五 : 青葉 - (8) 寝耳に水
着陣の報告をする為に父の陣を訪れた信忠。やや待って、近習の蘭丸を連れて父が現れた。
「ご苦労である」
上座に据えられた床几に腰を落とした父が、信忠に声を掛ける。平伏する信忠は僅かに頭を下げる。
それから型通りの着陣挨拶を述べる信忠。いつもならば「励め」と父から締めの言葉が出てお開きになるのだが……。
「中将」
突然、父から呼ばれる。普段と違う流れだが、呼ばれた以上は「はっ」と応じなければならない。
何を言われるか全く見当がつかず待つしかない信忠に、父の口から飛び出したのは驚愕の内容だった。
「お前、塩川のトコの娘を貰え」
「……はい?」
父が発した内容が一瞬理解出来ず、素っ頓狂な返事と共に信忠は反射的に顔を上げる。
言葉数が少ないのはいつもの事だが、今回ばかりは訳が分からない。塩川とは何処の塩川なのか、娘を貰えとは嫁にしろという事か、自分には松姫と婚約しているしどういう扱いになるか、娘と言ったが相手は幾つなのだ……父に聞きたい事は山程あるが、まずどれから聞けばいいか順番も分からない。信忠の頭の中は正に混乱の極みにあった。
困惑する信忠の様子を察した蘭丸が「上様」とさり気なく促す。それで自らの言葉足らずに気付いた父は、咳払いを一つしてから徐に話し始めた。
「塩川“伯耆守”は存じておるな」
「はい」
塩川“伯耆守(正式な任官ではなく武家官位)”長満。天文七年(一五三八年)生まれの四十一歳。摂津国人・塩川国満の子に生まれ、始めの内は畿内で勢力を伸ばしていた三好家に従っていたが、永禄十一年に信長が上洛してくると織田家へ鞍替え。その後は足利義昭方に属していたが、元亀四年七月に義昭が京から追放されると再び織田家に復帰した。荒木村重が摂津国を任されると、長満も与力として付けられた。
ここまで長満の経歴を紹介してきたが、はっきり言えば有力国人ではない。石高も約二万石と高山重友とほぼ変わらない。それにも関わらず、織田家嫡男の輿入れという破格の条件で自陣営へ引っ張り込みたいのは何故か? その答えは、長満が治める土地が深く関係していた。
長満の居城・山下城は摂津国の北西部に位置し、領有する川辺郡は播磨との国境も近かった。播磨は現在羽柴勢が駐留しているが、摂津を治めていた荒木村重が造反した事で播磨の羽柴勢と畿内の織田勢が分断される恐れが出てきた。播磨で孤立した羽柴勢が撤退するような事があれば中国攻めは大きな後退を余儀なくされ、天下布武実現が遠のいてしまう。そうした事態を避ける為にも、この地域を治める長満を是が非でも味方にしたい思惑があったのだ。
どちらから提案したのか定かでないが、将来の天下人最有力候補の信忠に摂津の国人の家の娘が嫁ぐというのは、明らかに釣り合いが取れていなかった。
「お前もそろそろいい歳だ。側女の一人や二人居てもおかしくない。正室にするか側女にするか、形だけかは任せる」
信忠も現在二十二歳。元服が遅かったとは言え、父が指摘するように側室の一人や二人居ても不思議でない。流石に筆おろしは済ませていたが、女性を抱きたい! という欲求が昂る事は全く無かった。そうした欲求が淡泊というよりかは、織田家当主として日々の政務に忙殺されてそうした気が起きない、と表現した方が正しいか。
その点、父は対照的だった。尾張時代から正室の濃姫だけでなく側室の吉乃や坂氏(信孝の母)、さらに安土に移ってからも於鍋の方など十人以上の側室を抱えていた。ただ、この人数は信長の子を宿したり織田家へ入った数であり、悶々とした昂りを抑える為に衝動的に手を付けた者はこの中に含まれていない。
武家の者が多くの女性と関係を持つのは、単に性欲を発散する為ではない。子を増やして勢力の維持・拡大を図る為だ。
先祖代々受け継いできた土地を次世代に繋げるべく、跡取りとなる男子は絶対に必要だ。ただ、生まれた男子が成人するまで育つか分からず、戦で命を落とすかも知れない。不測の事態に備えて二人目三人目の男子を生んでおいて損はない。無事に長男が育っても、弟達は嫡男を支える家臣にすればいい。血の繋がりの濃さこそ信頼の証だからだ。もしも女子が生まれたとしても、婚姻で他家や家臣との結び付きを強める駒にする。武家にとって、子は産んでおくに限るのだ。
二十二歳になっても跡継ぎどころか側女すら持たない信忠は、当時の武家としてはかなり異例だった。本来なら由緒ある家から嫁を貰うべきなのだろうが、武田家との関係がまだ良好だった頃に松姫との婚約が決まり、元亀三年に事実上破綻したが取り決め自体はまだ有効だったので正室を迎え入れるのは難しい。加えて、織田家が急速に勢力を拡大させた為に釣り合いが取れる大名家が無くなってしまったのだ。武家以外の候補となると天皇家や公卿の娘もあるが、父はこうした家から嫁を貰う考えは無いようだ。父としても、今回塩川家から娘を信忠へ輿入れさせるのは満更でもないと捉えたのかも知れない。
父の方も唐突に決まった輿入れに配慮しているらしく、“正室にするか側女にするか、形だけかは任せる”と信忠に扱いを委ねる姿勢だ。大名家の婚姻でも性格や相性が合わなければ仮面夫婦を演じている例も珍しくない。そうした場合、男性側は正室ではなく側女に逃げるのだ。織田家と同盟を結んでいる徳川家でも、家康と正室・築山殿の夫婦仲は冷え切っており、築山殿は家康の居る浜松城ではなく息子の信康が居る岡崎で暮らしている。
「……まぁ、そういう事だ。娘は先に岐阜へ送らせておくから、帰って考えるがいい」
そう言うと、父は立ち上がって下がっていった。一人取り残された信忠は、ただただ呆然としていた。
いきなり、嫁が出来てしまった。……はっきり言って、どうすれば良いか皆目見当がつかない。不幸中の幸いは、帰国するまで猶予があることだ。ゆっくり時間をかけて考えるしかあるまい。
また一つ難題が浮上したが、今更「解消して!」とも言えない。なるようになる、そう考えるしかなかった。
織田方の切り崩し工作が実り、荒木方の城は有岡・尼崎(大物)・花隈の三つに絞られた。
形勢有利と判断した信長は十一月二十七日に池田城へ入り、本陣とした。その後、本陣を有岡城の近くまで移すと十二月八日酉の正刻(午後六時)に有岡城攻めを開始した。しかし、“惣構え”の有岡城の守りは非常に固く、夜で視界が狭まっていたのもあり万見重元を始めとした将兵約二千の損害を出し、一刻(約二時間)程で城攻めを中止した。死傷者を多く出した事から信長は力攻めではなく兵糧攻めへ切り替えた。兵糧攻めなら天下人・信長が出るまでもないと十一日に池田城へ戻り、二十五日には安土へ帰っている。
対する荒木村重は同じく織田家と敵対している毛利家や石山本願寺と連携したかったが、十一月に木津川口で大敗した毛利家は制海権を失った事で畿内への救援に及び腰となり、本願寺も水陸両面で封じ込められており打って出るのもままならない。荒木勢は敵中で完全に孤立してしまった。城下町を丸ごと塀で囲んだ惣構え構造の有岡城は容易に落ちないものの、頼みとする毛利家も石山本願寺も助けに来れない状況下では勝機が見出せなかった。
父は安土へ引き揚げたが、信忠は引き続き一軍の将として有岡城包囲に従事していた。年末になっても終わりは見えず、信忠は摂津国で年越しを迎えた。




