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五 : 青葉 - (3) 旧尼子家

 毛利家の現当主・輝元の祖父・元就は安芸内陸部を地盤とする有力国人の吉川家に次男の元春を、安芸沿岸部を地盤とする有力国人の小早川家に三男の隆景をそれぞれ養子に入れ、実質的に毛利家へ併呑(へいどん)した。支配地域や家の特色から、山陰方面は元春・山陽方面は隆景が主導する区分けも出来上がっていた。それぞれが戦国大名として自立するだけの力を持つ元春・隆景兄弟が(おい)の輝元を支える体制を敷いた事により、偉大な先代を失いながらも毛利家は盤石であった。

 普段は互いの領域に干渉しない両川が二人共出陣し、さらに輝元が後詰で出てきたのは、理由がある。旧尼子家の生き残りには何度も苦い思いをさせられてきたからだ。

 最盛期には周防(すおう)の大内家と中国地方の覇権を争った山陰の名門・尼子家。しかし、元就率いる毛利家が台頭したのもあり、永禄九年十一月二十八日に当時の当主・尼子義久が降伏した事で尼子家は滅亡。義久と二人の弟達は安芸円明寺(えんみょうじ)に幽閉されたが、御家再興を目指す旧尼子家家臣達は京の東福寺に入っていた一門の孫四郎を旗頭にしようと秘かに画策。永禄十一年に還俗し名を“勝久”と改め、京から隠岐(おき)に移り決起の時期が来るのを待った。

 永禄十二年四月。毛利家は大軍を率いて九州へ侵攻したが、筑前の立花城を巡り豊後(ぶんご)の大友勢と交戦、多々良浜(たたらはま)付近を戦場にして睨み合いとなった。元就は西国屈指の港湾都市である博多を手に入れようとしたが、実効支配する大友宗麟(そうりん)はこれを阻止せんと一歩も引かない構えだった。莫大な運上金を巡る攻防で毛利勢が九州に釘付けとなる状況は、御家再興を目指す旧尼子勢には絶好の機会だった。

 同年六月、勝久率いる旧尼子勢が挙兵。この動きに毛利家と領地を接する但馬の山名祐豊も陰ながら支援した。六月二十三日、隠岐から船で出雲国に上陸した旧尼子勢は、勝久の名で国内に潜伏する旧臣へ参集するよう檄を飛ばした。この檄に応じた者はかなりの数になり、当初は数百名程度だった手勢は一挙に三千程度まで膨らんだ。旧尼子勢はまず島根半島にある真山城を攻撃して一日で陥落させると、末次(すえつぐ)に城を築いて拠点とした。その後も出雲国内で徐々に版図を拡げていき、七月中旬にはかつて尼子家の居城だった月山富田(がっさんとだ)城の攻略に着手した。本来ならば出雲支配における最重要拠点として多くの将兵が守っている筈だが、旧尼子勢挙兵前は平穏だったが為に大半の将兵は九州に送られて城には僅かな将兵しか残されていなかった。絶体絶命の状況ながらも、将兵の機転により一度は退(しりぞ)け、その後も旧尼子勢が攻め寄せるも撃退していた。

 月山富田城が危機に陥っていた頃、九州にある毛利本軍は依然として大友勢との膠着状態が続いていた。旧尼子勢は狙いの月山富田城こそ落とせていなかったが、着々と出雲国内で支配地域を拡げていた。そこへ追い討ちをかけるように、大友家で(かくま)われていた大内家の一族・大内輝弘(てるひろ)が宗麟の支援を受けて十月十一日に周防へ渡り、大内家旧臣も加わり約六千の兵で挙兵したのだ。旧大内勢は翌十二日に山口へ侵攻した。

 六月十三日に旧大内勢挙兵の一報を受けた元就はこれ以上の滞陣は困難と判断。各将へ即時撤退を指示し、十五日から撤退を開始した。大内勢は要衝である高嶺(こうのみね)城を攻めあぐねている間に石見(いわみ)から駆け付けた援軍や九州から戻ってきた毛利本隊が到着し、次第に形勢は悪化していった。敗色濃厚となった輝弘は一旦豊後へ戻り立て直しを図ろうとしたが、大友の船は全て引き揚げており完全に追い詰められてしまった。事ここに至り、十月二十五日に輝弘は自刃。これにより“大内義弘の乱”と呼ばれた反乱は鎮圧された。

 十二月二十三日、戦後処理を終えた毛利勢は陣を張っていた長府(ちょうふ)を出立、居城である吉田郡山城へ帰還した。年が明けて永禄十三年一月六日、正月の間だけ休んだ毛利勢は旧尼子勢討伐の為に吉田郡山城を出陣。最優先は、月山富田城の救援だ。前年七月から始まった旧尼子勢の城攻めは何とか乗り切ったものの、月山富田城を包囲し兵糧攻めが半年以上も続いた事から一部の将が降伏するなど、いつ落城してもおかしくない危機的状況にあった。まず毛利勢は一部の手勢を船で先行させ、旧尼子勢を牽制。その間に輝元率いる本軍が石見国を経由して一月中旬に出雲国へ入ると、旧尼子方の城を次々と落としていった。

 前年六月二十三日から出雲へ入った旧尼子勢は目標としている月山富田城こそ落とせていないが、出雲国を席巻する勢いだった。その一方で八月には石見銀山を奪取せんと侵攻したものの守護していた毛利勢に退(しりぞ)けられたり(原手合戦)、勝久達を一時匿っていた隠岐国の隠岐為清(ためきよ)が九月に反旗を翻してその対処に追われたり(美保関(みほのせき)の合戦)と、時間と兵力を浪費させる事態が立て続けに起きていた。ようやく落ち着いた矢先、九州で睨み合いを続けていた毛利勢が戻ってきたかと思うと、周防の旧大内勢の反乱を鎮圧。年が明けると遂に出雲へ毛利勢が侵攻してきたのだ。こうした状況に危機感を抱いた山中幸盛は、毛利勢が月山富田城を目指す上で必ず通過しなければならない布部山(ふべやま)に二月十一日に陣を構え、決戦に臨もうとしていた。二月十三日には毛利勢も布部まで進出し、激突は避けられない情勢となった。

 永禄十三年二月十四日。毛利勢は布部山に陣取る旧尼子勢へ攻め懸かった! 開戦当初は地の利を得ている旧尼子勢が優勢だったが、毛利勢の吉川元春が地元の国人を買収して間道を聞き出し、元春率いる手勢が旧尼子勢の不意を衝く形で急襲してから流れが変わった。元々兵の数で劣る旧尼子勢は激しく動揺し、総崩れとなってしまった。この敗戦で、旧尼子勢は多くの将兵を失っただけでなく、あともう一押しのところまで追い詰めた月山富田城の包囲も解かざるを得なくなり、御家再興の光が遠のく結果となった。

 布部山の敗戦以降、窮地に立たされたり盛り返したりを繰り返してきた旧尼子勢だったが、元亀元年十月から徐々に毛利勢に押され勢力を縮小させていった。懸命に抵抗を続けたものの、元亀二年八月に旧尼子方最後の拠点だった新山(しんやま)城が陥落。当主勝久は落城前に脱け出し、隠岐へ逃れた。同時期に末次城も、守将・山中幸盛も吉川元春に囚われたが、後に脱走している。

 御家再興の夢は叶わなかったが、まだ完全に(つい)えた訳ではない。但馬国に潜伏していた幸盛は元亀四年の始めに因幡(いなば)国へ攻め入り、桐山城を拠点に尼子家再興に向けた狼煙を挙げた。幸盛は因幡国守護の家柄で現在は国を追われている山名豊国(とよくに)と手を結び、因幡国内で少しずつ勢力を拡大させていった。

 こうした動きに、因幡国を実効支配する武田高信(たかのぶ)は自らの地位が(おびや)かされると警戒感を抱いていた。そして、旧尼子勢が本拠である鳥取城から程近い甑山(こしきやま)城に拠点を移すと、“これ以上の西進は阻止しなければならない”と討伐を決断。八月一日、高信は五百騎の兵を率いて甑山城を攻めた。城攻めを開始した武田勢だったが、旧尼子勢の激しい抵抗に遭い損害を出した事で一時退却を決めた。しかし、旧尼子勢の伏兵の出現で武田勢は足止めを喰らっているところに、城を守っていた幸盛の兵が城の門を開けて武田勢に切り込んだ。前後を敵に挟まれた武田勢はさらに多くの死傷者を出す羽目になり、高信は這う這うの体で鳥取城へ逃れた。この“鳥取の田の()崩れ”をキッカケに流れは完全に旧尼子勢のものとなり、武田方だった鳥取城を陥落させるなど因幡東部の支配を確立させた。武田家から奪った鳥取城には豊国が入り、武田家は衰退の一途を辿っていく。

 因幡国から西へ兵を進め出雲国を目指そうとした旧尼子勢だったが、天正元年十一月に思わぬ事態が起きる。旧尼子勢と手を組んできた山名豊国が毛利方に転じたのだ。因幡国内で毛利方の影響が伸びてくる中、旧尼子勢は反毛利勢力と連携しながら対抗していく事となる。天正三年一月には前回の挙兵の際に支援してくれた但馬国の山名祐豊が毛利輝元と同盟を結び、旧尼子勢を取り巻く環境は少しずつ悪化していった。

 天正三年六月、吉川元春と小早川隆景の両名を大将とする軍勢四万が因幡国へ侵攻。約三千程度だった旧尼子勢に対してこれだけの大軍勢で臨んだのは、名門尼子家の影響力の大きさと山中幸盛を始めとする優れた将を多く抱えている点を脅威に感じていた証左で、この機に永禄十二年から続く因縁に終止符を打ちたい強い決意が込められていた。因幡国内の旧尼子方の城を次々と攻略していき、十月上旬には若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)を残すのみとなった。山陽方面で不穏な動きが出てきた為に毛利勢は付城を築いて十月二十一日に撤退したが、山陽方面の反毛利勢力を次々と滅ぼしたり降伏させたりした為に旧尼子勢は孤立してしまった。その後も懸命に持ち(こた)えていたが、毛利勢の圧力で完全に封じ込められていた旧尼子勢は反攻するのもままならず、天正四年五月に若桜鬼ヶ城を捨て、京へ落ち延びた。これにより、尼子家再興を目指した挙兵は再び鎮圧された。

 因幡から逃れた尼子勝久や山中幸盛は信長の元に居たが、織田家が毛利家と対峙する姿勢を打ち出して信長も秀吉に中国攻めを命じると、尼子家再興の夢を叶えるべく三度目の挙兵を決行。対毛利の最前線である上月城を任され、現在に至る。

 最初の挙兵から九年。これで三度目となる旧尼子勢の挙兵に、今度こそ息を止めるべく毛利家は本気で潰しに来たのだ。山陰方面担当の吉川元春だけでなく山陽方面担当の小早川隆景に毛利家当主の毛利輝元も後詰で控える本気の陣容で、絶対に旧尼子家との戦いに終止符を打つという絶対の意思が全面に出ていた。


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