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四 : 根張 - (10) 弾正造反

 その報せを信忠が聞いたのは、岐阜城で政務を(おこな)っていた時だった。

「……松永弾正・金吾が謀叛? それは真か?」

 慌ただしく駆け寄ってきた伝兵衛から一報を伝えられると、信忠は思わず問い返してしまった。

「はい。残念ながら」

 直後、安土から早馬で届けられた内容を伝兵衛は説明する。

 事の発端は、天正五年八月十七日。本願寺攻めに従事していた松永久秀は、突如として持ち場である天王寺砦を焼き払い嫡男・久通と共に大和国の信貴山城へ引き揚げてしまったのだ。これは明らかな軍令違反だが、さらに驚いたのは信貴山城へ戻った久秀は戦支度を始めたのである。

 この動きを知った信長は、まず久秀の真意を(ただ)すべく松井友閑を使者として信貴山城へ派遣した。それも詰問(きつもん)ではなく「どうしてこんな事をしたのだ? 理由を話して欲しい。話してくれたら許してやる」といった具合で、信長は謀叛を起こした怒りよりも何故こうした行動をしたのか困惑の方が強かった。自らに刃向かった者に厳しく対処する信長には珍しく、寛大な対応だった。しかし、久秀は信長が差し伸べた手を払うように拒絶。已む無く、信長は久秀討伐を決断した。

「上様は筒井殿や明智殿に討伐の為に出陣せよと命じられました。また、殿にも出陣の支度をするように、とのこと」

「……そうか。分かった」

 自由に動かせる部隊は、既に七尾城救援へ向かわせている。そんな状況に降って湧いた久秀の造反劇に、信長も方針を転換せざるを得なくなった。丹波攻めの準備をしていた明智光秀や本願寺攻めに加わっていた筒井順慶・長岡藤孝をまずは招集して部隊を編成、武田家の動向を警戒していた信忠も勝頼が遠江方面へ向かっていたのもあり予備で準備させる態勢をとった。

 それにしても、久秀は何という時機に謀叛を起こしてくれたものだ、と信忠は思う。

 上杉謙信に対処すべく多くの将兵が居なくなった隙を見計らったかの如く挙兵したのは、時勢を読むのに長けている久秀らしい判断だ。久秀の挙兵で手薄になった石山本願寺が攻勢を仕掛けてくるかも知れない。比較的平穏だった畿内に衝撃を与えるだけの価値は十分にある。もしも仮に謙信率いる上杉勢が近江へ侵攻してきた時に本願寺と久秀が手を組んで京に迫るような事があれば、二方面に兵を割かざるを得なくなり織田家は苦境に立たされる。それだけは何としても回避したい。

(しかし、弾正殿はまたどうして、反旗を翻したのだろうか)

 久秀は主君をコロコロ変えたり謀叛を起こしたりしている印象が強い故に世間から“梟雄”と呼ばれているが、実際は違う。多くの場面で主家の三好家に従っており、久秀の悪名が全国に轟いた将軍義輝弑逆(しいぎゃく)にも加担していない。元亀二年五月に織田家から離反したのも将軍義昭が大和国で敵対する筒井順慶に肩入れしたのが大きな要因であり、信長に不満を抱いての行動ではなかった。

 傍ら、信長の方も久秀を(うと)んだり邪険に扱ったりしていない。それどころか、信忠は父が久秀のことを“使える奴”と評価しているのを聞いている。京を中心とする畿内で権力を握ろうと様々な勢力が争う状態がずっと続いていたが、久秀は力のある寺社勢力もあり治めるのが難しい土地柄の大和国でその荒波の中を生き抜いてきた。しかも“将軍殺し”“大仏焼き払い”という途轍もない悪名を二つも背負いながら、である。まだ将軍ではない義昭を擁して上洛の兆しを見せた父・信長に逸早く誼を通じ、元亀元年四月に盟友・浅井長政の裏切りで金ヶ崎から退却した際も向背定かでない朽木元網の説得役を買って出るなど、久秀は織田家に多大な貢献をしてくれている。他にも自らの城に天守を築いたり流行し始めた茶の湯に通じていたりと、先見性があり革新的な一面も兼ね備えている点も父は高く評価していた。だからこそ、元亀二年の離反があっても多聞山城を接収するだけで旧領を安堵するという、刃向かった者に厳しい父には珍しく大甘な処分で済ませていた。

 ただ、天正年間に入り両者の関係性に変化が現れ始めた。これまで大和国の守護は久秀に一任していたが、天正三年三月には子飼いの家臣である塙直政のものとされ、天正四年五月三日に直政が討死した七日後には久秀の宿敵・筒井順慶が任じられた。一度謀叛を起こした手前もあり、久秀の扱いが軽んじられるようになったのだ。それに加え、上杉謙信が上洛に向けた動きを見せ、石山本願寺も包囲こそしているが制海権は毛利水軍が握っており、必ずしも織田家が絶対安泰とは言い難い状況も久秀の決断を後押しする材料となった。

 しかし、今挙げた要素は赤の他人が推測したものに過ぎず、久秀の胸中は分からない。今分かっているのは、久秀の謀叛は放置出来ない重大な事案ということか。

「兵の差配について相談したい。誰か呼んできてくれるか」

「畏まりました」

 信忠が命じると、伝兵衛は一礼して素早く下がっていった。

 伝兵衛が去ったのを見届けた信忠は、一つ息を吐いた。

(……弾正殿)

 三年前の正月、岐阜城の茶室で一緒に茶を飲んだ時のことが、信忠の脳裏に浮かぶ。好々爺(こうこうや)とした顔で活き活きと楽しそうに話されていた姿が忘れられない。その一方で、父は久秀の事を“毒”と表現していた。その存在が織田家にとって毒となるか、改めて久秀に問うてみたい気分だった。


 開戦から約二ヶ月が経ち、主君畠山春王丸を失いながらも畠山勢は上杉勢を相手に持ち(こた)えていた。織田勢も日に日に迫っている状況で、何としても早く七尾城を落としたい上杉謙信は調略で内部の切り崩しを図った。

 畠山家は実権を握る有力家臣七人が合議制を採っていたが、その中でも特に力を持っていたのが長続連と遊佐続光の二人だった。続光は天正二年に当時の主君だった畠山義慶(よしのり)が急死した際、続光の暗殺が疑われる程に家中で専横(せんおう)を尽くしていた。その続光のやり方に反発を覚えた家臣達が家中で勢力を伸ばしていた続連につき、春王丸の代になると続連が主導権を握るようになった。これと前後して上杉家が西へ進む動きを見せ、続光は戦に強い上杉方に付くべきだと主張したが、年々勢力を拡大させている織田家に付くべきだとする続連の主張が家中で優勢となり、上杉勢と対決に至った経緯がある。こうした背景から、表面上は畠山家の総意として従っているものの家中の主導権を握れていない続光は内心不満を抱えていた。

 この時点で織田方の援軍は加賀に達していたが、それを知らない畠山勢は長引く戦に勝てる見込みを望めなかった。謙信は七尾城内に漂う重苦しい雰囲気を把握した上で、続連に反発する続光へ調略を仕掛けた。続光は同じく続連に不満を抱く温井(ぬくい)景隆(かげたか)など同調する者を誘い、上杉方に内応する旨の書状を九月十三日付で謙信に送った。

 九月十五日、続光達の手勢が寝返り、その手引きで上杉勢が七尾城内に雪崩れ込んだ。これと前後して長続連を始めとする一族郎党が(ことごと)く始末された。続光の造反が決定打となり、七尾城は落城。能登は上杉家の領土となった。


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