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五 : 青葉 - (7) 村重造反、鉄甲船

 七月に中国戦線から無断で離脱した荒木村重の動向は伝わってこなかったが、天正六年十月二十一日に信長の元へ“村重造反”の一報が届いた。それでも信長はすぐに信じようとはせず、まずは村重の話を聞くべく明智光秀・松井友閑・万見(まんみ)重元の三名を有岡城へ派遣した。光秀は村重の嫡男・村次に長女(史料が残されてない為、名前は不明)が嫁いでおり、松井友閑は吏僚として信長の信頼が大変厚く、万見重元は信長の小姓出身の側近で、三名の人選は村重を責めるものではなく一定の配慮が透けて見えた。

 有岡城に到着した三人は『上様は貴殿を全く疑っていない、何か不満があるなら言って欲しい』と伝え、村重も『上様に刃を向ける気は毛頭ない』と述べた。また、三人の後には与力の高山“右近大夫(うこんのたいふ)”重友も村重と面会し、これまで娘を人質に差し出していたがさらに長男も人質に出すから謀叛を思い留まるよう説得している。安土に戻ってきた三人から報告を受けた信長は、『母親を人質に差し出し、安土に出仕して詫びれば今回の一件は不問とする』条件を村重に提示した。松永久秀の時もそうだったが、信長が重用してきた家臣に対しては比較的寛大な処分で済ませる傾向があった。村重もこの条件を呑み、母を連れて安土へ向かうべく有岡城から出発した。

 これで万事解決に向かう――筈だった。安土に向かう途中で茨木(いばらき)城に立ち寄った村重は、茨木城主の中川清秀から「上様は裏切者を絶対に許さない、安土に行けば必ず殺される」と安土行きを思い留まるよう強く進言された。その説得を受けて村重は来た道を引き返して有岡城に戻ると、戦支度を始めたのだ。それだけでなく、村重の嫡男・村次の妻を離縁した上で実家である明智家へ送り返し、織田家と敵対する意思を内外に示した、清秀の引き留めで、村重は徹底抗戦へ舵を切った格好である。

 この動きに対して、人質を受け取り詫びるだけで済ませようと考えていた信長は村重の唐突な転換に驚いた。信長は佐久間信盛・福富秀勝を有岡城に派遣、さらに十一月三日には明智光秀・松井友閑・羽柴秀吉の三人を派遣し、村重に謀叛を思い留まるよう説得を試みたが、翻意させるに至らなかった。この後、羽柴秀吉の与力である小寺孝高も説得の為に有岡城へ向かったが、織田家の直臣でない点と孝高の主君である小寺政職から秘かに“(孝高を)始末するように”とお願いされていた点もあり、城内で囚われて牢へ幽閉されてしまった。

 どうして村重が謀叛に至ったか、幾つかの説がある。兵糧攻めをしていた石山本願寺へ兵糧米の横流しが行われていた説(この件に中川清秀の兵が加担していた為、自らに咎が及ばないよう清秀は村重を安土へ行かせなかったとも言われている)、門徒が多い摂津国で石山本願寺へ厳しい締め付けを(おこな)っている事に対して国人から末端の兵まで反発を受けて村重は板挟みになっていた説、中国方面の入り口に当たる摂津国を治めている自分が中国攻めを任されると期待していたが秀吉に横取りされて反発した説、摂津一国を任せられながら便利屋使いされて不満を蓄積していた説、年々苛烈になっていく信長に恐怖を覚えた説、有能な者は登用されるが使えなくなった途端に捨てられる過酷な環境に心身共に疲れた説……など考えられる要因は様々あるが、本当のところはよく分かっていない。しかし、一つ言えるのは村重の微妙な変化を察知した毛利方から調略の手が伸びた点だ。石山本願寺・毛利家・荒木家が連携すれば容易に屈せない点を諄々(じゅんじゅん)と説いたのが、今回の件で村重の背中を後押ししたと見て間違いないだろう。

 度重なる説得が不調に終わったことで、信長は遂に荒木討伐を決断した。摂津へ出兵すべく家臣達に動員をかけると共に、村井貞勝に荒木討伐の上で最大の障壁となるであろう石山本願寺と和睦交渉に当たらせた。ただ、中国筋だけでなく摂津の荒木村重も造反した事で形勢は優位にあると踏んだ本願寺は「毛利家の承諾が必要」と簡単に応じようとはしなかった。

 こうした情勢の中、村上水軍を主力とする毛利方の水軍が十一月六日に大坂湾へ姿を現した。荒木村重の一件が絡んでいるかどうかは不明だが、大坂湾の制海権は毛利方が握っているのを顕示(けんじ)する狙いも多少はあった。しかし、織田方も天正四年七月の大敗から二年以上続く毛利方の好き勝手な振る舞いを止めるべく、大坂湾に切り札を投入した。それは――鉄甲船。

 天正四年七月に木津川口で勃発した海戦の敗因は、毛利方の焙烙玉で船が炎上したのが大きかった。この点に着目した信長は、織田水軍の棟梁的存在である九鬼嘉隆に「鉄で出来た船を作れ」と命じた。当時の技術では鉄製の船はまだ建造出来なかったが、(げん)甲板(かんぱん)に薄い金属の板を覆う事で信長の要望に沿う船を作り出す事に成功した。嘉隆は六隻の鉄甲船を作り、滝川一益が作った一隻と合わせて計七隻の船が天正六年六月に完成した。

 天正六年六月二十六日、伊勢湾から九鬼嘉隆が建造した鉄甲船六隻を含む九鬼水軍が出発。途中、熊野(なだ)で雑賀水軍と交戦したが難なく勝利し、七月十七日に大坂湾に到着した。初めて目にする鉄甲船に人々は驚いたとされる。九鬼水軍が七月十八日から海上封鎖を開始し、水陸両面で補給が出来ない状況となった石山本願寺は毛利家に救援を要請。これに応じた毛利家は約百艘にも及ぶ大船団で大坂湾へ向かった。

 開戦直後、小回りが利き俊敏性で優る毛利水軍の小早船が鉄甲船の周りを取り囲んだが、炮烙玉を投げ込んでも燃焼せずいつもと勝手が違う事に兵達も戸惑った。暫く経ち鉄甲船に備え付けてあった大鉄砲や大筒で毛利方の将が乗る関船を狙い撃ちし、周りを取り囲む小早船に鉄砲を撃ちかけた。毛利方も鉄砲で応戦したが、大型の船で高さもある鉄甲船の乗員まで弾が届かなかった。毛利方は鉄甲船に対して成す術なく損害は時間を追う毎に増えていき、開戦から二刻程(約四時間)で退却した。この敗戦により毛利家は大坂湾における制海権を喪失し、石山本願寺は水陸両面で補給が制限される事となった。第二次木津川口の戦いで敗れた影響は、毛利・本願寺だけでなく反旗を翻したばかりの荒木家の戦略も躓かせてしまったのである。

 木津川口の海戦で勝利したとの報を受けた信長は、十一月九日に滞在していた京から出陣。五万の兵を率いてその日は山崎に布陣し、翌十日から諸将が荒木方の城を包囲し始めた。これと並行して、信長は荒木方の国人衆の切り崩し工作に取り掛かった。

 熱心な吉利支丹として知られる高山重友は村重と信長の板挟みに苦悩し、尊敬していたオルガンティノ神父にどうすべきか相談した。オルガンティノは信長に味方すべきだと助言したが、村重へ預けている人質もあり荒木方に属していた。本心では織田方に与したいが、父・友照(ともてる)は織田家へ徹底抗戦を主張していたのもあって重友の懊悩(おうのう)はさらに深まる事となった。重友が熱心な吉利支丹である点に着目した信長は、オルガンティノに「重友を説得出来れば日本国内どこでも教会を建てて構わぬ。但し、失敗すれば宣教師を殺す」と脅した。

 織田に降れば人質は殺される、織田と戦えば宣教師は殺される。思い悩んだ末に重友が出した答えは……大名の地位を捨てる事だ。重友は紙衣(かみこ)一枚を身に纏い、居城である高槻(たかつき)城を出たのである。城も領地も返上して吉利支丹の一信者として生きる――あまりに潔い姿勢に、村重も信長も責められなかった。重友の強い意向もあり、残された高山家の家臣達は高槻城は降伏。抗戦派だった友照は有岡城へ入った。摂津国内で重要拠点である高槻城を差し出した事に信長は大変喜び、十一月十六日に重友と面会した際には簡素な紙衣姿の重友に自らが着ていた小袖や馬を与えた上で、旧領安堵を明言した。後日、重友は従来の二万石から四万石へ加増されている。

 重友だけでなく茨城城の中川清秀や丸山城の能勢(のせ)頼道(よりみち)など荒木家に与力として付けられていた国人達も織田方の調略に応じて続々と降伏。摂津の要衝を織田方が押さえ、残っているのは村重が籠もる有岡城や荒木家直臣が守る城だけとなった。当初想定していたよりもかなり有利な情勢になった事で、信長は石山本願寺との和睦交渉を打ち切った上で有岡城攻めを決めた。

 信忠も手勢を率いて有岡城攻めに参戦。副将の河尻秀隆も斎藤利治も不在だったが、気負わずにやろうという気持ちだった。


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