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呪いの機械人形編

序章

 

 昔々、ある街に、一つ目の怪物が生まれました。


 シルエットは人間に似ているような、似ていないような。とにかく二足歩行で街を歩く赤い怪物でした。


 どこで覚えたものか人語を理解し、言葉を話しました。


 怪物は人間との仲を深めたかったようですがそれは不可能な事でした。


 人々からは不気味な姿を嫌がられ、離れられてしまうばかりです。


 ある日の夜、一体何があったのか、怪物の元に一人の少女が近寄ってきました。


 少女は怪物を嫌がるどころか、いろいろなお話を聞いたり、聞かせたり。


 朝は森を歩き、昼は音を奏でて、夜は空を眺めました。


 しかし幸せは続くものではありませんでした。


 怪物にはある秘密があったのです。


 雨がどしゃぶり続く夜、すべてがこの夜に壊れたのでした。


 怪物は眠っている少女に近寄ると、すぐさまその場から走り去って、遠く遠くのどこかに行ってしまいました。


 怪物が大事に隠していた秘密それは、人の記憶を食べることでしか生きられないということでした。


 人の大事な思い出や過去、あるいは感情を食べないと消えてしまう醜い生き物だったのです。


 怒りに変わった人々は、自身たちの手で人形をつくって操り、記憶を食する怪物を追い出すことに成功しました。


 ところが、怪物の行方はわかりませんでした。


 食べられた記憶が戻ることはありませんでした。


 街から消えた記憶が返ることはありませんでした。


 それ以来、この街『ポピータウン』は治安の悪さや人の退化などといった印象が持たれてしまい、挙句の果てには


 『忘却の街』


 そう、呼ばれるようになってしまいましたとさ。


                              童話「忘却の街の小さな少女」より



① 

 まだ薄暗い空の下、始発列車は席を空かせて街を走っていた。その内の一人である少年は、両手を挙げながら溜息を呑み込んだ。朝靄に塗りそめられた風景。深みどりの木々に移りかわってゆく雲々。

 

 ポピータウン。


『忘却の街』ポピータウン。そう呼ばれたのは百年ほど前の話であった。襲いかかった者の記憶を奪ってしまう赤い一つ目の怪物『記憶食い』。どこも古びた本には、二足方向で人間のような姿が描かれている。そんな記憶食いが初めて生まれ、多くの人の記憶を奪ったことから、挙句の果てにはあだ名までついてしまった。


 そして記憶食いの行方は不明だった。


 そうでなければその童話は有名にならない。記憶食いが今も被害を及ぼしている。この事実さえ存在しなかったら、世界中に配られるなんてことはまず考えられないのだった。行方が不明だったら最初から存在しなかったのではないかと疑う者もいた。記憶食いなんてものは童話の一部であると常識になっているのが世の中も半々で、少年もそう思っていたかった。


 だが、あること、数年前の、ある事件をきっかけに少年は記憶食いが実在してしまっていることに確信をえてしまったのだった。今から向かうポピータウンには何か手がかりがあると。もしかしたら、記憶食いがどこかに潜んでいるのではないかと。窓奥を見据える瞳に映っているのではないのかと。


 そんな一触即発な恐怖が迫っているのに、この列車内ではどうでもよくなった。後頭部に突き付けられた銃口を、今はさぞスリルのある夢だと信じていたかった。氷花という少年は、黒髪越しに引き金が緩むのを察知した。


 まさか街の犯罪歴を直接、列車内のこの場で見せつけられるとは予想もしなかった。こんな様子では、他の乗客に助けを求めても、返事はなかっただろう。詰るような目つきを凝らす老人が映った窓には、隅っこに蜘蛛の巣が形成されていた。動いてはいけないと窓に祈り、願うたびに震える頬をなんとかしようと思って、結局どうすることもできず無抵抗を主張するほかなかった。


 透き通る風がいつもより体に巡る。少年は病気になりたくないと昨夜寝転んでしまったことを悔やんでいた。健康なんてやはり気にするべきではないのだ。自分の心臓は何個あるのだろうかと数えていれば、視界は白くなってきた。動くことはあってはならない。屈辱ながら振り向くことも耐えようとした。

 

 しかし、限界が訪れた。緊迫を運んでいた列車がつまずき、その瞬間、少年は無意識に止めていた首をよこに揺らし、視界から盲しいた白を失った。


 引き金が囁く。少年は目をつむった。


「食べものを、恵んではくれないか」


 枯葉のような訴えが、静かなままの列車に浮かんだ。


 気づくように、少年は視界を広げた。どんな手で銃を握っているのかを知るに充分な老人の声に、緊張が昇華される。この爺さんは飢え死にかけている。空っぽだった両手を少しずつ鞄に伸ばす。銃口は今すぐにでも後頭部を貫いてしまいそうだが、少年はあくまで表情を崩さなかった。


 列車が傾き、老人はうろたえるような声を漏らして拳銃から手を滑らしてしまう。むさぼるように拾い直した老人の目がとらえたのは、少年が手のひらに財布をのせている姿だった。


 老人は一度、二度と自分より小さな手のひらの財布を見つめながら「ありがとう」と言った。


 財布の重みが柔く消え、奥の席に去ってゆく老人の背後を見つめた。言葉の余韻を抱えたまま、少年は窓の外を見つめ直す。


 ようやく列車は速度を緩み始め、所々に錆を見せるレールを鳴かせていた。軋む音はさらに大きく鈍くなり、眠りに入るように停車した。駅のホームへと降りると、心地良いほどの肌寒さを半袖に感じた。人は十七、八人ほど歩いているのだが、天井の所為か寂しささえ感じさせられてしまう。


 空気はこの上ないほどの朝。見張りのいない改札口を抜け、かすかな霧が浮かぶ街を歩き始めた。道にはさっき列車から降りた人、旅人なのか訪問者なのかそれっきりで誰もいない。


 忘却の街。ポピータウン。


 霧の匂いが漂う街を少年は歩き出した。


 並み続けに敷き詰められている煉瓦の家やホテル、まだ開いていない商店街、左右に並ぶ建物をまだかつてない経験のように見回す。薄暗いからなのか、人気はまったく感じられない。広い場所で一人きりだという実感は胸だけでなく足も弾ませてくれた。


 ドアの横につけられたランタンや街灯が点々と暗い道を燈している。夜明け寸前の街は大都市に負けない程のみごとな画といっていい。腕時計を見れば、目的地に向かうにはちょうど良いペースだ。道は線のようにまっすぐ延びていて、カーブを描くような場所はない。上空からの写真をみれば、罫線を敷き詰めた囲碁のマスのようになっている。


 白いアスファルトの影を歩く。かるい靴の音が道路の無音にテンポを刻む。目的地を探す。この辺の通りにこっそり立っているはずの、ある事務所。

 移り変わる景色に人は映らない。こんな時間に歩く人なんていなさそうだ。そうあってほしいと願った直後、深夜が終わったという直後のこの時間帯に、路地裏から音がしたのだった。


 明らかな人影がこの時間帯へ隠れこんだ猫のように、路地裏に溶け込んでいるのだった。森のように静かな少年の瞳には、いかにも怪しそうな容姿をした灰色の髪の男が映る。視線を感じたのか、男は首を挙動させ、何か独り言をつぶやきはじめる。どことない危機感が、少年を逃げるように足を誘った。が、遅かった。足音で、男がこちらに向かってきているという情景は、嫌というまでもなく浮かんだ。


「そこの少年」


 大きな手が肩に乗り、そのまま抉るように力が込められた。


「この辺に花屋を見かけなかったか」


 少年は二度と街を見回すのを止めにすると決めた。


「よその者でして。この街には初めて来たんです」


「お前の情報などどうでもいい。見かけなかったかと聞いているんだ」


 肩に力が込められた。男の声は怒っているようでもあった。初対面であるはずなのに。はたから見れば背丈が小さい少年に男が説教しているように見えたはずだ。少年はもう遠回しな発言を止めると決心した。


「見かけませんでした」


 言えば男は少年と逆の方へ、静かではあるがどこか忙しさを詰め込んだ足で一瞥をくれながら遠くなった。その鋭い目は忘れられないほど黒に染まっていた。


 少し立ち止まってすぐに少年は歩きだした。


 並み続けに敷き詰められている煉瓦の家やホテル、まだ開いていない商店街、左右に並ぶ建物をまだかつてない経験のように見回す。薄暗いからなのか、人気がまったく感じられない。


 広い場所で一人きりだという実感は胸だけでなく足も弾ませてくれる。


 ドアの横につけられたランタンや街灯が点々と暗い道を燈している。夜明け寸前の街は大都市に負けない程のみごとな画といっていい。腕時計を見れば、目的地に向かうにはちょうど良いペースだ。


 道は線のようにまっすぐ延びていて、カーブを描くような場所はない。上空からの写真をみれば、罫線を敷き詰めた囲碁のマスのようになっている。


 白いアスファルトの影を歩く。かるい靴の音が道路の無音にテンポを刻む。


 目的地を探す。この辺の通りにこっそり立っているはずの、ある事務所。移り変わる景色に人は映らない。こんな時間に歩く人なんていなさそうだ。そうあってほしいと願った直後、深夜が終わったという直後のこの時間帯に、路地裏から音がしたのだった。


 明らかな人影がこの時間帯へ隠れこんだ猫のように、路地裏に溶け込んでいるのだった。森のような少年の瞳には、いかにも怪しそうな容姿をした灰色の髪の男が映る。視線を感じたのか、男は首を挙動させ、何か独り言をつぶやきはじめる。どことない危機感が、少年を逃げるように足を誘った。が、遅かった。


 足音で、男がこちらに向かってきているという情景は、嫌というまでもなく浮かんだ。


「そこの少年」


 肩を掴む大きな手の感触。


「この辺に花屋を見かけなかったか」


 少年は二度と街を見回すのを止めにすると決めた。


「よその者でして。この街には初めて来たんです」


「お前の情報などどうでもいい。見かけなかったかと聞いているんだ」


 肩に力が込められた。男の声は怒っているようでもあった。初対面であるはずなのに。はたから見れば背丈が小さい少年に男が説教しているように見えたはずだ。彼はもう遠回しな発言を止めると決心した。


「見かけませんでした」


 言えば男は少年と逆の方へ、静かではあるがどこか忙しさを詰め込んだ足で一瞥をくれながら遠くなった。その鋭い目は忘れられない黒だった。


 何事も無かったかのように少年は赴いた。


 目的地、とある事務所の扉は明るい緑に染められていた。色の剥ぎが無いところからすると、きっとまだ新しいものだなと。のんきに考えている暇もなく、扉は向こうから開いた。氷花がくるのを待ちわびてくれているのかと思ったが、それは大きな間違いであった。


「遅刻だぞ新人」


「ごめんなさい」


 待ち合わせの十分前だけど。


 まず言われたのが指摘だった。


 事務所の青い扉から気性とげとげしく出迎えてくれたのは、背が高く黒髪の中に所々白髪を隠している私服を来た修道士のような格好をしている老人だった。このタイプの人にしかられるというのは、少年にとって恥ずべき出来事だった。


「いいか、この街ではただですら仕事が人ごみのようにあるんだ。次同じことをしたらお主には帰ってもらうぞ」


「はい」


 老人は若い声で首を曲げる少年を睨んだままだった。


「追憶者を目指す資格があるのかは私が判断しなくてはな。そのために遅刻は減点対象となった。どうだ、世の中甘くないだろ。思い知ったか」


 身動きをとろうと思うが許されなかった。


 呟いた老人はコスモという名前をもっていた。かの有名な一人の追憶者なのだ。


 ひょんな呟きから意味深長に紛れ込んだ言葉、追憶者。記憶食いが世界中に及ぼしている影響は今も続いている。その影響を受けた人々の記憶を取り戻すこの時世となっては必須と呼ばれる職の一つを、追憶者という。


 少年はこれになりたいというわけで遥々船と列車でここまでたどり着いた。


「じゃあ、お主。質問に答えろ」


「わ、わかりました」


「追憶者になって何を成し遂げたい」


「追憶者になる、目的ですか」


 突然な問いに戸惑ってしまうが、コスモの表情が真剣なものだとわかると、正直なことを躊躇わずに話してよいのだと少年は確信した。


「師の記憶を取り戻して」


 少年は瞳を揺らさずに続ける。


「感謝されたいんです」


 一度目をつむったコスモが機嫌悪そうな表情をしていたため、かたまっていた手を握り直した。


「どうにも腑に落ちんな。それは本当に追憶者にしかできないことなのか」


 あまりにも厳しい目線に言葉が詰まった。たしかに、記憶食いに関することであるからそう思われるのも無理はない。


「ったく。今後の課題だ」


 コスモはそう言うと腕時計を確認して、不機嫌な顔のままで舌を鳴らした。それをみて少年は、腹がへこんでゆく痛みを感じた。


「商店街にある花屋に行け。店主から依頼を受けた。連れに刑事の一人を呼んでいる。さっさと行け」


「そんな、無理やりな」


「いいから行け、十二時までに帰ってこなかったら分かるよな。さよならだ」


 咄嗟の間、少年は後ろ襟をつかまれていたらしく、老人は自分より少し小さい身体を外に蹴り出した。溺れるように落下する。コスモは知り合ったばかりの顔を見もせずにドアをなめらかに閉めたのだった。


「痛い」


「おお、大丈夫か少年」


 地面にぶつけた部分を叩いていれば、そこにはベージュ色のコートを身に着け土色の帽子をかぶった一人の中年男性が、この有様に微笑みながら手を伸ばしていた。


「僕は林道。よろしく」


 音のしなさそうな木製のクラリネット。第一印象として氷花は頭の雲にそんな楽器を思い浮かべた。


「氷花です。よろしくお願いします」


「知ってるよ、君の名前は聞いていた」


「えっと、一緒に来てくれる方ですよね」


「そうさ、少年。ああ、その立ち上がり方はやめた方がいいぞ。もっと便利に体勢を立て直す方法があるよ、少年」


「立ち上がり方も何かあるんですか。世の中いろいろ大変ですね。それより、花屋のもとに行けと言われたのですけど」


「こっちだよ、早速行こうか。それよりも君は知識が無さすぎるよ。少し教えてあげるから、ちゃんと付いてきなよ」


「ちょ、速いですよ」


「あはは、いいペースだ。もっと上げるぞ」


「あなた刑事でしょ。こんなに走ったら近所迷惑に」


「大丈夫、まだ朝だから。ASAP」


 紫に染まっていた空に、端からほんの少し水色が映しだされていた。


 二人は透明な空気を吸い込みながら走った。そのため花屋がある市場には二十分程度で着くことができたようだ。


「少年、いい感じの体力だぞ。さすがはあいつに拾われただけはあるなあ」


 肺を何度も深く圧縮させながら、帽子をかぶったこの刑事の体力と身体能力を恐れた。その際に刑事を疑うことなど、面倒でいらぬものだった。


「疲れと不安が顔に出てるぞ。疲れはいいとして、不安は顔に出してはいけないよ、氷花君。それにコスモさんの評価がどうかなんて分かりきってるだろ。氷花だけにね」


「そうですね」


 シャレにならないのはどうでもいいとして、コスモさんには蹴り飛ばされたし。道端で睨まれるは列車で襲われるは。初めて来たのに、初めて会ったばかりなのに。


 本当に生き残れるだろうか。


「その態度はなかなかいいな」


 ふと、シェルターが閉まった花屋に目を向けた林道のオーラは初見とはまったくの別物だった。


「さてと、仕事を始めようか」


 追憶者が取り戻す記憶は、何も記憶食いによって奪われたものだけではない。


 むしろ望まぬ形で記憶喪失となった者に依頼されることが多いのだ。


 他にも警察と協力して事件の犯人捜査をしたりする。


 今回コスモからは花屋に向かうこと以外の諸々は伝えてもらえなかった。それどころか追い払われてしまう形になった。


「あの、林道さん、何してるんですか」


 インターフォンを押すのかと思いきや、このコート姿の刑事は全く真っ当でない行動に出ていた。


「何って、二階から中に入ろうとしているんだよ」


「はっきり言います、やめた方がいいですよ。もし万が一、第三者からこの姿を見られたら、不法侵入と思われますよ」


 林道は花屋二階の柵に摑まり、体を宙に浮かせている最なかであった。


「見つかっても僕は刑事だ。別に騒がれるわけではないと思うぞ。氷花君」


「どっからどう見ても変人にしか見られないことを恐れているんですよ。インターフォンを使って店主を呼びましょう。ちゃんと会う約束をしているんだったら絶対に開けてくれますよ」


 そこで少年はある事に気づいた。さっきのコスモの態度といい、この姿の林道といい。


「あれ、待てよ、会う約束。まさかちゃんと許可をとっていないなんてことはないでしょうね」


「連絡はしたし、応じてくれたよ店主は。すぐに切られちゃったけど、大丈夫なんじゃない。君もそう思うだろ、氷花君」


 この人、なんで刑事になれたんだ。


 氷花の頭に渦が回り濁った。


「それにインターフォンは壊れてるよ。視力が悪くなかったらよく見てごらん」


「あれ、本当だ。ボタンのところにひびができてる。どんな壊し方をしたんだか」


 壊れようが不気味だった。まるで押してはいけないと警告するように、ひびが狂気のように感じられた。


「これ、殴って壊したんですかね」


「それなんだが、これから説明しようと思ってね」


 そして林道は言った。


「早くしないと、間に合わなくなるかもしれないから。それより上がれない。ちょっと手伝ってくれないかい」


 その時だった、空洞の木箱を殴り割った重音が二人の鼓膜に衝突する。


 余った音に周囲を観察していると、店から獣がうなるような声がわずかに漏れていた。


 もう三度、爆発で振動するような音が耳を刺激する。


「林道さん、手伝うので早く中に入ってください」


 といった時には林道はすでにバルコニーに上がっていた。


 先に行く、と鍵のかかっていない窓をこじ開け、中に入ったらしい。


 こうなったら全ての責任はあの音のしなさそうな木製のクラリネットみたいな刑事に押し付ければよい。


 迷いの暇なく軽々と体をバルコニーに着陸し、氷花は窓の奥を見る。


 窓越しの部屋に佇む花屋の店主らしき大男が、影にまみれて小さい少女を見下ろしているのだった。


「氷花君、動くなよ」


 呟く、林道の言葉に無言で返す。


 大男とおそらくその娘である少女の距離は手も届かぬ程度に離れていた。


 よく見れば階段につながるであろう扉が、紙のようによろめいていた。


 さっきの音、さっきの木箱が割れたような音、あれは扉だったんだ。


 手が届かない距離。暴力を振るえない距離。


 花屋の大男はやっとこちらの姿に気づいたのか、それともすでに気づいていたのか、こちらに鳩のように真っ赤になった眼を差しつける。それも少年とだけ眼を合せるように。


「誰だ貴様ら、人の家に窓から入ってきやがって」


 大男の声は耳を通らず直接脳に刺さる。今にも誰かに襲い掛かりそうな雰囲気を作り出す彼の気迫のせいで、氷花の鼓動の周期はずれを生み出していた。


 真剣な表情だった林道は、大男とごくわずかに離れている少女を窺いながら胸ポケットから手帳を取り出した。


「私は刑事の林道です。そちらから、記憶障害の子がいるのだと依頼を受けたのですが」


「依頼はない、帰れ」


 拒むように大男は林道を睨む。依頼を受けたのは確かなはずだ。信頼してよいのかは別として、あのコスモが仕事に関係ない人の家に向かえだなんて言うはずがなかった。


「そうですか。氷花君、残念だが帰るとするか」


 落胆したように林道は踵を返そうとしたが、一瞬で大男と少女の間に姿を移し、少女をかばうような姿勢をとった。


「貴様、なんのつもりだ」


 大男が手を伸ばした時には、氷花はすでにその腕に軽く手を乗せていた。


「落ち着いて。殴ってしまったあとのことを考えて」


 言っている間に、氷花の頬に強い衝撃が響いた。握られた手が痛みを与えたのだった。


 倒れる氷花に大男は何か言いたそうにしていたが、やがて壊れかけた扉を見つめながら階段を降りて行った。


 おそらく裏口が閉口する音を聞き終わって、林道は氷花の側に向かった。


「大丈夫か、氷花君。すごい度胸だったな。見直したよ。ハハハ」


「人が殴られたのに……」


 突っかかっていくように氷花は林道と向き合う。どうやらこのような関係図は今後も続いて行ってしまうのではないかと、氷花は遠くなる気を取り戻そうとした。


「いや、そうじゃなくてね。良い失敗だよ。コスモさんには報告しておくけど」


 軽々とした声に首が落ちてしまう。


「やっぱり、減点対象ですか」


「それでいいんだよ。失敗したことない奴を、雇ってくれる人なんてそうはいないさ。そうやって経験を積んで、学んでいくんだよ」


 クラリネットは帽子をいま初めて外した。その隙間から覗いていた目には温度があった。


 正直、これ以上減点をもらってしまうのは怖かったが、その気持ちが消えてしまったような気がした。


 やっとそこで、無意識と頬の痛むところに手を当てた。これくらいなら問題はない。


「ごめんなさい」


 小さな呟きが、静寂にうもれたこの部屋に溶け残った。


「主人が、あんなで」


「窃盗、ですか」


「そう」


 バルコニーを眺めながら彼らは長椅子に座って向き合っていた。


「実はこの店、何日か前に潰れているんだ。だからさっきの店主は、食べ物を盗んだりしている。という報告が入っていた」


 花屋の外見を思い浮かべると、どおりで綺麗なはずなのに修理が行き届いていないことがわかる。刑事である林道が来たから、店主は出て行ったわけだ。


「でも、窃盗だけじゃなさそうですね、あの店主は」


 視線を隅々に送って氷花は言った。


「そうだな。あの様子をみると、それだけじゃすまされない」


 虐待。少女を上から見下ろして、殴りかかろうとしている姿。これはまさしく典型的な例だった。この部屋もところどころに傷が塗られている。


 早くその情報をもらっておけばよかった、と朝にコスモに叱られた自分を恥じ、無言になってしまう。


 しかしこの時間はある小さな声によって縫われていく。


「あの。お話し中、いいですか」


「ああ、すまないね。アスホちゃん」


 アスホと呼ばれる十二歳ほどの少女は、二人に紅茶を運んできてくれた。紅茶からは花の香りが昇っていた。


「ありがとうね」


「礼には及ばないです。自由にくつろいでください」


 机に置かれた紅茶を自身は飲まないまま氷花は林道に問う。


「もっと最初に聞きたかったんですけど。どうして初対面の子の家でくつろいで、平然としていられるんですか」


「本人が良いと言っているんだ。あまりそういうことは気にしない方がいいぞ、氷花君」


「本人。そういえば店主さんから依頼をもらったのですよね」


「厳密にはそうだ。だがこの子に関する依頼なんだ」


 決して押し売りではないと願いたい。


 ティーカップを机に抱いたまま、違う部屋から本を持って座ろうとするアスホに、目を寄せた。この女の子の背丈は机に負けないくらいのサイズだ。


「私に用があったら何でも言ってください」


「ご協力感謝するよ、アスホちゃん。早速だけど、今手伝ってもらえるかな」


 アスホは最初に林道を見つけたときと同じ度合いに、不思議そうに首を傾けた。氷花は林道の取説を何行か読んでしまった気になった。


「いいですけど、なにをすれば良いですか」


「少しだけ、この少年の音楽を聴いてほしいんだ」


 林道が秘密話のように囁くものだから今度はもっと不思議に思ったようだった。


 頬を上げていた林道は、その表情を朗らかに緩めながら氷花を見つめる。


「それじゃあ、例のやつをお願いできるかい」


 突然のお願いに、氷花は呼ばれたように目を開いた。


「わ、分かりました」


 半分の紅茶をティーカップ内で揺らして立ち上がる。その時初めて、アスホは少年の首にかけられた笛に気づいた。


 林道に言われるまで存在感が皆無だった銀の笛を両手で持ち、時を流れるなめらかなモーションで右に構えた。


 そして、彩るように澄んだ音が一瞬にして部屋中に広がった。


 フルートの序奏。


 少女は恐怖に似た表情だ。自分の見ている、触れている空間が唄い出す。


 この音は実に七色だった。


 笛から染まる音が、脳内のヴァイオリンやコントラバス、ピアノたちと混ざり合って、部屋中の余白に舞いだした。


 一つのオーケストラが形成された。


 トランペット、トロンボーン、ホルン。サクソフォンにオーボエ。


 少女の瞳は、そのきれいな瞼に半分、さらに半分と閉ざされていく。


 森の中で輝く目から、やがてオーラが消えていった。


「一応、何があったのかは分かりましたよ」


 音。氷花が奏でる笛の音は、忘却した音に擬態する。聴いた者の懐古を導く。追想の道を教授する。


 そして、氷花自身もその記憶の喜、悲、衝撃の三つを読み取ることができるのだった。


 今記憶喪失となっていたこのアスホという少女は、すでに喪失された記憶を思い出していたのだった。


「さっそく教えてくれないか」


「いや、まあそうしたいんですが」


「どうしたんだい、猫でも踏んだみたいな顔して」


 そんな顔かどうかは一旦おいておくとして、氷花はぎこちない表情になっていた。見てはいけないものを見たかのように。


「驚かないでくださいよ林道さん」


「ああ、なめるなよ。僕だって一応刑事なんだから」


「アスホちゃん、記憶食いに遭遇しています」


「もう一回言ってくれないかな」


 さすがに唐突すぎたと思い、氷花は少女から読み取った記憶を順に話してゆく。


 悲。


 アスホは孤児だった。孤児院での日々を暮していた。しかし、その院長は孤児院を売り払った。置いてきぼりにされた子供たちは、自分たちで生きる他なくなった。


 衝撃。


 ある雨の日に記憶食いに遭遇する。


 そこに一人の外套を被った男がやってくる。男は子供たちに、別の孤児院に連れてってやると言った。しかし、以下の筋道は不明で、男はアスホの記憶を奪った。


 その後道端に寝そべっていたところ店主に拾われ、この家に住むことになる。


 以上が氷花の読み取った記憶だった。林道は珍しくも瞼を何回も閉じている。


 記憶食いについては紛らわして話したためだろう。


「ごめんなさい、これが限界なんです。三つの事実しか読み取れなくて」


 手を合わせて頭を軽く下げる少年に、林道は軽く口角と眉を上げた。


「充分だよ。あとは情報を組み立てて行こう。この子からも聞いてみることはできるし」


「あ、あと。既にご存じかと思いますが」


「ああ、もちろんわかっているさ」


 陽だまりで過去の夢を眺めながら、深く眠っているアスホ。


「この子の余命は、一日もない」


 すでに手遅れなのだった。


「痛い……痛いよ」


 雨の日の夜、何人かの子供たちが同い年と思われる少女を蹴り殴っていた。


「約束を守らなかったお前が悪いんだよ」


「ここまでうまくいってたのに、台無しじゃないかよ」


 少女は蹴り殴られていた、怒りを荒らげる子供たちに囲まれて。雨粒が傷口に滲み出て、体が震えている。


「ごめんなさい。もう二度としないから」


 悲鳴は雫の大きさを越えることはなかったが、子供たちは蹴るのをやめた。落ち着きを取り戻した。


「二度としないって何回も聞いたよ」


「どうしてあんなことも出来ないのよ」


 暗くあかるい道のはじで少女の叫びは爆発しそうになっていた。


 仕方ないじゃない。だって。だって。


「記憶食いがいたの」


 静まった空間の中、雨の音だけが目立つ。くだらない彼女の言葉は子供たちを静かにさせる大人の代わりとなったのだった。


「色は暗くてわからなかったけど、本当に一つ目だった」


 襲われたような顔になっていた一人の子供はいきなり眉を込めた。


「そんな訳ないだろ。記憶食いなんて童話の話なんだ。存在するわけが」


 苛立ちに泣きそうになった時、街に一筋の光が落ちた。僅かに遅れた轟音は人たちの頭を振動させる。何があったのかと、家をはさんだ奥の人々は騒ぎを立てはじめた。また、この子供もそれにつられてゆく。


「何、今の雷」


「雷、だよな」


 オレンジの灯りを包み込むように、雨はさらに強くなった。


「別に騒ぐほどおかしくないだろ、ここの天気じゃ」


 常識だろと語られ、半分はざわめくのをやめた。もう半分は怯えていたり、話を聞いていないように立ち尽くしている子もいる。


「それもそうだよな。こんなことはさておき、今日の食事はあきらめよう」


「いやだなあ、おかしい雷だよ。さっきのは」


 その声が鼓膜を揺らすと、子供たちおよび少女の体は震えるかのように止まった。一斉に路地裏の闇に目を滑らせた。


「きっと災いの前兆だろうね、さっきの雷は」


「誰ですか、おじさん」


 建物と建物の影から優雅に歩いてきたのは眼鏡をかけた見た目三十代の男であった。


「私は旅をしている者でね、面影という名前だよ」


 面影は笑みを浮かべるが、子供たちはそんなこと気にもかけず興味なさげに反応する。


「そういえば君たち、物騒な話をしてなかったかな」


「雷の事ですか」


「いや、そうじゃないよ。記憶」


「今晩の食事がないことですか」


「そうでなくて、記」


「こいつが失敗した話ですか」


「今おじさんが言うから、お願いだから聞いて」


 子供たちは悪気もなく内緒話を始める。


「みんな、どうする」


「どう見ても怪しい人だよな」


 面影は舌を鳴らした。


「記憶食いを見かけたって言ってたよね。誰」


「それはこいつです」


 子供たちは少女の方に目をやった。中には指をさす者もいた。


「どうだった。記憶食いを見た感想は」


 興味深そうに面影は少女へと歩み寄っていくが、彼女は目をそらした。


「こいつ嘘ついてるんですよ。記憶食いなんて存在するわけないでしょ」


「もしかしておじさん信じてるの」


 子供たちは面影を笑いものにした。その中、少女は恥ずかしがるように自身の右頬を手のひらで触れた。


「そりゃもちろん信じているよ。童話とかそういうの、面白くないかな」


 子供たちは細い目で面影を見つめた。そんな視線をきにしながらも少女をみつめる。


「それで君、どこで記憶食いを見つけたの。ねえ」


 緊張と罪悪感を押さえているこの少女は、答えになっていない、もしくは聞いてもいないようなことを支離滅裂に言う。


「あのパン屋の食糧庫。ちなみに街にあるパン屋はあそこだけで、その食糧庫にはいっぱい食べ物が残っているの。だから街の人はお金を払って、その材料を買うことができるの」


 右手で頭を押さえた面影はほしい答えを導くように脳を痛くしようとする。


「君は食料を買いに行ったのか。違うよね。今晩の食事はあきらめようとか言っていたし」


 彼にとって吉だったのか凶だったのか、さきほどから面影の話に答えていた少年が説明をのっとった。


「俺たち、元々は孤児院で暮らしていたんだけど、ある日どっかのマフィアにその孤児院が買い取られることになっちゃったの」


「マフィアが孤児院を買い取っただと」


 事態は凶となった。面影はさらに頭をかき混ぜられる。


「マフィアだったかは覚えてないけど、とにかくそれで孤児院で暮らせなくなったの」


「マフィアじゃなかった気がするよ。確か、ええっと。誰だっけ」


「まあとにかくそれで孤児院の先生たちにも見捨てられちゃって、今はみんなでなんとか生活してるの」


 確認し合う子供たちに情動をおさえながら、彼は平和な目を向ける。


「先生たちはそんな酷いことをしたのか」


「どうだろう。でもマフィアに孤児院を売っちゃうぐらいだからね。えっと、どこまで話したっけ」


 面影はもやもやする気持ちを吐いた。


「ああそうだ。生活するためには食べ物が必要だけどお金がないから、みんなで交代ずつ食糧庫から盗むしかなかったの。他にあてになるところなんて遠くて行きたくないから」


 彼の雲が絵を描くかのごとく整う。


「なるほど、それでこの子が今日その盗む当番だったわけだ」


「違うよ」


 否定される面影は手が出そうになるのを堪えた。


「食べ物を盗むとき、監視カメラの位置を分かっておくべきなんだけど、あそこの食糧庫は毎日監視カメラの位置が入れ替わってるんだ。つまり、下調べをするのがこいつの役目だったの。分かった、面影さん」


「あっそ」


 少年に代わり、話の中心人物である少女が面影の目をよく見て話した。


「それで下調べをしようと中をのぞいたらその中に、一つ目のなにかがいたの」


「絶対嘘だろ。そんなの童話に書いてある事そのものじゃん。もっと具体的に言わないと信用できないよ」


 子供たちは痛みを言葉にそえた。この子を相当信じていないらしい。そんな中、面影だけはうっすらとほほ笑んで目を輝かせていた。それを薄気味悪い、不気味だととらえる者がいても不思議ではないだろう。


「よし、じゃあ君たちは今夜の食事と明日からの生活に困っているということでよろしいかな」


「うん、そうだけど」


「もしかして、お金をくれるの」


 面影は手で大きな否定のサインをしめす。


「お金は上げないけど、この街で孤児院を経営している知り合いがいるから、君たちをそこに預けることにしよう」


 子供たちの目に光が戻りかけた。徐々に歓喜と面影に対する感謝が込み上げてゆく。


「本当にそうしてくれるの。ありがとう、面影さん」


 繋がってゆく子供たちとの言葉に彼の眼光はさらに生き生きとなる。


「早速、タクシーを呼ぼう。そのかわり、そこの君には僕を食糧庫の方へ案内して欲しいんだけど、どうかな。後からもう一台タクシーを呼ぶから」


 子供たちに紛れていた少女は、目を面影の方へ向けると、横歩きで群れから飛び出してきた。子供たちは空の色すらも忘れている。


「私は構いません」


「いい子だ」


 少女はおどおどしながら目を左右に動かしていた。フロントガラスもそれに倣っている。


「どうしたんだい」


「面影さんは何でこの街に来たんですか」


 信号が青に変わった。二人は一度まっすぐ進んでから、右に曲がろうとしていた。


 歩きさながらに面影は喋り始める。


「旅の目的か。それはね」


 面影は黙り込むと同時に歩くのをやめた。まだ交差点を渡り終えていないのに少女の左肩にかるい雨がとけだした。


「さっきも言った通り、童話というものに興味があってね」


 車が向かってくる。


 優雅な声を消すように二人の横に車が通った。水しぶきが追いかぶさろうとした瞬間、面影は咄嗟にそれを傘で遮り、その車の運転席に閉じこめた傘を投げつけた。


 砕けるガラスの音が少女の耳を傷つけた。同時に焦燥が彼女の胸の中でざわめきだす。


「ねえ、君」


 視界に入る灯を大きな影が迫るように邪魔をする。眼光が直接少女をさしとめていた。


「記憶食いを見たのは本当なんだよね」


「う、うむ」


 声にならない恐怖に支配された小さな体は、首を縦に一、二回と振ることも難しかった。


「じゃあさ、君のその記憶、もらっていいかな」


 雨が強くなった。以前雷が落ちた時に降った雨よりも強くはなかった。しかし、それ以上の重みがあった。まるで人を叩きつけるためのそれであるかのように。


「君さ、さっきの子たちにも嫌なことされているよね。記憶を僕にくれれば、全部忘れられるよ。嫌なことも寂しいことも。代わりに記憶喪失に近い状態になっちゃうけどね」


「記憶が、欲しいの」


 聞き返すことしかできなかった。幸なのか禍なのか、通行者はだれもいない。あれだけ水たまりを引きずっていた車も全然あらわれようとしなかった。


「正しく言うとね、君が見た記憶食いの映像が欲しいんだ。あれはめったに現れないと言われていてね、私も何年か探し続けているのだけど目撃者は君が初めてだよ。紛れもない、貴重な存在だ」


 記憶と聞いて少女は一緒に暮らした友達と先生たちの顔を思い浮かべた。恐怖にとらわれていてもそれらが、浮かび上がる。それらは少女にとって何なのやら。


「でも、忘れたくないこともあって」


「おいおい、それは冗談だろ。自分に嘘はついちゃいけないよ。あいつが現れたんだからそういうことなんだよ。君は全部忘れたいんだ」


「思い出せなくなるなんて、嫌だよ」


「そんな都合のいいようにはできないんだよ人間は」


 否定を下される。酷くおびえる顔に気づいていても、男は容赦なく突き立てていく。


「君ぐらいの年になれば分かるだろ。忘れたくない記憶、絶対に忘れたくないと思っている記憶ほど、もろく壊れやすいんだよ。人間が忘れたくないと足掻くことはただ傲慢でしかないんだ。現に今も人は忘れ続けている。君も、もちろん僕も。ましてや奴らのせいでね」


 純粋な笑顔を浮かべない面影は少女との距離を徐々につめる。灰々しい威圧から生じた困惑と不安が酸素を奪っていた。


 気づいた時には、彼女の思考は正常に動いておらず、面影の嫌味を込めた言葉が反芻し、狂いそうなほど嫌な記憶が脳内を駆け巡る。


 雨の音が弱くなってしまったと同時に少女は決断した。


「お願い」


 きつく結ばれた音だった。


「もらっていいんだね、その目に映された記憶を」


 この子の心に迷いはなかった。面影の言葉に迷いなどかき消されてしまったのだ。


「記憶が消えるなら、何でもします」


「良い目玉だ。覚悟のできている目玉だ」


 さらに不気味な笑みをあらわにした。


 面影は二歩下がると、右手のひらを自身の前へ、左回転させると宙に鳥籠が現れ、上部にあるその輪を握った。籠の中には、死体のフクロウが眠っていた。


「どうすればいいの」


「君に頼みたいことは三つ。一つ目、名前と性別を教えて」


「アスホ。性別は女」


「女の子だったのか。二つ目」


 驚くそぶりを見せずに、籠の入り口からフクロウの頭をなでる。


「この梟の瞼を目を閉じずに五秒見続けて」


 従順にじっと見つめるアスホの前で、面影は手の動きを止めていた。真剣な二人に雨の音はかすかにも聞こえない。


「よし。じゃあ三つ目」


「四つ目じゃないの。名前と性別とフクロウを見ることで、三つ終わってるよね。さっきから疑問だったけど」


「言われてみればそうだな。三つ行動するということにしといて。それじゃあ三つ目」


 面影はフクロウの出入り口を閉めて、ゆがんだ奥にある黒と茶の目を見つめた。


「この梟を見て思ったことをそのまま話してみて」


 少女はありのまま話す。


「フクロウは本でしか見たことないけど、寂しい動物だと思った。あとなんだろう、この梟死んでるのだろうけど生命力みたいなのを感じる」


 この言葉に嘘はないとうなずいた面影は一歩踏み出した。


「他にはどうすれば」


 アスホの心臓が一回鼓動すると、そのままひざまずくように体勢が崩れていった。


 先ほど割れた車窓のようにアスホの脳内にひびがはいっていく。


「お疲れ様。君が正直だったおかげでうまくいったよ。ありがとう」


 せき込むアスホに膝を曲げてそう言った。


「無事に記憶はとることができたよ。ごくろうさま。このままだとあれだから、君をいったん気絶させてから、適当に拾ってもらえるようにするね」


 手のひらを面影の白ない目のへと伸ばすと、ゆっくりと下におちる。


「安心してね、お友達と思われる奴らの記憶も消しておくから」


 水たまりが跳ねる音と変わることなく降る弱い雨の音が、少女の耳から消えていった。


 真っ白な光に包まれる。


 時計が刻む音の中、少女は夢をみていたように目を覚ます。温かい肌には宝石のような雫が流れていた。


「アスホちゃん、体調は悪くないかな」


 軽薄そうな顔の林道が、心配そうに眉を曲げていた。


「少しだけ、頭痛が。でも、思い出しました」


 すると少女の目はさらに細くなり、やがて笑みへと変わる。


 氷花はこの姿をかなり悲観的な意味で捕らえるしかなかった。


 コトンキャンディーのような表情で苦さを隠しているようだった。


 一体彼女の記憶のどれが、喜び、だったのだろうか。


 彼にはどれも、悲しみ、であってどれも衝撃のようにしか思えなかった。


 彼女が見たはずの夢では、一つの記憶の映画のように流れたであろうが、氷花はそのほんの一部しか見ることはできないのだったから。


「ありがとう、ございました」


 これまでないほど深々と礼をしたためか、床に雫が落ちている。


「おかげさまで、思い出せました」


「違うよ、君が頑張ったからだよ」


 氷花の返しに、アスホは顔を上げて瞼を開いた。


「記憶は、誰かが思い出させるものじゃないから。取り戻したいと思って、本人が取り戻したいと願って帰ってくるものだからね」


 追憶者の心得的なものだった。追憶者は依頼者の追想を手助けしなくてはならないが、それは決して驕ってよいものではない。依頼者が自分を救済しているにすぎないのだ。


 だから今回は、アスホが自ら追想したということなのだ。そこに追憶者の手柄は存在しない。


 ということでいいんだよな、と実は少年もそこまで理解しているわけではなかった。


「でもわたし、忘れたいだなんて、言ってしまったのに」

 あの男に詰問されている時のアスホを思い返すと、どうもそれが言わせられた事なのかそれとも本当に忘れたいと思っていたのか区別がつかない。


 そこで見た目おしゃべりな林道が割って入った。

「いいんだよ、アスホちゃん。人は誰だって辛い思いや悲しい思いは忘れたいし、全部が全部覚えていられるわけじゃないんだから」


「そうだよ」


 不意に氷花は相槌を声にしてしまう。フリーズしてしまった空気に反して、氷花の顔の温度は上昇した。それに微笑んで林道はつけ加えた。


「でもね、忘れていい記憶はあっても、なくなっていい記憶はないと思うんだ。それまでの足跡がなくなってしまうようなものだからね」


 だからこそ、記憶を奪うことはとりしまらなければならないことなのだ。


 少年が疑問を整理していると、林道は言葉を引きずり出した。


「アスホちゃん、君の余命の話なんだけど」


 刑事は少年の方を向く。


「君が伝えてくれないかな、氷花君」


 決して、逃げるような目ではなかった。瞳と直角な温かい目玉だった。


 頷いて、アスホの方へ眼差しを向ける。


「アスホちゃん。君の余命は、あと一日」


 患者に告げる余命宣告のように、氷花は言った。


 記憶喪失。記憶を失うことである。まさしく彼女のような状態ではあるが、単に記憶を失っただけで死亡することはほとんどない。しかし、失う記憶が、生命を維持させるに必要な部分のいわゆる身体の記憶だとすると、一命をとりとめられない場合がある。


 今回、氷花の笛によって、アスホは感情的な記憶を取り戻した。おもに悲しみと、衝撃の記憶を。


 しかし過去に、その面影と名乗った男によって奪われた、身体の記憶を失ったままだった。生命を維持する記憶を失ったままなのだ。つまり、このまま死んでしまう。


 当然、体のどこの器官がどのような働き方を忘れて失ってしまったのかは不明だが、少年には干渉した記憶から余命くらい読み取ることができるのだった。


 追憶者としての最低条件として。


 アスホは穏やかになって返してくれた。


「はい」


 とても余命宣告を告げられた、それもあと一日と告げられた人間にできることのない、笑みにみえた。


「それで、再度確認したいんだけど。君の、アスホちゃんの記憶を奪ったのは面影という男で間違いないんだね」


 はい、と真剣な声で言ってくれた。


 そこで氷花は、先ほどアスホが記憶の夢を見ている間に林道と会話したことを思い返す。


「今はアスホちゃんの記憶を取り戻すことを優先しよう。記憶食いがどこにいるか分からないからな」


 前例がない、記憶食いを見た少女。それを知ってしまった氷花。


「わかりました。でもどうします。面影という男から記憶を奪い返したとしても、アスホちゃんの余命は延ばせません」


 体の記憶を取り戻したとしても、死に向かうアスホを止めることはできない。それだけ、面影に奪われた体の記憶が生命維持に必要な強烈なものなのだ。


「アスホちゃんの記憶を必ず戻すさ。それが依頼なら。でもそうだなあ、余命ばかりは、どうしてもよいことではないが、どうしようもないことだからな」


 いつもとは正反対の硬い瞳で林道は机の紅茶を凝視していた。花の香りがする、きっと閉店する前に客に出されていたもの。


「だから、最後にアスホちゃんに、会って話さなくて行けない人物を呼ぼう」


「まさかと思いますけど」


 張り詰めた氷花に林道は蒼い視線をやった。


「店主だ。彼を探し戻さないとな」


「どうしてそうなるんですか。また虐待を犯すかもしれないでしょう」


「もちろんアスホちゃんに相談したうえで呼ぶさ」


 林道はそのまま諭すように視線を合わせた。


「いいかい、氷花君。犯罪者がどういう目的で、犯罪をしたのかを考えるんだ。目的論的に」


 人差し指を伸ばしてそのまま続けた。


「それはね、自分自身を憎んでいるからと僕は考えているんだ。だからね、もう憎まなくても生きていられるようにしなければならないんだ」


 この言葉に氷花はすごく嫌悪をもった。この人は一体何を言ってるのだろうと、体の中で昇華できずにいた。


 そんなこんなで、この後林道は記憶食のことも依頼についても忘れたかのように、木製の表情になって同じ話を何度もした。少年が適当に聞き流していることも気に留めず。


「あのいいですか」


 何かを決心したようにアスホが華奢な手を挙げる。


「記憶を奪ったのは面影さんで、間違いないと思うんですけど」


 徐々に声が低くなっている。まだ言いたいことが残っているらしい。


「いいよ。教えてくれないかな」


 林道が微笑んだのを氷花は見守った。


「記憶を奪ったのは面影さんで、それを所持しているのは、別の男の人です」


 濁点的情報と紐の形をした情報が脳内で混ざり合っていた。


「もう一人、別の男の人」


「あの、記憶を失う寸前に面影さんが、誰かとお話をするのが聞こえたんです」


 二人はこれ以上余計な人物には関与してほしくなかった。


 もちろん、思い出したアスホが言うのだからこれは間違いがなく曇りない情報なのだが。


 こんな素直で優しい少女の命を握ってまで。


 お願いだからこれ以上、この子の記憶にだれかが干渉してほしくなかった。


「すまないね、嫌なことばかり。他に話しておくべきことはないかな、アスホちゃん」


「そう、ですね」


 尖りない目線を床に、アスホの声は呼応する。


「主人には、ごめんなさい、と伝えたくて」


 ごめんなさい。何に対して謝りたいのか少年にはわからなかった。娘ではなくもともと孤児だったのに居場所を与えてくれたということだから、彼女が生活上店主に迷惑を掛けたというなら話は別だが、とてもそうには思えない。


 あんな状態でも、紅茶を淹れてくれるというおもてなしをしてくれたのだから。


「アスホちゃん、そう思ってくれているんだね。だったら最後に、そのために力を貸すよ」


 オレンジ色の雰囲気が漂った、よく考えればこれは紅茶の匂いにも似てなくもない。


 そう思った途端、林道の声がさらに朗らかとなった。


「この少年がね」


「やっぱりそうですよね」


 アスホは目線をあちらこちらに移していて忙しそうだ。


「そりゃそうだろ、氷花君。君が店主の力になってあげるんだ。店主が自らを憎まなくて済むようにね」


 氷花は瞼を歪め、同意できなかった林道の言葉を苦くも受け止めた。


「わかりました。あくまで店主探しを優先するということですね。でも居場所を探すにはどうしたらよいのですか」


 黄色の陽気がカーテンを通り抜けテーブルの斜め下をあたたかくした頃、刑事は丸めていた手のひらを下ろし一つうなずいた。


「そうだ。コスモさんの部下、萌里ちゃんに頼もうとしようか」


「誰ですかそれ。あっ」


 腕時計を見ると、長針は十二、小針は十四をさしていた。約束の午後は過ぎていたのだ。


「ああ、もう」


 絶叫したい気持ちを頭に抱えて耐える者とそれを見て高々と笑う者またまたそれを見て本当に目を丸くする少女たちの姿が白昼の日陰にゆれていた。


 コスモの事務所で怒声が上がった。正午までに帰ると半ば約束みたいなものをしておきながら三十分も遅れた少年を、事務所主はまさにしかりつけようとしているのだった。


「コスモさん、病気のリスクが上がりますから大声を出すのはお控えになってください」


 エメラルドの声が土下座にうずくまっている氷花の耳に入った。目を開けて頭をあげてみると、モカ色ヘアーの女性がドアを開いていた。


 いと清らかな、この方がモエリ。萌里だ。


 きらきらした星のようなオーラに包まれている。


 瞬きも起こることなく、少年は動かなかった。


 水色が濃い、緑みたいな色の瞳。この色をなんというものか、薄っぺらで真新しい辞書からなんとか引っ張り出そうと探していた。


「きっと無駄なことをしていたわけではないのでしょうから。聴取に時間がかかっても仕方ないでしょう」


 無表情ではあるがどこか優しさが潜んでいる。コスモの部下だった。

そして瞼を閉じたり開けたりする狐目で見つめられたコスモは別人のように仕切り直した。


「そうだったのか新人。それなら先に言ってくれればよかったのにな。それでどうしたら依頼を遂行できるのだ」


 氷花は嫌な顔を隠してアスホの記憶と余命についてと、面影という人物の正体、そしてこれから店主を捜すためにモエリの助けが必要だと述べる。彼女がかまわないと了承すると、無言でうなずくコスモだった。


「だが、林道はどうしている。あいつに捜査を任せるのがよいと思うのだが」


 そういえば、と思いついたように氷花は言った。


「林道さんはアスホちゃん、記憶喪失の子を見守っています。代わりになる警官が来るまで待っているのだとか」


 あの鍵もかけられない家にアスホを、少女を置き去りにするわけにはいかない。強盗だっていつ現れるのか気が気でないのだから。

「仕方ない、中に入れ新人。モエリ、後はお主に任せたぞ。無理をしないように」


 一度両目を瞬かせた彼女はコスモへ微笑みを見せた。


「わかりました。じゃあ、氷花君だったよね。いろいろ情報を聞かせてもらえるかな」


 ホワイトの袖から招き猫のように曲げられた手。氷花はもう一度これから仕事をするのだと、胸を高鳴らせたつもりで石階段を上った。


 そんな様子を横目で見届けて、コスモは出張に出かけた。


 ミルクティーの匂いが木造りの事務所内に漂っていた。ほのかなあまい香りが喉の奥で蕩ける。


 もちろんそんな匂いがするだけで、味はしない。


 おそらく客を通すときに使われる待合椅子に座らされ、氷花は絶えることなく宝石を散らす萌里と対面した。痺れる感覚が触覚をとおして腕から震わせる。


 よくみれば萌里のクリアな手のひらには、赤い色紙が握られていた。


「ごめんね。コスモさん、大声出してばかりで」


「そんなことはないですよ。あれは、僕が良くなかったので。ああいう風にしてくれるのは、ありがたいと思います」


 視線を落としそうな氷花にこれから世話になるコスモの部下は言った。


「新人は、いろいろなことがあるからねえ。コスモさん、新人を相手にするのは、仕事が増えるからと嫌がっているけど、実績で返してくれればいいんだよ」


「そ、そうですよね」


 遅刻の減点は早く取り返そうと、氷花は胸の底からまだ頑張れるという感触がした。


「まあ正直に言えば、新人相手は忙しいんだけどね」


 曖昧に苦微笑まれ、氷花の胸にから風が吹いた。


「それで急いでいるんだよね。今から質問することに、できるだけ素のままに応えてほしいんだけど」


 そこでようやく、今は落ち込んでいる場合ではないことに気づいた。花屋の店主を探して、アスホにできるだけ長く寄り添ってもらわなくてはならないのだ。


 シアン色の両目にうなずく自分の姿が反映する。


「まず探し人の名前は、モールさんだよね。ね」


 赤い色紙の表面に、萌里の筆ペンが吹き進む。


「はい。フルネームはわかりませんが」


 アスホから出てきた店主の名前だ。依頼主の名前だ。


「うむ。じゃあ彼の印象は」


 印象。氷花は花屋での店主の姿を思い浮かべる。暗い目つき。アスホを殴ろうと今にも拳を握ろうとする狂気の唸り声。


「何かに、怯えている印象でした」


 ペンを動かしながら萌里は目をつむる。


「そう。じゃあ最後に、探し人が出て行った目的は何だと思う」


 きれいな瞳にのまれそうになった。サファイアの波に溺れるような呼吸をする。


 目的、モールが店を出て行った目的。刑事である林道に虐待を訴えられるには充分な証拠をみられていたのは明らかだった。虐待という犯罪の瞬間を刑事に見られてしまっていたのだ。


「刑事に捕まり、罰せられるのを逃れるため」


 無意識に戸惑いが纏わりついていた自分の声に、萌里は穏やかな瞼のまま頬を緩めた。すると赤い色紙が魔法に惹かれるように丸くなっていった。不思議な空間のゆがみ。現実から遠く距離を置かれているはずなのに、手の温度でつかめそうな感覚。


 氷花はこの道を進むと決めた以上、日常に三百六十度あり得ないことがありえたとしても、その実態を懐疑することなく信じることを選んでいた。


 無数のミントのオーブが萌里の周りに芳醇と広がり、やがて色紙がくしゃくしゃになることなく、折り鶴に丸められていった。生命が当てられたように、赤い折り鶴は紙をはばたかせてドアに首を向けた。


 萌里は部屋を渡る折り鶴に細い五指を向けた。まるで高貴なものを紹介するように。


「あとは折り鶴が導いてくれるから」


 そう言っている間に折り鶴が衝突するかと思いきや、扉が勝手に開いた。


「さ、行こうか」


 雲に隠れた太陽は灰色になっている。日差しらしい日差しがまったく差していなかった。


 そんな雲なはるか下で、二人は折り鶴を追った。


 白いアスファルトに、ややモデラートな靴の音を弾ませながら。


 萌里が言うには、この折り鶴は条件によって探している人のもとに向かうらしい。


 その条件はかなり抽象的にまとめて萌里の質問に答えるこが最低限だった。


 だからアスホに願えば、記憶食いの元を探せると思ったが、それも無理な話だった。


 というのも探せるのは人だけで、その他のものは探せない。さらに言えば探せる距離も限定されているらしい。そこまで万能な力ではないのだった。


 それから、会話は萌里によって鮮やかに導いてもらった。どこかの刑事の話とは違い、少年は夢中になってその声を追い続けられた。


 折り鶴は商店街の路地裏に入る直前、咄嗟に硬直してその場に自由落下する。


 路地裏へ目を向けてみれば、氷花は滲んでいる景色に目を細めた。


 あの店主の姿。アスホを虐待していたモールのビジュアル。路地裏の景色。


 紙袋に入ったリンゴをもっている少女に、花屋の店主が身振り手振りを大げさに話し込んでいる姿。


 あれ、この人の外套。


「どうしたの、氷花君」


 桜色の髪の少女は、どこか覚えがあった。どこかで出会っている空気をもっていた。


「いや、このまま見届けていいですか」


 質問の答えになっていない言葉だったが、瞳を揺らしている氷花に、萌里は穏やかと頷く。


 遠くから、隠れるように行先を見届けることにした。


「頼む。その林檎を一つでいいから分けてほしいんだ」


 一体、何の変化があったのだろうか。花屋の店主モール、娘を虐待していた瞳は化け物の如く空気を貫いて、目にした人間を本能的に怖気つかせていた。その威圧はどこへ消えてしまったのか。


 そのうえ、桜色の髪をした少女には嫌味を通り越して軽蔑されるような目つきを向けられている。


 機転が訪れるまで少年は見届けることを決心する。


「一つでいいんだ。頼む。どうしても必要なんだ」


「嫌よ。なんであなたに渡さなくてはいけないの」


 暗い声色であしらわれている。どう考えても人に見られてはまずいが、幸いこの街だ。


 出歩く人が、気にかけることはなかった。


「餓死しそうなんだ。帰る場所はあるが稼げていない。一個だけでいい」


「あなたに林檎を一つあげることで、私に得はあるの」


 瞬間、店主の目つきが鋭いものと変わり、赤くてみずみずしそうな林檎を破裂させる勢いの視線をむける。


 これは窃盗の瞬間寸前の景色であると、少年は思い至る。


 しかし、それを迎えうつように、桜髪の少女の目つきも暗いものへと変化する。少女がポケットからナイフを取り出そうとしていた。


 ここではいつ危険な目に遭ってもおかしくないのだ。


 少年は膠着しそうになっていたスニーカーに力を込めた。


「店主さん、動かないで」


 振り向く店主。背後からの声掛けによって店主の動きを止めることに成功する。何とか窃盗する瞬間をとどめる事態に追い込む。代償として、少女からは憎まれるような視線を送られる。やはり、誰も良い気分になれなかった。


 でも、どうでもいい。

 憎むように見つめる少女は視線の切れをより一層強めた。


「何、ナイフを取り出して何が悪いの。こいつは、この男は林檎を奪おうとしたのよ」


 刺されることを気づいていなかったのか、それとも気づいていたのか判別がおぼつかない表情で、店主は視線を迷わせる。


 嫌な雰囲気が漂う。


 どうしよう。いきなり飛び出したから、どう対応すればよいのだろう。


 いきあたりばったり初対面の人に会話を絡ませられる。蒼白になりながら少年が防衛機制的に思いついたのは、まさかの手を使うという行為だった。


「誤解です。ちょっと、この男性に用があるので。ほら行きますよ、店長。仕事が始まっちゃいます」


 店主の肩を強引に引っ張る。


 少女の殺気めいた気迫が滞ってしまうほど、その演技は下手だった。


 当然、店主も慌てふためくどころか、眉を引き上げている。


「犯罪者は、殺さないといけない」


 幽かな声色が一瞬にして氷花の耳を通り越し、心臓の奥に佇んだ。


 路地裏に消えてゆこうとする少女は、桜色の瞳だった。春の花びらだった。


 しかし、少年の胸を凍らせるような言葉を吹雪かせて、いつ発芽するか分からない残滓を植え付けた。


 古びた外套に去り行く姿を、少年には懐かしく思えた。


 「おい、離せ」


 おぼろ雲のような感覚に痛みが伝う。店主が手を振り払ったのだった。


「貴様、どういうつもりだ。朝の奴だな。俺は依頼なんてしていない」


 依頼をしていない。そんなことあるはずがない。


 アスホの記憶を読み取った氷花にはわかっていた。


「じゃあどうしてアスホさんがあんなに悲しそうな目で、あんなに必死な目で」


 思い出す。あの時の声を。


「アスホちゃんはあなたに謝りたいと言っていたんだ」


「アスホ、何で貴様がその名前を知っているんだ」


 襟を握られ影が目立つ表情を迫られるが、ひるむわけにはいかなかった。伝えなくてはならないのだから。しかし、少年は声が出せる状態ではない。それどころか呼吸すら怪しくなっていた。太陽がつぶされた絵の具のように滲む。


 瑠璃色の声が背後からそよぐ。


「ポストですよ。事務所にポストがあるでしょう」


 緑の煌めきを隠し切れない萌里。彼女は上品にも手を使い、ポケットから何かを取り出した。距離はさほどないが、氷花が凝らしても見えない。きらきら光るオーラの所為なのかもしれないがそれはおいておくとして、何かちいさいものが細い二本指で翳されていた。


 このちいさいものを見つめながら、店主は顔をフリーズさせていた。


「この紙切れがポストの中に入っていたんです」


 本当に僅かなサイズのそれは、紙切だった。よくよくみて氷花は理解したが、そんなものがどうして、この恐ろしい店主の動きを止めることができたのかわからなかった。


「どういうことだ。それは破って捨てたんだぞ」


 萌里は神妙な表情でつなげる。まるでクライアントの受付のような態度で。


「ここに依頼を書かれたのでしょう。一切れ一切れ集めるのは大変でしたけど、なんとか依頼文を修復できたので」


 一安心を思い出すように曖昧と萌里が目を伏せた。きっと彼女がその紙を集めたのだろう。何百片もおおげさにならないほどの紙の破片を。そこまでしても、客の依頼をなんとかして成し遂げたい、優しくてプラトニックな思いがあるのだろう。彼女の上司と似て。


 少年はそんな思いに胸が煩わしくなっていた。見習わなくては、と。


「モールさん。あなたが書き込んだんですよね。依頼があったのですよね」


 店主はやっと張り付けた表情を揺らして、頬を食む。


「書き込んでも、破り捨てたって言っただろ。勝手に依頼だと捕らえやがって」

「確かに、大いにそうかもしれませんけれど、破り捨てたのにだって理由があるでしょう」


 氷花はまっすぐモールの眉間を見て離さない。


「あるさ、どうにもならない理由があんだよ。こんな街ではどうにもできない理由があるんだよ。だから紙を破ったんだ。アスホなんて気にしていられないんだ」


 そんなはずがないんだ。


 どんなに虐待をしても、窃盗をしても彼がアスホのことをどうでもいいと思うはずがないんだ。


「だから言いますよ。アスホちゃんの余命は、もう一日も無いんです」


 襟元にずっと加えられていた力が落ちる。落下した。


 詰まっていた呼吸があふれた。


 華奢な速さで萌里が氷花の背中をさする。もう治った気になる。


「な、何言ってるんだ」


 今朝、部屋に音を轟かせ少女に恐怖を植え付けようとしていた大男。鬼のような目つき。


「嘘だ」


 怯えることも、怖がることも、悲しむこともできなかったアスホ。全ての責任を彼女にゆだねた店主。思い出すにも、死んだ色の過去。


 今、嘘のない目で音符を見つめる一人の少年。


 アスホと暮らしたはずの過去。花を植えた庭。売れなかった花冠。空っぽな花屋。憎しみの存在を知った自分。指す針のなかった情動。弾けた壁。火傷する拳。微笑む少女。噴火する落雷。


 殴りつけた骨。


 見つめる少女。


 盗みを犯した泥棒。


 赤い絵の具が頭で散れる。


「全部、自分なんだ」


 フルートが導くオーケストラが、店主の記憶に舞い上がる。


 数十日前。一か月さかのぼるのか、さかのぼらないのか微妙な数日の話だ。モールが経営していた花屋はまだ破綻していなかった頃に、アスホという少女に出会ったのは。


 庭の緑にはピンクやら黄色や紫、青。色とりどりの花の匂いが部屋にまで広がっていた。


 その花弁一つ一つの名前をかぎわけながら目を覚ますのをモールは日課としていた。


 朝が始まる。素敵な空の朝。モールが水やりに行く。ちょうど目の前の道路にアスホが倒れ込んでいた。これは彼曰く、ボタンのように見えたらしい。


 眠りから覚めた少女と和やかで温かな、それこそ家族みたいな会話をしてゆく中で、彼女が記憶喪失だということを弱々しく悟ったらしい。


 庭に光る花だけでなく、花壇にも欠かさず水を上げていた。破綻寸前というだけあって、生活には僅かな余裕しかなかった。従業員を雇うつもりもない。水やりも会計もバケットもブローチも、全ての仕事を一人でこなしていた。


 それでも彼はちっとも悲しくなんかなかった。客に来るのはこの街、ポピータウンの住民でなく、危険を承知でやってきたよそ者たちがほとんどだ。十分な利益を得られるわけでもない。かといって仕事へ誇りを忘れることはなかった。


 彼は花が大好きなのだ。微笑むように風に揺れ、ただそこに生きているだけなのに心を癒してくれる。いっそうのこと花に囲まれて眠ってしまいたいくらい、彼は花を愛していた。大好きだった。


 だから彼女にもそれを手伝ってほしかった。


 一緒に花に触れて、一緒に仕事をして。そして思い出にしてほしかった。喜びを分け合いたかった。花屋で生活できたことを。


 それを前触れとして、転機は起こる。


 ついに花屋が破綻した。何も花屋が最前例ではなく、どんな店も崩壊していくのが所詮この街だ。世界から見放された住民が暮らすような街なのだから。


 店を閉めるなんて決断をしたくはなかった。だが取り締まり業者はそんな我儘を許すことなんてなく、このありさまに陥ってしまう。


 アスホは尋ねる。水やりはしなくていいのかと。


 モールはわかっていた。


 花束をつくらなくていいのかと。


 取り締まり業者は許してくれなくとも。


 庭はどうするのかと。


 花屋が好きだからやっているのだと。


 花かんむりは片付けてしまうのかと。


 まだ続けたいと。


 食料はどうするのかと。


 あきらめたくないと。


 お使いはいいのかと。


 でも。


 でも。


 でも。


 気づいたときには、モールの拳は小さな体を殴り飛ばしていた。記憶喪失になった不憫な少女は悶絶すら許されないまま床に張り付いていた。大男は丸くなった背中を踏みつけていた。何度も。何度も。靴の音が重なるほど、狂人のような叫びが頭に響いた。死にかけの動物がとどめを刺される寸前に血反吐を吠えるのと同じように。やがてモールは花屋から逃げるように駆け出した。このうえなく嫌いな街を駆けだした。


 走るたび、息を切らすたび、歩くたび、息を吸うたび。あてもない場所にたどり着いた。


 その場所こそが事務所だった。少なからずこの存在を知っていたモールの身体は動いた。無意識に手がペンをもぎって、紙に書いた。誰にも打ち明けたくなかった依頼を。自身で果たせなかった任務を、職人に託せばいいのだと考えた。


 そして目が覚めたように辺りを見回すこともせず、紙を破りにちぎり捨てた。


 推測の範囲ではあるが、言わずにはいられなかった。氷花は自分を恥じてた。


 咎人が苦しむことは対価であり、なくてはならない、なくなってはならない重みなのだ。


 なのに、反するようなことを言ってしまった。駄目なのに。駄目、なのかもしれないけれど、無意識のうちにモールがアスホを殴ったみたいに、氷花は彼の腕を引いていた。


「行きましょう、モールさん」


 目は、まっすぐだった。


「アスホちゃんに、伝えたいことがあるでしょう」


 氷花は選択した。


 その時、氷花のポケットに濁点の音が振動した。

 

 つかんでいた手をそっけなく放して、縦開きの携帯電話を耳元に運ぶ。


 どうせ林道だろうと、予想は的中した。


「何ですか林道さん」


「氷花君」

 

 耳元に当てるには大きすぎる声で、名前を呼ばれたため、少年は携帯を落としそうになった。


「無事に店主の元にはたどり着けたか」

 

 ノイズがはしって良く聞こえないが、林道の声は軽薄ではなかった。

 

 いつもとイコールじゃなかった。


「はい。無事です」


「良かった。アスホちゃんが誘拐されたんだ」

 

 その声には焦燥が含んでいて、聴覚がついていけなかった。


「今そっちに向かう。くれぐれも動くんじゃない。というか道案内を頼む」


「ちょっと、速すぎます。もう一回言ってください」


「ったくもう。道案内を頼むと言ったんだ」

 

 答えにならない返答は疑惑を解消する解答となった。


 店主の方に目を向けてみれば、やはり状況を把握できているはずがなかった。

 

 雲は今にも、街のすべてを覆いつくしそうだった。


 午後二時頃の花屋。


 長椅子に寝そべった少女の顔色を窺って、林道は横にある毛布を掛けてやった。氷花が外に出た後すぐに眠りをすすめれば、彼女はそれを断らなかった。


 先程よりもアスホの色は薄みを増し、脱色され萎れてゆく花のようになっている。もう彼女の命がもうすぐだということは認識する必要もなかったのだった。

 

 その例のコートの後ろに迫る白いバルコニーに寄り添って、林道は自分の行動を振り返っては、またすぐに首をもとに戻した。


 肘をついて、見えるのは昼下がりの街。林道はまだ街の容姿に見慣れていなかったため、ここまできれいな罫線を描いていることに未だ腑に落ちない。

 

 埃の匂いがして、街の天井に雲が流れ始めると、林道は縦長の帽子をかぶった。


 今は目の前の事件に取り組まなくてはいけない。

 

 アスホの記憶を取り戻すにはどうするべきだろう、という議題に脳内工場が働く。

 

 面影が記憶を奪って、それを他の男に渡したというのはどうしてか。

 

 もし記憶を闇市か何かに売り払いたければ、面影自身が保有していればいい話である。


 そもそもアスホの記憶を奪わなくてはいけない理由は何だろうか。アスホは記憶食いに遭遇したという事実が本当だったなら。面影は個人で動いたのではなくて、その別の男に依頼をされていたのかもしれない。記憶を奪ってほしいという依頼を、面影は受けただけなのかもしれない。ならば男の目的は何だろうか。これはアスホが記憶食いをみたという前提での仮設であるが、そんな記憶を手に入れて一体どうするのだというのだろうか。

 

 思考の末やっと暗闇に灰色の光がさしたとき、店のインターフォンがなった。誰だろうかとバルコニーから覗いてみれば、店の前には誰もいなかった。


 違和感の正体に気づく。正面のインターフォンは壊れていた。

 

 もう一度籠ったインターフォンが胸に突き刺さる。

 

 裏口からの音だ。表はシャッターが閉まって、おまけとしてボタンは壊れている。

 

 よろめいている扉から階段を降りると、すぐそこに裏口はあった。そこで林道は体の向きを翻し、陽のない廊下奥の表玄関を確認した。裏口の硝子越しに見えたのは荒れた庭の形跡だけで人影は全くなかった。不意に表玄関をみてみるがそこまで視力の悪くない林道でも直線に結ばれた両扉に誰もいないことは明確である。


 頭の固い氷花のことだから、まさか自分をからかいはしないだろうと。


 そんな戸惑いを巡らしているときであった。客間の机に置くコップのような慎重として静かな振動が二階に生じたのを林道は取りこぼさなかった。


 踏み外しそうな坂を駆け上って頼りない扉を抜けた先の光景は携帯を取り出すと同時に、林道の頭に追いついた。


「林道刑事、あんたのことだよな」


 そこには風邪ひきのように眠っているアスホの首に銃口を向ける鉛色の眼があった。呼吸することもなく林道は携帯に近づいた手を止めていた。


 灰色髪の毛。特徴のある眼の色。地味さという特徴を持つ男の姿は一瞬見てしまえば毎日悪夢に侵入してきそうな雰囲気であった。生憎ながらこの街に今朝到着した林道には見覚えが無かった。それでもこの雰囲気だけ懐かしさを感じられずにいなかった。


 彼が仕事をするうえで避けることのできない相手。犯罪者の一人であることは確信されるのだった。


「動くな。あんたならわかるだろ」


 男の声は鉛のように重くて冷たかった。たった二言で林道は動きを封じられた。


 こんな時にいつも展開する思考工場もうまくは働いてくれなかった。


 男の眼差しに煙色の霧がかかっているというのに、まっすぐに林道を直視しているからであった。


「これから言うことを守ってもらう」


 すると、ほんのわずか後ろに出没した気配に林道は気づいた。


 どうやらこの店に侵入してきた人物は二人いたらしかった。


 刑事の首にナイフの先端が回されると、男は銃を構えたまま逆の手で自身の顔を触った。


「待ってくれ。まだ出てこないでくれ」


 どうみても困っているような仕草だった。


 そこで林道は男の瞳に確信を得る。


 鉛色の目玉。どんなことが起きようとも倒れそうにない重さ。その反面、動揺をするということは。


 林道は背後の気配にも心当たりがあった。


 二つの確信が得られた時、林道は自ら封じていた手を解き外し、拳銃を片手に後ろの人物へ向けようとした。するとやはり、そこには桃色髪の女が暗い瞳でナイフを光らせようとしている。そして、同時に見つめたアスホを人質にとった男も、計算ミスの嘆きをあらわにしているのだった。


「まあ、仕方ないな」


 コートを揺らしながら声を掛ける余裕もあるはずがなく、男がアスホを抱えて窓から出て行くのを見送るにも目の前の相手が厄介だった。


 これまでアスホが攫われた経緯の話を聞いた氷花は、林道のことを無能で無責任という残念な印象を自身の頭に埋め込んでいた。


 だからこそ自ずから疑問が出てくるのも仕方なかった。


「なんで、ちゃんとあの子を見守ってあげなかったんですか」


 ついさっき自分が関わった少女が誰かに攫われるなんて信じられないのだった。


 いなくなったなんて信じたくなかった。


 それもここにはその子の仮の保護者も突っ立って聞いている。


「言い訳はしない。アスホちゃんが攫われたのは私の不注意です」


 文字通りに頭を下げる先は、その子の保護者であるモールの方だった。


「いや、あんたらは謝らないでくれ。アスホの被害は全部オレの責任なんだから」


 全てモールの責任だったのかと言えばそれは違うだろう。モールと出会う前に記憶を奪った奴らがいるのならそうはならない。しかし、虐待をしたという事実をもみ消すことはできない。


 細い眉を凝らしていた氷花は視線をどこへやろうか迷っていた。おぼつかない視線がとらえるのは、煙突から雲色の炭を打ち上げるパン屋だった。


 そういえば、アスホが記憶を奪われたのはこのあたりだ。監視カメラでも設置されていれば捜査の手がかりはつかめるはずなのに、街には一つもないらしい。なくて気になるものではないが、やはりここまで防犯対策が脆いとは思えなかった。


 もはや世の中の尺度が困憊としていた。氷花はこの胸の残滓に名前をつけて言葉にして終わらせたかった。


 一つの細い糸のようなものが目の前を通過すると、雨の一滴だと認識して持ち主を仰ごうとした。視界の移り変わり目が、モエリの容貌をとらえる。


 彼女もまた同じようにモカ色の髪を濡らしては、どこで持ってきたものか傘を差しては片手を差し出してる。この空の下でも星型の輝きは眠ることはなく、それが反射しているせいなのか彼女に降る雨は滝のようだと錯覚できた。


 余命僅かな少女に感情移入しているのだろう。


 奴らを追ってしまえば、アスホの余命は変わらなくとも、殺されて死ぬなんてことはさせたくない。


 そんな空気の中でも少年は解決法をなんとか探そうとしていた。


「感傷はこの辺にしておいて、さてと奴らを追おう」


 林道がそっけなく言った。馬と鹿な真似をするのかと思えば、おそらく責任を背負いすぎて刑事は狂ってしまった、いやもとからそんな性格の人だったのだと氷花は思い出した。


「奴らを追えばアスホちゃんは殺されるんでしょ。林道さんがさっきご自分でおっしゃたのでは」


「いや、そうじゃないんだ」


 雨に打たれていた帽子を両手でかかえた。


「脅迫はされたけど、恐らくその男はアスホちゃんを殺せない。断言できるよ」

「どういうことですか。何を根拠に言ってるんですか」


 髪を涼しめる細い雨の奥で林道の両目は開いている。冗談を交わす感覚ではなかった。


「目的上かな。時間ないから詳しくは後で話すよ。ついてきてもらうよ氷花君」

 な、なんだそうなんだ。


 まだアスホが助かりはしなくても、モールと出会える機会が残っていることを知れたのは、氷花にとって都合がよかった。


 林道に抱いていた負の印象を軽くすることが出来たからである。


「あ、わかりました。でも、どうやって」


 どうやって奴らの居場所をつきとめるのかと深く考える必要はなかった。刑事はモエリの方に振り向く。


 視線を察する前から身構えていたようだが、彼女の髪飾りのヨルガオは元気がないように俯いている。まだ何か不安があるらしい。


「ごめんなさい、林道さん。距離が二キロメートル以内しか折り鶴は動けません。それにこの雨ですから、折り紙ではちょっと」


 さすがの折り鶴もどんなに離れている相手だろうと追跡できるわけではないらしい。


 ならば何度も折り鶴を折ればいいのではないだろうか。二キロメートルの距離を何度も移動させれば、いずれたどり着くのではなのか。という案は本当に愚かなものだった。


 氷花自身、記憶に干渉する笛を一回演奏し終わるだけで、体力どころか血液まで吸い取られた感覚になる。何度も連続して行うのであれば、死に値するのも冗談じゃなくなる。


 それに彼女にこんな苦労を負わせるのはどうしてか自然法に違反してしまう気配がした。


「だから、モールさんの力を貸していただいてもよろしいですか」


 モエリは明らかにモールに向かってそう言った。


「オレが、か。オレにはあんたらみたいに特別な力は備わっていない」


「大丈夫です。質問に答えてくださるだけで」


 彼女は雨露を一滴落としたような笑みでつけくわえた、アスホちゃんと一緒にいた時間はあなたが一番多いでしょうから、と。


 華やかな風景が続いていた中で林道がいつもの調子で喋り出した。その内容に氷花も同じく眉を顰めたくなった。


「モールさん、一緒に来てください」


 案の定モールは困惑した様子になる。


「どうしてだ」


「あなたはアスホちゃんを見放してはいけない義務がある。それはもう、氷花君の笛を聞いて分ったでしょう」


 身をもって分からなければならない。花屋で林道に説教された内容だ。


「僕の経験上ですが、相手はテロリストで間違いないでしょう。戦闘を避けることは不可能に近いので」


 相手の名前を聞いても、その言葉がどんなに危険な相手を意味していても、氷花の目は通り雨に透かしても森色だった。その横でモールが固く頷いた。


「わかった。なんでも命令してくれ」


「助かります。正直、人手不足もあったので。ハハハ」


 良いムードを壊したくはないが、明らかにそれは林道の問題だと氷花は文句を呟いてしまった。


 小降りでもモエリが折り鶴をアスホのいる場所へ飛ばせたのは、やはり術の力である。


 探す者と探される者の間の絆が強ければ強いほど、折り鶴は神聖なものとなり、どんな大雨の中だろうとどこまでも遠くに飛んでゆくのだとモエリは語っていた。


 もちろん聞き流したものも含め意味も分からない語彙もあったから彼女のすべての言葉を理解できたわけではないが、あのように一生けん命に語られると頷かずにいられなくなるものだった。


 歩いて行こうとの提案も出たが、車でスピードを緩めて走ることに決めた。運転席に林道、後部座席に氷花とモール。


 これからどう襲われるのかもわからず、人手も足りない。相手の数も知れないから二人で行くよりは三人で行く方がいい。単純な数の戦法。常識外なことをしでかしそうな林道と二人きりよりはもう一人加わった方がいいと思うのは氷花も同じだった。


 もちろん、一人増えただけで嫌な予感がさよならしてくれるわけではないが。


「いいかい、氷花君。これから先必要なのは、なぜ、を考えてゆくことだよ」


 膝に置いた手から視線を切り上げるが、氷花はもう一度下を向き直した。


 溜息がこぼれる。


「林道さん」


 氷花はアレグレットに言った。


「いい加減にしてくださいよ、またその話ですか。もう、三度目ですよ」


 フロントガラスを向きながら聞いている林道だった。そのせいか縦長の帽子が増して可笑しい形をしている。


 暗い出来事はまだ解決していないというのに。


 この空気を誤魔化しているのだろう。


「それでどうだった、あいつの指導を受けるのは」


「いや、それは、大変でしたよ」


「どんなふうに」


 林道は遊び道具を見つけたような目で言った。この表情に少し、郷愁にふける。この機会だから話してしまってよいだろう。


「とにかく怖かったです。体術訓練で殺されそうになるは、遅寝早起きが基本で体がおかしくなりそうだったし」


「確かに、そんなことやりそうだな」


 林道は笑っていた。氷花の師、昔の友人の話を聞くことができたからだ。


「なあ、お前たちはどうして、俺にまで依頼を手伝わせるんだ」


 氷花の隣に座っていたモールが言った。


「俺は盗みを働いて、児童虐待もしていた。犯罪者に変わりはないんだぞ」


「だからこそなんです、モールさん」


 ハンドルを動かしながら、林道はそう言った。


「犯罪者は、自らを憎まなくて済むような体験をしなければならない。知らなくてはならないんですよ」


 そのまま、モールは俯いた。少年はやはりそのような思想に、どこか疑念を持たずにいられなかった。


 折り鶴が止まったのは、都会に近い方の街のはずれにある工場のような建物だった。港に即していて、海はもちろん見える。


 工場には薄暗い明かりがついていたが、人が隠れているとは思えなかった。


 だが、アスホちゃんはどこかにいる。


 無防備にならないように、三人はだいぶ離れた場所で車を降ろした。


 アスホ救出のため三人は林道が用意した乗用車に乗り、工場に見せかけたテロリストたちのアジトの前を見張っていた。


 商店街の路地裏で氷花が出会った桃色の髪の少女と花屋で林道が出会った少女は同一人物であることがはっきりした。


 林道はその少女とはかなり前から面識があるらしい様子だった。


 さらに彼女はアスホの記憶を奪った者の近くにいるため、対立を避けられないかもしれないとのことだった。


 それも、彼女自身が刃物のように危険だとか。


 氷花はそんな人物の相手はしたくないと主張したが、林道にから回りな信頼をもらってしまった。


「林道、聞いていいか」


「ええ、モールさん。どうぞ」


「なあ、なんで見つかりやすい位置に車を停めたんだ」


 モールの言う通りであった。車は工場の入り口が見えるぐらいに近くの、路地裏に置かれてあった。もし、大きな音でも出したらすぐに敵にばれてしまうような位置。


「確認だが、うまくいかなかったらもともこもないのはわかっているんだよな」


「そりゃもちろん」


 モールは真面目な顔で話す林道に不満が残った表情でそうかと返す。


 人数の都合上、相手が四人以上いればこちらはその人数分をカバーする動き、もしくは何かしらの武器で埋め合わせをしなければならない。そろそろ作戦の打ち合わせもしてよい頃だ。あの林道の話し方からすれば戦略がないわけではなさそうなのだが、詳しく話してくれないのはなぜだろう。


 話さない。話す必要がない。ということだとしたら。


 すると、後方から足音がし出す。どんどん高くなってゆき、しまいには危機なじみのないにも度が悪いほどの声が張られる。


「何ですかこの車」


「さあ。間違いなくうちのメンバーの者ではないだろうな」


 車内の者は外から聞こえる声の方向に、あからさまと自分たちがいることは分っていたが、振り返ることもまた返答することも出来なかった。氷花は後部座席で眼球のみを左に動かしたが、やはりそこには息も苦しそうに運転席を眺めるモールがいる。


 後部座席の二人組は集団面接官の机に置かれる観葉植物同様の座り方をしていた。


「中に誰かいるんだろ。早く出てきな。まあ出てこなくても」


 外から何かを引くような金属音がなる。


「どっちみち、銃で撃つけどな」


 天井ミラーの黒スーツがピストルをこちらに向けている姿が三人の頭をよぎる。


 「何が、大丈夫なんだよ。やっぱり見つかったじゃないか」


 モールは運転席四十五度ずれの席に向かって言い放った。


「どうするんですか、林道さん」


 喉仏を下から上に動かし、林道は目を細める。


「こうなってしまわなくても仕方ない、正面突破だよ」


「二つ数える間に出てこなかったら撃つぞ、それではカウントダウンスタート」


 黒スーツから前方に見える車のエンジン音が響き、車はそのままバックを開始した。


「ちょっと待て、まだ数えて」


 車は悪気もないのにテロリスト二人を弾き飛ばした。


 車は何事も無かったかのように前方へ動き出した。


「後ろで変な音がしたけど、車大丈夫ですか」


「たぶん車は無事だろうな。ちゃんと走ってるし」


 三人は後ろにいた、二人の黒スーツをはねて先頭不能にしたことに気づいていなかった。


「なあ、だから言っただろう。見つかるって」


「ハハハ。まあいいじゃないですか。このままアジトに突っ込むぞ」


「え」


 夜の景色を吹き飛ばすくらいの猛スピードで、アジト、ガラスの入口にぶつかった。


 ガラスの破片が飛び散り、地面に音を立てる。


「林道さん、スピード」


 さすがの林道も、二つに分かれた階段を目にして、急ブレーキをかけた。


 しかし、案の定遅かった。


 かけたブレーキの反動で車体が前のめりに傾く。三人の体が車内に浮く。


「おい、誰だ貴様ら」


 舞台にあられもない姿で登場させられた役者のように、三人が乗っていた車は故障のごとくドアを開いてアジトのホールにさらされる。


「ここは一般人、立ち入り禁止の場所なんだが」


 動揺も見せないテロリストたちは低い声だった。


 そんなとこで、車体が傾いた時に、実はこっそり抜け出していた林道は前に出た。


「一般人ではない警察だよ。一応、逮捕しに来た」


「逮捕、そのメンバーでか。悪いが、笑えない」


 林道が後ろを振り返ったところ、堂々と立つモールと、着地に失敗して前かがみになる氷花がいた。それでも林道は自分の言動を恥じることはない、と胸を張ってごまかした時には、ピストルを構えた十人程度の黒スーツに囲まれていた。


「さてと、両手を上げてもらおうか」


 場に緊張が走っても、当然ながらひくことなどあってはいけなかった。


「仕方ない、撃て」


 発砲の音が鳴る前に、刑事、花屋、少年は一瞬にして一人ずつ仕留めた。


 黒スーツらが慌てふためく暇も与えず、一気に四人、五人、六人と体術で気絶させる。黒スーツたちは反応できずに倒れていく。


 一人が発砲しそうと予測すれば、林道はボタン式の煙幕を地面に作動させる。煙は丸く三人を隠すように、そして黒スーツ四人を困惑させるように広がった。

「見えなくても構わない、撃て。奴らはそこにいるんだ」


 複数の銃弾が響く。連なって響く、が人に当たった音はこれっぽっちもない。


「一人にでも命中させればそれでいい。このまま撃て」


 そう言う黒スーツの背後から、少年の声が聞こえた。


「悪いけど、もうあなたしかいないよ」


 開始一分半、十人の黒スーツを無傷で拘束した三人は階段の上の部屋に駆け出した。


 拘束道具に使った手錠は前々から林道に渡されていたものだ。


「氷花君、なかなかいい動きをするじゃないか」


「ありがとうございます」


 その部屋はアスホの記憶を所持している者が隠れている思われる場所だ。


 モールも走りながら二人の方をみる。


「それより、刑事が煙幕なんて持ってもいいのか」


「まあ、命の危機にかかわるからね。こちらも無防備で行くわけにはいかない」


「所持してはいけないということだな」


「一応、そういうことだよ」


 強そうな筋肉を持つモールは素人でありながら、テロリストたちを倒した。これは奇跡でも難しいことであった。


 部屋の目の前にたどり着くと、警戒しながら中に耳を傾ける。


「これ、オートロックがかかってるんじゃないんですか」


「そんなことはない。多分大丈夫」


「開けるぞ」


 横開き型になっているドアを、モールは開けようとする。しかし扉は全く動じなかった。


「重い。結構力を入れているんだが開かない。二人とも手伝ってくれ」


 慌てて二人は扉をつかむ。


「じゃあ、せーので」


 壊すぐらいの勢いで引いた。鈍い音を立てながら、部屋の中の影が薄く広がっていく。


 真っ暗そうだと予想していた扉の奥には、青白いライトが灯っている。


 すると、何か縦長のケースから光が漏れていることが一目でわかる。


 まるで誰かがいたように。まるで誰かがいるように。


 率直に、この上なく素直であるかのようにモールは言った。


「これは置物か」


 三人に見えたのは、思ったより広く暗い実験室のような部屋で、光が当たってはっきりしている部分は全体のわずかであった。そのわずかな部分に、人が一人だけ入るぐらいの透明なケースが一つ置いてあり、その中に目以外の顔のパーツがはっきりしない肌白いロボットのようなものが飾られている。


「これ、なんですかね」


 氷花は気づいた。


 林道がひどく動揺してケースに入ったそれを見つめていることに。


「何か知っているんですか」


 憑かれているさまにそっくりだった。


 そして尋ねた。尋ねてしまった。


「人形、どうしてだ、いや違う、何も知らない」


 今までと違うのだった。


「林道さん」


「国家の者、これは、だめだ、一大事になる」


 あの軽薄さが無いのだった。


「林道、大丈夫か」


「混乱、呪い、あの子の記憶、記憶食い」


「林道さん」


 静けさが広がる。広いアジトと狭い部屋には、呼吸の音以外聞こえなくなった。


 氷花の声が林道に届き、思いに反して動いていた顔の下半を手で押さえる。


「何か知っているのですね」


 林道はためらいながらも、答えた。


「ああ」


 この時、氷花は空気が薄いことに気づいた。部屋の、さっきまで氷花にとっては何でもなかった人形が、奇妙にも不気味に酸素を吸い集めている。


 そんな体温を奪われる感覚に身が浸っているのだった。


「まだ、手遅れではないようだが」


 囁くように呟かれたその言葉に、氷花は震える手足で堪えた。


「まて、後ろに窓があるぞ」


 モールの焦燥をあらわにした声に氷花と林道は顔色を元に戻した。


 そうだ、今はアスホちゃんの命を優先しなければならない。


 一番の目的を忘れていた。得体のしれない人形の所為にしてはならない。


 人形を避けながら二人はモールの指さす青い闇に目を向ける。


 開けられた窓の下には、ここからの位置でも灰色の髪をした男と他の残党が走っている姿が見えた。


「良かった、追い付ける距離です」


 そんな時、入り口の方から静かな着地の音があった。


 肌に電気が流れた。信号に氷花の顔は後ろに向けられる。


 とても静かな殺気。桃色の髪。鬱的な目元。


「氷花君、頼んだぞ」


 これだけは事前に打ち合わせされたとおりだ。


「二人も、お気をつけて」


 頷いて林道は行きましょうとモールに呼びかけながら淡々と窓を飛び降りた。


「氷花、死ぬなよ」


 眉を曲げながらもモールは次いで林道の後を追った。


 氷花は手を握った。


 ユウカが外套からナイフを取り出し、歩を進めだす。


 向き合う氷花とユウカ。


 一歩進めるユウカ対して氷花はシンメトリーダンスのように後ずさる一方だった。


 まず、ここは逃げ回るには狭すぎる。



 視界も青白くて反射した彼女の表情は慄くものとなっている。

 

 窓から飛び降りる隙は無さそうだ。ならさっきの車が転がっているホールへ。


 咄嗟に、氷花は笛を構える。しかし、無駄だった。一瞬にしてユウカは少年の前に現れ、腹部に膝をあてかかった。長スカートのような素材が腹部にせまる。


 それを左手抑えようとした、だが、力の差は歴然。後ろに十歩分ほど弾き飛ばされる。

 かと思いきや、吹き飛ばされる前に首元の襟をつかまれてホールの方へ投げ飛ばされる。


 空中に浮いた感覚がしてから、地面に顔が迫る直前で体をひねる受け身の姿勢。


 背中で衝撃を受け流して、落下の威力を弱めた。


 傷めた箇所を撫でていると、蹴りかかるように階段から降って来た少女。


 立ち上がりきれないまま交わして、またすぐに襲い掛かる少女の攻撃。


 ナイフ。回転して左肘。蹴り。

 

 早い。一撃一撃が重い。分かっているつもりだったけど、想像以上だこりゃ。


 苦し紛れに交わした結果、正面から向かってはダメージを与えられないと思ったのか、少女は後方に動いたり、背に回ったり、ましてやナイフをぶん投げて、外套から取り出したり、一方的な攻撃をやっと避けながら、氷花は考える。


 どうする。どうやって、反撃の機会を狙う。考えろ。考えろ。


 冗談にならないくらい、彼の体力はジェットコースターみたいに急降下し、避け続けるにも、避け続けるしかないのだった。


 体術では明らかに不利だった。右手を交わし、後ずさりだけで攻撃をよける。


 こんな時に便利なものがある。論理的思考だ。


 こんな時にも思い出してしまうほど、林道に何度も同じ話をされていたのと同時に、彼の脳味噌のエンジンは歯車不足のまま加速しているのだった。


 どうして反撃できないのか。


 まず、動きが速い。すぐに切り返すから、笛を吹くにも乱れる。乱れたら正しい音が出ないから、記憶に干渉する旋律も作れない。そもそも構える暇はあるけど、一瞬だけ。


 じゃあ、どうやって隙をつくるか。さっきの通り、攻撃を受けようとしたら吹っ飛ばされた。身長分パワーも劣っている。捨て身なんてできっこない。つまり、現状詰んでいる。


 さらにそろそろ体力が限界だった。


 右手、ナイフ、回し左蹴り、右手。


 思考疲れて晴れ晴れよりも淀んだ視界。何もかもがスローに感じる。


 だが、自分の動きが速くなっているとは思えなかった。そのため、攻撃パターンばかりに目が行くのだった。


 ……ナイフの攻撃が少ない。あの鉄以上に銀色に尖る道具はまだ外套に隠れているのだろうけど、こっちに向かっては来ていないぞ。手とか脚とか打撃系の方が多かったんだ。


 だからといって、打撃をくらっては後方に思いっきり吹き飛ばされるだろう。ナイフで刺されるのとどっちがいいのかは、たかが知れているけど。打撃の威力を軽減するには、それだけの防御力が必要だろう。でも、モールさんでもなければそんな強靭な体は持っていない。


 だけど。


 力同士では簡単に吹き飛ばされる。


 だけど、一瞬あるなら。一瞬さえあれば。


 ナイフが顔の横を過ぎ、ユウカは体をねじった。


 氷花は自身の体力の衰退を知っていたため、もう避けきれることはできないし、避けるつもりもなかった。体力切れで無防備の状態で前かがみになる。


 回し蹴りが、迫る。彼の身体を吹き飛ばそうとする。


 一瞬。その一瞬で、氷花は笛を構え、たった一音、素人が吹くように響かせた。


 ガラスの破片が舞い、氷花の身が後ろに吹き飛ぶ。


 しかし、壁へ押しつぶされそうな威力だったはずの少女の蹴りは、氷花を壁寸前でとどまらせる結果となった。


 自然、ユウカと氷花に距離はできる。つまり旋律を奏でる、正しい音を吹ける環境が出来上がったのだった。


 作戦、至近距離で大きな音割れで打撃の躊躇を狙い、威力を和らげる謀りはなんとか乗り越えることができたのだった。


 隙はできた。思考の勝利だ。


 構えたまま、氷花は演奏を開始しようと、指を動かすのだった。


 だが、ある景色を目にし、少年は動く指をためらうように止めるしかなかった。


 咄嗟、急、突然にユウカの手が震え出していた。振り回していた膝を地面につき、両手で埃一つなさそうな髪の毛を鷲掴みにする。


 ナイフを握って、砂埃を立てそうな勢いを作り出した腕をかかえるように抑え込む。


「えっと、ユウカさん」


 林道が呼んでいた名前を、初めて少女に向かって呼びかける。


 呼吸もやっとなままに。


「どうして。あなたが、その笛をもっているの」


 少女はなぜゆえか、ほとんどしたこと無さそうな質問を、笛について問うために使ったようだった。


 笛。いまごろなんで。


 ずっと首に下げていたつもりなのに。


「違う。そんな見た目の笛じゃなかった」


 少女の指摘する笛の見た目は、何も変哲のない銀色だった。


 なんとなく今まで使ってきた笛に、見た目のコンプレックスができる。


「この笛の見た目が、どうかしたんですか」


「そうじゃない」


 苦し紛れのようにユウカは叫ぶ。


「なんでその音が出せるの。なんで、その笛であの音が出せるの」


「いや、音って」


 困惑を隠せないで氷花は言った。


「笛だったら、見た目は関係なしで、同じ笛の音が出せるものなんじゃ」


 少女は反発するように見つめる。少年も、笛も。或いは過去も。


 他人すらも。


「そういうことではないわ。あなたが、どうしてそんなにきれいな音を出せるの」


 もちろん、少女のあろうにもない必死な訴えも、理解できるはずがなかった。


「あれがきれいな音に聞こえたんですか。僕は鼓膜が飛び上がるような音を出そうとしただけです。だから、あんないきなり大きな音をだしたことは謝ります」


「綺麗だったよ。さっきの音は」


 彼には一向に意味がわからなくなった。叫ぶ挙句、音についての変な感想を言われ、さらには貶すように笑われるのだった。


 自然と反射的に手に力が込められる。


「あなた、自分がきれいな音を出していることに気づいていないの。そしてその音が、わたしたちにとって、非道極まりないことを知らないでしょう」


 それも無理はない話。音なんて人それぞれの聴覚やら、感覚やら、価値観次第でどんな形にもなれる。人々にとって、どのような感情にもなれる。それは確かであっていたしかたない。


 少年は黙って、ユウカの真意に耳を傾けようとするのだった。


「あんな音、もう二度と聞きたくない。その笛はあってはならないの。あの音を鳴らすなんてことは許されないの」


 相手の記憶に干渉する笛。演奏する隙はできたのだ。


「どうして、あなたはとどめを刺さないの」


 ユウカは苦痛そうに歩み寄りながら言う。


 さすがにとどめを刺すわけにはいかないが、彼にとってなにか憚れるものがあった。


 もちろん、体力的な問題も生じてはいるのだが。


「あの人が言うように、殺せば済んだんじゃないの」


「そんな物騒な。記憶に干渉はするかもしれないけど、人殺しなんて金輪際冗談じゃない」


「人殺しに何か問題でもあるの」


 音に反応して、いつの間にか多弁になったユウカ。


「人殺しになるのがそんなに嫌なの。あなたも一度してみればわかるよ。命をとめる瞬間、何もかも気分が晴れるものなの」


 氷花は自分自身にかけていたブレーキを外し、ぎこちなくも笛を構えた。


 過去の旋律が少女の鼓膜を揺らす。


「やっぱり、この音」


 呟きは、寂し気の空間に波を伝える。


 だが、少年は別のことに耳を奪われていた。


 狂いのなく、正常に進むはずの脳内にどうしても不協和音が入り込む。


 おかしい。


 あくまで耳も思考も体調も、おかしくはなかった。


 聞こえる音はおかしくなかった。


 記憶が、読み取れない。


 問題は感じる音だった。


「本当に、綺麗な色の音ね。あなたの性格が嫌でも伝わってくるわ」


 こんなはずはない。だって、確かに正常な音だったはずだ。聞いた本人だって、関心はしてないのかもだけれど、綺麗だとは言っているんだ。


 だとしたら、他に考えられるのなら。


 喜、悲、衝の感情に干渉する氷花の笛。


 この人、ユウカさんには、感情という記憶がない。ということなのだろうか。


 間髪入れずに、機械人形と対峙したモールが力負けをしたせいで弾き飛ばされる。


「あなた、すごく優しいでしょう」


 そして、氷花の腹部に打撃をくらわす。


 どうやら、ナイフはもう忍ばせていないらしい。


 氷花はもっと前からそうあるべきだったように倒れる。


 だいぶ離れた距離。ユウカは歩みを進めず這いつくばる少年を、見下ろす。もともと初対面だったわけだが、さらに心の距離さえできた気分になった。


 彼女はきつく、苦しそうに目を歪めながら発する。


「あなたみたいなやつがいるから、世界にはゴミみたいな人がいっぱい、生き続けるの。触れたくもない、他人を巻き込んでばかりのゴミがいつまでたっても消えないの」


 優しさ。


「あんたたちみたいなのがいるから、わたしたちの生きる場所がなくなるの」


 肺を押しつぶしながら二酸化炭素と共に吐き出す。


「わたしたち、って、他に誰か」


 考えてみれば、今結構絶体絶命な危機に陥っていた。


 苦し紛れの疑問。


 ユウカは歩を進めて、氷花の首を正面から掴み、サンドバック代わりに少年の小さな腹部を殴りつける。


 二度目、三度目。


「あなたはいいでしょう、世界は許してくれる。わたしたちはだめなのに」


 何が。何を許してくれるのか、何を許されているのかわからない。


「林道さん。ですか」


 サンドバックはうすうす気づいていた。ユウカが力をわざと弱めていることを。それがきっと自分のためであることを。


 そして、林道が彼女と他のもう一人を許さないはずがないことを。


 少女はついに頭部を殴りつけてやるつもりになった。


「まったく、仕方ないね」


 曲がりくねった視界に迫る手を、もう一つ人間の手が止めた。


 氷花の視界の白がクリアになる。


「だめだって、あれほど言ったのに」


 外套の、怪しい容姿の某男。


 嫌われそうな喋り方。


「やあ、久しぶりだね。久しぶり。少年、君はユウカに何をしたんだ。まさか記憶を覗いてなんかいないだろうね」


 久しくはないはずだが、氷花はその男の正体を見たことがあった。


 アスホの記憶を、奪った張本人。


 面影とかいう名前。


 彼はユウカの存在を知っているようだった。


 理解する。わたしたちとは、ユウカと面影の二人だったことを。


「立てそうにないかな、少年。ということは話せそうにもないね。いいよ、喋らなくて」

 ものすごく早い口調で面影は喋る。


「君が何を聞きたいのか予想して答えてあげるよ。僕及び、僕たちがここに来たのは彼に依頼を頼まれたからだ。何年ぶりだろうか、手伝いを求められたのなんて。依頼を受けるのは数年以来というわけだ」


 あっそう。


 疲労がさらに襲ってくる。


「だから、仕事として彼に関係していたわけで、もう終わった話だから僕たちは帰ることにするよ。ばいばい。という前に一つ君には教えておいてあげるよ」


 自然、耳が活発的に動くが正常に作動しているかは不明だった。


「この街は呪いの機械人形によってもうじき圧縮されるだろう。彼の計画な。生き残る方法としては、今すぐ僕たちのように逃げるか、機械人形を全滅させること」


 聞き覚えのない言葉だらけが鼓膜に消えてゆく。


「これくらいの事しか言えないけれど、生き残りたいのであれば嫌でもどちらか試すことだね。もっとも、選択権は君にあるわけで強制はしないけど、君たちには生き残ってほしいと思っているよ」


「大嫌い。優しさで世界が救えるなら、私たちが救われていないのはどうしてなの」


 割って入るようにユウカは続ける。誰がために訴えるように。


「優しい世界なんてなければよかった。嫌い、あなたも、林道も。他人も全部大嫌い」


「じゃあ、せいぜい頑張りなよ。騙しながら。笛の少年」


 そういって、二人は外に消えていった。


 追いかけなくては。


 面影とユウカではなく、林道とモールの方を。


 氷花が投げ飛ばされた頃、灰色の髪の男に追いついた林道たち。


 テロリストは長細い銃を構える者が二人とアスホにナイフを向けている者が一人。


 一方で、特に武器を手に持っているわけではない刑事と花屋。


「あんたには、言ったはずだろう。追ってくるなと」


 いかにも幹部らしい男は林道が花屋で見かけた灰色の髪をしている。


 男はナイフをアスホの首に近づけが、林道は動じなかった。


「さて、君たちには残念だが捕まってもらうしかない」


「どうしてだ」


「記憶を奪うことは罪、には指定されていないが、裏ではとりしまるようにと指示されている」


 いかにも幹部らしい男が崩れ笑いに返した。


 ナイフと別の手には鞄らしきものが握られている。


「確かに罪みたいなものかもな。でもそれが一体なんだというのだ」


 その質問に刑事は応えるつもりでいた。


 しかし、怯えるように、怖がるように、懺悔に震わされたモールがその話をのっとった。


「もうやめろ。この刑事は俺たちを無意味に逮捕しない」


 眠っているのかもわからないアスホには自身に突き立てられたものが分からない。


「少なくとも、罪だからという理由だけで、こいつの考えは終わらない」


「あんたも同じだろ。あんただって思っただろう。理不尽な扱いに不遇な嫌がらせに」


「違う。あれは全部、自業自得だったんだ。個人の問題だったんだ。加害者の一人に俺は入っているんだ。個人でなんとかできた問題なのに」


 拙い顔をしながらその言葉を聞いていた林道は一歩踏み出そうとする。


「撃て、二人を撃て」


 すると、林道とモールは一斉に突撃を開始し、時間差で飛ぶ銃弾を交わした。


「モールさん右の方をお願いします」


「分かった」


 林道は片手でポケットから銃を取り出し、乱すことなく敵の銃二つをはじいた。そこで、幹部はナイフを何本か、向かってくる二人に投げつけ、ダーツのように宙を進ませるが、不意を突いたもののかすることなく地面に落下する。テロリストの二人はすぐに銃を放って置き、組合に入った。


 幹部はアスホと鞄を抱えて走り出した。


「お前ら、あとは頼んだぞ」


「了解」


 呼応した声を聞き届けた後、幹部が組み合いから離れて行ったことを始め、一人ずつ戦いは始まった。


「刑事をあんまりなめるんじゃないぞ」


 珍しく真顔で言い、微妙に肉体の良い相手を大きく背負い投げた。


 林道駿、二十七歳、独身。この街に来る前から変人扱いをされていた。しかし、普通の警官以上に体術は強力。この街が荒れていると聞き、住民を改めるためと同時に記憶食いの調査のため派遣されたエリート。裏では高く評価されている。


「きっと何かしら事情があるのだろうけど、手錠をかけとくぞ」


 林道が適切な方法で相手を倒したならば、モールはかなり強引な方法で相手を倒した。


 ナイフを持って襲い掛かってきても、一発顔を殴りつけ、それで敵は再起不能になった。


「モールさん、その人、泡吹いていますけど大丈夫ですか」


「すまん、つい力を込めすぎてしまったみたいだ。死んでないといいんだが」


「ハハハ、多分生きてますよ。今手錠かけます」


 気絶した敵に手錠をかけると。後ろから二人の名前を呼ぶ足音が聞こえた。


 「追いかけてくるなと警告したはずなのに」


 苦し紛れながらも呟いた幹部はある場所に向けて、街を駆けていた。


 俺だって嫌だったんだ、殺めたりなどしたくなかったのだ。わざわざ恨みを買って人に嫌われたくなかった。だが、だが。


 幹部の頭の中に映し出されたのは一人の女性だった。彼女は微笑みながら言う。


「あなた、気を付けてね」


 こんなになってしまったんだ。


 揺れる手は人を殺めるために何度も引き金を引いてきた綺麗ではない手だ。


 もう、戻れないのかもな。


「いい加減止まれ」


 氷花が叫んだ声を聞き、幹部は足を止めた。そして振りむく。


「ああ、止まるさ。お互い疲れただろ」


「いや、僕は、疲れてないですけど」


 幹部は少しの間黙る。ぼろぼろの少年がそこには立っている。


「どうする、今からでも諦めないか。これがおそらく最後の慈悲だぞ。被害はなるべく避けたい。それが俺の方針だからな」


 歪む氷花の表情をみながら、幹部は不気味な目を燈す。


 お互いが緊張を忘れかけた時、あの二人が追い付いた。


「氷花」


「さあ、その子を渡すんだ」


 幹部は表情を崩さない。


「まったく、今来たらどうなるかわかって発言しているのか」


 その質問に林道は答えた。


「君がアスホちゃん、その子を殺さなかったのは生かしておく必要があったからだろ。その子じゃなきゃだめな目的上の理由があるんだろ」


 少しの沈黙の雨に身を濡らすが、幹部はまだそのナイフを放そうとしなかった。


「手を上げろ、武器があるなら今のうちに投げ捨てろ」


 真剣な刑事は銃口を向けた。それでも、幹部は表情を崩さなかった。


「まったく。これでも、撃てるのか。お前らにとって大切なものだ」


 途端、幹部はアスホから手を放した。すると鞄からワクチンのようなものを取り出す。


 優しい雨が降り出した。まるで少女の涙のように弱い雨だった。


「このワクチンのこの子の記憶が入っている。お前らが欲しいものだろ。壊すぞ。もう戻せなくなるぞ」


 優しい雨は少しずつ強度を増していった。


「やめてくれ」


 モールが絶望の色を瞳に募らせる。


「別にもうどうでもいいんだ」


 雨が強くなった。


「俺はこれでもいいんだ」


 雨が強くなった。


「壊す予定など無かったが、こうなっては仕方がない。仕方がないのだ」


 雨が、強くなった。そう彼らが思った時だった。


 雨ではなく、あまたのカラフルなキャンディー色の音符が空間に香る。


「なんだ、なんだこの音は」


 雨は笛のメロディーと一緒に優しくなった。


「ナイスだ。グッド判断だぞ氷花君」


 憎悪にとらわれかけていたモールが、我に返ったように前を向く。


 冷徹な目つきをした幹部の表情が緩む。確かに絵に描かれて緩んでいく。


 奏でられた早朝ファンファーレのようなメロディーは、聞く者の耳を勝手に操作する。笛はもちろん、ピアノのような音を弾かせる。


 ヴァイオリンの旋律を届ける。


 トランペットが揺らぐ。


 楽器の音がとけあって、やがてオーケストラのように奏でられる。


 一小節聞き送れば、氷花が演奏を止めても音楽は鳴りやまない。


「さてと、あなたの心に直接聞きますね」


 幹部の目は揺らいでいた。化け物に遭遇した時のごとく。


「オル。あなたの名前ですね」


 氷花は灰色の髪の男。オルに向かって言った。


「そんなことが許されると思うのか」


「あなたがしたことだって許されることじゃないんですよ」


「止めろ、そんなくだらない」


 言いかけたままオルは立ち尽くすことになった。


 オルの心が記憶を辿ってゆく。


「ねえ、オル」


「どうした」


「ごめんなさい。私が負担をかけてしまって」


「そんなことないよ。支えてくれてありがとう」


 本音だった。本気で彼の支えになってくれていたのだ。


「今日も、仕事頑張ってね」


「ああ」


 オルは警察官だった。優秀で、出世まで考えられていた。その彼がまさか、テロリストに入ってしまうなどと誰もが予想しなかっただろう。いや、知っていながら黙っていた者がほとんどだったのだ。


 そうだった、俺は警察官だったんだ。


 誰かが何をしてもオルの過去は変わらないのだ。


「どうしてだ。暗殺しろと言ったはずだぞ」


「それは承知の上ですが、できるはずがございません。私たちは警察なのです。市民を守るべき警察が、どうして市民を暗殺する道を選べるのですか」


「分かっている。私もこう言いたくはない。しかし、上からの命令だ。逆らったらまずいのだ。君に汚名を着せたいわけではない。すまないが命令に従ってくれ。頼む。なあ」


 オルの上司はその日に暗殺された。それがきっかけとなり、オルは警察官からマフィアへと意味不明な強制異動をさせられることとなってしまった。しかし、逆らうことはできなかった。上司が暗殺された同日に、同じく自分の娘、息子が暗殺されたのであった。


 暗殺者は全て、上からの命令に従ったただの警察官だった。


 あいつら、人質をとってやがった。よくも、俺の大切な。


 彼の妻は心が病むまで泣き続けた。裕福と言える家庭で暮していたとはいえ、自身の絶対に守るべき大切な子供たちを守ってやれなかった。これからみるみる大きくなるはずの子どもたちを失ったのだ。


 オルたちは共に死のうと思っていたのだが、それも出来なかった。


 何度ナイフを掴んでも死んではいけないと、天国から聞こえてくるらしい。


 所詮は幻聴なんだ。


 オルはそれ以来、命令に逆らうことは決してなかった。たとえ誰かを傷つけることだろうと、憎まれ、嫌われようとも、彼は今日まで生き続けた理由がある。


「妻がいるんだ」


 震えた声を出した。演奏が止まり、雨のはじく音だけが街を包む。


「帰宅を待ってくれている妻がいるんだ。こどもたちは殺されて、それでも生きている妻がいる。何が壊れようと、何を壊そうとも守りたいんだ。なあ、頼む」


 濡れた体で、三人の方を向いた。


「これ以上、大切なものを壊したくないんだ」


 幾分か弱くなった天気雨は音の存在も消していた。


「あなたが犯罪を起こす理由、それは大切な家族がいるから」


 苦しいんだ。毎日毎日苦しいんだ。たとえ君がいても俺は嬉しさで満たされることなんてないんだ。


「だからこそ、お願いです。アスホちゃんの記憶を返しください」


 嫌々そうに曲がった少年の腰をみつめる。


「アスホちゃんは、モールさんにとっての」


 分かっているんだ。己と同じものを持っている人がいることは。知っているんだ。選択を間違えた自分が悪いのは分かっているんだ。だけど、どうすればいい。どうするのが正解だったんだ。なあ、頼む。どうにもならなかったんだよ。嗚呼、ごめんな。こんな人間で。こんな心で。


 その手は、そっと動いた。


「これを腕に刺すといい」


 オルが林道に差し出したのはアスホの記憶を閉じ込めたワクチンだった。


「そうすれば記憶は戻る」


「ありがとう」


 林道は微笑んだ。早急に一礼した氷花と一緒に、倒れ込んだ少女をモールのもとに連れて、注射を打たせた。


 小降りの雨が降り始めて、氷花はモールの記憶について整理していた。


 喜びは、恐らく花屋で仕事をできたことで間違いないだろう。同時に悲しみは花屋が潰れたことで間違いないだろう。


 ならば衝撃は、無意識のうちにアスホを殴りつけていたことだろうと検討がついた。


 夜になるころ、花屋にたどり着くとすぐに、モールは眠っているアスホに向かって言った。そして、伝えた。


「アスホ、アスホ、なあ」


 少女の目は開かなかった。命の水は僅か。病室でかこまれる絶命寸前の患者のようだった。


 氷花は自分が見てきた二人、店主と娘の姿を照らし合わせながら、その会話に不本意ながらも耳を傾けようと思った。


「アスホ、ごめんな」


 余韻が踏まれる。


「どうしようもない馬鹿野郎で。もともとは関係なんてなかったお前に、ひどいことをした」


 今更になっては消すことなんかできない無謬の罪。


「知らないやつに、こんなよくも分からない大男に、殴られて、蹴られるのは痛かったよな。怖かったよなあ」


 廃れた花屋。理不尽な扱いからの逆恨み。


 モールはそれに触れなかった。どんな過去があったとしても、言い訳にしかならないのだから。


「お前は優しかったのに。お前はオレを心配してくれたのに。そんなお前に、虐待しか与えられなかった。唯一の存在だったのに。オレにとっては大切だったのに」


 少女の目は開かなかった。もうすでに死んでしまっているかのように。


 返事はなかった。心配もなかった。


 それでも、わずかに少しだけ。


「こんな言葉しかでてこない。ごめんな、ごめんな、」


 だけれども、ほんの少しだけ、少女の表情が穏やかになるように、記憶喪失者が記憶を取り戻した時に変化する顔色が、アスホを染め込んだ。


 不満を唱える氷花に響く。


「ごめんな。アスホ」


 涙のモールを夜明けの空が照らした。雨も止み、今思えばとてもいい天気だった。


 戻る記憶はすべてではない。人間が生きていて、すぐに忘れるものは戻らない。


 だから、アスホの目の前に、夜中の街に医者を探して走り回るモールの姿なんて、映るはずがないと氷花は思っていた。


 数日前。


「今はそんなことはどうでもいい。早く医者に連れて行くからな」


 いきなり倒れた彼女を背負ってモールは病院を探しに駆け出した。


 転びそうになるのを強く堪え、足がつって傷ついても、止めることなく走った。


 街の景色が変わり続け、やっと一つの医者にたどり着いた。


「この子を見てやってくれないか。様子がおかしいんだ。緊急で、頼む」


 病院の中は夜であったということもあり、それほど人はいなかった。けがをしている彼女を見ても、医者は顔色を変えなかった。


「お前がこの子にけがを負わせたんじゃないのか」


「いいから、早くこの子をどうにかしてやってくれ。体が冷たくなってるんだ。死にかけているんだ」


 この街の住民が自分の言うことを素直に受け入れてくれるなんて思っていなかった。しかし、彼は引き下がるわけにはいかなかったのだ。大切なものを守るために、できることは何でもしないといけないのだ。


 床に膝をつけ、手を間に出しながら地面に頭をぶつける。


 地面に屈辱をさらして、おさえつけて、土下座までしても、医者は彼の望みをかなえることはなかった。


 普段のモールだったら今頃こじ開けてでも中に入り、医者に怒りを向けていたはずだ。しかし今の彼は怒りよりも、焦りと悲しみの方が上目に出ていた。


 必死に叫んだ、守ろうとした結果だった。


 この行いは、アスホの記憶の、喜、として受け入れられていた。


「あり、がとう」


 自ずから残された余韻。


 モールにとって、聴きなじみのない言葉。


 それ以上アスホは動かなかった。ただ朝を待つ花のように。


 垂直落下する膝。モールは腕に力を込め、震えだす。やがて大きくなって、聞き心地にはあまりよくない雑音が憂いだ。


 くだらない。


 氷花は呟きたかった。


 虐待をした相手の死に雨を降らす。


 望んだ結末なのに、まったく合理的でなかった。


 氷花は何ものかに伝えるように思った。


 悲しむなら、最初から頑張れよかったのに。今頃、大切なものを失う頃になって。


 暴行なんて自我を保てば防げる話だったのではないのか。


 論理的でない。わかっていたはずなのに不幸を導くだなんて。


「傲慢じゃないんですか。失ってから、謝ったり後悔をするなんて」


 やはり罰を与えなくてはならないのだ。この店主は、犯罪者は罰を受けなくてはならないのだ。だが、それ以上になんともできない胸の震えに、少年は怯えていた。


「氷花君、」


 そう言って林道はえもわからずに震えを起こす少年の肩に手を添えた。


 その場にすがるモールは、少女を瞼越しに見ていた。


「こうやって、自らが触れてしまった者を失い、人間はようやく犯した罪に気づくんだ。これでは手遅れなんだ。これでは理不尽に亡くなった人間が報われない」


 きっとこのような現場に、あるいはもっと過酷で残酷な関係に触れてきたであろう林道の言葉に、少年は知らぬ顔をしてそっと耳を傾けるのだった。


「けれどね、こうやって失って、気づいたときに現れる感情は、人間の誇れる美しいものだと僕は思うんだ」


 林道の体温がわかった気がした。


 この店主は、どう思っているのだろう。


 今までなかったほどの罪悪感に触れるのかもしれない。増えた新たな傷は昇華できないかもしれない。


 或いは、そのすべてに反するものかもしれない。


 しかし、ただ一つだけ、氷花が思い違いなく言えることは。


 店主に虐待された、恨みを持っているはずの少女の顔が、穏やかに雨上がりの星に灯されているということだった。













 








 





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