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五 : 青葉 - (15) 信康の疑義

 天正七年七月も二十日を過ぎた頃。岐阜城で政務に取り組んでいた信忠の元に、新左が険しい表情で近付いてきた。

「若、お耳に入れたい事があるのですが……」

 そう切り出した新左だが、用件はすぐに言わない。あまり他人に聞かれたくない話だと察した信忠は人払いをする。

 二人きりになったのを確かめてから、新左は声を落として伝えてきた。

「安土に居る朋輩(ほうばい)から秘かに伝えられたのですが……上様が徳川家の酒井殿に『婿殿は徳川家を継ぐに相応しくない。即刻腹を召すよう三河殿へ伝えよ』と申し渡した、と」

「……何だと?」

 新左の言葉に、信忠は一瞬聞き間違えたのかと困惑した。しかし、暗い顔をしている新左の様子を目の当たりにして、事実だと悟った。

 父がどうして唐突に婿である徳川信康に切腹するよう命じたのか。相手は盟友・徳川家康の嫡男、同じ家中の者に言うのとは訳が違うのだ。気難しく(げき)しやすい父ではあるが、一時(いっとき)の怒りで口を()いて出た発言とも思えない。

「……その話、もう少し詳しく聞かせてくれないか」

「はっ。されば……」

 信忠から訊ねられた新左は、現状分かっている内容について話し始める。

 去る七月十六日、酒井忠次は家康から信長に贈る駿馬(しゅんめ)を連れて安土を訪れた。忠次は徳川家の筆頭家老、信長自ら応対し酒を出すなど(ねぎら)った。

 暫く雑談して場が盛り上がった頃合を見計らい、信長の方から不意に手紙を取り出した。

『これは我が娘・五徳から届いた手紙なのだが……』

 そう述べたのを皮切りに、信長は五徳から訴えられた内容を忠次に一つずつ確認を始めた。

 (いわ)く、『鷹狩りに行く途中に(会うと獲物が少なくなると言われていた)僧と出会い、腹を立てた信康が僧の首に縄を巻いて絞め殺した』、『領内の盆踊りの席で、踊りが下手な者や貧相な服装の者を信康が弓で射殺した』、『義母の築山殿が最近“減敬(げんきょう)”なる唐人の医師を特に気に入って招いているが、実は武田家の浪人で勝頼と通じている』、さらには『築山殿と信康は秘かに武田家へ通じている』……その数、十二箇条にも及んだ。

 この展開に、忠次はただただ困惑した。信長がどうしてこういう話をしてきたか狙いも読めなかったし、信長が指摘した中には荒唐無稽(こうとうむけい)な内容も含まれていたので、真偽定かでない事を安易に態度を明確にすべきではないと忠次は慎重になった。

 だが、この場で明確に否定しなかったのは忠次の悪手(あくしゅ)だった。否とも応とも示さない曖昧な態度を肯定と解釈した信長は、その場で「婿殿は徳川家を継ぐに相応しくない。即刻腹を召すよう三河殿に申し伝えよ」と一方的に言い渡し、驚愕する忠次を捨て置いて席を立った……それが新左の聞いた話だという。

 新左の話を聞いてもなお、信忠は“解せない”という面持ちで腕を組む。

「この話、どう思う」

 話を振られた新左は、困った顔をして控え目に答える。

「徳川家の内々(うちうち)のことは分かりませんが……血気盛んな若者が荒っぽい振る舞いを見せるのは珍しい事ではありませんので、何とも……」

 言葉を濁す新左。その態度で信忠も何となく察した。

 武家の者で直情型な性格の人は、怒ったり酒が入ったりして気が昂ると荒っぽい行動に出る事が間々(まま)ある。物を壊したり人を傷つけたり……ただ、年齢を重ねていく内に分別(ふんべつ)を覚えてそうした行動は収まるものだ。織田家中の者で言えば“(かぶ)き者”で知られた前田利家もそうだし、かく言う父・信長もそうだ。自らと重なる部分も多々あるのだがら、(いさ)めるくらいで多めに見るべきなのだろうが……。

 ふと、信忠は四年前に信康と酒を酌み交わした時のことを思い出す。

 面と向かって『父に不満はないか』と訊ねられ、戸惑う信忠を尻目に『儂は、ある』と断言した信康。才気溢れる人物とはこういう人だな、と信忠は痛感させられた。天から()された才を持つ信康に、複雑な思いを抱いたのは今でも覚えている。

 そこまで考え、信忠は汲んでいた腕を解くと意を決したように新左へ告げた。

「――明日、安土へ行く。上様へ会う手筈を整えてくれ」

 強い決意を感じ取った新左は「畏まりました」と(こうべ)を垂れる。新左に任せておけば、きっと何とかしてくれるだろう。

 天下人である父の決定に意義を挟むことを慎んできた信忠だが、今回は例外だ。父がどういう経緯でそういう判断に至ったか分からないが、盟友の嫡男に切腹を一方的に命令するなど内政干渉も過ぎるし、徳川家が敵に回ろうものなら信忠が管轄する尾張・美濃の統治に大きな影響が及ぶ。出来るものなら考え直してほしかった。

 父は何を考えているのか。常からそう感じている信忠だが、今回はいつも以上に理解が出来なかった。


 この当時、徳川家の内部は微妙な波風が立っていた。

 永禄七年に家中を二分させた三河一向一揆を鎮圧させた家康は、西三河の旗頭に石川数正・東三河の旗頭に酒井忠次を任じ、家臣達や国人達を統制した。元亀元年に家康が居城を浜松城へ移すと忠次もそれに従い、数正は信康の後見として三河に留まった。この結果、“遠江は忠次”“三河は数正”の線引きが出来た。やがて年月が経つにつれて“岡崎派”“浜松派”の閥が生まれ、互いに快く思わない者が出てくるようになった。尤も、家康は家中の分断を望んでおらず、勇猛果敢(ゆうもうかかん)で義理堅いながらも寡黙で口下手な者が多い三河武士には珍しく弁が立ち交渉事も上手な石川数正を織田家との折衝役として三河に留め置いただけなのだが……。

 男達にも色分けがあるように、女達にも色分けが生じていた。しかも、こちらの方がより深刻だ。

 家康の正室・瀬名姫(通称“築山殿”)は母が今川義元の妹、さらに家康へ嫁ぐに当たり義元の養女となった経緯があり、今川色の濃い人物だった。その血縁の近さから今川家に臣従していた頃は当主の家康も頭が上がらない存在だったが、桶狭間で義元が討たれたのを境に扱いがガラリと変わる。家康が独立に向けた行動を(あら)わにすると、駿府で暮らしていた瀬名は二人の子と共に人質同然の扱いを受けた。後に人質交換という形で徳川家へ引き渡されたが、瀬名は岡崎城ではなく郊外の屋敷に暮らすようになった。元々気が強かった瀬名と性格的に合わなかった家康が遠ざけた為とされるが、実際のところは分からない。この頃から“築山殿”と呼ばれるようになる。

 元亀元年に信康が岡崎城主になると築山殿も城へ移ったが……そこで新たな火種が生まれる。織田家から輿入れしてきた信長の長女・五徳とその女中達だ。築山殿から見れば今川家凋落(ちょうらく)の元凶となった信長は(かたき)同然、その娘と仲良くなろうとは思わない。自然、岡崎城の奥は築山殿に近い“駿河閥”と五徳に近い“尾張閥”に分かれ、互いにある事ない事を言い散らすなど険悪な雰囲気に包まれていた。

 五徳は天正四年三月に長女・登久(とく)姫を、翌天正五年七月には次女・熊姫を産んだが、嫡男を産まない五徳に日頃から不満を抱いていた築山殿は『あ奴は女腹(おんなばら)だ』と断じて信康に側室を持つよう強く勧め、実際に築山殿から側室を()てがった。その事を快く思わない五徳は張本人の築山殿は勿論のこと、それを受け入れた信康とも一時的に不仲となった。

 嫁姑問題が発生している状況を知りながら、信康は放置していた。女同士のドロドロした争いを解決に導く糸口も見つからなかったし、(わずら)わしい事に首を突っ込みたくなかった。そして、遠く離れた浜松に居る家康はこの事態を知る(よし)もなかった。このツケが巡り巡って徳川家を大きく揺るがす事態を招く事になるのだが、この時の信忠はまだ知らない。


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