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五 : 青葉 - (19) 二条新御所

 城主・荒木村重が単身脱出した有岡城では箝口令(かんこうれい)が敷かれたが、時間の経過と共に村重不在の情報は外部へ徐々に漏れ出てしまった。城内の兵達の間で噂になり、やがて城の外に居る織田方にも伝わった。当初は真偽不明のガセ情報と一蹴していた織田方の上層部も、各所から補足する情報が続々と入るようになり本当の事かも知れないと思い始めるようになった。

 集めた情報を元に、包囲に加わる滝川一益が城方へ調略を仕掛けた。城内でも『城主が逃げ出した』とする情報は出回っており、現場の将兵達の間にも少なからず動揺が広がっていた。一益による揺さぶりと交渉の結果、有岡城の一部の砦で内応する密約を取り付けた。

 天正七年十月十五日、織田勢は城攻めに出た。村重不在の中でも荒木勢は奮闘するも、一益の調略に応じた砦から織田勢の侵入を許してしまった。惣構えは外からの攻撃には強いが内からの攻撃には(もろ)い弱点があり、城内の砦は次々と陥落。城下町だけでなく城の中まで攻め込まれ、荒木方は本丸を残すのみとなった。

 完全に追い詰められた荒木勢は(なお)も籠城を続けていたが、周囲を織田勢の大軍に囲まれ形勢を覆すのは最早不可能だった。織田方も無理に攻めれば荒木勢が死に物狂いで抵抗するのは分かっていたので、開城を促す交渉が行われた。その結果、守将・荒木久佐衛門(きゅうざえもん)(元・池田知正(ともまさ)、村重の家臣になるに当たり改名)との間で『尼崎城・花隈城を明け渡せば妻子の命は助ける』旨の約束を取り交わし、十一月十九日に有岡城は開城。津田信澄が城を接収すると共に、村重の妻・だしを始めとする家臣の妻子や付き従う者達が捕虜(ほりょ)として引き渡された。

 また、これと前後して小寺孝高の家臣達が地下牢に幽閉されていた小寺孝高を救出。一年以上もの間ずっと低い天井で足を伸ばせない程に狭い劣悪な環境に置かれた孝高は、髪の毛が殆ど抜け落ち頭部に(かさ)が出来、左脚の関節が伸ばせない障碍(しょうがい)を負っていた。生きているだけでも奇蹟という有様で、孝高は家臣に背負われて城を出たとされる。(ちな)みに、孝高の行方が分からなくなったと知った信長は『孝高は荒木家に裏切った!』と断じ、秀吉に人質として孝高から預かっていた嫡男・松寿丸(しょうじゅまる)を殺すよう命じた。これに対し、竹中重治の一計で松寿丸を重治の居城・菩提山城の城下に(かくま)い、身代わりの首を信長に差し出す事で事を収めた。明らかな命令違反ではあったが、重治は孝高が絶対に裏切る筈がないと確信しており、自らの余命が永くない事を悟った重治が全て罪を被る覚悟で松寿丸を匿ったとされる。有岡城開城と同時に孝高が牢に囚われていた事実を伝えられた信長は自らの勘違いで松寿丸を殺してしまった事を後悔したが、重治の機転で生きている事を知らされると信長は今は亡き重治を褒め称えた。孝高も重治の行動にとても感謝し、後に竹中家の家紋を貰い受けている。

 これで万事解決……とはいかなかった。有岡城を巡る攻防はさらにもう一波乱があるのを、この時の人々はまだ知らない。


 天正七年十一月十五日。信長は誠仁(さねひと)親王に自らが所有する二条の屋敷を献上した。

 この屋敷は関白だった二条晴良(はれよし)邸宅(ていたく)だったが、岐阜城を信忠に譲った信長が京での宿所を求めて天正四年三月に譲り受けた。晴良には代わりの土地と建物を用意し、移徙(わたまし)が完了した四月の翌月から本格的な改修が始まった。途中、解体された多聞山城から移築したり堀を広げ塀を高くするなど防御性を高めたりし、天正五年九月に完成した。その邸宅を手放したのは、信長にある狙いがあったからだ。

 誠仁親王は今上(きんじょう)天皇・正親町天皇の嫡男で唯一の男子だった。高齢の帝を補佐しながら将来の即位に備えていた。譲位が実現しないのは天皇家の資金難もあったが、一癖も二癖もある戦国大名と渡り合うにはまだ力不足と捉えていた正親町天皇の意向が大きい。特に、天下人であり京を掌握する信長は位階や官職に(なび)こうとはせず、従来の価値観や慣習に囚われない人物であったが為に、対応を誤れば天皇家そのものが滅んでしまう危険性を孕んでいた。何かにつけて朝廷の仕来(しきた)りを改革しようとする信長と対立した事も一度や二度ではない。

 こうした正親町天皇の対応に不満を抱いていた信長が目を付けたのが、未来の帝である誠仁親王だった。自らが気に入っている屋敷を献上する事で誠仁親王に恩を売ろうとしたのだ。さらに、信長は思い切った手に出る。誠仁親王は子沢山だったが、その五人目の男子である邦慶(くによし)親王を信長の猶子(ゆうし)としたのである。猶子とは家督相続権を有さない養子のことだが、逆に言えば邦慶親王が帝に即位すれば、信長はその外戚(がいせき)となる。さらに、邦慶親王の子が帝に即位するようなことがあれば、信長は外祖父(がいそふ)だ。(いず)れにせよ、信長は天皇家に強い影響力を手に入れる事が出来るのだ。

 一方の誠仁親王の側にも利点はあった。大々的な行事を執り行う事すらままならないくらいに経済的に苦しい天皇家に、天下人として絶大な力と影響力を持つ織田家が後ろ盾となるのは、とても好ましかった。脈々と受け継がれてきた伝統を破壊する恐れはあれど、変化の大きい時代を乗り切る為には劇薬をも取り入れる必要があったのだ。

 この屋敷は後に“二条新御所”と呼ばれ、誠仁親王が暮らしていくこととなる。


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