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五 : 青葉 - (21) 勝長

 天正八年(一五八〇年)、信忠二十四歳。

 昨年は三木・有岡・八上と三つの城の対処に追われていたが、有岡と八上は片付いた。そして、残る三木城も決着の時が近付いていた。

 天正六年二月末から二年近くも籠城を続けていた三木城では、深刻な飢餓状態に陥っていた。戦の中にあっても正月三が日は末端の兵達にも酒や餅などが振る舞われるものだが、三木城からは炊煙の一本も上がらなかった。これを受けて秀吉は城方が相当に弱っていると判断、砦攻めに踏み切った。一月六日には当主・別所長治の弟・友之(ともゆき)が守る宮ノ上砦を、十一日には長治の叔父・吉親(よしちか)の守る鷹尾山砦を攻撃。どちらも抵抗らしい抵抗はなく、砦内には餓死者と思われる遺体が多数放置されていた。

 周りの砦を全て落とし残すは本城のみとなり、一月十四日には長治の叔父・重宗を使者に送り降伏を促した。これ以上無駄な血が流れるのを望まない長治は、将兵の助命と引き換えに腹を切る事を決断。十七日、別所長治は妻子を自らの手で殺した上で自害。享年二十三。長治の弟・友之も同じく自害した。なお、叔父の吉親は最後まで戦い続ける事を主張したが、味方から討たれたとされる。

 播磨最大の勢力を誇った別所家の滅亡を知り“次は自分だ”と(おそ)れた小寺政職は居城である御着城を捨てて三木通秋(みちあき)英賀(あが)城へ逃れた。その英賀城も羽柴勢に攻められ、二月十三日に落城。政職は足利義昭が居る備後鞆へ、通秋は九州へ逃れた。

 小寺家が滅んだ事で主家に義理立てする必要がなくなった小寺孝高は旧姓である“黒田”姓に復帰。以降、黒田“勘兵衛”孝高は羽柴秀吉の知恵袋として秀吉を支えていくこととなる。

 これにより、秀吉は播磨を平定。中国地方の入り口を手中に収めた秀吉は、ここから飛躍を遂げていく事となる。


 天正八年三月、武田家に奪われていた坊丸こと“源三郎”勝長が織田家へ返還された。

 美濃・岩村城まで武田方の兵に送られ、身柄が引き渡されてからは河尻家の手の者が信長の待つ安土城まで送り届ける役目を担っていた。

 その途上、岐阜城で信忠は勝長と対面した。この時、勝長十二歳。まだ幼さを顔に残しているが、凛々しい若武者の雰囲気が滲んでいた。

「ご無沙汰しております、兄上」

「うむ」

 型通りの挨拶を述べる勝長に、軽く応じる信忠。ただ、信忠の記憶では幼い頃の坊丸と会った覚えはない。十二歳も歳が離れている上に母も異なり、接点が無かった。精々あっても正月に顔を揃えた際に会ったくらいか。

 面識がないのだから会う必要はなかったが、信忠はどうしても勝長に会いたい理由があった。

「……早速だが、お主に聞きたい事がある」

 信忠の方から切り出すと、勝長はピクッと肩を震わせた。こちらもあまり知らない長兄(ちょうけい)に求められる形で対面させられて、緊張しているのかも知れない。いや、警戒していると表現した方が正しいか。

 それでも構わず信忠は続ける。

「武田家の当主・勝頼と会った事はあるのか?」

 訊ねられた勝長の表情が、さらに強張る。聞かれるのは分かっていたが、答えたくないのが見え見えだった。

「……はい、幾度か。大膳大夫様から声を掛けられた事もあります」

 勝長の返答を聞いた信忠も、「やはり」と心の中で呟く。訊ねた時点で何となく想像はついたが、勝長は勝頼に対して好意的な心象を抱いている。それを確信させたのは、勝頼の呼称だ。勝頼は無位無官なので“四郎”若しくは敵対心を抱いているならば(いみな)である“勝頼”と言う筈だ。しかし、勝長は武田家が代々継承している官名で自称している“大膳大夫”に敬称“様”まで付けている。武田家や勝頼に悪い印象を持ってない証拠と言っていい。

 だが、呼び方云々は別に気にしていない。信忠はさらに問う。

「勝頼とは、どういった人物だ? それを話して欲しい」

 信忠の言葉に、勝長は表情も体も一層固くした。

 映像も写真も無いこの時代、その人物について情報を得る最も確実な方法は“会った事がある人物から聞くこと”だった。その人の主観は混じるものの、その目で見てその耳で聞いて同じ空間を共にした経験は何物にも替え難い重要なものに違いなかった。信忠は担当する敵の総大将である勝頼がどういう人物か、是非とも知っておきたかった。

 その意図は、当然ながら勝頼にも分かっていた。恩のある勝頼を売るような行為を、(おとし)めるような発言をしていいものか、勝長の中で深い葛藤が滲み出ていた。

 脂汗(あぶらあせ)を浮かべ黙り込む勝長へ、信忠は穏やかな声で投げ掛けた。

「そんなに畏まらなくてもいい。別に()し様に言わなくても構わない。お主が感じた、ありのままを聞きたいのだ」

 そう言い、にこやかに微笑む信忠。思いがけない言葉に、勝長の表情も幾分か和らいだように映る。

 別に勝長の気持ちを解そうと言った訳ではない。言った通りそのまま、“勝長が感じた勝頼”を信忠は知りたかっただけだ。信忠を(おもね)って嘘を()かれたり愚かに誇張されたりしても困る。

 ただ、信忠の言葉掛けは効果覿面(てきめん)だった。肩の力が抜けた勝長は、ゆっくりと語り始める。

「……とても、お優しい御方でした。五年前の戦で勇猛な将兵を数多く失ってからも、大膳大夫様は私と会う度に『肩身の狭い思いをしてないか?』と気に掛けて下さりました。また、人質である私の話にも耳を傾けて下さりました」

 まるで昔を懐かしむように語る勝長。それをうんうんと頷きながら傾聴の姿勢を示す信忠。

 人質は何かあった時の交渉材料にする為に、丁重に扱うものだ。ただ、そうした背景を抜きにしても、勝頼は勝長に対して優しく振る舞ったのだろう。

「私が元服する折には、新しい衣装と脇差を贈って下さりました。『元服は一生に一度の晴れ舞台。囚われの身ではあるが華やかに執り行われなければならない』とする大膳大夫様の意向もあり、想い出に残る式となりました」

「……今差しているそれが、貰った物か?」

「はい。左様にございます」

 答えた勝長は、差していた脇差を畳の上に置く。確かに、見た感じでは(さや)(つか)(こしら)えは細かな細工(さいく)(ほどこ)されており、手が込んだ逸品だと思う。

 信忠に見せる為に出した脇差をまた差し直すと、やや残念そうな表情を浮かべた勝長は声を落としながら言った。

「……ただ、領内で大膳大夫様の評判は決して良くはありません。『代替わりしてから負担が重くなった』とか『耳触りの良い事ばかり言う佞臣(ねいしん)ばかり側に置かれる』と、聞こえてくるのは悪い話ばかり」

「それは、お主が(じか)に聞いたのか?」

「えぇ。外出した際などに民と世間話をしたりするのですが、皆同じような事を口にしていました」

 至極残念そうに答える勝長。“誰かの話を耳にした”とか“誰かから伝え聞いた”のを疑った信忠だが、直に聞いたのであれば間違いない。民に税を課す為政者(いせいしゃ)はとかく悪く言われがちだが、それを差し引いても評判は良くないと見ていい。

 これは良い情報を手に入れた。信忠は勝長と会って良かったと確信した。

「……分かった。甲斐からの長旅で疲れているのに色々と聞いて済まなかったな。今夜はゆっくり休むといい」

「はっ。兄上のご厚意、感謝致します」

 そう言うと、勝長は深々と一礼して下がっていった。その顔には、無事に対面を終えた安堵に満ちていた。

 勝長が下がった後も腰を上げようとしない信忠。何か思うところがあるのか、真剣な表情のままだ。

「――与四郎」

 唐突に名を呼んだかと思うと、隣の()の襖が開いた。そこに居たのは、河尻秀隆。

「今の話、聞いていたな」

「……はい」

 勝長から話を伺うに当たり、武田攻めの最前線である岩村城を任されていた秀隆にも同席してもらおうと信忠は考えた。但し、陰鬱(いんうつ)な雰囲気を醸し出す秀隆が同席すると勝長も警戒したり怖がる恐れがあったので、襖を隔てて聞いてもらった。

「あ奴の話に不審な点はなかったか?」

「……いえ。我等が武田領内に放っている間者から入っている情報と、齟齬(そご)はありません」

 武田家には“三ツ者”と呼ばれる優秀な忍びを抱えているが、織田家でも忍びを使っていない訳ではない。忍者と言えば暗殺や忍術の印象が真っ先に浮かぶが、敵地に潜入して情報収集を行うのも大切な任務だ。情報を手に入れるのも城に潜り込んで入手するのは稀で、多くは住民に紛れたり商売人を装って土地を訪れるなど地域に溶け込んで入手している。当然ながら武田家も内情が外へ洩れないよう間者は始末しているが、織田家も監視の目をくぐり抜けて活動していた。

 躑躅ヶ崎館は選りすぐりの三ツ者が警護しているので勝頼の機密情報は盗み出せないが、領内の評判を入手するのはそこまで難しくない。様々な手で届いた情報では、武田家に対する不平不満が徐々に高まっているのは事実だった。

 勝頼が当主になってから大規模な外征を何度も行い、それと並行して新たな城や砦を幾つも築くなど出費は嵩むばかりだ。領国の甲斐・信濃は平地が少なく農作に不向きな土地も多いので収入面で不安を抱えていた。その結果、武田家の財政は常に火の車で、勝頼は徴税の強化や税負担を重くする事で対応した。しかし、治水対策や農地開拓の為に増税するなら民達もまだ甘受(かんじゅ)出来るが、外征も築城も自分達の生活に何の関わりもない。その為に勝頼の治政に対する不満が少しずつ蓄積されていた。

 また、以前から指摘されてきた家中の軋轢(あつれき)はさらに深刻なものになりつつある。長篠・設楽原の大敗以降、勝頼は長坂“釣閑斎”光堅や跡部勝資などを側に置き、信玄の頃から第一線で働いてきた者達は冷遇されていた。特に、馬場信春・内藤昌秀・山県昌景と並んで“武田四天王”の一人に名を連ねていた春日虎綱が天正六年六月十四日(『武田家過去帳』準拠、他にも別日の説あり)に亡くなっており、勝頼に意見出来る者がまた一人減ったのも大きかった。この為に、勝頼の近くに侍る実力の無い者と勝頼と距離を置く実力者で家中は二分され、その溝はさらに深まった。民衆も家中の分断を(うれ)う者は少なくなく、不安を抱いていた。

「ならば、武田攻めの先陣を任せても問題はないな」

「……はい。好意こそ抱いておられますが、武田方に不利益な情報を自ら明かしましたので、心は織田家に比重を置いているものかと。裏切りはまず無いでしょう」

 秀隆の分析に、()もありなんという風に頷く信忠。

 武田家には恩があるが、恨みもある。まだ右も左も分からない中で囚われの身となり“命を奪われるのでは”という恐怖を味わった。その経験はそう簡単に消えるものではない。……このことから、勝長が武田に付く恐れは薄いと捉えた。

「……ご苦労だった。下がっていい」

 信忠が促すと、秀隆は一礼してから襖を閉めた。

 これで用は済んだ信忠だが、まだ席を立とうとはしなかった。座ったまま、じっと何か考えている様子だった。

(……偉大な父を持つとは、大変な事だ)

 内心、信忠は勝頼に同情していた。

 武田信玄は稀代の名将だ。甲斐一国から信濃の大部分、駿河一国、さらに上野の一部を治める一大勢力に押し上げた。その功績は比類ない。勝頼は、その父に負けないくらいの人物になろうと躍起になった。いや、超えようとさえしていた。積極的な外征で父も落とせなかった高天神城を攻略し、織田領である東美濃を(かす)め取った。それでも、家臣達も民も評価してくれない。その苦悩は如何(いか)(ばか)りのものか。超えるのは無理だと最初からあきらめた信忠が察するに余りあるだろう。孤立し、甘い事を吹き込む者達を侍らせたくなる気持ちも分かる。

 何が正しく何が間違っているかなんて、当事者には分からない。全ては前より良くする為に、ただ我武者羅(がむしゃら)なのだ。それは信忠も同じだ。先代と比較され、「先代はこうだった」と功臣から(さと)され苦言され、親は期待し警戒し、何か新しい事をすれば()しく言われ。真に、二代目とは報われないものである。

 勝頼に同情するが、民は家臣達の信を失ったのは勝頼の犯した失態だ。自らは同じ(てつ)を踏まぬよう、反面教師にしなければと信忠は戒めるのだった。


 この後、安土で父・信長と対面した勝長は、尾張の犬山城を与えられた。また、織田家へ返還されたのに伴い庶流の津田姓を名乗ると共に、名も“信房(のぶふさ)”と改めた。武田家の下にあった時に付けられた名では些か都合が悪かったと推察される。以降、津田“源三郎”信房は連枝(れんし)衆の一人として信忠付の家臣となった。


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