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四 : 根張 - (4) 墓参り、謙信動く

 天正四年八月上旬、信忠は伝兵衛など少人数の供を連れて尾張に向かった。織田家の本拠は岐阜へ移ったものの、尾張は織田家本貫の地。(かつ)て本拠だった清州は尾張の中心地として今も栄え、清州城も尾張統治の中心地として機能していた。

 今回信忠が尾張へ入ったのは、普段は岐阜で政務を(おこな)っているので尾張の実情を自らの目で確かめるのが主な目的だった。しかし、信忠一行は真っ直ぐ清州を目指すのではなく、公務とは関連性の無い場所を訪れていた。

 その場所は、久昌寺(きゅうしょうじ)。信忠の生母・吉乃が眠る菩提寺である。

 元は生駒家の菩提寺だったが、永禄九年に吉乃が亡くなると信長は愛する者を弔う為に六百六十石を寄進(きしん)。それを受け、寺の名をそれまでの“龍徳寺”から吉乃の法名(ほうみょう)である『久菴桂昌(きゅうあんけいしょう)大禅定尼(だいぜんじょうに)』から“久昌寺”と改めている。

 信忠が久昌寺の門を(くぐ)るのは、実に約十年振りだった。

「お久しゅうございます。……真に、大きくなられましたな」

 信忠を出迎えてくれた住職が、感慨深げな表情を浮かべる。生母・吉乃が亡くなった時は十歳、まだあどけなさが残る子どもだった奇妙丸は、今では織田弾正忠家を継いだ二十歳の若武者に成長を遂げた。目を細めるのも無理はない。

 住職の言葉に「ありがとうございます」と返した信忠は、振り返って家臣達の方に顔を向ける。

「皆、私は母と二人きりで話がしたい。暫し、こちらで待っていてくれるか」

「承知致しました」

 墓参りに他人が立ち会うのは無粋だと分かっているので、信忠の言葉に皆が二つ返事で応じる。尾張国内は治安が良好なので襲撃される不安はほぼ無いのもあり、護衛が居なくても大丈夫だという背景もあった。

 供を待たせて、母が眠る墓の方へ歩いて行く信忠。ここへ来るのはいつ以来だろうか。母を亡くしてからは、生駒屋敷の大人達を心配させまいと気丈に振る舞ったが、どうしても悲しくて辛い時にはこっそり来ていたからな。最後に訪れたのは……父と偶然鉢合わせした時か。あれからまだ十年しか経ってないのか、と内心驚いていた。

 母との想い出を振り返りながら一人歩いた信忠は……母の墓の前に立った。十年振りに来たけれど、前より墓が小さく映った。墓の大きさが変わる筈がないのだから、信忠が大きくなった証だ。

 まずは墓の周りを軽く掃除し、水を()んできて墓石を洗う。綺麗になってから、信忠は墓の前に膝をつくと目を閉じて静かに手を合わせる。

(……母上。長らくの無沙汰、申し訳ありません)

 心の中でまず詫びたのは、十年もの間訪れなかった点についてだ。あの頃から信忠の立場は激変している。生駒家で暮らす遺子から、天下で指折りの勢力に急成長を遂げた織田家の当主になっている。……母もきっと喜んでいるに違いない。

 目を閉じ、心穏やかに手を合わせる信忠。亡き母に話したい事は山程ある。何から話せばいいのだろうか、と少し悩む。

(奇妙は、元気にやっております。皆に支えられながら、日々精進しております)

 母がこの世を去ってから十年、背も伸び筋肉も付いた。一回りも二回りも成長したのは、日頃から鍛錬を欠かさなかった事が大きい。当主となった現在も、時間は減っているが継続はしていた。

 ただ、自分はまだまだ半人前だ。武人としても、(まつりごと)の方でも、自分一人で何でも出来るとは露とも思わない。その点については驕りの気持ちを一切ない。体だけ大きくなっただけでは織田家の舵取りを任せてもらえない。もっともっと成長が求められるのを、信忠自身が一番理解していた。

(母上は“御屋形様は心根のお優しい方”と仰られましたが、未だに私はそう思えません)

 岐阜城へ引き取られた後も、父の印象は少しの変化はあれど幼少期から抱いていたものと大きく変わらなかった。そもそも父と接する機会が少なく、久し振りに顔を合わせても他人行儀な態度を崩そうとしない。端的に言えば“織田家当主”の顔しか見せず、“血の繋がった父”の顔を見せる事が極端に少なかった。その傾向は上洛を果たしてからより顕著(けんちょ)になり、義母が同席している時を除けばほぼほぼ当主の顔をしていると信忠は思う。

 今こうして振り返ってみれば、父の素を垣間見れた機会が一度だけあった。元亀元年、浅井長政が反旗を翻し、命辛々(からがら)岐阜へ戻ってきた時のこと。いつも威厳ある姿を見せていた父には珍しく、満身創痍(まんしんそうい)の姿を隠そうともしなかった。あの時は織田家の()く末がどう転ぶか見通せず、父自身もかなり精神的に追い詰められた状態にあったのもあるが、人間的な温かみを感じた唯一の機会だったように思う。あれ以来、父はずっと当主の仮面を(かぶ)り続けている。

 それは、母が口にしていた“とてもとても不器用な方”という言葉に集約されている。この十年、接する事は多くなかったが、関わっていく内に父は不器用な人だと段々分かってきた。公私に渡り非凡の才を発揮する父だが、教えたり伝えたりするのはとても苦手にしているように信忠の目には映った。幼少期の頃に抱いていた“よく分からない人”からは少し変化したが、それでも父という人物をまだ掴みかねていた。

 母の墓参りに来ている筈なのに、いつの間にか父の事ばかり考えている。そんな自分に、信忠は思わず苦笑いを浮かべる。

 改めて思うが、父は不思議な人だ。生駒屋敷に居た父は笑みを浮かべ、誰でも分け隔てなく気さくに接していた。それが岐阜城で会うと同じ人とは思えない程に、冷たく厳しい表情を浮かべていた。唯一の例外は義母である濃姫と談笑している時くらいで、生母・吉乃の時のように朗らかさを漂わせていた。これだけ違う顔を持ち合わせている人物は、世の中にそうそう居ないだろう。

 信忠の目から見て、父は偉大な主君だと思う。凡人である自分とは次元が違う。しかし、父を父と思った事は一度もない。生駒屋敷で過ごしていた頃も遊んでもらったり一緒に何かをしたりした記憶が皆無で、岐阜城に移ってからも疎遠だった。上洛後は多忙を極めたのを差し引いても、ここまで肉親の情を感じられないのも珍しいのではないか。

(父は、私の事をどう思っているのでしょうか。母上)

 返事は返ってこないと分かっていながら、訊ねずにいられなかった。

 父とは滅多に会えないけれど、会った時に邪険にされたり冷たくされたりした事は一度も無い。機嫌を損ねないよう細心の注意を払っていたのもあるが、怒鳴られたり手を上げられたりした経験は皆無だ。癇癪(かんしゃく)持ちの父は家臣に手が出たり無礼討ちにしたりした事は過去に何度もあり、今でこそ家老格まで昇り詰めた羽柴秀吉などは草履取りの頃から激しい言葉を浴びせられたり暴力を受けたりしており、枚挙(まいきょ)に暇がないくらいだ。秀吉程ではないにせよ、他の者も暴言や暴力を受けた例は幾つもある。……そうした点では、配慮されていると言ってもいいのかも知れない。

 しかし、これだけで父から大切にされていると判断するのは早計(そうけい)だ。父から(じか)に「お前は大切な存在だ」と言われた事は皆無、それどころか「調子に乗るな」と釘を刺されたり「他に(後継候補の)適任者が居たらすぐに替える」と宣告されたりする事の方が圧倒的に多い。先述した通り、父親らしい事はされておらず、常に一線を引いている印象がある。父の眼鏡に(かな)わないが、他にマシな者が居ないから仕方なく嫡男に据えている……というのが態度に表れているのだ。父の物差しで器量を測れば誰でも物足りないと感じるのは致し方ない事ではと思うが、そんな事は口が裂けても絶対に言えない。

 では、面と向かって「父上は私の事をどう思っておられるのですか?」と訊ねたくもなるけれど……父の答えを聞くのが怖い。「下らない事を聞くな」と一蹴(いっしゅう)されるか、無視されるか、それとも本音を明かしてくれるか。その本音が全く予想がつかないから、開かずの間を開けるような恐ろしさがある。真実を知るのが怖い、みたいな。

(……()めよう。父がどう思っているか気にしていても仕方がない)

 フゥと一息吐いた信忠は、気を取り直して母に向き直る。

(母上。奇妙改め勘九郎は、これから立派な当主になれるよう精進していきます。天から見守っていて下さい)

 暫く、目を(つむ)り静かに手を合わせる。やがて(まぶた)を開けた信忠は、ゆっくりと立ち上がる。

 母への報告・語らいを終えた信忠は、吹っ切れたような表情をしていた。私的な時間はこれで一区切り、これからは織田家当主の時間だ。

 また、来ます。墓へ向かって軽く頭を下げた信忠は、颯爽と歩き出した。これから待っている公務にも前向きな気持ちで臨めるような気がした。


 天正四年九月、上杉謙信は備後鞆の足利義昭の上洛要請に応じる形で、隣国越中へ侵攻。謙信率いる上杉勢は越中国内の要衝を次々と攻略していき、椎名康胤を討つなど長年頭を悩ませてきた反上杉勢力の討伐に成功した。越中を平定した謙信が次なる狙いに定めたのは、畠山家が治める能登国だ。

 畠山家は細川家・斯波家と並ぶ三管領の一つに挙げられる名門で、能登・越中の二ヶ国を治めていた。しかし、応仁の乱で家中を二分して戦った事もあり、影響力は衰退。越中では守護代の神保家の台頭により、畠山家は支配を失ってしまった。能登国は何とか維持出来たものの、家中の内紛や不慮の死が相次いだのもあって安定した家中運営とは程遠い状況だった。天正二年に兄の急使で急遽家督を継いだ畠山義隆(よしたか)も、天正四年二月四日に急死。跡を継いだのは義隆の子・春王丸だが、まだ幼子(おさなご)だった為に重臣の(ちょう)続連(つぐつら)遊佐(ゆさ)続光(つぐみつ)を中心とした家臣団が合議により家中を取り仕切った。

 上洛を目指す謙信にとって、能登国は重要な位置付けだった。越後から前線に兵糧や物資を船で輸送する場合、日本海の航路を進む関係上どうしても能登半島沖を通過せねばならず、この先加賀・越前と兵を進めていく事を考えれば能登国が兵站の基地になり得た。また、能登国を放置して兵を先に進めた場合、畠山家に向背を(おびや)かされる危険があった。

 謙信は当初畠山家へ使者を送って穏便に懐柔しようと試みるも、続連を始めとした抗戦派の意見が家中で優勢となり、上杉方の提案を拒んだ。これを受け、謙信は畠山家の居城である七尾城攻めを決断した。

 十一月、上杉勢は七尾城攻めを開始したが、難攻不落の堅城で知られる七尾城を前に攻めあぐねていた。加えて、畠山方の将兵の士気は極めて高く、二千の兵ながら精兵として知られる上杉勢を相手に善戦していた。死傷者が日々増え続ける状況に、謙信は近隣の城砦を先に片付けて七尾城を孤立させる方針に転換した。数で上回る上杉勢は能登国内の畠山方の城砦を次々と陥落させていったが、七尾城の畠山勢は孤立しながらも頑強に抵抗を続けた。謙信は已む無く力攻めを諦めて兵糧攻めに切り替えて城方が音を上げるのを待つことにした。ただ、畠山勢も長期戦を見越して大量の兵糧を城内に運び入れており、水の心配も無かった事から持久戦の備えは万全だった。

 思わぬ形で足止めを喰らった謙信は、そのまま能登で年を越すこととなる。


 天下人となった信長は、着々と足場を固めていった。

 天正四年十一月二十一日、信長は正三位(しょうさんみ)内大臣(ないだいじん)に昇進した。武家出身者で内大臣に任じられたのは過去に源頼朝や足利義持(よしもち)など武家の頂点に立った者ばかりで、信長もこの人々に肩を並べた事になる。朝廷からのお墨付きである官位官職も順調に階段を上っていた。一方の朝廷も、京の治安維持だけでなく献金もしてくれる信長は最大の庇護者と捉えており、信長の機嫌を損ねないよう配慮しながら時の権力者が暴走しないよう官位官職を与えて制御したい思惑があった。

 信忠もまた、形式上ではあるが織田家の当主である立場から、朝廷もその存在を重視していた。十二月十七日、信忠は秋田城介から左近衛(さこんのえ)少将に転任。これは信長の意向もあったが、将来の天下人へ恩を売る朝廷側の狙いも含まれていた。

 官職が変わっても、信忠はあまり嬉しいと思わなかった。偉くなったという実感もないし、官位官職を授けられても身近に居る周囲の人々の反応が変わる訳でもない。所詮は有名無実(ゆうめいむじつ)の飾りに過ぎない。その飾りが時に武力以上の効果を持つのだが、信忠には俄かに信じられなかった。

 権力者の階段をまた一歩上った信忠は、今一つ実感の湧かないまま天正四年は過ぎ()くのであった。


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