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五 : 青葉 - (10) 鈴

 有岡城攻めは自分が出るまでもないと判断した信長は、京と安土を行き来しつつ鷹狩りを楽しみながら過ごした。三月四日、信忠・信意・信孝の三兄弟が揃って上洛すると、翌五日に摂津へ向けて出陣。七日には古池田に着陣した。この時、北陸から援軍として駆け付けた前田利家・佐々成政・原政茂(後の長頼)・金森長近も同行している。信長は古池田に留まる一方、信忠は四月中旬に軍勢を率いて播磨へ向かい、別所勢と同じく造反した小寺政職の御着城を攻め、放火している。

 その後も播磨で示威行動を(おこな)ってから四月二十九日に信長の居る古池田へ戻り戦況を報告すると、その場で帰国の許しが出た。少ない手勢を連れて帰国の途についた信忠はその日の夜は京・東福寺に泊まり、翌三十日には岐阜へ帰った。


 長期間に渡る外征から帰ってきた信忠は、城内がいつもと何か違うような気がした。出迎えの人数が、やや多い。それに、信忠が留守の間に溜まった仕事を先に片付けようと城へ向かおうとしたら留守居が「まぁまぁ、まずは体を休めてはいかがでしょうか?」と屋敷へ行くよう(しき)りに促してくる。……何か、様子がおかしい。

 皆に勧められるまま屋敷に向かった信忠は――玄関に華やかな着物を着た女性が立っており、その後ろには複数人の女中が控えている。女中の何人かは元々働いていた者で見覚えがあるが、他は知らない。

「お帰りなさいませ」

 一番前に立つ女性が信忠に頭を下げる。続けて、後ろに控える女中達もそれに倣う。こうした出迎えを受けるのは初めてだ。

 女性が、顔を上げる。凛とした顔つきに涼やかな目が印象に残った。

「――お初にお目に掛かります。塩川“伯耆守”が娘、鈴にございます」

 やや低めの深みのある声で自己紹介をする。

 この女性が父の言っていた“塩川の娘”か。信忠はやっとこの女性がどうして此処(ここ)に居るか合点がいった。そして、他の者達が頻りに屋敷へ行くように勧めてきた理由も。

 鈴(一説には“寿々(すず)”とも)。彼女の生年やどういった人物かを示す史料は残されていない。彼女が信忠に嫁いだ事を証明する唯一の史料が、『(ぞく)群書類従(ぐんしょるいじゅう)』だ。

 様々な家系を記した『続群書類従』第六(しゅう)上巻に載っている“織田系図”で、信忠の項に『(めとる)塩川伯耆守(摂州多田城主)女』と書かれている。信忠の女性関係で記録があるのはこの一人だけだ。その前に作られた『群書類従』は(はなわ)保己一(ほきいち)編纂(へんさん)した史料で、後世に多大な貢献を残している。その続編として制作された『続群書類従』も信頼度の高い史料だった。

 本音を言えば、今の今まで鈴が嫁いできた事を信忠は失念していた。ただ、信忠の側にも理由がある。婚姻自体は父の独断で決まり(信忠の意思は全く聞いていない)、祝言(しゅうげん)も挙げておらず(婚姻が決まってから信忠はずっと摂津に駐留していた為)、実感の湧き(よう)がないのだ。

「……“勘九郎”信忠だ」

 状況を把握した信忠が改めて名乗る。鈴と目が合ったが、どういう顔をすればいいか分からなかった。

 すると、鈴はにこやかな笑みを浮かべながら言った。

「ささ、殿も長らくの戦でお疲れのことでしょう。湯浴みの支度も整っておりますので、中にどうぞ」

 まるで自分の屋敷のように振る舞う鈴の姿に、信忠は違和感しか抱かなかった。それでも、周りの女中達は意に介さずてきぱきと動いており、皆は既に受け入れている。信忠が不在の間に鈴は奥の人々へ指図するまでに浸透していたみたいだ。

 何だか他人の家へ入るような居心地の悪さを覚えながら、信忠は屋敷の中へ入っていった。


 想定外の事態はあったものの、出迎えの時を除けば信忠はいつもと変わらない生活だった。

 鈴は奥向きの事を取り仕切っているようだが、信忠の生活に変化は見られない。食事も、余暇も、鈴が顔を見せる事は無かった。これなら別に構わないなと思っていた矢先……信忠が眠りに就こうと寝室へ入った時、決定的な違いに直面した。

 自分の布団の隣に、もう一つ布団が敷いてあった。そして、見慣れぬ布団の上には鈴が座っている。

「……如何(いかが)した?」

 とても驚いた信忠が訊ねると、鈴は畏まった表情で布団をポンポンと叩きながら平然と答える。

「決まっています。お世継ぎを作る為にございます」

 さも当然とばかりに言い切る鈴。ただ、信忠の方はそう思っていなかった。

 今日初めて会った鈴という女性がどういう女性か全く知らないし、心の距離も全然縮まっていない。そんな状態でそうした行為を行うのは“違う”と信忠は考えていた。

 いつまでも立っている訳にもいかず、信忠は自分の布団の前に腰を下ろす。しかし、座っただけで話し掛けるでもなく、室内に静寂の時が流れる。

「殿は、こうした経験は無いのですか?」

 沈黙を破ったのは、鈴の方だった。単刀直入に聞いてくる。

「いや、無い訳ではないのだが……」

 訊ねられた信忠はたじたじになりながらも素直に答える。鈴とは今日会った時から防戦一方だ。

 世の女性とは、こんなにも性に明け透けなものなのか。前のめりに迫る鈴の態度に、信忠はただただ困惑していた。

 これは聞いていいか(はばか)られたが、信忠は思い切ってぶつけてみた。

「……鈴は、今日初めて会った男とこうした事をするのが怖いと思わないのか?」

 信忠の問いに、鈴の眉がピクッと動く。ただ、それも一瞬の事で、鈴は落ち着いた口調で答える。

「怖くない、と言えば嘘になります。されど……私には使命があるのです」

 鈴の口から出た“使命”の二文字に、信忠は内心引っ掛かる。それに気付いていない様子の鈴はさらに続ける。

「私の実家・塩川家は古くは藤原家の血筋を持つ由緒ある家ですが、戦国乱世では現状を保つだけで精一杯。数ある国人の一つに過ぎません。そんな中、今や飛ぶ鳥を落とす勢いにある織田家へ私が嫁ぐという、またとない機会を得ました。塩川家がこの先陽の目を見るか見ないかは、全て私に懸かっているのです。怖いとか嫌とか言ってられません」

 藤原仲義が摂津国塩川荘に土着したのが塩川家の始まりとされるが、歴代でその名を広く轟かせる優れた者をまだ輩出していない。周辺の国人達と小競り合いを繰り返し、領地に多少の変動はありながらも細々と勢力を維持してきたと言っていいだろう。長満も最初は三好方に属していたが信長が上洛して畿内を席巻する勢いにあると織田方になり、その後義昭方になったがその義昭が追放されると再び織田方に復帰するなど、仕える先を幾度も変えている。戦国乱世の荒波に呑まれて御家が潰えないようにするだけが精一杯というのが中小国人の悲しい(さが)とも言える。

 日本でも指折りの勢力となった織田家と取るに足らない国人の塩川家では、家の“格”に天地の開きがあった。本来であれば見向きもされないのだが、荒木村重の造反で地政学的に重要となった地を治めていた偶然もあって今回の婚約が実現した。しかも、相手は次の天下人と(もく)されている嫡男の信忠。もし世継ぎを生むような事があれば、長満はその祖父となり塩川家は織田家一門かそれに近い扱いを受けられる。全てが上手く運べばもしかしたら摂津一国を任されるかも知れない。これまでの境遇を思えば、夢のような話だ。(まさ)しく、鈴は御家の未来を背負(しょ)っていた。

 どうして鈴が前のめりに夜伽をしたいか、理由は分かった。しかし――。

「鈴」

「はい」

 信忠の呼び掛けに、顔を真っ直ぐ上げて応じる鈴。その瞳には、強い覚悟が宿っていた。

 その視線を受けながら、信忠ははっきりと告げる。

「私は、寝る。鈴も自分の部屋に戻って休んでくれ」

 その言葉を聞いた鈴は、目を大きく見開いた。(やや)あって、絞り出すような声で訊ねた。

「……どうして、ですか?」

 抱かれる覚悟は出来ていたのに、袖にされた。有り得ない事態に鈴は怒りとも戸惑いとも取れる声で訊ねずにいられなかった。

「言っておくが、見た目が気に入らないとか私が不具な訳ではないぞ」

 色々と邪推されそうだったので、機先を制するように信忠は伝える。“据え膳食わぬは男の恥”の例えがあるように、女性から誘ってきたら応じるのが自然だ。それでも応じない場合、考えられる理由は二つ。女性の容姿や性格が受け付けないか、男性側に問題があるか。具体的に挙げるならば、男の機能が役に立たないか、性的対象が女性ではないか。現代社会と比べて衆道(しゅどう)が広く浸透していたこの時代では、同姓しか受け入れられない男性も少ないが存在した。しかし、信忠は(いず)れでもないと断言した。

 それでも信忠が鈴の誘いを断ったのは、もっと根本的なところにあった。

「私は、鈴の事をよく知らない。今日初めて会ったばかりの女子に、そうした事をしようとは思わない」

 正直な気持ちを打ち明ける信忠。それに対して、鈴は言葉が出なかった。

 鈴の話を聞いていたが、こちら側の気持ちや思いは一切考慮されていなかった。塩川家の為、御家の為に抱かれに来ているとしか思えない。鈴が欲しているのは“将来の織田家の跡取り”であって“信忠の子”ではない。自分が置き去りにされているような気分で、前向きに受け入れようという気になれなかった。

 それに……信忠が思い描いていた夫婦像は、父と義母のような仲睦まじい間柄だった。互いに相手を思いやり、気持ちと気持ちで繋がる関係。それが理想であり、信忠もそうありたいと思っていた。しかし、鈴は“子を産むのが全て”と言わんばかりに迫ってくる。理想と現実の乖離(かいり)に、信忠はただただ困惑していた。

「……分かりました」

 暫く固まっていた鈴はそう言い残すと、寝室から下がっていった。一人になった信忠は複雑な思いを抱えながら、自分の布団の中に潜り込んだ。


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