったのか」
国王は厳しい表情で言った。
「もしイザベラ嬢が他国に行ってしまったら、我が国の存続に関わるほどの大問題に発展するところだった。なぜそんな簡単なことすら分からないのだ……」
「……」
「もういい……そいつを連れて行け」
国王の命令で、兵士たちがアレクシスに近づく。
「待て! 待ってくれ! 父上!」
アレクシスは必死に叫んだ。
だが、兵士たちは容赦なく彼を連行していく。
「僕は王子だぞ! 離せ! 僕は悪くない! そうだ……全部、力を隠していたイザベラのせいだ! イザベラが最初から力を見せていれば、こんなことにはならなかった! 僕は被害者だ! 僕は何も悪くない!」
その叫び声は、次第に遠ざかっていった。
◇◇◇
それから一週間。
イザベラの正体は王都中に知れ渡った。真の聖女はキャサリンではなく、イザベラだったと。
そして、国王の命令で十年間も力を隠していたという事実も。
結局イザベラは新たな縁談は辞退し、聖女として各地を旅することにした。
困っている人々を助け、病を癒し、瘴気で汚染された大地を浄化する。
それが、彼女が選んだ新しい生き方だった。
王都を発つ準備をしているイザベラのもとに聖騎士団長が訪れたのは、ある晴れた日の昼下がりだった。
「聖女様、旅の道中は、聖騎士団が護衛を務めさせていただきます」
馬上から降りてきたのは、黒髪に金色の瞳をした、精悍な顔立ちの騎士だった。
「……ルシウス?」
イザベラは目を見開いた。
目の間にいる聖騎士団長の制服を着ている人物が、ルシウス・ウォーレン——イザベラの幼馴染だったからだ。
「お久しぶりです、聖女様。いえ、イザベラ様」
ルシウスはイザベラの前に片膝をついた。
「ルシウス! あなた、いつの間に……聖騎士団に……しかも聖騎士団長!?」
イザベラは驚きを隠せなかった。
ルシウスは、かつてアッシュフォード侯爵邸の近くに住んでいた裕福な商人の息子だった。
平民の身分でありながら、幼い頃から剣の才能を見せていた少年。
——そして、五歳の時にイザベラに「結婚する」と宣言した、あの少年。
「聖騎士団長に任命されたのは、二年前です」
ルシウスは微笑んだ。
「俺が騎士団に入ったのは十年前。それから、ひたすら昇進を目指してきました」
「十年前……」
イザベラは驚いた。
十年前といえば、ちょうどイザベラとアレクシスの婚約が公表された年だ。
「なぜ、そんなに急いで……」
「決まっているじゃないですか」
ルシウスは真っ直ぐにイザベラを見た。
「あなたの側に行くためです」
イザベラの心臓が大きく跳ねた。
「俺は確信していました。イザベラ様がいずれ、聖女として覚醒されるだろうということを。だから、俺は聖女様の護衛を務める資格を持つ、聖騎士団長になろうと決めたんです。それが平民の俺にとって、聖女であるあなたの側に居られる唯一の方法だから」
「ルシウス……」
ルシウスに痛いほど真っ直ぐな眼差しを向けられ、イザベラはかけるべき言葉を見つけられなかった。
十年間。
彼女がアレクシスのために自分を押し殺していた十年間。
ルシウスは、ただひたすらに彼女の側に行くために努力し続けていたのだ。
(ちょっと待って、これ完全に私のために人生捧げてるよね!? 重い! いや、嬉しいけど! 普通に嬉しいけど!)
「……実は、理由はもう一つあるんですけどね」
ルシウスは微笑んだ。
「え……もう一つ?」
「幼い頃の約束です。……大きくなったら、イザベラ様をお嫁さんにするって」
イザベラの顔が一気に真っ赤になった。
「え、あ、あれ、覚えてたの!?」
「当然です。今でも、その気持ちは変わりません。いえ、むしろ強くなっています」
「え、ちょ、待って……」
イザベラは完全に混乱していた。
幼い頃からの婚約者に捨てられ、独身を決意した途端、幼い日の初恋が蘇ってきたのだ。
「あなた、本当に私のために十年も……」
「ええ」
ルシウスは即答した。
「俺の人生の目標は、ずっとあなたでした」
「私は……別の人と婚約したのに?」
恐る恐る尋ねるイザベラに、ルシウスは安心させるように微笑んだ。
「関係ありません。俺は、あなたに幸せになってほしいんです。もし、あなたが俺を選ばなくても、あなたが幸せなら、俺はそれで満足です」
「ルシウス……」
ルシウスの熱烈な告白に、イザベラの頬が再び熱を持ち始める。
そんなイザベラのリアクションに、ルシウスは嬉しそうに口元を緩めた。
「でも——もし、イザベラ様が俺を選んでくれたら……俺は、絶対にあなたを幸せにしてみせます」
初恋の相手にここまで言われて拒絶できるだけの強い心を、イザベラは持ち合わせていなかった。
「そ、その……まずは、お友達から……」
「ええ。喜んで」
新しい人生が、今、ここから始まる。
自由で、幸せな人生が。
イザベラは清々しい微笑みを浮かべた。
(ありがとう、馬鹿王子! あなたが婚約破棄してくれたおかげで、私は本当の幸せを見つけられそう!)
遠く辺境の地では、アレクシスが借金返済のために必死で働いていた。
王都でも、“偽聖女”の烙印を押されたキャサリンが社交界を追放され、姿を消していた。
だが、それらはもう、イザベラの知るところではない。
彼女は前を向いて歩いている。
ルシウスと共に、新しい未来へ向かって——
「人の心とかないんか?」って言わせたくて書きました。




