四 : 根張 - (6) 日向守
天正五年二月二日、前々から極秘裏に進められていた雑賀衆三組への調略で織田方につく確約を得られた事から、信長は紀州征伐の動員令を発した。九日には安土を出発した信長は上洛。そこで尾張・美濃の兵を率いてきた信忠と合流した。他に伊勢・近江・若狭・播磨・丹後・丹波などから将兵が続々と京へ終結、総勢十万を超える軍勢に膨れ上がった。雑賀衆で織田家と敵対する勢力は二千から三千程度だったので、かなり大掛かりな規模と言える。参加している将も信忠を始め、北畠信意・神戸信孝・長野信包などの一門衆、佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益・丹羽長秀といった重臣、さらに堀秀政・荒木村重・長岡藤孝・筒井順慶など有力武将まで顔を揃えており、上杉勢の押さえとなっている柴田勝家や武田の動きに睨みを利かせる河尻秀隆などを除けばほぼ総力戦の様相である。
二月十三日、織田勢は京を出発。十六日に和泉国へ入り、翌十七日には根来衆と合流。十八日に泉州佐野、二十二日には泉州志立に本陣を構えた。ここで軍勢を三つに分け、三万の軍勢が浜手・山手の二方面から攻める事を決めた。浜手側は信忠を総大将に、一門衆や明智光秀・滝川一益・長岡藤孝・筒井順慶など。山手側は佐久間信盛を総大将に、羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政など、先導役には根来衆・雑賀三組がついた。これは雑賀三組が内陸部を地盤にしている背景がある。
「新五郎殿、一つお訊ねしたいのですが……」
浜手側の総大将を任じられた信忠は、今回副将を務める斎藤利治に相談を持ち掛けた。
「如何されましたか?」
「此度の相手の雑賀衆ですが、実を申しますと敵の事をあまりよく分かっていないのです。何方か詳しい方は居りませんか?」
予め雑賀攻めを行う旨を伝えられていた信忠だが、敵である雑賀衆がどうしてそこまで恐れられるか理解していなかった。名前を聞いた事はあるし、特に“雑賀孫一”の武勇は一騎当千と聞いているが、その強さを信忠は戦う前に知っておきたかったのだ。
信忠の相談に「それは良き心掛けに存じます」と微笑む利治。やや考えてから、利治はゆっくりとした口調で答えた。
「それならば、私の親戚筋に詳しい者が一人居ります。その方に聞いてみましょう」
その日の夜。一人の武将が信忠の陣を訪れた。
「城介様。日向守、お召しにより罷り越しました」
その者は、まだ二十一歳の若輩者である信忠が相手でも慇懃な言葉遣いをしてきた。垂れる頭の月代がやや橙色に灼けており、父が“キンカ(金柑)”と呼んでいるのは「言い得て妙だな」と内心感心した程だ。
「日向守殿、そんなに畏まらないで下さい。ささ、顔をお上げ下され」
あまりに格式張った挨拶で、逆に恐縮した信忠が声を掛ける。その声に促され、作法に則って少しずつ頭を上げていく。
その者とは――明智“日向守”光秀。織田家の快進撃を支える重臣の一人である。
明智光秀の前半生については謎が多い。生年も『当代記』で永正十三年(一五一六年)、『明智軍記』では享禄元年と二つの説があり、確証となる史料が存在しないことから不明とされている。ただ、享禄元年生まれと仮定してもこの時四十九歳、戦国期の寿命を考慮すれあかなり高齢の部類に入ることには変わりない。(享禄元年生まれとすれば)佐久間信盛と同年齢、最年長の柴田勝家より六つ下となるが、当主の信長より五つ上だ。
光秀の父についても定かではないが、斎藤道三の正室で濃姫や斎藤利治の母に当たる小見の方は光秀の叔母とされる。明智荘の明智城で生まれた説が有力だが、美濃国内の他の地域で生まれた説もある。『明智軍記』によると道三に仕えたが、長良川の戦いで道三が敗れると義龍方の兵に明智城を攻められ落城、一族は離散したとされる。その後、光秀は越前へ落ち延びたとも、諸国を放浪したともされるが、こちらもよく分かっていない。
そんな光秀が陽の目を浴びるようになるキッカケとなったのが、足利義秋だった。朝倉家の禄を食んでいたが冷遇されていた光秀に庇護したけれど半分厄介者扱いされていた義秋の世話を押し付けたとも、浪人中に幕臣と関係を持ち興福寺で幽閉されていた覚慶脱出の手助けをしたともされるが、どちらにせよ義秋と繋がりを得た事で光秀の運が開けた恰好だ。朝倉家で寄寓する義秋の信任を得た光秀は、次第に頭角を現していく。
一向に上洛の兆しを見せない浅倉義景の姿勢に痺れを切らした義秋改め義昭は、美濃を制して勢いに乗る織田家へ移る事を考え始めた。この時・信長の正室・濃姫と血縁のある光秀こそ使者に相応しいと判断し、過去の伝手を頼りに織田家へ接触。結果、織田家が義昭を引き取る事で合意に至った。
義昭が織田家へ移るに際して朝倉家の家臣だった光秀は幕臣として同行する事となり、同時にその才を高く評価した信長が織田家の家臣として召し抱えた。義昭は流浪の身で幕臣に俸禄を支払う能力を持っておらず、新参の光秀の扶持は織田家が支給する運びとなった。これにより、光秀は義昭と信長二人の主君を持つという、極めて異例な形の主従関係が結ばれた。
信長が光秀を特に評価していた要因は、有識故実に詳しい事だ。上洛が実現すれば、幕府や朝廷との折衝が求められる。しかし、織田家は尾張の田舎大名、古くからの仕来りや作法・礼儀に精通しているとは言い難かった。京の都を押さえるならば幕府や朝廷との調整や交渉は不可欠で、その役を光秀に任せようとしたのだ。実際、光秀は永禄十一年に上洛を果たしてから、織田家と幕府・朝廷の橋渡し役として奔走する事となる。
また、永禄十二年一月に義昭の宿所である本圀寺が三好三人衆勢に襲撃された際に、光秀は少ない兵を指揮するなど奮闘。その後も元亀元年の金ヶ崎の退き口では殿の一人として奮戦、信長と共に各地を転戦しながら武功を重ねていった。元亀二年九月の比叡山焼き討ちの論功行賞ではこれまでの功績を評価されて近江志賀郡五万石が与えられ、織田家中で初めて城持ちの身となっている。
将軍義昭と信長の関係が年々悪化していく中で光秀も板挟みになっていたが、次第に信長の方へ傾いていく。元亀三年十二月には「先が望めない」と義昭へ暇乞いを願い出て(義昭はこれを認めず)、翌元亀四年二月に義昭が挙兵した際には信長方についた。義昭が京から追放された後は、織田家の忠実な家臣として各地を転戦していった。
武将としても、内政官としても、朝廷との折衝役としても、多大な貢献をしてきた光秀。譜代ではない身で、一度はどん底まで落ちた光秀が、日ノ本で最も勢いのある織田家の重臣まで昇り詰めたのは、血筋家柄門閥を一切問わず有能であれば重用する信長のお蔭とも言える。
しかし……その光秀だが、昨年から勢いに翳りが見え始めた。
順風満帆に出世の階段を上がっていた光秀にケチが付いたのは、丹波攻め。丹波平定を目前に有力国人の裏切りに遭い、大きく躓いてしまったのだ。敗戦の爪痕が癒えないまま本願寺攻めに駆り出されたが、原田直政を討ち取った本願寺勢が光秀達が籠もる天王寺砦に押し寄せ、絶体絶命の窮地に立たされた。信長が救援に駆け付けて事なきを得たが、度重なる激務に老体が耐えられず五月二十三日に光秀は過労で倒れてしまった。坂本城に運ばれて療養し回復したものの、看病していた愛妻・煕子が今度は倒れ、十一月七日に死去してしまった。天正四年は光秀にとって災難とも言える年だった。
任せていた丹波攻めの失敗に体調面の不安などあった光秀を、信長は変わらず重用していた。光秀も主君の期待に応えるべく、丹波に新たな拠点となる亀山城を築く計画を進めながら、今回の総動員令に招集された次第である。
「今日呼んだのは、日向守殿に是非とも伺いたい事があるからだ」
「は……私で良ければ、何でもお答え致しましょう」
信忠の言葉に、光秀は控え目に応える。
光秀は鉄砲に詳しい人物だった。朝倉家へ仕官した際も鉄砲の腕前を披露したのが決め手とされ、本圀寺の防衛戦では自ら鉄砲を放ったとも言われる。今回の戦で光秀と同じく浜手側に配属された滝川一益も浪人時代に鉄砲を扱っていたとされ、“鉄砲は足軽の武器”という当時の価値観には珍しく、一軍の将でも鉄砲を扱える者が織田家には多かった。
「雑賀衆はどうして強いのですか? 何か理由があるのでしょうか?」
信忠が訊ねると、光秀は一瞬“成る程”という顔をした。その後、ゆったりとした口調で話し始めた。
「……雑賀衆が鉄砲に強みを持っているのはご存知ですよね」
「うむ。色々な方々から、そう聞いている」
光秀の問いに、信忠は頷く。雑賀衆、それと根来衆は鉄砲に特化した傭兵集団として知られていた。
鉄砲が種子島に伝来して程なく、根来寺の僧で武将の津田“監物”算長が島へ渡り、領主である種子島“左近衛将監”時尭が南蛮人から購入した内の一挺を譲り受けた。算長は根来寺へ鉄砲を持ち帰ると、複製する事に成功。まだ日本では珍しい鉄砲の生産技術を得た根来寺は量産化に入ると共に、鉄砲の技術向上や戦術研究に力を入れていった。また、根来寺と地理的に近い雑賀衆とも良好的な関係を築いており、根来寺で製造された鉄砲を早い段階で入手出来たのもそれが大きかったものと考えられる。
「では、鉄砲を武器として運用する上で最大の欠点は何でしょうか? ……金銭面は考慮せずに、です」
そう問われ、咄嗟に返せない信忠。鉄砲の難点で真っ先に浮かんだのが“金が掛かる”だったからだ。
思いがけない質問に思考が袋小路に入ってしまった信忠に、光秀はサラリと答えを明かしてくれた。
「撃ち終わった後、次に撃てるようになるまで幾許かの時が掛かる事です」
光秀の答えに、信忠も「あぁ」と納得した。
鉄砲は威力が高くて引き金を引くだけで撃てる簡単さが売りの武器だ。しかし、欠点は火薬が湿気り火縄の火が消えてしまう雨と、発射後に再装填するまで時間を要する点である。
発射後の筒内には煤や残滓が残っており、この状態で新たに弾薬を詰めると不完全燃焼を起こして最悪の場合筒内で爆発して放ち手の命を奪ってしまう。その為、発射後は必ず筒内を槊杖で掃除し、その上で再装填を行う必要がある。この“掃除から再装填”という二つの手間を挟む事が、一瞬の遅れが命取りとなる戦場で嫌厭される一つの理由でもあった。
次に撃つまでの間は当然の事ながら反撃能力は無く、この隙に敵が向かって来れば無防備な放ち手は討たれてしまう。熟練した放ち手でもどんなに早くて再装填まで三十秒は掛かり、矢を番えるだけで放てる弓と比べて明らかに遅かった。
設楽原の戦いでは発射してから再装填を完了させるまでの間を埋める為に、幾つかの組に分けて順繰りに撃っていく仕組みで臨んだ。再装填する間に他の組が発射する事で、敵に反撃する暇を与えなかったのだ。しかし、それを可能にしたのは堺や国友村など主要な鉄砲の生産地を押さえ、硝石も十分に確保出来るだけの莫大な資金を持つ織田家だからこそ成し得た戦法であり、他家が真似するのは条件的に極めて難しかった。
「雑賀衆の強みは、正確さだけでなく空白の時が短い点にあります」
それから、光秀は雑賀衆の強みについて説明する。
一般的に、装填から発射まで一連の行程を放ち手一人で行うのだが、雑賀衆は“撃つ人”と“準備をする人”の二人組で行っていた。二組は予め二挺以上の鉄砲を保有している状態で、“撃つ人”が撃ち終えると“準備する人”に鉄砲を渡し、入れ替わりで装填済みの鉄砲を受け取って発射する。こうする事でお互いに専門の仕事に集中出来て習熟度が格段に上がり、時間短縮と精度向上に繋がったのだ。このやり方は“雑賀撃ち”と呼ばれ、紀伊の地侍集団に過ぎない雑賀衆の名を全国に広める一因となった。
「仕組みが分かったとしても、雑賀衆の域に達するのは一朝一夕では難しい事です。実弾を用いた訓練を繰り返し繰り返し行わねばならず、それを長期間継続してやっと会得出来るのです。こう言っては語弊があるかも知れませんが、織田家で“雑賀撃ち”を導入するのは率直に申し上げて割に合いません」
はっきりと断言した光秀の所感に、信忠も同意する。
鉄砲は高価な武器ではあるが、主に扱うのは足軽など“雑兵”と呼ばれる者達だ。この当時、武家の者は一軍を率いる者という考え方が一般的で、剣や武芸の道をとことん究めようとするのは端武者のする事と見做され、武家階級では良しとされなかった。鉄砲も同様で、首級を挙げる事こそ誉れとされていた中で“誰が撃ったか分からない”鉄砲では武功の対象にはならなかったが為に、武家で鉄砲の存在は知っているが実際に触った事が無いという者も決して珍しくなかった。扱うには一定の習練が必要とされる刀槍と違い、鉄砲は照準さえ合わせればあとは引き金を引くだけという手軽さから、末端の兵に使わせていた事情もある。
織田家では(戦の度に徴兵される者も中には居たが)俸禄で雇われた兵を常時抱えていたが、その人数は膨大で仮に実弾を用いた訓練を行おうとなれば、一回だけで大量の硝石が消費されてしまう。財政面でゆとりのある織田家とは言え、海外からの輸入に頼っている高価な硝石を訓練で浪費していては、あっという間に金蔵が空っぽになってしまう。費用対効果が悪過ぎるのだ。
その点、雑賀衆は鉄砲を入手した直後から武家の者も含めて積極的に鉄砲を取り入れていた。海運業を営んでいたので硝石を独自で調達する手段も確保、傭兵業を生業としていたので磨いた技術で稼げる、人数もそれ程多くないので訓練に掛かる経費も抑えられる。こうした背景から雑賀衆は少数精鋭の鉄砲に特化した傭兵集団になり得たのである。
光秀の明智勢は天王寺の攻防で雑賀衆と対峙しており、その強さは身に沁みて実感していた。鉄砲に詳しいだけでなく雑賀衆の強さをよく存じており、利治の言っていた通り適任と言える。
「発射から次の発射までが短いのは脅威です。こちらが二発撃つ間に相手は三発撃ってくるのですから。おまけに、雑賀衆の放ち手は場数を踏んでいるのもあって命中精度が高いですから、非常に厄介です」
武田勢を打ち破った設楽原の戦いでは、放ち手に精密な照準を合わせる事を求めなかった。幾つかの組が替わる替わる交代で撃たせて間隔を詰め、大勢が一斉に発射する事で弾幕を張った。端的に言えば、“数撃ちゃ当たる”だ。しかし、雑賀衆は違う。日頃から訓練を積んだ熟練の放ち手が末端に至るまで揃っている。鉄砲の数では織田家は上回っているが、放ち手の技量は圧倒的に雑賀衆の方が上で、他の大名家の鉄砲衆を相手にするのとは訳が違うのだ。
「日向守殿、我等はどのように戦えばいいのだ?」
雑賀衆の強さは理解した。侮れない相手だからこそ、信忠はどう臨むべきか光秀から助言を貰おうと考えた。
「野戦・攻城を問わず、竹束を用いたり塹壕を掘ったりするなど被弾を避ける工夫を凝らすべきです。それと……峠や深い森の中などの見通しが利かない場所を通過する際は、特に注意して進むべきかと」
鉄砲は従来の飛び道具と比べて圧倒的に威力はあるが、丸状の弾が貫通する力はそれ程でもないので、木製の楯は撃ち抜けても耐久性のある物は貫けなかった。その為、鉄砲対策として重宝されたのが入手も容易で加工も手軽な竹を束ねて盾とする竹束(竹把とも)だった。ただ、欠点を挙げるとすれば竹束は燃えやすいので、火矢を放たされたら一溜まりもないのだが。
しかし、移動中に気を付けるべきとは、一体どういう事だろうか。信忠は少し疑問に感じた。見通しの悪い箇所は伏兵が潜んでいる可能性が高いのは重々承知しているが、わざわざ指摘する程でもなかろう。
「城介様。我等が今回の戦で最も避けなければならない事は何かとお考えでしょうか?」
信忠の疑問を察したのか、光秀が問い掛けてきた。少し考えた信忠は、ハッと気が付いた。
「……大将が討ち取られる事、か」
導き出した答えに、光秀も頷く。
三千程度の雑賀衆が十万を超える織田勢に戦で直接勝つ事は、“絶対”と断言出来ないものの極めて難しいだろう。まともに戦っても勝てないのは明らかな状況で逆転するにはどうすればいいか。――負けに等しい状況を作り出す事だ。具体的に言えば、総大将の信長か名の知れた重臣を討ち取れば、織田家の威信に傷を付けられる。
その逆転勝利を目論む雑賀衆には、好材料が二つある。一つは、雑賀衆が鉄砲に特化した傭兵集団で、優れた狙撃手を多数抱えていること。もう一つは、地の利を得ていること。地元で長年暮らしてきた雑賀衆の人々からすれば、どこが狙撃に適しているかをよく分かっている。大将首を目的とした狙撃ならば少人数で実行可能で、文字通り“一発”で形勢を引っ繰り返す事も有り得る。
一方で、信長もヒヤリとした経験が幾つかある。元亀元年には千草越えの最中に狙撃され、昨年には天王寺の戦いで脚を負傷している。その天王寺の戦いの前には本願寺攻めの総大将を任されていた原田直政が銃撃されて討死している。雑賀衆を最も警戒しているのは父・信長なのかも知れない。
「表現は適切ではないかも知れませんが、末端の兵は幾らでも補充が利きます。然れど、将はそうもいきません。将が少なくなれば、その分だけ我が軍の強さが落ちますから」
足軽など“指示を受ける”兵士は失っても徴兵すればそれで済む。しかし、“指示を出す”将は違う。特に、味方が劣勢に立たされた時に兵が踏み止まって戦ってくれるかどうかは指示を出す将の手腕が問われる。兵は勝っていれば恩賞欲しさに前のめりで戦ってくれるが、反対に苦しくなれば我が身危うしと戦う気力が削がれ、最悪逃亡に走ってしまう。それを上手く制御して上の采配通りに戦わせるかが将の仕事だ。総大将は戦を俯瞰して命令を出すが、その通りに動くかは現場の将に懸かっていた。
将と言っても代々武家の家に生まれた者から足軽から手柄を重ねて組頭に出世した者まで様々だが、良い将になるかは個人の器量に因るところが大きい。怒鳴り威張り散らすだけの無能な輩も居れば、兵の実力を二倍にも三倍にも底上げしてくれる素晴らしい将も居る。優れた将は軍の財産であり、強さの原動力だ。優れた将を育てるには経験が何より重要で、育つまでに時間が掛かる。戦に勝つ事も大事だが、優れた将を失わない事も今後は大切になってくるのだ。
「相手を理解すれば、予測と対策が立てられます。気を抜かず、用心に用心を重ねる事こそ肝要かと」
「……相分かった。日向守の助言、しかと受け取った」
利治の勧めで光秀から話を聞いたけれど、本当に良かったと信忠は心の底から思った。これを知っておくのと知らないのとでは対応が変わっていただろう。改めて、気を引き締めて戦に臨もうと信忠は胸に固く誓った。
孝子峠を越えて紀伊国に入った織田勢は、国境から程近い中野城を包囲した。雑賀衆側も進軍を食い止めるべく兵を入れていたが、多勢に無勢で二月二十八日に交渉の末に開城。信忠は中野城に本陣を構えた。この後も雑賀方の城砦を落としていき、三月一日には平井にある鈴木重秀の館へ攻撃を開始した。
対する別動隊は風吹峠から根来を経由して雑賀荘を目指した。雑賀衆は雑賀城(妙見山城とも)を中心に雑賀川沿いに城砦を築き、川岸には柵を設けて織田勢の進軍を阻む構えだった。
当初こそ圧倒的な数的優位を活かして快進撃を続けていたが、時間の経過と共に変化が現れ始めた。地の利を持つ雑賀衆は織田勢と直接戦うのを避け、少人数による奇襲戦に切り替えたのだ。行軍中または兵站部隊が襲われるなど、徐々に死傷者の数が増えていった。膠着状態に陥り、織田方の進軍も次第に停滞した。
こうした状況に、北陸方面の上杉勢の動向が気になり長期戦は避けたい信長と、善戦しているものの十万を超える軍勢が相手ではいつか限界が来るのは明白な雑賀衆とで、落とし処を探る動きが水面下で行われた。その結果、雑賀衆は本領安堵の代わりに今後は本願寺の戦に加わらない事で合意に達した。鈴木重秀や土橋若太夫など雑賀衆の主立った七名が連署した誓紙を信長に差し出し、三月十五日には信長が雑賀衆の者達に宛てて朱印状を渡した。これにより、紀州征伐は手打ちとなった。三月二十一日、信長は京へ戻っている。
完全勝利とはいかないまでも、雑賀衆を本願寺から切り離す当初の目的は果たせられた。開戦から六年半以上が経過しても未だに抵抗を続ける本願寺にとって、雑賀衆の離脱はかなりの痛手であった。主に石山合戦で痛い目に遭ってきた雑賀衆に信長が寛大な処分で済ませたのは、天下布武実現の為にこの先も戦があるのを踏まえて、その力を利用したい思惑が少なからずあったものと思われる。
信忠も浜手側の総大将として一定の成果を挙げ、織田家当主の面目を保った。目覚ましい活躍こそまだ無いが、戦国武将の階段を着実に上っていた。




