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五 : 青葉 - (13) 無垢な気持ちでいられたら

 その日の夜。自室で一人になった信忠は、文机の上に置かれた手紙を前に腕組みをしていた。

 快川を通じて受け取った、松姫からの手紙。この手紙を読みたいけれど、読むのが怖いと思う自分も居る。無垢(むく)な気持ちでやりとりしていた以前とは異なる。泣き落としのような文面が記されていたら、自分は冷静な判断が出来るだろうか。鬼が出るか(じゃ)が出るか、開くのすら覚悟が必要だ。

 しかし、読まない事には始まらない。いつまでも先延ばしにしておく訳にもいかず、一つ息を吐いてから信忠は意を決して手紙を開く。

『拝啓、長らくの無沙汰申し訳ありません。いかがお過ごしでしょうか?――』

 細い筆で、丁寧な文字が連ねられている。以前は勢いやたどたどしさが文字に表れていたが、今は感じられない。それが少し懐かしく、少し寂しい。

『私は風邪を引くことはありましたが、大病(たいびょう)(わずら)うことはなく健やかに過ごしております。今は躑躅ヶ崎館ではなく、兄が守る高遠城下で暮らしています。――』

 武田家の家督は異母兄の勝頼が継ぎ、躑躅ヶ崎館も勝頼が(あるじ)となった。血の繋がってない松姫は勝頼と疎遠なのもあり、同じ母を持つ兄・仁科(にしな)盛信(もりのぶ)が居る信濃国高遠に移っていた。以来、(まつりごと)とは関わりを持たずひっそりと暮らしていたらしい。

 甲府を離れたのは松姫にとって良かったかも知れないと、信忠は思った。躑躅ヶ崎館に居れば、嫌でも織田方の動向が耳に入ってくる。武田方の人間ながら信忠に想いを寄せる松姫にとって、さぞ胸を痛めたに違いない。

『御屋形様が織田家と同盟を結ぶ意向があると伺い、居ても立っても居られず筆を取りました。やっと約束が果たされると胸が躍る一方、同盟が敗れた経緯を思えば心苦しくも思います。私が言うのもお門違いかも知れませんが、何卒お聞き届け頂けないでしょうか?』

 信忠と会える喜びと御家の事情で板挟みに遭っている松姫の気持ちが、文字に表れている。相手の立場を思い、信忠も胸が痛む。

 武田勝頼が断絶していた関係の修復しようとしているのは、東の北条家との関係が悪化したから。何故そうなったかと言えば越後・上杉家の家督争いで北条家が推す景虎ではなく敵対する景勝に肩入れしたから。元を正せば越後出兵は北条家の要請があったからだが、事前の取り決め通りに動けば武田家は北信濃で幾許(いくばく)かの領地を得るだけで、北条家が景虎を介して上杉家を事実上乗っ取るのと比べれば益は少ない。それを考えれば景勝の東上野割譲と相当量の金を渡すという提案は、短絡的に成果を求めていた勝頼には絶好の条件だった。上杉家は越後の鳴海金山から産出される金や青苧座(あおそざ)から上がる運上金などもあり他家と比べて財政面でゆとりがあり、多少の出費に耐えられるだけの財政基盤があったのだ。では、北条家と仲違(なかたが)いする恐れがあっても破格な条件を呑んだのはどうしてか? それは――設楽原で大敗して“戦国最強”の威信に傷を付けた勝頼が、名誉挽回と家中の求心力維持の為に是が非でも目に見える結果が欲しかったからだ。全ては設楽原の敗戦から(根本(こんぽん)には勝頼と信玄の代から武田家を支えてきた功臣の間に生じていた溝もあるが)起因していると言っても過言ではなかった。

 松姫が苦しい思いをしているのは、間接的に信忠も関与していた。しかし、信忠も負ける訳にも避ける訳にもいかなかった。積極的な外征を繰り返してきた勝頼が奥三河へ侵攻してきたのは織田家にとっても許容されるものではなかった。元亀三年の西上の折には武田家の別動隊が奥三河を侵攻した後に別の部隊が美濃へ攻め込んできている。美濃へ来なくても勝頼は三河、そして尾張へと手を伸ばすだろう。信玄以来の将兵をまだ多く抱える状況で勝頼率いる武田勢を勢いづかせるのは、何としても阻止したかった。あの時負けていたら、今の立場は逆転していたかも知れない。

 もう当人同士しか覚えてない約束を忘れるどころか、松姫は縁談が復活したと喜んでいる。その気持ちを信忠も嬉しく思うが、同時に胸を締め付けられる。

(……残念だ。松姫の申し出を素直に受け止められたら、どんなに幸せだったことか)

 十歳と七歳の童同士なら、こんなに苦しむ事は無かっただろう。歳を重ね、分別を覚えてしまい、自分の立場も相手の立場も理解出来るようになってしまった。信忠は重い溜め息を吐いた。

 ふと、まだ文は続いていた。信忠はさらに目で追う。

『以前、中将様から贈られた(くし)は今でも大切に使っております。時々、巻貝を耳に当てて波の音を想像しています。いつか、中将様と本物の海に行きとうございます。その日が来るのを、心より願っております』

 この一文だけ、他の箇所と比べて文体が柔らかいように信忠の目には映った。

 巻貝は初めて手紙を送った時に、海の無い甲斐で暮らす松姫に海を感じてもらおうと贈ったもの。櫛は堺へ見聞を広めに行って岐阜へ帰る直前、松姫へお土産に買ったもの。どちらも松姫を想って贈ったものだが、今でも使っていると明かしてくれたのは率直に言って嬉しい。信忠自身も松姫から贈られた諏訪大社の御守を肌身離さず持ち歩いているし、櫛の返礼で頂いた“三日月栗”は年老いて引退したもののその血を受け継ぐ二代目は信忠の愛馬となっている。婚約は破談になったが松姫を感じさせるものは信忠の側にあった。

 体調を気遣う一文が末尾に記され、手紙は終わった。全てを読み終えた信忠は、静かに手紙を畳んだ。

 分かっていた事だが、気持ちはとても重たかった。松姫の想いは嬉しいけれど、信忠は応えたくても応えられない立場になっていた。十二年余りの歳月を経て織田家の当主となり、武田方面の担当指揮官に任じられていた。奇妙丸と名乗っていた頃のように、初心(うぶ)な気持ちでいられたらどんなに楽だった事か。

(……そうか、抱え込まずに打ち明けてみるか)

 ふと、信忠は一人の人物が脳裏に浮かんだ。あの人物なら自分の苦しい胸の内を明かしても問題はない。家中の者に言いふらす心配もなく、信忠の立場もきっと理解してくれる。

 明日にでも誘ってみるか。少しだけ光明(こうみょう)を見出したような気分で、寝る支度に入った。


 翌日の昼過ぎ。岐阜城の奥座敷で、信忠はある人物が来るのを待っていた。

 (ふすま)は開け放たれ、庭が一望出来る。先代城主の父が趣向を凝らした庭は、手入れを怠らず昔と変わらない状態を保っていた。

 茶坊主が淹れてくれた茶を飲みながら、庭を眺める。風を感じ、鳥の声に耳を傾けるなんて、いつ以来だろうか。城に居ても政務に追われるばかりで、こうしてのんびり過ごす事はなかった。元服前も稽古だ勉学だ書見だと、慌ただしかった記憶しかない。

「お越しになられました」

 伝兵衛から声を掛けられ、信忠は「うむ」と応じる。衣擦れの音が近付いてきて、信忠の側で止まる。

「お呼びということで、参りました」

「今日は其方(そなた)と話がしたいと思ってな」

 信忠が率直に打ち明けると、その人は「まぁ」と驚きの声を上げる。

「一体どういう風の吹き回しですか? 珍しい」

「……まぁ、立ち話もアレですから座りませんか? ――鈴」

 名を呼ばれた鈴は、穏やかな笑みを見せながら腰を下ろす。とりあえず嫌がっている様子はないのでホッとする信忠。

 何か飲むかと訊ねた信忠に、鈴は白湯が欲しいと答えた。茶坊主が白湯を持って来てから、信忠はゆったりと話し掛けた。

「実は、鈴に打ち明けたい事がある」

 そう切り出した信忠は、伝兵衛にチラリと目配せする。合図を受けて下がっていくのを見た鈴は、控えている女中に声を掛ける。

「殿と、二人きりで話がしたい。席を外してくれるか」

 鈴に促され、女中は下がっていく。これで部屋には信忠と鈴の二人きりだ。

 初めて会った時から思っていたが、鈴は気が利くというか賢い。信忠が人払いをしたのを受けて何かを感じ取ってくれたのは正直ありがたかった。一々説明する手間が(はぶ)けるし、スッと本題に入れる。

「……さて。殿のお話とは何ですか?」

 口元に笑みを浮かべながら、訊ねる鈴。必要以上に身構えられたら話し辛かったが、自然体で接してくれて気持ちが少し軽くなった。

 茶を一口啜った信忠は、呼吸を整えてから告げる。

「私には、想い人が居る」

 常と変わらない口調で、端的に切り出せた。対する鈴に、特段の変化は見られない。

 ずっと胸に秘めていた想いを口にした信忠は、それから(せき)を切ったように語り始めた。

 相手は甲斐の名門・武田家の松姫であること、十三年前に政略結婚で決まったが相手の年齢もあり実現しなかったこと、互いの気持ちを近付ける為に文通を(おこな)っていたこと、元亀三年に武田家の軍事行動で婚約は事実上破棄されたこと、敵対関係になったけれど松姫への想いは心の片隅にずっとあったこと、そして……此度の武田家から持ち掛けられた婚約実現の意向があること。

 信忠はゆっくりながら一気に話し通した。それを鈴は途中頷きながら黙って聞いていた。

 暫く、沈黙の時が流れる。語り終えた信忠はフーッと息を吐いた。肩に乗っていた重石が取れたような気分だったが、秘めたる想いを受けた鈴の反応が信忠は気になった。鈴にしてみれば信忠が松姫に対してどう想っているかは関係ないし、仮に嫁いでくれば閨房(けいぼう)争いが発生する可能性があり塩川家の影響力を高めたい鈴からすれば迷惑以外の何物でもない。

「……殿は、どうしたいとお考えなのですか?」

 (やや)あって、鈴が(おもむろ)に訊ねてきた。既に答えは決まっていた信忠が返す。

「私個人の考えは、受けたい。会った事もない相手だが、破談になっても想っていてくれた松姫の気持ちに応えたい。しかし……」

 そこで言葉を区切った信忠は、苦しい胸の内を表すように苦悶の表情を見せる。

「……私には、織田家当主の立場がある。婚約を実現させた場合、武田家に誤った心象を与えかねない。それに、松姫が輿入れしてきても、この先に辛い思いをさせる事を考えたら、結ばれたからと言って幸せになるとは思えない。そうなるくらいならば、最初からしない方がいい」

 父の方針は一貫して変わっていない。“武田家の力が弱まるのを待ち、刻が来れば滅ぼす”、その前提で家中は動いている。“天下布武”を掲げる織田家は敵対する勢力は取り込むのではなく滅ぼしてきた。日ノ本を織田の色で統一しようとしているのだ。国人規模なら臣従すれば認めているが、大名は別だ。生かしておけば将来の禍根になりかねず、滅ぼして空白となった大領は功のあった家臣へ与える褒美の原資となる。武田家には御家存亡の危機まで迫られた経緯があり、恨み辛みも上乗せされる。あの父が今更になって手打ちにするとは思えない。

 これは信忠の推測となるが……松姫の輿入れ自体は信忠の一存で決められると思う。武田の姫御一人が嫁いできたからと言って大勢(たいせい)に影響を及ぼす訳ではないからだ。父からしてみれば“どっちでもいい”のである。(むし)ろ“織田家は融和を望んでいる”と勘違いさせた方が都合いい、と考えているかも知れない。時機が来れば兵を起こすのは分かっており、そうなれば松姫は再び板挟みに遭う。幸せになれない未来が見えるなら、互いに傷つかない選択を選びたかった。

「やっぱり、殿はお優しいですね」

 ポツリと漏らす鈴。その声色は、思っていたより柔らかい。

「世の殿方は、女子(おなご)の気持ちなど一切斟酌(しんしゃく)しない者も多い中で、殿は男であろうと女であろうと相手の気持ちに立って下さります。一時的に幸せでも長い目で見たら傷つくと分かれば、自らの心が痛むのを厭わず厳しい道を選ばれる。そうした方に想われる松姫様は、本当に羨ましいです」

「……だが、私は私情より立場を優先したのだぞ、薄情と(そし)られてもおかしくない」

 形はどうであれ、武田家から持ち掛けられた縁談を織田家が断った事に変わりない。非難されて当然だ。

 それでも鈴は「いいえ」と首を振る。

「松姫様も、きっと殿の難しい心内(こころうち)を理解されておられるに違いありません。(した)っても叶わないと分かっていながら、自らが泥を(かぶ)ろうとされる殿のお気持ちが、嬉しいのです」

 真っ直ぐな目で語る鈴に、信忠は頬を掻く。

 すると、鈴は畳に手を付いた。突然の事に戸惑う信忠。

「……いかがした?」

「誰にも明かせない話を私に打ち明けて下さり、ありがとうございます。私でよければいつでも聞きますので、また頼って下さりませ」

 そう言って頭を下げる鈴。何の関わりもない話を一方的に聞かされて迷惑に感じているだろうなと思っていた信忠は、鈴の口から出た感謝の言葉は想定外だった。

 頼って下さい……か。確かに、その通りかも知れない。元来真面目な性格の信忠は全て自分で抱え込む傾向があった。(まつりごと)では周りの者に意見を求める事はあっても、私事(わたくしごと)では気軽に相談出来る相手が居なかった。けれど、今回の事をキッカケに話してもいいと思える人物を見つけた。これからは、もっと鈴と話をしよう。信忠は心の底からそう思った。


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