四 : 根張 - (8) 機が熟すまで
天正三年五月に設楽原で大敗した武田勝頼は、帰国後直ちに武田家の立て直しに着手した。多くの将兵を失った痛手は大きく、まずは他国から攻め込まれない為に外交から始めた。武田家の駿河侵攻で一時断交した北条家とは元亀二年に同盟を再締結しており、大敗からの再建に注力したい武田方と北関東で抵抗を続ける国衆へ攻勢を掛けたい北条方の思惑が一致し、さらなる関係強化に踏み切った。天正五年一月二十二日に北条家当主・北条氏政の妹(実名不明)が勝頼の後妻として嫁いできた。また、勝頼が最も相手にしたくない上杉謙信は京を目指して西進しており、北信濃へ目が向いていなかった。これで一先ずは侵攻の不安を取り除けた。
一方、武田家と同盟関係を強化した北条氏政は、天正五年三月に北関東へ侵攻。この動きに慌てたのが、能登の七尾城を包囲している上杉謙信だった。北関東には上杉家に臣従している勢力も少なからず存在し、これらの勢力を破った北条勢が国境を越えて越後を脅かす恐れが出てきた。この為に謙信は七尾城攻めを一旦中断し、本国へ撤退した。
二万の大軍を相手に約五ヶ月堪えてきた畠山勢は、謙信を始めとする大半の上杉勢が撤退するとすぐさま反撃を開始。上杉方に陥とされた城を次々と奪還していった。上杉方も留守を守る部隊を残していたが、勢いに乗る畠山勢が優位に戦を進めた。
武田信玄と互角の勝負を繰り広げ、“軍神”“毘沙門天の化身”と呼ばれ恐れられてきた謙信の一時撤退は、その存在を脅威と捉えていた信長にも朗報だった。越前の仕置はまだ半ばで謙信と全面対決するにはまだ準備が整っていなかったからだ。ただ、今回の撤退はあくまで一時的な措置であり、再侵攻してくるまでの“凪”に過ぎなかった。
上洛を果たしてから、急速に勢力を拡大させていった織田家では、元亀年間から徐々に有能な家臣に特定の敵を担当させるようになった。浅井家は木下藤吉郎、伊勢方面は滝川一益、といった具合だ。専属ではなく状況に応じて別の戦に駆り出す事も多々あったが、一区切りがつけば働きに応じて褒美が与えられる。先述した藤吉郎は浅井家を滅ぼした後に旧領が与えられ、一益も伊勢長島の一向一揆を鎮圧させた後に伊勢長島の城と領地が与えられた。織田家の規模が大きくなり、信長一人で全てに対応出来なくなったが故にこうした分業制を取り入れたのだ。元号が天正に変わってからはさらに顕著となり、信長は事業の総仕上げか御家の行く末を左右する重大な局面にしか戦に出なくなった。
信忠もまた、天正三年の岩村城攻めから武田家の担当を任されている……と、思う。曖昧な表現になったのは、父の口からはっきりと命じられた言質を取ってないからだ。恐らく、設楽原で大打撃を与えた武田家は父の中で“自分が出る程でもない”と判断したのだろう。寧ろ、今最も警戒しているのは昨年から西上の動きを見せている上杉謙信だ。安土に本拠を構えたのも、船で琵琶湖を北に横断すれば越前の国境近くまで迅速に移動可能な地理も関係している……そう捉える家中の者も居た。上杉家の担当は織田家で一番戦上手な柴田勝家が充てられており、さらに家中で頭角を現しつつある母衣衆出身の優れた武将を何人も寄騎として付けている。それだけ上杉家を警戒している裏返しだが、万一の時は父自ら対応する心構えなのだろう。
ただ、信忠と他の重臣達と決定的に異なる点がある。……自らの裁量で事を進めるのを、信忠は厳に慎んでいるのだ。
武田家を担当するに当たり、父は「武田の動きをしっかりと見張れ」と口にした。“切り取り次第”とか“切り崩しを図れ”など、仕掛けろとは一言も言っていない。他の重臣、例えば丹波攻めを任されている明智光秀は地元の地侍に調略を仕掛けたり自らの判断で侵攻したりして結果を出そうとしている。見張るだけでいいのか、と信忠が思った事も一度や二度ではない。
岩村城を奪還して約二年。城主の河尻秀隆からは定期的に報告は届けられるが、武田方に目立った動きは見られないという。設楽原の戦で多くの将兵を失った影響はまだ残っていると考えていいだろう。武田勝頼も天正四年の春に遠江の高天神城へ救援に出向いた他は国外へ殆ど出ていない。出兵するには兵を集めたり金が掛かったりするので、それだけの体力がまだ戻っていない裏返しでもある。
信玄存命時の“戦国最強”と謳われた頃から比べて武田家はかなり力は落ちているが、依然として警戒に値する。これまでは防衛戦、若しくは奪還戦が主だったが、今は違う。敵国へ攻める侵攻戦だ。美濃までは織田領だが、信濃へ一歩入ればそこから先は敵地。地の利も、民も、武田方にある。そして、信玄の薫陶を受けた一騎当千の武将も、数々の戦いで鍛え上げられた兵も、数を減らしてはいるが残されている。設楽原の完勝の勢いで一気呵成に攻め込まなかったのは、逆襲されて負けるような事があれば勝利の印象や効果が薄れてしまうのを危惧したから、と信忠は分析している。
父は、時機が来るのを待っているのかも知れない、と信忠は見ていた。今の武田家は例えるなら“手負いの猛虎”、迂闊に手を出せば痛い目に遭う。ならば、もう少し弱るのを待つだけだ。幸い、武田家は勝頼やその取巻と信玄存命時から御家を支えてきた重臣達の間に確執がある。設楽原の大敗の一因にもなったが、戦の後も解消されるどころか溝はより深くなっていた。これまで何かと勝頼に意見してきた山県昌景や馬場信春などが亡くなった事で実戦経験に乏しい長坂釣閑斎や跡部勝資の発言力が一層増し、信玄の代から仕えてきた海千山千の武将達の声が勝頼の耳に届きにくくなっている。軋轢が生じれば、調略が仕掛けやすくなる。武田家が腐っていくのを、静観すればいいだけだ。この点、せっかちな性格で短期間の内に成果を求めてくる父には珍しく、急げとも早くしろとも催促はしてこない。
このままでいいのだろうか、と思わなくもないが、「無理攻めして多くの死傷者を出すくらいならマシだな」と努めて考えるようにした。




