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四 : 根張 - (11) 信忠の策

 七尾城が落ちたとは知らない織田勢は、能登へ向けて加賀国を北上していた。織田方も七尾城の様子を確認する為に斥候や忍びを派遣していたが、上杉方の“軒猿”が暗躍して情報を遮断していた。情報戦では上杉方が完全に掌握していたのだ。

 途中、信長の命で加勢した羽柴秀吉が水島の地で総大将の柴田勝家と上杉勢への対処を巡って大喧嘩。秀吉と親しい前田利家や理解者である丹羽長秀が仲裁に入ったが、「こんな大将の下では戦えない!」と秀吉が勝手に陣を払って離脱してしまった。譜代の勝家は秀吉が身分の低かった頃から(ないがし)ろにしており、秀吉の方も武辺一辺倒で頭を使わない勝家を嫌っていた。正しく水と油の関係で、反りが合わなかったのだ。秀吉の行動は明らかな軍令違反であり、これに激怒した信長は秀吉に長浜で謹慎処分を命じている。

 足並みの乱れはありながらも、織田勢は九月十八日に手取川(てどりがわ)渡河(とか)。この報せを受けた謙信は直ちに七尾城から兵を率いて出撃。加賀に入った上杉勢は河北(かほく)郡・石川郡を瞬く間に落とし、松任城に入った。

 九月二十三日、織田勢の元に“七尾城落城”“謙信率いる上杉勢、松任城に入る”の報せが入った。ようやく全軍が手取川を渡り切った織田勢は二里半(約十キロメートル)先の場所に一万を超える上杉勢が居る事に驚愕した。予想外の事態に勝家は形勢が極めて不利と判断、即時撤退を決めた。しかし、大雨の影響で手取川は増水しており、渡河は遅々として進まなかった。これに対し、織田勢がすぐ近くまで迫っている事を知った謙信は即座に出陣を決定。直ちに松任城を出た。

 同日夜、手取川渡河中の織田勢に上杉謙信率いる上杉勢八千が急襲。後ろから上杉勢、前には増水した手取川という厳しい状況で戦う事を決めた織田勢だが、臨戦態勢が整ってない中で精悍として知られる上杉勢と激突した不利は覆せず、増水した手取川に呑まれ溺死した者も含めて多くの死傷者を出す大敗を喫してしまった。

 この手取川の戦いに関する史料は残されておらず、詳しい数字については分かっていない。ただ、織田勢が謙信率いる上杉勢に大敗したのは紛れもない事実で、上杉勢が噂通りの強さを見せた事で反織田勢力に勇気を(もたら)す結果となった。


 手取川の戦いで大敗した織田勢だが、一つだけ救われた事がある。勝利を収めた上杉勢が、そのまま南進せず能登へ引き返していったのだ。

 能登国にはまだ上杉家に従わない勢力も居て、能登の仕置を完了させる事を優先した形だ。勝利の勢いに乗って越前まで攻め込まれていたら織田方はさらなる被害が出たのは明白だっただけに、上杉勢の行動にホッと胸を撫で下ろした。九月二十六日に謙信は七尾城へ戻ると、戦後処理に着手した。

 上杉勢に大敗したと知らされた信長は、謙信と直接戦うのは遠くない先だと覚悟を固めた。しかし、遠くの脅威よりも足元の火種を消すのが先だと考えた。

 天正五年九月下旬。信忠の元に父から『松永久秀・久通父子討伐の為に出陣せよ』と命が下った。予め出陣があるかも知れない旨を伝えられていた信忠に、驚きはなかった。それでも、信忠は久秀を裏切者と憎む気持ちが湧いてこなかった。正直なところ、戦うのも避けたかったし、殺したくもなかった。父も兵を送ってはいるものの当初は使者を送って翻意を試みていたように、久秀が詫びてくれれば全て丸く収まるのではないか、とも信忠は思えた。

 そこまで考えが至り、信忠の中にある案が浮かんだ。急いで筆を手に取り、何かを記していく。

「伝兵衛」

「はっ」

 戦支度をしている途中、信忠は伝兵衛を呼んだ。すぐに駆け寄ってきた伝兵衛に、信忠は二通の手紙を差し出す。

「内密に、そして急いでこれを届けて欲しい。一通は安土の上様へ、もう一通は――」

「……畏まりました。急ぎ、早馬の手配を致します」

 信忠が口にした宛先に伝兵衛は顔色を変えず応じる。それから一礼すると素早く下がっていった。

 自らの書状で何かが変わるかは分からない。でも、変わるかも知れない可能性に信忠は賭けてみたかった。

 九月二十七日、信忠率いる織田勢が岐阜を出発。翌二十八日に安土へ到着、諸将が揃うのを待った。

 翌二十九日・(いぬ)の正刻(午後八時)頃、夜空に一筋の大きな彗星(すいせい)が現れた。古来から彗星は凶兆を知らせるとされ、西の方角に流れていった事から畿内周辺の人々は信長に反旗を翻した松永久秀の運命と重ねて“弾正星(だんじょうせい)”と呼んだとされる。

 十月一日、先遣隊として送られた明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝の軍勢五千は松永方の片岡城を攻撃。松永家家臣の海老名友清・森正友を始めとする将兵一千が必死に守ったが、激戦の末に海老名・森以下将兵百五十名が討死。片岡城は落城した。

 その二日後、信長の元に越前の柴田勝家から嬉しい知らせが届く。七尾城に戻った謙信が、それ以降動く気配が無いというのだ。後回しにしていた能登の仕置に集中しているとも、もうすぐ迫る冬の雪を恐れて兵を引いたとも、関東の北条家の動きが気になり撤退したとも幾つか諸説あるが、何れにせよ謙信にこれ以上南進する意思が無いのは信長にとって何よりの朗報だった。この好機を活かすべく、信長は久秀討伐に全力を傾ける事を決めた。

 松永家討伐の総大将に信忠、加えて本願寺方面担当の佐久間信盛や先日まで北陸方面に援軍で参加していた丹羽長秀、さらには軍令違反で謹慎処分を受けていた羽柴秀吉も動員し、一気に片を付けるべく動かせるだけの戦力を投入する構えだった。

 十月一日、ある程度の兵が揃ったのを確認した信忠は安土を出発。三日には信貴山城へ到着した。その日の夜、信貴山城下を放火し、示威行動を示した。

 十月四日、夜。明日の戦を前に就寝しようとしていた信忠の元へ、伝兵衛が人目につかぬよう入ってきた。

「……勘九郎様。意中の方より密書が届きました」

 その言葉で全てを察した信忠はすぐに伝兵衛から渡された文を受け取り、開く。手短に『委細承知。全てお任せあれ』と記されていた。

 読み終えた信忠は文を灯明(とうみょう)の火に(かざ)し、燃やしてしまう。誰かに読まれては困るくらい、それくらい大事な内容だった。例え具体的に書かれていなくても、何か勘繰られる事を信忠は最も恐れた。

 全て燃えて文が炭になるのを見届けてから、信忠はポツリと漏らした。

「……済まぬな。危ない橋を一緒に渡らせることになって」

 信忠が謝ると、伝兵衛は静かに首を振る。

「いえ。この身は勘九郎様にお仕えする時から、何処(どこ)へでも参ると決めております。どこまでもお供仕ります」

 そう返され、信忠は軽く頭を下げた。主の我儘に付き合ってくれる功臣に感謝の気持ちをどうしても伝えたかった。

 勝負は、明日。並々ならぬ決意を瞳に宿し、信貴山城の方に目を向けた。


 松永家討伐に先立ち、ある事が行われた。松永家から預かった人質の処刑である。

 元亀二年に反旗を翻した松永家だが、天正元年十二月に降伏。織田家へ復帰するに当たり人質を取っていた。当主・久通の男子二人で、天正五年時点でそれぞれ十三歳・十二歳。近江国永原に住んでいたが松永家が謀叛を起こして翻意を促すも拒否されたので、見せしめの為に京へ送られる事となった。引き取りには吏僚の福富秀勝と矢部家定が向かったが、謀叛と処刑を二人に伝えても落ち着いて受け入れたという。とは言え、二人は元服前でまだ子どもと言ってもいい年頃。祖父や父のせいで自分達が命を落とすと聞かされれば動揺したり現実を受け入れられず泣いたり暴れたりしても不思議でないのに、そうした事は一切なかった。

 京へ連行された二人は京都所司代の村井貞勝の屋敷に預けられたが、年端も行かない二人が何の罪も犯してないのに殺されるのはあまりにも不憫(ふびん)に思った貞勝は、ある提案をした。

「宮中へ助命の嘆願をしなさい。仏門へ入ると言えば命は助かることでしょう」

 この提案に対して二人は貞勝の厚意に感謝しながら、こう答えた。

「ありがとうございます。されど……上様はお許しにならないでしょう」

 二人は信長が裏切者を決して許さない性格を十分に理解していた。その賢さに舌を巻いた貞勝は助命を諦め、親兄弟に手紙を書くよう勧めた。

 しかし、二人はこう返した。

「このような仕儀に至り、父上や祖父上(そふうえ)に今更手紙を書いて何の為になりますか」

 恐らく、織田家に送られる時点でこうなる覚悟は出来ていたのだろう。完全に達観していた二人に、貞勝はそれ以上何も言えなかった。父や祖父へ手紙を書かなかった代わりに、今までお世話になった佐久間信盛へ宛てて『今までお世話になりました。親切にして頂き、ありがとうございました』とお礼の手紙を(したた)めている。

 天正五年十月五日。上京・一条の辻で車に載せられた二人は、洛中引き廻しの上で六条河原に送られた。

 最後まで落ち着いた二人は、六条河原に座らされると西に向かって手を合わせ、念仏を唱えながら斬首された。まだ子どもながら大人顔負けの殊勝な振る舞いに、六条河原に集まった見物人は涙した……と『信長公記』に記されている。

 孫二人が粛清されたが、久秀の決意は揺るぎない。同日、信貴山城を巡る攻防が開始された――。


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