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五 : 青葉 - (5) 筑前守

 別所家を始めとした播磨の大半の国人衆の造反、さらに毛利勢三万が上月城を包囲するなど事態が切迫していると捉えた信長は、直ちに増援を送る事を決断。摂津の荒木村重を先行させると共に、大坂表に展開している軍勢を播磨へ向かうよう指示を出した。

 五月に入り、信忠は本隊を率いて播磨に到着。秀吉が三木城攻めで本陣を構える書写山(しょしゃざん)に入った。書写山は“比叡山”“大山(だいせん)”と並んで天台宗の三大道場と称された巨刹(きょさつ)圓教寺(えんきょうじ)”があり、山全体が寺に関する施設がある為に大軍を収容するのにもってこい場所だった。秀吉がこの地を選んだのは、腹心の小寺孝隆の進言があったから、とされる。

 信忠が書写山に陣を構えると、中国攻め担当の秀吉が高倉山から駆け付け、着陣当日に面会を申し入れてきた。これに対し、状況を把握する為にも秀吉から話を聞いておきたかった信忠も応じる。

 野陣に設けられた対面の場に入ると、地面に這い(つくば)る小柄な男の姿があった。

「筑前。面を上げよ」

 床几に腰を下ろした信忠が、声を掛ける。「ははーっ!!」と大仰(おおぎょう)に応じた男がゆっくりと顔を上げる。

 その顔を目にした信忠がまず思ったのは、“猿に似ている”だった。しかし、すぐに“禿げ鼠とは言い得て妙だな”と思う。

 第一印象は顔に刻まれた大小様々な皺に小柄な体躯(たいく)も相まって猿に見えたが、少し経つと薄くなってきた頭頂部と出っ歯から鼠を連想させた。一応確認しておくが、目の前に居るのは紛れもなく人間である。

 羽柴“筑前守”秀吉。天文六年二月六日生まれ(諸説あり)で現在四十三歳。能力ある者は出自家柄を問わず登用していく織田家の中でも異色の経歴の持ち主だ。

 秀吉の出自や生年について確たる史料が存在せず、後に創作されたものを含めて諸説ある。その中でも一般的とされているのが、尾張国中村で水呑み百姓をしていた父・弥右衛門(やえもん)と母・なかの間に生まれた説だ。しかし、弥右衛門は足軽として徴兵された際に戦で負った傷が原因で寝込むようになり、天文十二年に亡くなってしまった。この時、日吉丸(秀吉の幼名。但し、幼名も諸説ある)七歳。その後、母のなかは織田家で同朋衆をしていた竹阿弥(ちくあみ)と再婚するも、病で仕事を辞めて家に転がり込んできた竹阿弥は長兄の日吉丸を疎んじ、暴力を振るうなど冷たく扱った。日吉丸は八歳の時に竹阿弥が追い出すように光明寺へ入れられたが馴染めずすぐに寺を飛び出して家に戻り、十五歳の時に弥右衛門の遺産の一部を母から受け取ると針売りをしながら諸国を渡り歩いたとされる。

 商売の才能はあったみたいで、銭が尽きる事なく遠江まで辿り着いた日吉丸は、そこで思わぬ出会いが待っていた。今川家家臣で頭陀寺(ずだじ)城城主・松下“加兵衛(かへえ)之綱(ゆきつな)と偶然出会い、日吉丸を面白いと思った之綱は城へ連れ帰ったのである。元々武士になりたかった日吉丸は名を“藤吉郎”と改めて之綱の下で目一杯働いて頭角を現していくのだが、早すぎる出世に同僚の(ねた)(そね)みを一身に受けるようになった。こうした状況に藤吉郎を不憫(ふびん)に思った之綱は金を渡して故郷へ帰るよう(さと)し、藤吉郎も之綱の胸中を察してこれを受け入れて松下家を去った。

 武家仕えは一からやり直しとなった藤吉郎だが、百姓になる気は更々無く天文二十三年頃から信長に仕え始めたとされる。最初の内は草履取りだった身分が、炭薪奉行で炭の消費を抑えた上で商人からの買い入れ費用も抑えたり、普請奉行で台風により崩れた清州城の塀を十の区画に分けて十組を競わせるように修繕させて工期を大幅に短縮させるなど着実に成果を挙げ、とんとん拍子で出世の階段を上っていった。

 永禄四年に浅野“又右衛門(またえもん)長勝(ながかつ)の養女である“ねね”と結婚したのを機に、名を木下“藤吉郎”秀吉と改めた。信長が美濃へ進出するのに合わせて、藤吉郎も斎藤家配下の国人の切り崩し工作に尽力した。永禄八年十一月二日付で出された美濃国国人の坪内利定(としさだ)へ宛てた知行安堵状の中に“木下藤吉郎秀吉”の名が記されており、これが歴史上初めて秀吉の名が確認出来る公式の史料である。永禄九年六月には墨俣(すのまた)に一夜で城(規模的には砦だが)を築き、斎藤家当主龍興に失望し隠遁(いんとん)していた竹中“半兵衛”重治や同じく龍興と距離を置いていた稲葉良道(よしみち)・安藤守就・氏家直元の“西美濃三人衆”を調略で織田方に引き込むなど、美濃攻めで大きく貢献。この功績もあり藤吉郎は重臣の一人として名を連ねることとなる。

 永禄十一年の上洛戦でも活躍、上洛を果たすと京都奉行の一人に任じられた。元亀元年四月の朝倉攻めでは浅井長政の裏切りに際して藤吉郎自ら殿(しんがり)を買って出て、自身の部隊は少なくない犠牲を出したが味方の大部分を生還させる任務を遂行させた。これまで武功を挙げてこなかったが故に家中で軽んじられてきた藤吉郎だが、命懸けで簡単ではない戦を乗り切った事で見直す見方が出た。

 元亀年間は主に浅井家担当を任され、各地を転戦。天正元年八月に浅井家を滅亡させるとその旧領は藤吉郎に与えられた。草履取りの身分から城持ち大名に成り上がるという、異次元の出世を遂げた訳だ。これを機に藤吉郎は“木下”姓を“羽柴”姓に改めたが、織田家を長く支える丹“羽”長秀と“柴”田勝家の二人から一字を拝借する抜け目なさを発揮している。

 その後は遊撃部隊として各地を転戦していたが、小寺家家臣の小寺孝隆を通じて播磨国内で地盤固めをしていた甲斐もあって今回中国攻めの指揮官に抜擢され、現在に至る。

 信忠自身、これまで秀吉と深く関わった記憶が無い。岐阜城へ移った永禄十年の頃には家老の一人として藤吉郎は忙しく働いていたし、元服した後も顔を合わせる程度で言葉を交わしても一言二言挨拶をするくらいだ。これが初めての対面かも知れない。

「この度は中将様に遠路遥々(はるばる)播磨までお越し頂き、真にありがとうございます!!」

 大声で謝辞(しゃじ)を述べると同時にガバリと平伏する秀吉。地声の大きさに驚きながら、信忠は秀吉が“武士の者になりきれてない”と父が評していた理由が何となく分かった気がした。

 まず、仕草や言葉遣いが一々仰々(ぎょうぎょう)しい。武家生まれの者は作法や言葉遣いを幼い頃から教育されているが、秀吉にはそうしたものを感じない。泥臭さや人間味は感じられて交換を抱かせるかも知れないが、これを快く思わない者も一定数は居るだろうなと思った。加えて、秀吉は頭を下げるのも厭わない。武家の者は矜持(きょうじ)の塊みたいな生き物で頭を下げるのは最終手段だが、秀吉は「頭一つ下げれば済むのか」と全く躊躇(ちゅうちょ)がない。これも貧しい百姓に生まれ、苦労を重ねてきたが故に身に付けた処世術なのかも知れない。

「面を上げて欲しい。いつまでも下を向かれていては話も出来ない」

 信忠が促すと、秀吉はゆっくりと顔を上げる。すると、秀吉は信忠の顔をしげしげと見つめる。

「……如何した?」

「いや~……生駒屋敷で吉乃様に抱かれとった赤子がここまで立派になられたかと思うと、嬉しくて」

 感慨深げに答える秀吉に、先程とは違った意味で驚く信忠。

「母を、知っておるのか?」

「はい。儂は上様の草履取りをしておりましたから、吉乃様の所へ会いに行かれる際は同行しとりました」

 信忠の問いに、はっきりとした口調で答える秀吉。それから昔を懐かしむように遠い目をしながら秀吉は続ける。

「吉乃様は、身分の低かった儂にも優しく声を掛けて下さりました。見た目だけでなく心もお美しい、正に天女みたいな御方でした。儂の他愛もない話にもコロコロと笑って下さったこと、今でも覚えとります」

 秀吉の話し振りから、自分が幼い時に会っているようだ。物心つく頃には出世していたみたいで生駒屋敷に同行しなくなったらしく、信忠の記憶に無かったのも道理だ。もう少し続けていたら生前の母の話が聞けるかも知れないが、信忠は茶飲み話をしに播磨まで来た訳ではない。そろそろ本題に戻らなくては。

「筑前。播磨の状況を説明してくれ」

 思い出話の余韻を断ち切るように、信忠は努めて冷静に促す。これに秀吉は表情を引き締め、居住まいを正してから話し始める。

「現在、中国攻めの最前線である上月城に毛利勢約三万の軍勢が押し寄せております。城を守るのは毛利家に滅ぼされた旧尼子家の遺子と旧臣達。毛利家に(なび)く心配はありませんが、如何(いかん)せん城には三千程度の兵しか居らず真に厳しい状況です。敵中で孤立しながらも織田家の為に奮闘してくれている彼等を救うべく、何卒お力添えを(たまわ)りとうございます!!」

 言い終わるなり、再びガバリと頭を下げる秀吉。(ひたい)を地面に付けているのかと思うくらい、頭の位置は低い。尼子勢を救いたい秀吉の気持ちに偽りはないようである。

 しかし……その前に確認しておかなければならない事があるのを、信忠は忘れていない。

「……三木城の別所は如何(いかが)するつもりだ? 仮に我等が上月城へ向かった場合、別所を中心とした国人衆が蜂起すれば前方の毛利勢と合わせて挟み撃ちに遭う恐れがあるのだが」

 先日父と話した際にも明かした懸念をぶつける。味方を助けに行った筈が向背を敵に挟まれて大敗しては元も子も無いからだ。

 ただ、信忠が指摘してくるのは織り込み済みだった様子で、顔を上げた秀吉が「その点は問題ありません」と胸を張る。

「現在、三木城を周りを囲むように砦を築き、それと並行して城内へ通ずる間道を捜索・封鎖しております。他にも逆茂木(さかもぎ)乱杭(らんぐい)などを設け、城の周りに警戒と監視の兵を多数配置しており、万一城方が打って出てきても対処出来るよう万全を尽くしております。播磨国内で最大勢力である別所を封じ込めている間に、中将様がお連れになった軍勢の三分の一程を割いて頂き別動隊を作り、その手勢が別所に同調する他の者共を成敗していきます。別所と小寺を除けば他は取るに足らない勢力ばかり、これ等が片付いた頃には別所も小寺も敵中で孤立する算段です。……これで後顧の憂いなく上月城の救援へ向かう下地は整うかと」

 スラスラと淀みなく説明する秀吉。三木城の事は必ず聞かれると思い予め回答を用意していたのだろう。対応策もしっかり練られており、この案なら大丈夫と考えさせられるだけの説得力はある。

 それから「さらに」と語気を込めて秀吉は続ける。

「毛利勢には“両川”と呼ばれる吉川元春・小早川隆景の両名が揃って出張(でば)っております。両川が顔を揃えるのは滅多に無く、これは毛利家の力を削ぐ絶好の機会。両川が居なくなれば毛利は屋台骨を失ったも同然、一気に中国筋を制覇するのも夢ではありません!」

 ここが正念場と踏んだ秀吉が、もう一押しとばかりに力説する。

 確かに、“毛利の両川”と呼ばれる吉川元春・小早川隆景が一挙に出てくる機会は滅多にない。この二人が毛利家を動かしていると言っても過言でない。もし二人を討ち取れるような事があれば、中国攻めは大きな前進するだろう。秀吉の話も信忠は理解した。その上で、信忠は一度()を取り呼吸を整えてから口を開く。

「……筑前の申すこと、よく分かった」

 なるべく感情を表に出さないよう意識し、信忠は言う。自らの説得が通じたと表情を明るくする秀吉に、「だが」と続ける。

「もし、我等が上月城へ救援に赴いたとして、三木城の別所が一点に兵力を集中させて包囲を突破したらどうなる。別所と呼応するように国人達も同調して攻勢に出たら如何(いかが)する。押さえの兵だけでは到底対処は難しく、最悪我等は前の毛利と後ろの別所で挟まれる。……そうなった時、どうするつもりだ?」

 責める訳でも咎める訳でもなく、淡々とした口調で訊ねる信忠。途端に秀吉の顔が青くなる。

 秀吉が語った策は、全てこちらに都合が良い流れにならないと実現しない。言い換えれば、一つでも想定していた展開と異なれば、一転して窮地に立たされる。父・信長もそうだが、この機に乗じて毛利家と決戦に臨む、または勢力を一気に西へ進める方針は持っていない。大損害を出す危険を冒してまで上月城へ救援に出向く必要はあるのか。預かっている将兵の命のことを思えば、そんな危ない橋を渡ろうとは信忠は思わなかった。

「そ……それでも、上月城の尼子勢は御家再興の僅かな望みを(すが)る思いで織田家に託して下さったのですぞ。その強い思いに我等も応えるべきではありゃしませんかね?」

 総大将である信忠を何とか翻意してもらおうと、懸命に食い下がる秀吉。情で訴えかける手法だが、信忠は揺るがない。

 一呼吸を挟んでから、信忠は端的に訊ねる。

「ならば聞くが……尼子の者共はどれだけの期間、織田家の為に働いてくれたのか?」

 この問いに、秀吉は絶句した。

 戦というものに“絶対”は存在しないが、時として危険を承知で飛び込まなければならない事が二つある。一つは御家存亡の危機に(ひん)した時、もう一つは御家に長く貢献してきた功臣が窮地にある時だ。前者は言わずもがなだが、後者は『あれだけ重きを成す(若しくは多大な貢献をしてきた)者を見殺しにするなんて……』という御家の看板に傷を付けない為である。家臣は主君から禄を貰う(または保障される)代わりに忠誠を尽くすのだが、家臣が窮地に立たされているのを助けもせず放置すれば『あの人ですら見捨てられたのだがら、自分達も……』と他の家臣達に動揺を(きた)し、結果的に家中の崩壊を招く事に繋がる。天正四年五月に明智光秀が籠もる天王寺砦を本願寺勢の大軍に囲まれた際に信長が寡兵ながら救出に動いたのは、この例に該当する。

 もし上月城に入っているのが佐久間信盛や柴田勝家、それこそ羽柴秀吉など長きに渡り織田家を支えてきた家老だったなら、信忠も再考の余地はあっただろう。だが、上月城に今入っているのは二年前に追われるようにやって来た旧尼子家の遺子と旧臣達で、言わば新参者だ。陣借りという形で多少は働いてくれたかも知れないが、胸を張って示せるだけの実績は挙げていない。山陰の名門“尼子家”の血筋は確かに魅力的ではあるが、所詮は浪人。自前の領地を持っておらず、兵の数も限られる。新参者の旧尼子勢を救う為に、大切な将兵を多く失う訳にはいかないのだ。新参者を斬り捨てた汚名とそれを嫌ったが故に失った将兵の数。どちらを避けるべきかと問われれば、間違いなく後者である。

 尼子家再興の悲願を達成してもらいたい、敵中で孤立する味方を何としても救い出したい、そうした秀吉の気持ちは分からなくもない。しかしながら、足元である播磨自体が非常に不安定で危うい状況では、そちらを最優先にせざるを得ない。旧尼子勢を助けに行った筈が前後を挟まれて壊滅的な被害を出しては元も子もないのだ。

 完全に沈黙して顔を落とす秀吉に、信忠は声を掛けた。

「……ただ、上月城周辺に両川を大将とする毛利勢三万があるのは警戒すべきだ」

 その言葉に、秀吉は反射的に顔を上げる。その瞳には微かな希望が込められていた。

「信濃守(荒木村重の官名)を先遣に、五郎左(丹羽長秀の通称)・日向守(明智光秀の官名)・左近将監(さこんのじょうげん)(滝川一益の官名)を送る。但し、この者達はあくまで毛利勢が東進するのを阻むのが目的だ。各将にも厳命するが、上月城には一切触れるな。我等の最優先は播磨平定だ。……分かったな、筑前」

「……はっ」

 僅かな望みが絶たれたと悟り、がっくりと項垂(うなだ)れる秀吉。

 秀吉の求め通り、援軍は出した。しかし、面子は秀吉と同格の者ばかりで、総大将の信忠は含まれていない。援軍に選ばれたのは重臣ばかりで、中国攻めを任されている秀吉であっても簡単に命令出来る相手ではない。一方で各将達も今回の戦に勝利しても潤うのは競争相手の秀吉だけで、自分達に何の得も無い。おまけに秀吉は昨年の畠山家救援で信長に無断で離脱しており、今回泣きついたのも各将達の心象を悪くしていた。これ等の一騎当千の強者(つわもの)を動かすには総大将である信忠の命令が不可欠だったが、その総大将も『上月城救援はするな』と言及している。秀吉が求める上月城救援は、ほぼ絶望的な状況となった。

 肩を落とす秀吉に、信忠は同情しなかった。秀吉は何としても上月城の旧尼子勢を救い出したいが、信忠は三木城を始めとする反旗を翻した国人衆の方が先だと考えていた。優先順位が違う、ただそれだけだ。秀吉を愚かとか(あわ)れとは思わないし、考え方に違いがあるだけで秀吉が優れた将の一人という信忠の評価に変わりはなかった。

 話は済んだので、床几から立ち上がる信忠。前に座る秀吉の姿が、先程と比べて小さく映った。


 大軍を率いて播磨に入った信忠だが、危機にある上月城ではなく背後を(おびや)かす三木城とその周辺の城を攻略するのを優先させた。三木城を包囲すると共に、別所家に同調した野口城・神吉(かんき)城・志方(しかた)城など三木城の支城を攻撃した。秀吉が上月城救援の為に陣を布いた高倉山へ荒木村重の軍勢が合流して総勢一万を超えたものの、三万を超える毛利勢には到底敵わない数字だった。

 それでも諦めきれない秀吉は僅かな供を連れて上洛、六月十六日に信長と面会し上月城救援を願い出た。しかし、上月城救援よりも三木城を始めとする反織田勢力の鎮圧が先だと信長は頑として認めなかった。秀吉率いる羽柴勢単独で毛利勢に対抗するのは難しく、信長の説得が終わったことで上月城の旧尼子勢は捨て駒になる運命が決まった。

 助かる見込みが消えた旧尼子勢を秀吉は見捨てられず、高倉山に戻ると羽柴家に在籍していた尼子家旧臣・亀井“新十郎”茲矩(これのり)に尼子勝久へ宛てた密書を託し、上月城へ送り出した。茲矩は“槍の新十郎”の意網を持つ猛者で、毛利方の厳しい監視の目を(くぐ)り抜けて上月城へ潜入する事に成功した。城内で勝久に対面した茲矩から秀吉からの密書を受け取り中を開くと、『自分の力が及ばず、救援は来ない。せめて、城から落ち延びてくれ』とする内容が(したた)められていた。勝久は秀吉の気遣いに感謝を示したが、脱出はしないと断った。茲矩は勝久の言葉を伝えるべく上月城から脱出、高倉山の秀吉の陣に戻った。

 天正六年七月一日、勝久は将兵の助命を条件に降伏。交換条件として七月三日に勝久と弟・氏久、勝久の嫡男・豊若丸(とよわかまる)が自刃した。これにより山陰の名門として君臨してきた尼子家は完全に滅亡した。また、尼子家再興の為に尽力してきた山中幸盛や参謀の立原(たちはら)久綱(ひさつな)なども捕らえられ、毛利家を特に苦しめてきた幸盛は移送中に謀殺された。

 上月城を攻略し三度の挙兵で苦しめられてきた尼子家を滅ぼすという当初の目的を達成した毛利勢は、それ以上の東進はせず西へ引き揚げていった。兵站線が伸び過ぎたとも、傘下の宇喜多家が今回の出兵で当主の直家ではなく弟の忠家が軍を率いていたのを毛利家中で(いぶか)しむ声が上がったともされるが、真相は定かでない。(いず)れにしても、織田家には好材料だった。

 このまま一気に播磨を片付ける。皆がそう思っていた所に、驚天動地の一報が飛び込んできた。

 荒木村重、造反の兆しあり――この報せは中国筋だけでなく、畿内も大いに揺れることとなる。


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