表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

君を愛する蝶になる 〜その忠実な騎士はいつまでも姫のそばにいる〜



 三日前まで、ぼくは君の忠実なるしもべであり、君を守る騎士だった。

 でも今、ぼくの体は土の中で眠り、君はぼくの墓標を抱いて涙に暮れている。ぼくはただ、君を愛するだけの蝶になった。



 ॱ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓॱ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ



 自分が蝶になっていることに気づいたのは、ほんの数時間前だ。おそらく蝶が「孵化」というのをする瞬間だったと思う。

 ぼくは宙に飛び立った。それは奇妙な感覚だった。


 これまで大地についていた足がなくなり、大きな羽根が背中でゆらめく。

 ぼくは……空を飛べる。

 それは本能で、だれに教えられるでもなくぼくは翼を広げた。ひら、ひら……。最初はあわれを誘うほど頼りなかった飛翔は、すぐに軽やかで自由になった。

 ひら、ひら、ひら。


 そして、ぼくは君をすぐに見つけた。

 若草の美しい丘で。

 君はぼくの名前の刻まれたまだ真新しい墓標を抱いて、しくしくと悲しみの涙を流しているところだった。


「ルーク……ごめんなさい。わたしなんかを守るために。うぅ……っ」


 泣かないで、姫さま。

 ぼくはそう伝えたかった。姫さまの可愛らしい水色の瞳から、たくさんの悲しみが流れている。名前を呼ばれたので、ぼくのことを思って流してくれている涙だと気がついた。


 ぼくは、三日前の朝までそうできたように、姫さまの隣に寄り添って、頬を近づけ、優しい声で慰めてあげたかった。

 でも蝶になったぼくにはできない。


 ひら、ひら。

 ぼくは飛んで、大好きだった姫さまの金色の髪の周りを、ティアラを形どるように旋回する。しばらく続けていると、姫さまは涙に濡れた顔を上げた。


「蝶々……? きれいね……慰めてくれているの」

 ほんの一瞬でも姫さまに安らぎを与えてあげられたことに満足を覚えて、ぼくはひときわ大きく翼をはためかせた。

 でも、

「きれいだわ……ルークにも見せてあげたかった」

 と、また顔を伏せて泣いてしまうのだった。

 心の優しい姫さまは、まだぼくの死から立ち直れないでいる。ただ君を守るための護衛にすぎなかったぼくのために。


 でも、知ってほしい。ぼくらはたしかに愛し合っていた。身分違いのこの想いは、決して実ることはないとわかっていたけれど、それでも間違いなくここにあった。

 ここに……ぼくの胸の中に。

 それは命を落とし、蝶になった今でも変わらない。変われそうになかった。だって姫さまはこんなに愛らしい。そして優しい。他にこんなひとはいない。


「泣いているのですか、アイリーン姫」


 声が。

 低くて少し威圧的な、男の声が。聞こえて。ぼくは動きを止めた。姫さまもびくりと体を硬くして、涙を止めた。


 丘の上にひっそりと立てられたぼくの墓標にすがっている姫さまの背後に、背の高い軍服姿の男が立っている。

 金のタッセルと正肩章の輝くご立派な服装のこの男のことを、ぼくは半年ほど前から知っていた。

 ──そして嫉妬していた。

 この男こそが、ぼくから姫さまを奪っていってしまう張本人……。姫さまの親が決めた、姫さまの婚約者だからだ。


 王立海軍の偉い将軍だというこの男は、そのご立派な戦歴と功績を姫さまの両親に認められ、姫さまの婚約者に抜擢されるという名誉にあずかっていた。

 しかし、なにが不満なのか、この男は姫さまの前でいつもいかめしい顔をしてばかりで、姫さまを怖がらせている。


「はい……。ご、ごめんなさい……お恥ずかしいところを……お見せして」

 姫さまは謝った。

 謝る必要なんてないのに! でも姫さまは、この男がいるといつもこうだ。頬を赤く染めて、うつむいて、しどろもどろになる。

 ぼくといるときの姫さまは、とっても元気で、素直で、朗らかなのに。


「謝る必要はありませんよ」

 少なくとも、この男にはそう答える良識があった。「悲しいのは当然でしょう。あなたとルークは、本当に仲がよかった」


 ぼくはふわりと舞って、姫さまを守るように彼女の肩に降り立つ。


 生きていた頃ずっとそうしていたように、ぼくはこの男を威嚇したかった。

 ぼくの使命は姫さまを守ることで、そのためにぼくは、ぼくのできるあらゆることをしてきたつもりだった。姫さまのために、銃弾を受けることさえいとわず。


「わ、わたしを……浅はかな女だと思われますか……?」

 と、姫さま。

「いいえ。嫉妬は感じますが」

 と、男。


「もし俺が任務のために命を落としても、あなたはそんなふうには泣いてくれないでしょうから」


 さらりと口にされた男の言葉は、そのとき吹かれたそよ風によって、それこそ蝶のようにあたりを舞った。


 姫さまはぼくの墓標からふらりと立ち上がろうとして、よろめく。ぼくは今までみたいに姫さまを助けたかったが、蝶の姿でできることはなく。

 ぼくの代わりに、男が素早く腕を伸ばした。

 姫さまはがっしりと男の腕に抱かれて、転倒をまぬがれた。


「あ……グラント将軍」

「あなたはそうやって、いつまでも俺のことを怖がっている」

 男──グラント将軍──は姫さまを抱きしめて、彼女の首元に唇を近づけた。姫さまがまた「あ……」と切なくささやく。


「俺があまり感情の豊かでない人間なのは、認めます。俺は愛の詩を紡ぐような男ではない……しかし、そうやって怖がられるほど、恐ろしい男でもない」

 グラント将軍のいかめしい表情にはあまり説得力がなかった。たぶん、奴自身、それを自覚しているのだろう。

 最後に静かに付け加えた。

「……おそらく。少なくとも、そうでありたいと思っている」


「グラント将軍……わたし」

「いつも君を守っていたルークを失って悲しんでいるあなたを……慰める権利を……俺に与えてくれないだろうか」

「そんな……」

 姫さまは、そのいつもは赤く色づいて可愛らしい唇を紫に染めて振るわせ、小さく小さく、ぼくにしか聞こえない声で「滅相もないです」とつぶやいた。


 グラント将軍には聞こえなかったのかもしれない。


 長く前線にいたせいで、この男は少々耳が悪いと聞いたことがある。あまりにも大砲の音を聞きすぎたせいで、鼓膜がやられてしまったのだとか。

 耳のよかったぼくが、この男より早く不審者の侵入に気づいて、姫さまを銃弾から守ることができたのもそのせいだった。


 グラント将軍は「そんな……」の部分しか聞こえなかっただろうから、姫さまに拒否されたと結論づけたのだろう。

 諦めのため息をひとつ長く吐いて、きつく囲っていた抱擁から姫さまを解放した。


「遅かれ早かれ、あなたは俺の花嫁になる。それをお忘れなきよう」


 グラント将軍は告げた。

 ばかやろう。

 この男はいつもひと言足りないか、ひと言余計なんだ。姫さまが好きでたまらないくせに。

 生まれたときから姫さまの側を離れず、彼女を守ってきたぼくは知っているんだぞ。


 案の定、グラント将軍の宣言を脅しの一種と勘違いした姫さまは、一度は止まったはずの涙をまたこぼしながら、小さくうなずいた。

 ぼくは姫さまの肩を離れなかった。



 ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ ࣪˖ ִֶॱ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ



 次の日も、また次の日も、ぼくは姫さまのそばを離れなかった。


 たとえその身は蝶に変わっても、生前繰り返していた日常はそう簡単に変えられない。ぼくは姫さまのそばが一番落ち着いたし、姫さまもぼくが隣にいると安心してくれた。


「可愛い蝶々ね。まるでルークの代わりにわたしのそばにいてくれるみたい」


 そうだ。

 そうだよ。ぼくの姫さまは賢い。


 ぼくは、めそめそと泣いている姫さまを励ますために、ひらひらと周りを回って彼女の気を紛らわせようとした。何度も。何回も。大抵は成功したが、その気晴らしは長く続かず、姫さまはまた涙に暮れる。

 ぼくは蝶であることに虚しさを感じるようになった。


「ありがとう……可愛い蝶々。でも、蝶の成虫はそんなに長く生きられないはずだわ。あなたもルークみたいに、すぐにいなくなってしまうんでしょう……?」


 そんな言葉を聞いてからは、特に。



 ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ ࣪˖ ִֶॱ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ



 しばらくすると、二度目の死がぼくを蝕もうとしているのを、本能で感じるようになった。

 一度目はルークとして。

 次にこの蝶として。


 今朝も、姫さまは相も変わらず、屋敷の裏手の丘にあるぼくの墓標を参ってくれていた。両手いっぱいに咲き誇った花束と、ぼくが好きだったバターの香るビスケットをたずさえて。


 空はまだ晴れていたが、まもなく雨が降るだろう。

 それも大地を洗い流すような豪雨が。

 蝶であるぼくは、なぜかそれを触覚に感じることができた。それは生存本能というものなのだろう……たとえ先は短くても、どんな姿形でも、息をしている限りそれは存在するらしい。


 ただ、問題は、ぼくの姫さまにはその生存本能があまりないらしいことだった。いつもそうだ。姫さまはとても危なっかしくて、そこが周囲の保護欲をそそるのだけれど。


「ルーク……あなたが恋しいわ。ひとりでは眠れないの。あなたが隣にいてくれないと」


 そうだ。

 そうだね。わかるよ。ぼくだって恋しい。君の隣にいたい。君のベッドで、君に寄り添って眠りたい──あの頃みたいに。


「今日はね、お屋敷にグラント将軍がいらしてくださるの。でも、わたし……あの方にどう接していいか、まだわからないわ。いつも怖い顔をなさってわたしを見ているもの……。きっと呆れられているんだと思うの。わたし、お姉様達のように賢くないから」


 ぼくの姫さまは王家に準ずる侯爵家の四女で、歳の離れた三人の姉がいた。

 正確には(プリンセス)ではないらしいが、近い身分であることと、その見目麗しさを賞賛されてみんなにそう呼ばれている。

 お姉さん達はそろって黒髪で、なんでも頭脳明晰の女傑ぞろいで、上のふたりに至ってはすでに由緒正しき家々に嫁に出ている。


 そこに生まれたのが姫さまだ。

 金髪碧眼。

 華奢で、抜けるような白い肌に、おっとりとした性格のちょっと病弱なぼくの姫さまは、侯爵家で蝶よ花よと育てられた。


 すでに姉達が自ら積極的に政略結婚を済ませていたので、侯爵としても、姫さまは政治の駒にする必要のない、ひたすら可愛いだけの愛玩具的存在だったのだろう。

 ただ、遅くにできてしまった娘であるため、侯爵そのひとが亡きあと、姫さまを堅実に誠実に確実に養い、守ってやれる婚約者が必要だと考えた。


 体が弱いため跡取りを産めるかどうか危ぶまれたので、地位の高い貴族は姫さまを正妻とするのに躊躇したのだ。


 そこで選ばれたのがあの大馬鹿者、グラント将軍だ。


 実力で得た地位こそ高く、うなるような財産はあるが、生え抜きの軍人であり家系は男爵とあまりパッとしない。よしんば世継ぎができなくても、侯爵家と縁を持てるだけで納得するだろう、と。


 ある意味、ぼくとこの大馬鹿者は、同じ境遇にいるといえた。

 ──侯爵が選んだ、姫さまを守ための男。

 そして、義務であるはずの姫さまを守ることを超えて、彼女を愛してしまった男。

 

 だから悔しいけれど、ぼくは少しだけ、本当に少しだけだけれど、奴を理解することができる。同情さえする。

 ぼく自身がもう姫さまを守れないとあっては、奴に一縷の望みをかけるしかなかった。

 こんな日は。


「お屋敷に戻っても……グラント将軍とどうお話ししていいかわからないわ……。ねえ、ルーク、どうしたらいいと思う? どうしたら好いていただけるかしら? あなたがいつもグラント将軍に厳しかったのは、どうして?」


 姫さまは、ぼくの墓標にそう問いかけた。

 ──どうして?

 決まっている。姫さまはまだ十六歳で、奴はもう三十五歳で、姫さまをひと目見ただけで首ったけになったくせに、それをまともに表現できないような無骨者だからだ!


 やれ「君はまだ幼すぎる」だの、「俺はずっと軍人として生きてきた。君のような女性に優しくする術がわからない」だの、御託を述べてはいるが、そんなことはどうでもいい。


 姫さまには愛情が必要なんだ。

 ぼくが、いつもあげていたような、真っ直ぐな愛情が。

 奴はそれができないから、いつも怒りを感じていた。ときには嫌悪をあらわにし、姫さまのそばから追い払ったことさえある。


 姫さまはまだ、ぼくの墓標の前でしょんぼりとしていて、丁寧に花束を並べたり、地面に生えはじめた雑草を抜いたりしている。

 空の遠いところではゴロゴロと雷鳴がとどろき、重く垂れこめた灰色の厚い雲が、ゆっくりとこちらに近づいてきているというのに……姫さまはまったく気づかない。


 多分、気づいていても、その重大性があまりわかっていない。

 姫さまには生活力というものが絶望的になかった。


「涼しくていい風ね。少し、ここでお昼寝しようかしら」


 姫さま! だから……!!!

 ルークだった頃なら、ここで彼女を急かして屋敷に連れ帰った。でも、蝶になったぼくになにかできるだろう?

 慌ててひらひらと目の前で舞ってみるものの、姫さまは「ふふ」と可愛らしい微笑を浮かべて、本当に寝そべってしまう。

 姫さまの寝つきがいいことを、ずっと床を共にしていたぼくはよく知っている。案の定、姫さまはすぐに安らかな寝息を立てはじめた。


 ものの数分もしないうちに、霧雨が大地の緑を濡らしはじめる。人間を吹き飛ばすほどの強い嵐になるのはきっとあっという間だ。



 ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ ࣪˖ ִֶॱ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ



 ぼくは雨の中を飛んだ。

 ルークだった頃のぼくの脚は誰よりも速くて、雨であろうと嵐であろうと、あの丘から屋敷まで、それこそものの数分で着くことができた。

 しかし、今は。


 ぼくはびしょ濡れの羽根で、すでに寿命の近い蝶の体を必死にはためかせながら屋敷を目指した。やっと辿り着いたとき、ぼくは枯葉のようにみすぼらしい姿になっていた。

 しかし、グラント将軍を見つけるまでは、諦めなかった。


 果たして、グラント将軍は侯爵邸の客間にて、侯爵夫人を相手に似合わないお茶を手に取っているところだった。

 豪奢な客間に突然ふらふらと入ってきた蝶を認めるなり、グラント将軍は手をとめた。


「お前は……いつもアイリーン姫のそばを飛んでいた……」


「あらいやだ」

 侯爵夫人は黒いレースの扇子を口元に当て、ほほほと上品な作り笑いをした。

「汚いものが入ってきてしまってごめんなさいね、グラント将軍。おまけにアイリーンときたら、恥ずかしがって出てこないものだから……。さぞかしあの子を子供っぽいと思っておいででしょうね。ええ、わかりますわ。本当に手のかかる子で」


 グラント将軍の目は笑っていなかった。

「アイリーン姫は完璧な女性です。俺には勿体無いほどの」


 その通りだ! 褒めてつかわそう、唐変木! しかし今は奴のことを見直している場合ではない。ぼくは最後の力をふりしぼってグラント将軍の頭の周りをぐるぐると回旋した。


「……姫になにかあったのか?」

 グラント将軍はすでに立ち上がっていた。侯爵夫人は目をまん丸にして、一匹の蝶のせいでお茶会の席を立つ将軍の無礼に驚いている。


「どういたしましたの? アイリーンなら、きっと部屋で恥ずかしがって縮こまっているだけですわ。最近、ルークが死んでから特に、塞ぎがちでしたし。本当に感傷的な子で……」

「ど こ だ」

 将軍の問いは侯爵夫人に向いていなかった。

 ぼくだ。

 ただの蝶である、このぼくに。一国の王立海軍将軍が、問うている。


 姫さまのために。


 ぼくは、この男になら姫さまのことを任せてもいいと、認めるにいたった。


 本当に最後の最後の力で宙を舞い、換気のためにわずかに開いていた扉窓をすり抜けて、ぼくの墓標のある丘を示した。雨はすでに嵐になって、地上の生命の営みを嘲笑うように荒れはじめている。


 一匹の蝶となったぼくが耐えられる種類の天候ではなかった。

 ぼくはぺたりとその場に落ちて、動けなくなった。


 でも、後悔はしていない。


 ぼくは生まれてすぐ、生まれたばかりの姫さまの護衛になった。姫さまはよくぼくのことを「アイリーンの騎士(ナイト)」と呼んだから、ぼくは騎士なんだと、いつも思っていた。

 いつも姫さまに寄り添って、姫さまを守り抜いてきた。


 最後にこうして、次に君を守ってくれる男の存在を知ることができて、よかったと思う。命の短い蝶になれたのは、神のご慈悲か。

 偶然か。

 どちらでもいい……。どんな姿になっても、いくつ転生を重ねても。

 君の幸せを祈るよ、ぼくの姫さま。



 ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ ࣪˖ ִֶॱ⋅.˳˳.⋅˙ॱᐧ.˳˳.⋅ઇଓ



 アイリーンは寒さに震えていたはずだった。


 太い雨が矢のように激しく降り、横なぶりの強い風が大地を舐めとる。アイリーンのいささか体重の足りない華奢な体はすぐに吹き飛ばされて丘を転がり、水嵩を増した川に飲み込まれるところだった。


(ああ……ルーク……。お父様……グラント将軍……)


 生まれてこのかたずっとルークとベッドを共にしていたアイリーンには、彼のいない夜が寂しすぎたのだ。

 だから、彼の墓標の隣にやってきて、束の間の安堵を感じて、ついうとうとしてしまったのだと思う。それはとても愚かなことだったのに。


 アイリーンは、川縁から這いあがろうとして足を滑らせ、冷たい濁流に押し流される……はずだった。

 そこに、グラント将軍が現れる。

 当然ながら、彼もずぶ濡れだった。艶やかな黒髪がぴたりと肌に張りついて乱れ、息は荒く、いつもの厳つい表情はそこにはなく、なにかを切望する瞳で取り乱すようにアイリーンの名前を叫んだ。


「アイリーン! 行くな!」


 急斜になった川縁までの芝生を、グラント将軍は長い足を前に出して滑り下りてきた。それは水鳥が水中の獲物を獲りに急降下するような素早さで、アイリーンは圧倒される。

 思わず、流されないために掴んでいた水草から手を離してしまうところだった。


 グラント将軍はさらになにか叫んだ。それはもう、ひとの言葉ではなかったと思う。


 彼は川に飛び込んでアイリーンを救いだした。

 アイリーンは彼のたくましい腕に抱かれ、悪夢のように残酷に荒れる川から引き離される。


「よかった」

 グラント将軍のかすれた声がアイリーンの鼓膜をくすぐる。アイリーンは咳き込み、飲んでしまった水を吐いた。


「ど、どうしてここに……」

「それは俺の台詞だ。くそ、アイリーン……俺が来るのを知っていて、どうしていつまでもこんな場所に」


 グラント将軍はいつもの敬語をかなぐり捨てていて、それは意外にも、アイリーンに安心感を与えた。


「ルークのそばにいたくて……彼のお墓に……。ルークの温もりがないと……寝られなくて……」

 説明しようとするアイリーンの唇の先に、熱い息が吹きかかる……と思った瞬間、グラント将軍の唇がアイリーンの息を奪う。

 生まれてはじめての口づけだった。


「この歳になって、犬に嫉妬するような恋をすることになるとは」


 なぜ彼が嫉妬などする必要があるのだろう……?


 ルークは、アイリーンが生まれたその月に、父が与えてくれた愛犬だった。

 象牙色の柔らかな毛と、つぶらな黒い瞳の……アイリーンの大きな騎士(ナイト)

 世間はルークのことを番犬というのだろうけれど、アイリーンはそんなふうに彼をモノ扱いしたくなかった。


 屋敷に侵入した強盗に出くわし、銃を向けられたアイリーンを救って、死んでしまった彼。

 犬としてはすでに高齢で、すでに足腰も弱っていたというのに、あの瞬間のルークは若かった頃のように俊敏に、勇敢に、アイリーンを庇った。

 同じときにグラント将軍も屋敷にいたので、もしかしたらただの押入り強盗ではなく、将軍を狙ったものだったのではないかという懸念もあって……。



 アイリーンは寒さに震えていたはずだった。


 魂の片割れにも似た愛しい愛犬を失って、その墓標にすがって泣いていた。慰めてくれるのは、なぜかアイリーンのそばを離れない小さな紋白蝶だけ。

 はじめて会ったときから惹かれている婚約者にはそっけなくされ続け、突然の嵐に遭難して、絶望しかけていたのに……温かい。

 熱い。


「は……っ、あ」

 その接吻は、はじまったときと同じくらい唐突に終わった。


 グラント将軍は上着を脱ぐと、立派な記念章が胸元に光る大きなフロックコートでアイリーンを包んだ。なにか大切なものを運ぶように横抱きにされ、降りしきる雨の中、焼けつくような声で耳元にささやかれる。


「これからは俺があなたを守ります。だから泣かないで、姫。ルークほどではないかもしれないが、俺だっていつか、あなたの床を温めてあげられるのだから」


 アイリーンは彼を見上げ、彼はアイリーンを見下ろし、ふたりはどちらからともなく微笑んだ。


 雨はまだ続く。

 しかし、灰色の雨雲のさらにその先に、初夏の訪れを感じる……そんな六月のある日のことだった。





【君を愛する蝶になる 〜その忠実な騎士はいつまでも姫のそばにいる〜 了】




 姫さま大好き護衛騎士・ルーク君のお話をお読みくださり、ありがとうございます!

 なんだかポッと浮かんで、どうしても書きたくなってしまった短編なのですが、誰かにお楽しみいただけましたらこの上ない幸いです。


 書きはじめてみると、堅物将軍と姫さまの恋物語にも情が湧き、なんだかもうちょっと書いてみたい気もしてきているのですが……ひとまずルークのお話として、ここで一旦エンドマークを付けさせていただきます。


 生命力よわよわの姫さまと、生きるためになんでもしてきた生え抜き無骨軍人カップル。

 超苦労しそうですよね。

 主に将軍が(笑)。


 死を扱う物語として、あまり悲壮にならないように気をつけたつもりですが、「ルーク×姫さま」視点だとハッピーエンドなのか? 違うのかな? とちょっとタグ付けに迷いました。

 ハピエンタグ詐欺じゃん!

 ……と感じられましたら申し訳ありません( ;∀;)


 楽しんでいただけましたら、ぜひ☆〜☆☆☆☆☆評価など入れていただけましたら、励みになります!

 ↓↓↓

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
短編ながらも、泉野先生の作品独特の色合いや香りが感じられる作品でした。ルークの正体が次第に明らかになり(丁寧なお導きで、途中気付きました)、将軍の愛情の深さや幼気なアイリーンのほのかな思いを知る事で、…
読ませていただきました~。 短編ありがとうございます。 読んでいる間、ルークの純粋な思いに胸を打たれつつ、途中からルークの生前の姿に気がつき…。 もちろん私は将軍が好き♡胸キュン♡しました。 ルークも…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ