五 : 青葉 - (1) 暗雲漂う播磨筋
年が明けて、天正六年(一五七八年)。信忠、二十二歳。
昨年は上杉謙信に大敗したり松永久秀の造反があったりしたが、久秀を討伐した後は秀吉の快進撃や光秀が丹波・籾井城を攻め落として再侵攻の足懸かりを作るなど、明るい話題も多かった。
慶事はこれだけに留まらない。一月六日、信長は従二位から正二位へ昇叙。摂政関白を独占した五摂家出身の公家を除けば殆どの公家が到達出来ない高位で、信長は正しく位人心を極めた恰好だ。逆に言えば、正親町天皇が天下人である信長にどれ程心を配っているかが窺える。尤も、当の本人である信長は特段ありがたがっておらず、“貰えるものは貰っておく”くらいにしか捉えていなかったが……。
しかし……嬉しい事ばかり続かない。快進撃を続けてきた中国筋で、不穏な空気が流れ始めたのだ。備前の宇喜多直家の居城である岡山城下に潜ませた細作の報告では、一月に入り戦に向けた準備が宇喜多家中で進められているという。同様に、備中の小早川家や安芸の毛利家でも西へ向かう為の動きがあると報告が入ってきた。
こうした動きに対処すべく、秀吉は播磨に戻ると国人達に加古川城へ集まるよう呼び掛けた。二月二十三日、加古川城で今後の方策を決める評定が開かれたが、播磨国内で最大勢力となる別所長治とそれに次ぐ勢力の小寺政職は欠席。別所長治は永禄元年生まれで二十一歳。元亀元年に当時十三歳の若さで家督を継いだが、叔父である吉親・重宗の二人が後見役として支えてきた。この吉親・重宗の兄弟は仲が大変悪く、『織田は信じられない。毛利に味方すべきだ』とする吉親と『日の出の勢いにある信長に付くべきだ』とする重宗で別所家中は対立していた。今回は長治の代理として毛利贔屓の吉親が評定に参加していた。
評定の席で吉親は別所家で代々受け継がれてきた仕来りや決まり事を滔々と語ったが、占いや儀式などあまりに非現実的な提言に流石の秀吉も激怒。最終的には頭ごなしに「儂の命に従っていればいい」と言い放った。効率重視の信長の下で頭角を現した秀吉も似たような思考回路を持っていたが、名門赤松家の流れを汲む別所家の吉親からすれば“百姓上がり”の秀吉の乱暴な物言いに、自尊心を大いに傷つけられた事だろう。前にも後にも“人蕩し”と呼ばれ人心掌握に長けた秀吉だったが、この時期は気が大きくなり粗雑になっていたと言わざるを得なかった。
加古川評定から帰った吉親は、秀吉から受けた仕打ちもあり織田方から離反するよう当主・長治へ強く進言。この時、長治の元には毛利方から調略の働きかけが行われていた。信長の苛烈な性格を指摘した上で、瀬戸内海の制海権を握っている毛利家が総力を挙げて別所家を支援する事を約束していた。若き当主である長治も信長の性格に一抹の不安を覚えており、このまま織田家に従うべきか毛利家に鞍替えすべきか、深く悩んだ。加古川の評定に参加しなかったのも、どちらに属すべきか葛藤の渦中にあったのもある。
選択を間違えれば、別所家は戦国乱世の荒波に呑まれて御家は消えてしまう。悩みに悩み抜いた長治が出した結論は――。
天正六年二月末。別所家、離反! 羽柴家に出していた兵を引き揚げ、居城である三木城に籠城したのだ。播磨で最大勢力の別所家の造反に兵を西へ進めようとしていた羽柴勢に激震が走ったが、事態はこれだけに留まらない。
別所家の離反を皮切りに、別所家に次ぐ勢力の小寺家を始めとした播磨国内の大半の国人達が同調したのである。ほぼ秀吉に従う者しか居ない状況から一転して、味方は羽柴家の参謀として付き従っている小寺孝隆と別所家で親織田派だった別所重宗くらいしか居なくなってしまった。
一挙に毛利色に引っ繰り返った背景には、播磨国人達の間で信長の強引なやり方や価値観に疑問や不信を抱いていた事も大きく作用していた。才ある者は重用されるが才の無い者は容赦なく切り捨てる信長のやり方に恐怖を覚え、長年先祖代々から受け継いできた慣習を否定し既成概念を破壊してきた。播磨という国は国人同士の争いはあれど、強力な勢力が現れれば取り敢えずは従い御家の存続を第一に考える風土が根付いていた。小寺政職などその典型的な例で、家臣の黒田孝隆が強く勧めてきたから織田家に属したものの、孝隆を面白く思わない旧来の考え方を持つ重臣達の声や毛利家の誘いもあり毛利方にコロッと転じてしまった。織田と毛利の両方に良い顔をして、帰趨が定まってからどちらかに付く。そういう曖昧な態度が許されると政職や小寺家の重臣達は本気で考えていたのだ。
播磨で一転孤立する事になった秀吉だが、これはまだ始まりに過ぎなかった……。




