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五 : 青葉 - (6) 村重離脱、信忠の采

 六月二十五日に秀吉と共に高倉山から書写山に陣を移した荒木村重だったが、七月上旬に突如軍勢をまとめて居城である摂津有岡城へ無断で帰ってしまったのだ。中国攻め担当の秀吉やその後に指揮を執る事になった信忠と(いさか)いがあった訳でもなく、播磨滞陣中に何らかの落ち度があった訳でもなく、この村重の行動に皆首を(かし)げた。

 ただ、帰国した村重は有岡城の門を固く閉ざすのみで、領内から兵を集めたり兵糧を運び入れたりという謀叛の具体的な行動は一切見せなかった。

 この村重の不可思議な行動に、播磨にある諸将だけでなく信長も大いに慌てさせた。摂津の荒木村重がもしも造反となれば、石山本願寺を囲む佐久間信盛や播磨の造反に対処している羽柴秀吉は前後を敵に挟まれる事になり、進退(きわ)まる恐れが出てきた。ここで本願寺勢や毛利勢が攻勢に出てきたら……大損害は避けられない。

 どうして村重がこのような暴挙に出たのか、織田家の面々に思い当たる節が全く無かった。

 荒木村重は天文四年生まれの四十四歳。摂津の国人・池田勝正の家臣の家に生まれた村重は、元亀元年六月十九日に勝正の弟・知正や中川清秀などと共謀して主君の勝正を追放すると、池田家の実権を握った。この追放劇には三好三人衆が裏で糸を引いており、池田家はそれまで属していた織田家と敵対する事になる。一方で、村重の才覚を気に入った信長は池田家からの引き抜きを画策し、元亀四年頃に織田家直臣に引き入れた。(かた)や池田知正は幕臣として足利義昭の側に属していたが故に没落し、後に村重の家臣となり主従が逆転した。天正二年十一月十五日、伊丹(いたみ)親興(ちかおき)の伊丹城を攻め落として摂津国を統一した村重は、伊丹城を大改修して名を“有岡城”に改めて居城とした。信長から“摂津一国切り取り次第”を認められていた村重は期待通りの働きを見せ、織田家直臣として各地を転戦していくこととなる。

 このように、織田家に仕え始めたのは上洛後なだけでなく一度離反しながらも、村重は家老に次ぐ扱いを受けるなど破格の扱いを受けていた。気難しい癇癪(かんしゃく)持ちの信長の不興(ふきょう)を買うことなく、織田家に仕えて日が浅いながらも摂津一国を安堵されるなど村重の能力を高く評価していた。はっきり言えば、信長から疑われる点も咎められる点も、全く無いのだ。

 その為、信長は村重が勝手に兵を引いたと聞かされてもすぐには信じなかった。また、播磨国内で反旗を翻した国人達の城を幾つか落とした信忠を総大将とする軍勢が帰国の途についた際も荒木方から妨害や攻撃は一切見られず、悠々と摂津を通過出来た。

 造反したものの具体的な行動を起こさない荒木家の動向を、不気味に思いながらも織田家は注視していくこととなる。


 三木城を囲むのに数万を超える軍勢を投入する必要は無いので、播磨は前任の羽柴秀吉に任せて信忠を始めとする諸将は領国へ引き揚げた。信忠が率いた織田本隊も八月下旬に岐阜へ帰還した。

 四月から四カ月近く遠征していた為に、美濃や尾張の直轄領における決裁が山積していた。信忠はまず滞っていた内政の消化に追われた。

 月が改まり、天正六年九月。信忠は安土の父から届いた書状を読むと、近習に斎藤利治を呼ぶよう命じた。

 暫くして、利治が姿を現した。信忠は父からの書状を利治へ手渡し、やや困ったように言った。

「上様が、新五郎殿に兵を与えて越中へ攻め込むよう(おお)せになられている」

 信忠の言葉に、利治は顔色を変えず頷いた。

 北陸方面は昨年秋に上杉勢が越前目前まで迫られたが、今年三月に稀代(きだい)の戦上手で“毘沙門天の生まれ変わり”を自認し公言していた上杉謙信が今年三月に急逝、その跡目を巡って上杉景勝と上杉景虎の間で内紛が勃発した。

 三月二十四日に景勝方が春日山城本丸と金蔵を押さえて優位に立ったが、三ノ丸に居た景虎は五月十三日に脱出して春日山城下にある“御館(みたち)”と呼ばれた上杉憲政(のりまさ)(さきの)関東管領)の屋敷に立て籠もり、反撃に転じた。実家である北条家へ遣いを出して協力を打診したのだ。

 北条氏政としても景虎が跡を継げば上杉家を事実上乗っ取れるので断る理由が無かった。是非とも兵を送りたかった北条家だが、敵対していた佐竹・宇都宮連合軍と睨み合いを続けている真っ只中にあったが為に、越後へ兵を送る余裕が無かった。そこで氏政は同盟関係にある武田家に働きかけ、景虎への助力を要請した。設楽原の大敗以降、防戦一方だった武田家にとって久方振りとなる版図拡大の好機に勝頼は氏政の提案を快諾。一門衆の武田信豊を大将とする先遣隊二万を送り、この軍勢は五月二十九日に信濃と越後国境付近まで進んだ。同時期に景虎方に属していた北条(きたじょう)高広(越後の国人で、後北条家とは無関係)が三国峠を制圧しており、景勝は上野(こうずけ)方面と信濃方面の両方から攻められていた。他にも伊達家や蘆名(あしな)家も景虎に味方し、越後国内でも多くの国人が景虎方に属すなど、景勝方は苦境に陥っていた。

 厳しい情勢にある景勝は、起死回生の一手に出た。景勝・景虎を調停すべく仲裁に乗り出した勝頼に、景勝の方から和睦を申し出たのだ。勝頼は版図を拡げたい一方で遠江にある武田方の城が徳川勢の攻勢に晒されており、一日も早く救援に向かいたい事情を抱えていた。その焦りに付け込んだ景勝方は『勝頼の異母妹・菊姫を景勝の正室に迎えること』『上杉領である東上野の譲渡』『相当額の黄金を武田家に渡すこと』を提示。先代謙信の代に得た東上野の領土や越後国内の金山から得た黄金を渡すという、決して小さくない痛手ではあったが、何よりも成果を欲していた勝頼には破格とも呼べる条件はとても魅力的に映った。六月二十九日、越後に入った勝頼は府中にて景勝と和睦。これと同時に、甲越同盟が締結された。勝頼はその後も越後に留まり、景虎方との調停に向けた交渉を進めた。勝頼が間に入る形で、八月十九日に景勝・景虎の間で和睦が結ばれ、一時休戦となった。和睦が成立したのを見届けた勝頼は、遠江方面へ救援に向かうべく八月二十七日に帰国している。

 勝頼が越後を離れると、家督を巡る争いは再燃。武田と手を結んだ事で窮地を脱した景勝だったが、予断を許さない状況は依然続いていた。武田勢と入れ替わるように氏政の弟・氏照(うじてる)氏邦(うじくに)が北条勢を率いて三国峠を越え越後へ侵攻してきたのだ。

 このように、上杉家は他の勢力も巻き込んで真っ二つに割れており、他国へ侵攻するどころか越後国内へ救援に赴く余裕すら無かった。逆に言えば、昨年までやられっ放しだった織田家から見ると、勢力を一気に東へ進める絶好機とも受け取れる。

修理亮(しゅりのすけ)(柴田勝家の官名)は加賀の一向一揆に足止めされている、と記されている」

 父からの書状に目を落とす利治へ、信忠が付け加える。

 反転攻勢に出たい織田勢だったが、その行く手を阻んだのは一向一揆勢だった。最盛期と比べると衰えているが、本願寺の影響力はまだ健在で上杉家と共通の敵である織田家に対抗するだけの力は残されていた。他にも能登に居る上杉家の将が加賀の一向一揆勢力を秘かに支援しているのも大きかった。

「……上様は、飛騨から越中に入れと仰られておられるようですね」

 美濃の北にある飛騨国は周囲を高い山に囲まれた地理もあり、他国の干渉をあまり受けず独自の歩みを続けていた。

 元は姉小路(あねがこうじ)家が飛騨国司として治めていたが、力を持った国人が台頭する下剋上の流れで南飛騨の国人である三木(みつき)良頼(よしのり)が頭角を現し、飛騨の大半を支配するようになった。良頼は朝廷に働きかけて永禄元年に姉小路家の継承を認めてもらい、永禄五年二月には当時の関白・近衛前嗣(さきつぐ)(後の前久(さきひさ))から編諱を受けて“姉小路嗣頼(つぐより)”と名を改めた。

 朝廷の後ろ盾を得て地盤を固める嗣頼だったが、敵対する江馬(えま)時盛(ときもり)が隣国信濃を治める武田信玄に助力を求め、信玄は永禄七年に山県昌景や木曾義昌の兵を飛騨に侵攻させた。精悍な甲斐兵に信濃侵攻で揉まれた武田勢の強さに嗣頼も敵わず、江馬家に領土を割譲する条件で屈した。この後、嗣頼は上杉謙信に助力を求めると上杉家の越中衆が飛騨へ援軍に駆け付け、さらに北信濃へ謙信が侵攻し五回目となる川中島の戦いが勃発すると、信玄は飛騨から兵を引き姉小路家の独立性は認められた。

 武田勢の侵攻をキッカケに上杉家と誼を通じるようになった嗣頼だが、永禄十年八月に織田信長が美濃を手中に収めると織田家とも関係を持つようになった。嗣頼の嫡男・頼綱(よりつな)が斎藤道三の娘を正室にしていた縁もあり、永禄十三年二月に父の代理で上洛してからは織田家と同盟を結んだ。織田家における姉小路家との交渉窓口は血縁の繋がりから利治が担当し、現在も変わらず良好な関係を継続させていた。織田家との繋がりを持つ傍ら、元亀三年八月に上杉謙信が越中へ出兵した際には姉小路家からも兵を出すなど、上杉家との結び付きも保っていた。

 元亀三年十一月十三日、嗣頼が死去。家督は嫡男の頼綱が継いだが、織田家と上杉家の双方に良い顔を見せる外交姿勢は堅持された。ただ、謙信の急逝に伴い勃発した御館の乱で上杉家が外征どころではなくなり、影響力が低下するのを見越して頼綱は織田家へ接近しようとしていた。こうした傾向を踏まえた上で、飛騨国内の姉小路領を通過して越中へ攻め込もうというのが父の見立てだった。姉小路家の関係もあり、越中侵攻の大将に利治を据えるのも道理である。

 利治は読んでいた書状を丁寧に畳むと、上座に座る信忠へ声を掛ける。

「殿。如何(いかが)されましたか?」

 いつもと同じように接しているつもりだった信忠は、利治の指摘に小首を(かし)げた。

「……私は、何か変か?」

「いえ。特に変ではありませんが、少々御顔が曇っているように見受けられましたので」

 利治の返答に信忠は隠しきれないと判断したらしく、観念したように大きく息を吐いてから打ち明けた。

「……正直なところを申すと、今新五郎殿が私の元から離れるのは、不安だ。摂津方面が不穏な中、いつ何時出兵の下知があるか分からない状況で私を支える副将二人が揃って不在になるのは、心許(こころもと)ない」

 信忠が一軍を率いるようになってからは、経験と実績を積んだ河尻秀隆と斎藤利治の二人が副将として支えていた。しかし、天正三年十一月に秀隆は対武田の最前線となる岩村城に入ってからは武田方の警戒監視に専従しており、その間は利治一人がその役目を担ってきた。信忠は織田本家の総大将として各地を転戦してきたが、実務は利治に任せきりで自分は最終判断を下すだけのお飾りに過ぎないと思っていた。

 織田家の当主になったとは言え、信忠はまだ二十二歳。実戦経験もまた乏しく、一人で大軍を率いるには自信が無かった。

「その点に関しては何の問題もないでしょう」

 信忠が吐露した不安に対して、利治は穏やかな笑みを浮かべながらはっきりと断言した。

「殿の戦いぶりを間近で見てきましたが、周りの者の意見に耳を傾けながら手堅い戦をされておられます。奇を(てら)わず大勝ちを目指しておりませんので、今まで通りの事を続けておればきっと大丈夫でしょう」

「大勝ちを目指さないのが、そんなに良い事なのか?」

 利治の言葉の中で気になった点を質問する信忠。

 戦とするとなれば味方の損失は出来るだけ少なくしたいし、敵に多くの損害を与えたい。どうせ勝つならギリギリで得るよりも圧倒的な差をつけて掴みたいと考えるのが自然だ。大勝・完勝を目指して、どうしていけないのだろうか?

 すると、利治は柔らかな表情で答えてくれた。

「勝ちを目指すならより良い内容を目指すのは悪い事ではありません。しかし、完全完璧な勝利を求めるあまり、懸念すべき点を見落としたり定石(じょうせき)から外れた手を打ったりして、逆に大敗してしまう事が往々にしてございます。切羽詰まっている時や強大な敵と対峙する時は有効かも知れませんが、今の織田家くらいの規模ならば油断せず奇策に走らなければまず大敗はしませんから、安全な道を選ばれるのが最善……そう、私は考えます」

 武田家について記した『甲陽軍鑑』に、戦の勝ちについて信玄が次のように述べたとされる。

(およ)そ軍勝五分を(もっ)て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と()す。その(ゆえ)は五分は(れい)を生じ七分は(たい)を生じ十分は(きょう)が生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕が生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり』

 要約すれば『五分の勝利なら上、七分の勝利なら中、十分の勝利なら下という評価だ。五分の勝利なら“次はもっと励まないと”と次に繋がり、七分の勝利なら“これで良いか”と現状に満足し、十分の勝利なら“こんな勝ちが出来た!”と驕りの気持ちが芽生える。もし十分で勝てたとしても、驕りがあれば必ず次は負けるものだ。この考えは戦だけでなく他の事にも通ずる』といったものだが、戦に滅法強かった信玄でも完勝は“驕りが生まれる”から良くないと指摘している点は実に興味深い。

 経験豊富な利治の言葉に、信忠はハッとさせられた。

 兵法については沢彦和尚から学んだし、書物を読んで吸収しようと努めてきた。それでも、初陣からずっと“自分の采配は果たしてこれで良かったのか?”という漠然とした気持ちが信忠の心に小さな(とげ)となって刺さっていた。“もっとすんなり勝てたのでは”“もう少し損害を抑えられたのでは”という考えはずっと付き(まと)っていた。幾度も戦に臨みながらも毎回のように浮かぶ疑念が解消されないのは、信忠の戦振りに対して他者から正当な評価を伝えられていないからだと自分では気付いていた。“織田家の嫡男”“織田宗家の当主”という肩書があるので「今回の戦は素晴らしい采配でした!」と褒めちぎる者は大勢居ても「あの場面はこうすべきだ」「この局面はまずかった」と具体的な改善点を交えて指摘してくれる者は居なかった。“果たして、このままで大丈夫だろうか”という思いが、信忠一人で采を振る事を躊躇(ためら)わせていた。

 しかし……利治は助言も合わせて信忠の采配を評価し、お墨付きを与えてくれた。利治の言葉を胸中で反芻(はんすう)する内、心の中に刺さっていた棘が外れて凝り固まっていた悩みが氷解(ひょうかい)していくのが、信忠にははっきりと分かった。“この方向に進んで問題ないのだ”という事が分かっただけでも大きな収穫だった。

「……分かりました。私は私なりに頑張ってみようと思います」

 そう答えると、信忠は無言で頭を下げた。その姿を利治はニコニコと微笑んで眺めていた。


 天正六年九月。美濃・尾張の兵を率いた利治は北上。四月に先遣隊として越中に入り国人達の切り崩し工作を(おこな)っていた神保(じんぼう)長住(ながずみ)と合流した後、幾つかの城を落としながらさらに北上を続けて十月四日には越中にある今泉城を攻めた。しかし、城の守りは固く城方から激しい抵抗に遭った為、利治は撤退を決断。織田勢が引いていくのを見た越中を預かる河田(かわだ)長親(ながちか)は織田方を叩く好機と捉え上杉勢を率いて追撃した。だが、複雑な地形の月岡野まで引いたところで織田勢は予め潜めていた伏兵と共に反撃。追撃する筈が大損害を出してしまい、長親は退却せざるを得なくなった。

 この月岡野の戦いで勝利したのを転機とし、越中国内で苦戦していた織田勢の風向きが変わった。飛騨から姉小路頼綱率いる姉小路勢が加勢したのもあり、越中中部の重要拠点である富山城の奪取に成功して越中中部を完全に掌握したのだ。これにより加賀の一向一揆勢力と越後の上杉家は分断され、上杉勢が加賀・能登に救援するのが難しくなった。

 信長はさらなる勢力拡大を狙い信忠麾下の森長可や毛利長秀・佐藤秀方(ひでかた)を増援として越中へ送ったが、降雪の時期が近付いていた事や諸般の事情が重なったが為に、押さえの兵を残して利治を大将とする軍勢は本国へ撤退した。狙いは外れたものの北陸戦線に(くさび)を打ち込む事に成功した織田勢は、柴田勝家を中心とする北陸方面担当部隊の侵攻に大きく寄与していくこととなる。


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