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五 : 青葉 - (17) 謀聖

 天正七年八月二十日。信忠は父の命により摂津方面へ向けて岐阜を出陣した。

 四月末に岐阜へ帰って約三ヶ月半。山積していた政務も処理し、英気を十分に養えた。鈴との距離も大分縮まり、(ねや)を共にする機会も幾度かあった。……大した進歩だと自分では思う。

 一度安土へ立ち寄った信忠は父の側近である堀“久太郎”秀政を加えて二十二日に安土を出発。当日中に摂津へ着陣した。

「新五郎殿。留守を預かって頂き、ありがとうございました」

 着陣早々、留守を任されていた斎藤利治と面会した。

「私が不在の間、何か動きはありましたか?」

 信忠がまず訊ねたのは、留守中の荒木方の動向だった。有岡城を囲んだ昨年十一月から約九ヶ月、惣構え構造もあり頑強に抵抗を続けていた。

 ただ、訊ねられた利治の表情はやや曇っている。

「はっ……城の守りは固く、攻めあぐねております。城内へ向けて敵に不利な情報を流しておりますが、反応は(かんば)しくありません」

「そうか……」

 大方(おおかた)予想していた事だが、それでも表情が曇る信忠。

 城下町を含めて堀で囲む惣構えの城は、防御性が高いだけでなく兵糧を大量に抱えられるので持久戦にも強い。力攻めは難しいと判断した織田方は城の外から荒木方に不利な情報を大声で吹き込み、将兵へ心理面で揺さぶりをかけた。『丹波の波多野が屈した』『毛利は石見の国衆討伐に動いた』とある事ない事を投げ掛けたが……城内に動揺の兆しは見られないという。

「致し方あるまい。今暫く根(くら)べといこうではないか」

 幸い、父は有岡城攻めを急がせる気はなかった。刻を経る毎に情勢は織田方へ傾いていたからだ。

 先日は丹波の有力国人である波多野を(くだ)したし、石山本願寺にも目立った動きは見られない。一番の脅威である毛利家も今年に入ってから東へ兵を進めようとしていなかった。播磨の三木城・摂津の有岡城は毛利の助力を何より求めていたが、黙殺され続けていた事で苦しい立場に置かれていた。

 信忠の方針に利治も同意見らしく、静かに頷いた。

 兵糧攻めは守り手だけでなく城を囲む攻め手にも消耗が発生する。兵を食わせる兵糧だけでなく、夜に焚く篝火(かがりび)に必要な薪や馬に与える(まぐさ)、それ等を購入して戦地へ運搬する経費も掛かる。それが故に守り手より攻め手が先に根負けして兵を退く例は決して珍しくない。上杉謙信も武田信玄も惣構えの北条家の小田原城を囲んでいるが、共に持久戦で先に音を上げて撤退に追い込まれている。

 しかし、織田勢にこうした杞憂(きゆう)は無用だった。京や堺など国内屈指の商業都市を押さえ、領内から上がる運上金は莫大。加えて、尾張時代から兵站を重視していた信長は、迅速に戦地へ人も物資も運べる態勢を整備し、それを円滑に実施する為の吏僚も揃えていた。だからこそ、現場に立つ者は目の前の戦だけに集中する事が出来るのだ。

 このまま包囲を継続すれば、いつか村重も降伏するだろう。信忠は腰を据えて待つ構えだった。

 だが――事態は思わぬ展開を見せる。九月二日、城主・荒木村重が、単身城を脱け出したのだ!

 長期間に渡る包囲にも将兵達の士気は衰えておらず、兵糧も弾薬もまだ充分に残されていた。まだまだ抵抗する余力がありながら、どうして村重はこうした行動に出たのか? しかも、城を脱け出す際に持ち出したのは愛用する茶道具数点、大事な妻子は城に残したままだった。一説には毛利家へ援軍を求めるべく決死の行動に出たとされるが、織田方に囚われる危険を冒さなければならない程に追い詰められていない状況で守りの堅い有岡城を捨てる決断をした村重の行動理由は謎としか言い(よう)がなかった。城を脱け出した村重は嫡男・村次が籠もる尼崎(大物とも)城へ入った。

 村重最大の誤算は、頼みの綱である毛利家の動きが想定していた以上に(にぶ)かった事だ。離反直後に木津川口で毛利水軍が大敗して大坂湾の制海権を失ったが、播磨沖まで織田水軍の影響は及んでいないので毛利勢は播磨まで船で移動してから陸路で摂津に入る事は十分に可能だった。また、昨年七月に播磨進出の足懸かりとなる上月城を落としており、織田家から離反した別所家などを支援する為にも毛利家には東へ兵を進めて欲しかった。

 何故、毛利家は動かないのか。それは――安芸を本拠に中国地方を地盤とする毛利家と、織田家に反旗を翻した播磨の別所家を始めとする国人衆や摂津の荒木家の中間にある、備前・美作(みまさか)を治める人物が大きく関与していた。

 宇喜多“和泉守(いずみのかみ)”直家。斎藤道三・松永久秀と並び“戦国三大悪人”に挙げられる人物である。

 元々宇喜多家は備前の土豪で、直家の祖父・能家(よしいえ)の代に頭角を現して有力国人の一人に数えられる程の勢力にのし上がった。しかし、天文三年(一五三四年)六月三十日、能家は居城である砥石城で何者かによって殺害される事件が起きる。この時、直家六歳。実力者だった能家を失った宇喜多家だが、父の興家(おきいえ)暗愚(あんぐ)の人物だったが故に、直家は父母と共に城から追い出されてしまった。領地を失い、付き従う家臣も居ない。宇喜多家は歴史の表舞台から姿を消してしまったのだ。

 没落した一家は豪商の阿部善定(ぜんじょう)の庇護を受けて生活していくのだが、父・興家はあろう事か恩人である善定の娘に手をつけて孕ませる始末。興家は御家再興に動こうとはしないまま、病で死去する(一説には自害とも)。対する母は浦上(うらがみ)宗景(むねかげ)の家の下女として雇われ、その伝手を得て直家は宗景に仕官する。直家は宗景の下で徐々に頭角を現していくのだが……主命とは言え(しゅうと)を討ったり、敵対する人物に人を雇って鉄砲で狙撃させたりと、策謀に手を汚す事も辞さなかった。これは一度零落したどん底を味わった直家が、御家再興の為には(きたな)かろうと誹られようと手段を選ばない姿勢が色濃く反映されていた。

 猜疑心(さいぎしん)の強い宗景の下で勢力を拡大させていった直家は、永禄十二年に反旗を翻した。この行動には上洛を果たした織田信長や宗景と対立する西播磨の赤松政秀の働きかけがあったが、政秀が宗景と協調している小寺(黒田)孝高との戦いで大敗。その後に宗景に攻め込まれた政秀は降伏してしまった。おまけに信長も将軍義昭との関係悪化もあり手を引かざるを得なくなり、備前で独立を目指した直家は形勢不利を悟って同年末までに宗景へ謝罪。これまでの貢献もあり宗景は直家の帰参を許した。

 一度は頓挫した独立だが、天正二年に直家は再び反旗を翻す。決起に際し、宗景の兄・政宗の孫・久松丸を旗頭にし、(かくま)われていた播磨の小寺政職から身柄を引き受けた。事前に国衆の切り崩しを図り、さらに宗景と敵対していた毛利家と手を結んだのも功を奏し、翌天正三年には宗景を播磨へ追放する事に成功した。ただ、旗頭に担いだ久松丸は同年に毒殺されている。

 敵対する人物を男色(なんしょく)を利用して始末したり毒殺したりと謀略を(いと)わず勢力を拡大させていった直家。毛利方に属していたが、そのやり口から“油断ならない”と警戒していた。一方、天正五年から秀吉による中国攻めが本格化すると、直家は隣接する播磨まで進出してきた羽柴勢に対抗すべく毛利家と協力する姿勢を示した。毛利勢が陸から播磨へ兵を送るには宇喜多領を通過せねばならず、海路でも中継点として宇喜多家が支配する湊を利用する必要があったことから、宇喜多家の協力が不可欠だった。

 だが……昨年の上月城を巡る攻防では、宇喜多家からも兵を出したものの直家ではなく弟の忠家を代理に立ててきた。この頃から毛利家内部で“直家は織田家と通じているのではないか?”と(いぶか)しむ声が上がり始め、兵を東へ送るのを躊躇するようになった。毛利家が播磨の別所や小寺、摂津の荒木に調略を仕掛けたように、秀吉も宇喜多直家へ調略の手を伸ばしたのだ。直家が世話になっていた阿部善定の手代をしていた魚屋(ととや)九郎右衛門(くろうえもん)の元には小西隆佐の次男・弥九郎が養子に入っており、元服して名を改めた“行長(ゆきなが)”は直家に才覚を見出されて宇喜多家の武士となっていた。その伝手を活かして秀吉は隆佐や行長を介して交渉を進め、直家を織田方へ引き込む内諾を得る事に成功した。この決断の背景には、直家自身が病に侵され長生きは難しい事が大きかった。跡継ぎの八郎は元亀三年生まれで八歳とまだ幼年、毛利と織田の巨大勢力の狭間にある宇喜多家が生き残る可能性が最も高いのは“秀吉の下に入る”ことだと直家は踏んだ。信長ではなく秀吉を選んだのは、新参者に対して冷たい印象がある信長よりも人間味があり勢力地盤がまだ確立されてない秀吉の方が大切に扱ってくれるからだ、と直家は睨んだ。

 ただでさえ油断ならない直家の動向が定かでない以上、毛利家は安直に兵を東へ送る事が出来なくなった。これは、西の毛利と挟撃して織田・羽柴を叩き潰す筈だった別所や荒木など反織田勢力の戦略が根本から崩れ去った事になる。いつまで経っても姿を現さない毛利家の動きに、村重は痺れを切らしたのかも知れない。

 しかしながら、城主村重の脱出は有岡城内に居る全ての将兵の士気に直結するので、この事実は上層部の限られた人しか知らなかった。城内では村重が今も健在であるかのように装ったのもあり、末端の兵に気付かれる事は無かった。一方の織田方にも村重が脱出した事はまだ伝わっておらず、信忠は有岡城攻めに従事していくこととなる。


 天正七年九月四日。安土に出仕した秀吉は、嬉々として『宇喜多直家を調略で寝返らせました!』と信長に報告した。

 宇喜多直家と言えば、備前を中心に美作・備中の一部にも版図を持つ大名。そんな大物が味方になれば、信長もさぞ喜んでくれるに違いない……秀吉は主君からのお褒めの言葉を待っていた。

 しかし、信長は喜ぶどころか「信用ならん」と一蹴。そればかりか「こんな事を報告しに来るくらいなら、さっさと三木城を片付けろ!」と叱責した。直家のこれまでの経緯を鑑みれば確かに一概には信用出来ないのは分かるが、それにしても厳しい態度ではある。癇癪持ちの信長なので余程虫の居所が悪かったのか、自らへ何の相談もなく独断で進めたのを怒ったのか。秀吉にとっては予想外の反応に違いなかった。

 それでも、秀吉は自らの行動が誤りではなかったと確信していた。(むし)ろ、そう思いたかった。

 この時期の秀吉は、かなり苦しい立場に置かれていた。美濃攻略の頃から秀吉の立身出世を支えてきた知恵袋の竹中“半兵衛”重治が六月二十二日に死去。昨年には同じく軍師として支えてきた小寺(黒田)孝高が有岡城へ説得に向かったきり行方知らずとなっており(実際は囚われて地下牢に監禁)、頼りにしていた軍師二人が不在という状況に陥っていた。武家出身ではないので知恵者(ちえじゃ)の進言を恥も(てら)いもなくそのまま取り入れてきた事で成功を遂げてきた秀吉にとって、ここは正念場と言えた。

 九月十日。別所勢とそれに同調する小寺勢などが共同で三木城への兵糧搬入を試みた。この奇襲作戦で羽柴方は守将の一人・谷衛好(もりよし)が討死するが、兵糧の搬入は阻止した上で勝利を収めた。この戦で別所勢は少なくない数の将兵を失い、状況はさらに悪化した。

 開戦から一年半以上が経過した三木合戦も、ようやく明るい兆しが見え始めてきた。


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