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四 : 根張 - (1) 三歩進んで二歩下がる

 年が明けて、天正四年(一五七六年)一月。信長は一大事業となる安土城築城に着手した。

 総奉行に丹羽長秀、大工棟梁に熱田神宮の宮大工・岡部又右衛門(またえもん)、縄張奉行には羽柴秀吉、他に石奉行や瓦奉行も複数人任じられた。普請に当たり近隣諸国から人を動員し、信長が目指す“唐天竺や南蛮にも負けないくらい、素晴らしい城”を作るべく動き出した。過去に類を見ない城造りには徴発された作業員の人件費や資材集め・運搬に至るまで桁違いの金額が毎日のように出ていったが、今の織田家なら大規模な築城も耐えられるだけの財政的余裕があった。

 従来の城の概念を覆す独創性に富んだ安土城築城は、信長が実際に現地へ赴くなど情熱を注いでいく事となる。


 信長が壮大な事業に乗り出す一方、悪い報せも入ってきた。明智光秀が担当する丹波攻めが暗礁(あんしょう)に乗り上げたのだ。

 丹波国は国土の大半が山地で中小の国人が割拠する土地柄だった。また、地理的に京と近いことから、中央の影響を受けやすい特徴もあった。他国から侵攻する際は山が多く攻めにくい地形だけでなく、国人同士が連携して地形を活かした遊撃戦を展開するので、外敵の侵攻を阻んできた歴史がある。その昔は松永久秀の弟・長頼(内藤“蓬雲軒”宗勝とも)が一国を治める時期もあったが、永禄八年八月に有力国人の赤井(荻野(おぎの))直正に討ち取られてからは再び複数の有力国人達で治めるようになった。

 丹波の国人達は足利将軍家に味方する者が多く、永禄十一年に足利義昭を擁して信長が上洛してきた際には、赤井直正の(おい)の忠家を送り本領を安堵されている。しかし、信長と義昭の関係が悪化すると、直正を始めとする多くの国人達が義昭の側についてしまった。それは元亀四年七月に義昭が京から追放された後も変わらず、織田家と敵対する姿勢は継続された。

 こうした状況を信長は何とかしたいと思っていた。丹波は京のある山城国と隣接しており、国人自体はそれ程大きな規模ではなく脅威にならないものの、他の勢力と手を組まれた場合は万一の事が起きないとも限らないからだ。しかし、武田家や一向一揆など優先すべき事柄が山積していたが為に、後回しにされていた。

 そんな情勢に転機が訪れたのが、天正三年七月。丹波国内で少数ながら存在する織田方の国人の協力を得て、明智光秀が侵攻したのだ。途中、越前一向一揆討伐に駆り出されて中断を挟んだが、越前の戦後処理を済ませてから十一月に侵攻を再開した。明智勢の侵攻に対して有力国人の波多野秀治を始めとする大半の国人達が味方につき、直正は一転して窮地に立たされた。光秀は勢いに乗って直正の籠もる黒井城を包囲し、兵糧攻めにした。

 黒井城を落とせば、丹波平定は成る――光秀以下、明智勢は皆そう信じて疑わなかった。

 楽観視していた黒井城攻めが暗転したのは、天正四年一月十五日。包囲に加わっていた波多野勢が突如明智勢を背後から攻撃したのだ! 味方と思っていた波多野勢の造反に明智勢は大混乱、そこへ門を開いて突撃してきた赤井勢と挟み撃ちになり、明智勢は大損害を出して退却せざるを得なかった。光秀は()う這うの(てい)で一月二十一日に京へ戻った。

 どうして秀治が裏切ったのか、確たる史料は出てきていない。“赤井・波多野の両家は血縁関係にあった”とか“事前に裏切りの密約を結んでいた”とか諸説あるが、決め手とは言えない。(いず)れにせよ、平定を目前に頓挫した事実に変わりはなく、光秀は丹波攻めを一から再構築しなければならなかった。


 天下布武を掲げる信長に、また一つ頭の痛い話が持ち上がった。昨年十月に和睦した石山本願寺に、再挙兵の兆しが出たのだ。

 発端となったのは、足利義昭。京を追われた後の義昭は幾つかの箇所を経て天正元年十一月に紀伊国・興国寺(こうこくじ)逗留(とうりゅう)していたが、天正四年二月に備後国・(とも)へ移った。鞆は毛利領で、中国地方の雄である毛利家の後ろ盾を期待しての行動だった。二月八日には義昭が吉川元春を通じて毛利輝元へ“反信長包囲網に加わる”よう求めたが、輝元としては織田家と境界を接していない現段階で敵対する意向を持っておらず、対応に苦慮していた。ただ、毛利家に反旗を翻した備中(びっちゅう)の三村家を織田家が裏から支援するなど、将来的な衝突が避けられないのは明白だった。そこで、輝元は表立って織田家を刺激せず、畿内で唯一織田家と敵対している石山本願寺を兵糧や物資の搬入で後方支援していく方針を固めたのである。

 こうした背景があり、本願寺は三度目となる挙兵に踏み切った。信長もこの動きを察知し、佐久間信盛や摂津を地盤とする荒木村重、大和の筒井順慶、南山城・大和の二ヶ国で守護を務める原田(旧姓:塙)直政、さらには先日丹波攻めの敗戦があった明智光秀など、畿内周辺の家臣や遊撃部隊も投入して本願寺へ圧力を掛けた。

 今年に入ってから丹波攻めの失敗・本願寺の再挙兵と、信長にとって悩ましい出来事が続いていた。


 織田家の家督を継いだ信忠は、内政に(いそ)しんでいた。

 その昔、父が決裁を求める文書を処理していたのを見たが、いざ自分がやる立場になって父の凄さを痛感させられる。書面の内容に目を通し、間違いが無いか確認し、合否の判断を下す。これを短時間()つ大量に行わなければならない。父はサッと目を通したら判を押して次の文書に移っていたが、自分は読むだけでも倍の時間が掛かってしまう。……これはなかなか大変だ。

 少しでも早くやろうと心掛けているものの、なかなか文書は減っていかない。自らの不甲斐なさを嘆きたくなる。

「……若、少々お疲れのご様子。暫し休憩されては如何(いかが)ですか?」

 声を掛けられ、顔を上げた信忠の表情がパッと明るくなった。視線の先に居たのは、傅役を務める新左だ。

 新左は黒母衣衆に抜擢されるなど武人としても評価されていたが、最近は尺極(しゃくきわ)廻番衆(まわりばんしゅう)の一人として判物(はんもつ)や書状に署名する吏僚として織田家を支えていた。馬廻に属する者は戦の時に主君の側近くで(はべ)り身辺警護に当たるが、平時は(まつりごと)を支える事務方を任される事も珍しくなかった。新左は信忠が織田家の家督を継いだのに伴い、信忠付の家臣に転属していた。

(まつりごと)の方は慣れましたか?」

「いや……毎日書類を格闘しているが、なかなか。改めて父の凄さを思い知らされた気分です」

 そう(こぼ)す信忠に、「いえいえ」と新左は笑みを見せながら返す。

「誰でも慣れない内は早く仕事など出来ません。槍を振るのと一緒で、まずはやり方をしっかり覚えるべきです。早くて見落としが多いよりゆっくり丁寧に、の方が周りの人々には良いのです。若は落ち込まれますけれど、決して遅くはありませんよ。比較する対象である上様が群を抜いているだけですので、あまりお気になさらず」

「……そうか。ありがとう」

 優しい言葉に励まされ、信忠も少しだけ気持ちが上向く。傅役として長く側に居た新左だからこそ、信忠にどういう言葉を掛ければいいか掴んでいるのだろう。

 気分転換も出来た信忠は政務を再開する。新左の言葉の甲斐もあってか、先程までと比べて仕事は(はかど)っているように感じた。

 信忠の仕事は父や祖父の頃から続いている決まり事に(のっと)ったものを承認する事が大半で、信忠の代になってからやり方や基準を変更したり新規に立ち上げたものは少ない。前例がある分、信忠はそれを参考にして仕事に取り組めたので、負担が重いと感じなかった。

(織田家が順調な歩みを続けてこられたのは、祖父や父のお蔭だな)

 代替わりがあると、先代のやり方をガラリと変えるのはよく聞く話だ。効率面で改善が必要な例も多い一方で、中には“新しく当主となった自分の力を見せつける”目的だけで変更する例も少なくない。新しい時代を印象付けるには“先代と違う”ことを強調するのが一番手っ取り早いからだ。変革は当然反発を生じたり(かえ)って悪化したりする事もあり、一長一短に良いとは言えない。

 その点、信忠は考えるまでもなかった。

 織田家では商業地から入る運上金もあり、百姓が納める年貢に依存し過ぎない財政状況にあった。織田家の年貢率を示す確かな史料は残されていないが、永禄十一年に近江国の旧六角領を併呑した際に『収穫量の三分の一を納めるように』と定めたとされる。これは五公五民が一般的だった当時の年貢率を思えば、かなり軽い方に入る。北条家では民の負担を考慮して四公六民に定めていたとされるし、逆に財政面で厳しい大名家はもっと取り立てていたり年貢以外の税を徴収したりしていた。(いず)れにしても、他家と比べて遥かに負担が軽いのは分かるかと思う。それに加えて、信忠が管轄する尾張・美濃は比較的肥沃(ひよく)な土地で米の収穫量も多かった為、割合が少なくても抱える家臣を賄えるだけの量が揃う事情も含まれていたと考えられる。

 民も織田家も不満が無い以上、今までのやり方を変える必要性を信忠は感じなかった。

 当主が変わった事を示す為だけに、それまで順調だったやり方を改めるのは間違っていると信忠は考えていた。だからこそ、先代である父の遣り方をほぼ踏襲(とうしゅう)している。今まで以上に良くなる可能性はあっても、失敗や変更に伴う混乱を考慮すれば、やらない方が良いという結論に至るのは自然なことだ。変わったのは信長付の吏僚が別の者になったくらいで、仕組み自体は一切触れていなかった。

 慣れない(まつりごと)に苦戦している信忠だが、頭を悩ませる事は少なかった。負担が軽いのは、(ひとえ)に父や祖父がしっかりとした(いしづえ)を築いてくれたからだ。

 ただ、予め決まっているものに胡坐(あぐら)をかく気は信忠に無い。

(受け身ばかりでは、きっと父は認めてくれない……)

 織田家の家督を継いだものの、後継に決まった訳ではない。それは父も言及していた。だからこそ、父が認めると思うような実績を出さなければならない。その為には安全な道ではなく、失敗の可能性もある道を進まないと手に出来ないと信忠は考えていた。

 新左も言っていたが、今はやり方をしっかり覚える時期だ。いきなり一人前になれる人も世の中には居るだろうが、自分はそうではないと信忠は自覚していた。鳥だって生まれてすぐに飛べる訳ではない。今の自分は卵から生まれたばかりの雛、飛び立てる時まで待つのだ。

 その時が訪れたら飛べるよう、今は精進するしかない。気持ちを引き締め、信忠は政務に取り組もうとしていた。


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