五 : 青葉 - (4) 武家の生まれでない男
「お待ちしておりました、中将様」
父が待つ安土の屋敷に着くと、一人の小姓が待っていた。まだ少年ではあるが、色白な肌、朱を差したような唇、まるで女子と見間違う見目麗しさだ。
「……蘭丸か」
待っていたのが蘭丸と知り、信忠は表情を険しくする。
森蘭丸。永禄八年生まれで当年十四。森可成の三男で、長可の弟に当たる。『兼山記』によれば、天正五年五月に弟の坊丸・力丸と共に信長の小姓として召し抱えられたとされる。
眉目秀麗さが目立つが、蘭丸はとても機転が利き頭の回転もずば抜けて早かったことから、次第に重用されるようになった。小姓として仕え始めて一年足らずで信長の最側近として側を離れないまでになったのは、可成の遺子だからという理由ではなかろう。
「上様は茶室でお待ちです」
蘭丸がここで待っていたので薄々気付いていたが、やはり人に聞かせたくない話のようだ。屋敷の敷地内には茶の湯の世界で流行している三畳程の広さの草庵があり、密談にはもってこいの場所だった。
蘭丸に案内されて、茶室に向かう信忠。躙口の前で蘭丸が声を掛けると、中から父が「通せ」を返してきた。
躙口の戸を開いた信忠が、中へ入る。茶室には父一人、釜も掛け軸も一切無く、目を瞑り腕組みをして座している。
「……勘九郎、そこに座れ」
父が顎で促した場所に座る信忠。蘭丸も躙口から体を滑り込ませるように入り、戸を閉める。これで密閉された空間に三人しか居ない状況となった。
誰にも聞かれない環境になっても、父は固まったまま動かない。信忠も自分から話し掛けるのは憚られるので、父が口を開くのをじっと待つ。
やがて、父は大きく息を吸い込んでから長く吐き出すと、ゆっくり瞼を上げた。
「……厄介なことになった」
ボソリと呟いた父に、信忠も「はい」としか答えられない。それから腕組みを解いた父は、信忠の方に顔を向ける。
「上月城と三木城。お前ならどうする」
唐突に訊ねられた信忠。恐らく、播磨で起きている事態でどちらを優先すべきか問うているのだろう。
ただ、信忠は迷うまでもなく即答する。
「考えるまでもありません。三木城です」
上月城は対毛利の最前線で、今後版図を西へ拡げていく上で重要な拠点だ。失えば播磨侵攻の足懸かりにされてしまう恐れがある。加えて、城を守るのは毛利家に滅ぼされた旧尼子家の遺子遺臣達。ここで見捨てる事があれば「織田家は冷たい、薄情だ」という悪評がさらに広まる可能性が高い。
だが、諸々の事情があるにせよ、上月城より三木城を優先すべきだと信忠は断言する。確かに三万を超える毛利勢は脅威だし、御家再興を目指し奮闘する旧尼子家を手助けしたい気持ちはあるが、向背に敵を抱える状況は何が何でも解消させなければならない。西の毛利勢と播磨の別所勢が連携して羽柴勢を挟み撃ちにしたら、播磨は一気に毛利一色に染まる。毛利の勢力圏が播磨まで迫れば、畿内も安泰とは言えなくなる。それくらい危うい状況だった。
信忠の返答に、父は「理由を述べよ」と質してきた。膳後を敵に挟まれる危うさと最悪の事態を簡潔に述べると、父は「うむ」と力強く頷いた。
「その通りだ。輝元が出てきたなら話は別だが、まずは後ろの敵を片付けるのが先だ。総大将は情に流されるべきではない。如何に勝てるようにするか、負けないようにするか、状況を冷静に判断し決断するのが総大将の仕事だ」
父は信忠の回答に満足した様子で語った。信忠は今後織田家の当主として大軍を率いる機会が増えることから、総大将の心構えを父は説いているように感じた。
ただ、父は悩まし気に重い溜め息を吐く。
「……それに比べ、お前がこれから会う“猿”、いや、“禿げ鼠”は分かっておらん。彼奴はまだ武家の者になりきれておらん」
父が口にした“猿・禿げ鼠”とは、羽柴“筑前守”秀吉のことを指している。水呑み百姓の家に生まれ、織田家には草履取りの身から城持ち大名にまで成り上がる異次元の出世を果たした男だ。主家が滅ぼされて浪人に落ちた明智光秀や甲賀の忍びの家に生まれたとされる滝川一益も底辺を味わった者が城持ち大名になった例はあるが、秀吉は武家の家にすら生まれていない。足軽が目覚ましい活躍をして組頭になる例はあっても、血筋や家柄が重視される武家社会で下層の身分から正規の武士に取り立てられる例は殆ど無かった。信長は能力がある者は出自を問わず積極的に登用していたからこそ、秀吉のような男が生まれた訳だ。
「彼奴は武家の生まれでないからこそ、武家が“当たり前”と思っている事を覆したり、別の視点で物事を捉えたりする事が出来る、貴重な男ぞ。貧しく辛い思いをしてきたから、人の機微に敏い。それに、彼奴を最も買っている点は欲の塊みたいなところだ」
「欲の塊……ですか」
信忠は父の言葉に疑問を抱いた。欲深い人間ならば、敵から高額な金品や絶世の美女を贈られればコロリと転びそうだ。とても危なっかしくて忠義心に欠けるのでは? と信忠は思えた。
しかし、父は信忠の疑念に手を振って否定した。
「“美味いものが食べたい”“美女を抱きたい”“広くて大きな屋敷に住みたい”“もっと偉くなりたい”……そういう人間の本質とも言える根本的な欲こそ彼奴を突き動かす原動力になっている。自らの欲を満たす為にしゃかりきになって働くのさ。この貪欲さは何不自由なく生まれ育ってきた武家の者には無い、奴だけの強みだ。……あぁ、もう一つ忘れていた。“俺に褒められたい”というのも欠かせないな」
父の言葉を聞いて、信忠も何となく秀吉の凄さや裏切らない理由が分かった気がした。
信忠も“偉くなりたい”“今より豊かに暮らしたい”という思いはあるが、秀吉は土台からして違う。もっと簡潔に、人間の本能に近い次元で求めているのだ。これは確かに、父の言う通り特権階級である武家の者には持ち合わせていない感覚だ。そして、今でこそ城持ちの身分になった秀吉だが、他家に鞍替えしたとしても今まで通りの出世街道を歩めるとは思えない。血筋家柄に囚われない織田家の家風だからこそ秀吉は頭角を現したのであって、血筋家柄が幅を利かせる他家で通用するとは考えにくい。さらなる高みを目指すには、父の下で働く以外に選択肢が無いのだ。だからこそ、秀吉は絶対に父を裏切らない。
それから、難しい顔をした父が続ける。
「……奴はこれまで情で成功してきたから、自らの利になるなら他人を斬り捨てる、そうした割り切りが出来ん。今までは情に厚い性格が美徳だったかも知れぬが、この先は足を引っ張る事になりかねない。……勘九郎よ」
「はい」
「奴は必ず上月城救援を訴えてくるが、絶対に折れるな。我等が先に片付けるべきは別所だ。この原則は絶対に曲げてはならん」
父は“絶対”という単語を二回も用いて強く諫める。これだけ強調するのは、秀吉が情に訴えて考えを変えさせるかも知れないと危惧している裏返しとも言える。あまりくどい言い方をしない父が釘を刺すとなれば、信忠も気を引き締めなければならない。
「大坂表に送った面々に加え、摂津守(荒木村重の官名)も送る。何としても播磨を平定しろ」
「……承知致しました」
本願寺方面に出兵している十万超の軍勢に、主に本願寺方面を担当している実力者の荒木村重も播磨へ向かわせると父は言う。反旗を翻した播磨の国人衆を何とか鎮めたい父の強い意志が感じられる。
信忠としても、これだけの陣容を与えられたからには必ず結果を出さなければならない。重圧を肩に感じながら、神妙に受ける。
話は終わりだと父は蘭丸へ目配せする。躙口の付近で待機していた蘭丸が戸を開けようと体を動かすのと同じくして、信忠は口を開いた。
「……一つ、上様にお伺いしたい事がございます」
思わぬ申し出に、眉を動かす父と動きを止める蘭丸。父が目線を送ると、蘭丸は先程の位置に戻った。
ただ、訊ねたはいいが本当に聞いていいのだろうか、信忠の中で葛藤があった。無駄なことや意味のないことを極度に嫌う父の機嫌を損ねるかも知れないと思うと、なかなか踏ん切りがつかない。
一人逡巡している信忠に、父は顎で先を促す。ええいままよ! と怒られる覚悟で信忠は切り出した。
「上様は、何故官位官職を返上されたのでしょうか?」
話の流れから逸れているのは自覚している。その質問に何の意味があるのか分からない。それでも、帝や朝廷の後ろ盾を自ら手放した理由を父の口から聞いておきたかったのだ。
一瞬、怒られるかと内心身構えた信忠だったが……父は意外にも真剣な表情で考えていた。
顎に手をやり暫く考え込んでいた父だったが、ふと何気ない風に答えた。
「……長袖とのやりとりが面倒だから、かのう」
どんな答えが返ってくるか固唾を呑んで見守っていた信忠は拍子抜けした。というより、呆れた。
長袖とは、公家の蔑称である。千年以上に渡り独自の文化や仕来りが公家の中で形成され、言葉一つ取っても公家以外の者達からすれば非常に難解でまどっろこしく感じられる程だ。世の流れから隔離された中で醸成された公家独自の作法や慣習に辟易する者も少なくなかった。
子どもじみた理由で官位官職を返上したと知り唖然とする信忠に、父はさらに付け加える。
「俺も今年四十五。残された時間を考えると、意味も無く中身も無い長袖共のやりとりに付き合うのが馬鹿々々しくなってな」
その言葉を聞いて、信忠は考えを改めた。
信忠も経験しているので分かるが、朝廷や公家のやりとりは非常にややこしく、非常に面倒臭い。無駄に無益と思った事も一度や二度ではない。それでいて、官位官職を得たからといって目に見える見返りがある訳でもない。強いて挙げるなら帝や朝廷のお墨付きを得られるくらいだが、収入が増える訳でも戦いが有利になる訳でもない。寧ろ、朝廷対策で少なくない金と時間が食われてしまう。有益とは決して言い難く、付き合いを止めてしまいたいという父の気持ちは理解出来る。
父・信長は天下人、言い換えれば日ノ本で最も多忙を極める人だ。領国の治政に決裁、諸大名との外交、戦があれば総大将として出陣、豪商や実力者との面会、家臣の育成や管理……他にもやらねばならない仕事は山積している。時間が有り余っている公家とは違うのだ。金と時間を浪費するばかりの公家とのやりとりを減らせば、その分だけ天下人・織田信長として他の事に費やせる。
さらに言えば、父・信長の行動哲学も関係している。信長は幸若舞『敦盛』の一節を特に好んで謡ったとされるが、着目すべきはその詞だ。
『人間五十年 化天のうちを比ぶえば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか』
この一節は永禄三年に桶狭間の合戦の前夜にも舞ったとされる程に好んだとされる。
要約すると『人の世の五十年は下天の一日くらいで、夢幻のようなものだ。この世に生まれて死なないものなどあろうか』という意味だが、信長は“五十年”という句を特に意識している節があった。先程の発言で自らの年齢に言及したり“残された時間”と触れていることから、天下布武を五十歳までに実現させたい意欲が透けて見える。そう考えれば、尚更公家や朝廷に無益な時間を吸われたくないと考えるのも無理はない。
「されど、朝廷対策はどうされるおつもりですか?」
信忠が懸念しているのは、父が無位無官になり朝廷内での重石が無くなる事だ。現在は京の周辺は全て織田家の支配下にあり敵対勢力に脅かされる心配は無いが、公家が全員親織田派という訳ではない。表面上は従順を装っていても、腹の裏では織田家と敵対する勢力と通じている者も居ないとも限らない。上洛直後は三好三人衆と通じている公家も居たし、焼き討ちされた延暦寺と繋がりが深かった公家も居たし、足利義昭に肩入れする公家も存在した。そうした反体制派な公家が多く住んでいた上京を元亀四年に焼き討ちしているが、今も織田家を快く思わない公家は存在していると考えていい。
現在は心配いらないが、この先織田家の勢いに翳りが出てきた時に織田家を追い落とさんと対抗勢力を担ぎ出す動きが出ないとも限らない。天下人である父が朝廷内に睨みを利かせなられないのを信忠は危惧していた。
「心配いらん。お前が居るではないか」
さも当然のように父はサラリと言うが、信忠は仰天した。そんな事、初めて聞いた。
驚きで言葉を失う信忠へさらに父は続ける。
「お前は公卿になったのだから、我等の立場から物言いが出来る。これからは長門守とよく相談して対処するように。最悪、俺の名を出して脅しても構わん」
父が触れた“長門守”とは、村井“長門守”貞勝のことだ。生年は不明だが、この時点でかなり年配の人物だったと考えられる。行政手腕に長けていた事から内政専門の家臣として尾張国を治めていた頃から織田家を支えてきた。永禄十一年の上洛時には明智光秀や木下藤吉郎などと並んで京都奉行に任じられ、天正元年七月に京都所司代に任じられるなど、都の治安維持や公家・寺社との折衝など京における行政全般を担っていた。
言い換えれば父が担っていた仕事をまた一つ受け継いだ訳だが、一筋縄でいかない公家やこの国の頂点に立つ帝を相手にしなければならないと考えただけで、少々気が重かった。これまでは国を如何に運営していくかや敵対勢力とどうやって対峙するかと学び経験してきた信忠だったが、勝手が全く異なる相手に上手く立ち回れるか不安で仕方なかった。
しかし……託された以上、やるしかあるまい。
「……畏まりました」
やや困惑しながらも、謹んで受ける信忠。
織田家の嫡男に生まれた以上、引き受ける以外の選択肢はないのだ。断れば今日まで築き上げてきた地位や立場を全て捨てる事になる。頭を丸めて仏門に入れれば御の字、最悪この場で父に手討ちにされてもおかしくない。
これも、織田家を継ぐ者として避けて通れない道である。父は任せるに足ると判断したからこそ、譲られたのだと信忠は前向きに捉えるようにした。
もう話す事は無いと見た父は、蘭丸に目配せした。すぐに蘭丸は躙口の戸を開け、外へと出る。
信忠は父に一礼してから退室した。気は重いが、心の整理をしている暇はない。まずは急いで播磨へ向かわなければいけない。




