五 : 青葉 - (20) 有岡城攻めの顛末
織田方との取り決めを履行すべく、久左衛門は自らの手勢三百を率いて尼崎城へ向かった。あとは村重を説得するだけなのだが……肝心の村重は尼崎・花隈の両城明け渡しを拒んだのである。毛利家の援軍が来ると信じているのか、それともまだ戦えると考えているのか。何れにせよ、村重は頑として首を縦に振らなかった。想定外の展開に久左衛門は困惑した。自らの肩には織田方に預けられた大勢の命が圧し掛かり、片や村重は応じようとしない。粘り強く交渉を試みた久左衛門だったが、村重から許諾を得るのは無理だと諦めた久左衛門は、あろう事か出奔してしまったのだ!
村重だけでなく久左衛門までも身勝手な行いをした事に対して、信長は当然ながら激怒した。荒木方から預けられていた人質の処刑を決め、信忠に執行を命じた。
天正七年十二月十三日。信忠が陣を張っていた有岡城近くの七つ松に、村重の妻・だしを始めとする荒木一族と家臣の妻子達が刑場に連行されてきた。その様を信忠はじっと見つめる。
「……なぁ、伝兵衛よ」
「はっ」
前を見据えたまま、傍らに控える伝兵衛に声を掛ける信忠。誰に言うでもなく、さらに続ける。
「事前の取り決めを破ったなら、質は処刑する。そうしなければ、示しがつかないからな」
「……はい」
敵対していた勢力が降伏する時や新たに臣従する勢力が加わる時に人質を取るのは、武家の習わしだ。文字通り、“人”の“質”、約束の履行や裏切らない証の為に差し出すのである。何事も無ければ命は保障され、履行されたり多大な功を挙げたりすれば人質は返還される。また、臣下から預かった人質で年若い者は将来の御家を支える人材として、大切に傅育され英才教育を施される事もある。今川義元存命時の松平竹千代や信玄存命時の武藤喜兵衛、蒲生家から織田家へ人質に出された蒲生鶴千代(現在の“忠三郎”教秀、後の氏郷)がその例だ。
しかし……降伏時の条件を守らなかったり叛逆行為を行えば、罰として人質は処刑される。「我々を裏切ればこうなるぞ!」と他の者達への見せしめも含めて。そうしなければ「あそこの家は人質を殺さない」と他家から舐められるからだ。先述した松寿丸を信長の命に反して匿ったのは重大な軍律違反に当たるが、余命幾許もない重治が全ての罪を被る覚悟があったからこそ実行出来たとも言える。
妻子の命を顧みない村重や、説得に行ったものの出奔してしまった久左衛門の行動は言語道断だ。糾弾されて然るべきだし、父の決定に異議を挟むつもりはない。それでも……。
「……何も、ここまでしなくとも」
父が命じたのは、荒木方から預かった全ての人質の処刑。その数、優に数百は超える。
見せしめの為なら、一族や家臣の妻子だけで充分ではないか。付き従う者達の命まで奪うのはやり過ぎだ……信忠は、そう思わざるを得なかった。武家が戦で敗れた場合、大将か重臣が腹を切って責任を取り、他の将兵の命は助けるものだ。それと一緒で、処刑するのは身分の高い者達で充分、関わりのあった者達まで殺すのは父の八つ当たりにしか思えない。
以前、伊勢長島でも同じような事があった。女子どもや年老いた者など非戦闘員が乗った船へ鉄砲を撃ち込んだが、その直後には武器を持たない約束を破った一揆勢が猛然と逆襲してきた事情もあり、まだ納得がいく。けれど、今回は違う。男達の身勝手な振る舞いに巻き込まれただけである。それだけに、信忠は気が重かった。
しかし、だからと言って執行を変更したり中止したりしようという考えにはならなかった。面を向かって父に「これは違う!」と言う勇気が無かった。勝手な事をして、父の勘気に触れるのが何よりも怖かった。
(……私は、臆病者だ。そして、無力だ)
粛々と進められる光景から目を離さず、信忠は唇を噛む。間違っていると感じていても、父の命令に逆らえない。言いなりに動いているだけで、私は本当に織田家の当主なのだろうか。
「私は、地獄へ堕ちるな」
例え自らの手を汚していなくても、多くの罪無き人々を死に追いやった罪は重い。元々極楽へ行けると思っていないが、今回の件で確実に地獄行きだろう。
「……地獄であろうと、お供仕ります」
「そうか。伝兵衛も一緒に堕ちてくれるか。心強いな」
伝兵衛の言葉に、信忠は少しだけ笑った。しかし、それも束の間の出来事で、すぐに暗い表情に戻る。
この日、荒木方の妻子百二十二名が磔刑に処された。その人数の多さから、位の低い者は鉄砲で撃たれたとされる。さらに、それ以外の者達は四件の農家に押し込められた上で火に掛けられた。その数、男性百二十四名・女性三百八十八名。また、同時刻に京の妙顕寺に預けられていた荒木一族と重臣三十六名も、市中引き回しの上で六条河原で処刑された。
合わせて六百七十名の命が奪われる惨事を、村重はどう思ったのか。尼崎に居た村重は、同月中に嫡男・村次と共に花隈城へ逃れて抵抗を続けた。しかし、有岡城を始めとする主要な城の大部分は織田方の手に落ち、兵の大半を失った荒木勢は最早信長が恐れる程ではなくなった。摂津に展開していた軍勢の多くは帰国の途につき、信忠も岐阜へ戻っている。
こうして、激動の天正七年は静かに幕を閉じるのであった……。




