三 : 萌芽 - (20) 武田家に勝てた理由
五月二十一日、夜。日中に“戦国最強”と謳われた武田勢を完膚無きまでに圧勝した織田の陣中では、祝勝の宴があちこちで開かれていた。ここ数日の働きを労うべく酒も振る舞われたのもあり、大いに盛り上がっていた。
総大将である信長も、今日の合戦で働いてくれた家臣達に言葉を掛けたり酒を注いであげたりしていたが、夜も更けてくると場を離れて部屋に戻っていた。この日は珍しく、側には酒の入った徳利と盃が置かれていた。
一人チビチビと盃の縁を舐めるように酒を飲んでいた信長の元に、誰かが訪ねてくる音が近付いてきた。
「失礼致します。……上様、入ってよろしいでしょうか?」
信忠が部屋の外から声を掛ける。中から「うむ、入れ」と父の許可が出たので、信忠は部屋に入る。
中の様子を見て、信忠は少し驚いた。閉めきった部屋の中央に座る父の脇に、徳利と盃が載った盆が一つあるのみ。近習も遠ざけ、完全に一人だ。
どこに座ろうか一瞬迷った信忠だが、入口を入ってすぐのところに腰を下ろす。
「なんだ? お前も『戦勝おめでとうございます』とおべっかを言いに来たのか?」
揶揄うように軽口を叩く父。武田家に完勝して気分が良くなっているのか、それとも珍しく飲んでいる酒の酔いが入っているのか。どちらにせよ、機嫌が良いのは信忠にとって好都合だ。
今日の戦を祝す言葉から本題に入ろうとしていた信忠にとって機先を制された形だが、父が最も嫌う意味の薄い話をしなくて済んだと前向きに捉えた。
座った信忠が硬い表情のままだったのに気付いた父は、盃を置いてこちらに顔を向ける。
「……どうした。聞きたい事でもあるのか」
父から水を向けられ、信忠は黙って頷いた。それに対して父が拒む様子を見せなかったので、信忠は切り出した。
「上様。此度の戦、どうして我等はこれ程までの勝利を収める事が出来たのでしょうか?」
信忠の問いに、父は「ふむ」と漏らすと顎に手を当てて考え始めた。
設楽原の戦で勝利した“大量の鉄砲を投入して、武田自慢の騎馬隊を殲滅させた”事が最大の要因と皆は捉えている。それは一部始終を見届けた信忠も理解している。しかし、それだけで大勝ちしたとは思えない。
すると、父は信忠に盃を差し出してきた。信忠が盃を受け取るのを確かめてから、今度は徳利を手にする。
「あれだけの勝利を目にして、それに酔わず理由を突き詰める。良い心掛けだ」
そう言いながら、父は徳利を傾ける。その言葉を、信忠は今夜一番ビックリした。
あの父が、こうもスラスラと自分を褒めるなんて、すぐには信じられなかった。やっぱり、今夜の父は酔っていると思う。
信忠が持つ盃に父が酒を注いだ以上、飲まない訳にもいかない。意を決して、一気に飲み干す。その様を父はニコニコと眺める。
体がだんだんと熱くなるのを感じながら、父に盃を返す。受け取った父は、何気ない風にサラッと言った。
「勝頼は、勝ち過ぎたのだ」
それは先程信忠が訊ねた質問の答えだが、また新たな疑問が湧く。
(我等が強かったのではなく、勝頼が勝ち過ぎた?)
恐らく、他の者に同じ質問をすれば十人中十人が「我等が強かった!」と答えるに違いない。武田の二倍以上の兵は居たが、それでもここまで差が開く程の大勝した結果があるからには、こちらが強かったと結論づけても何ら不思議でない。
しかし、戦とはそんな簡単なものではない。兵力差に開きがあっても数で劣る方が勝つ事だって充分に有り得る。勝敗を左右する要素は様々あり、運も含めて開戦するまでどちらに転ぶか分からないのだ。
後年、江戸時代の大名で剣術の達人として知られた松浦静山は自著でこう述べている。『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』と。どうして勝ったか分からない勝ちはあっても、何故負けたか分からない負けは存在しない。負ける時は必ず理由があるのだ――静山はそう説いている。
信忠は「こちらが上回った」「我等が鉄砲で圧倒した」という単純な理由だけで勝てる程、武田家は弱くないと捉えていた。機動力と破壊力で他を圧倒する騎馬隊、一騎当千の勇猛な武将を多数抱え、末端の兵も尾張の兵とは比べ物にならないくらい強く、二倍程度の戦力差なら容易に引っ繰り返す事だって出来ただろう。それくらいの地力がある武田家に、どうしてこんなにあっさりと勝てたのだろうか? どれだけ考えても信忠には分からなかった。
今一つ解せないという顔を浮かべる信忠に、父はさらに言葉を継いだ。
「勝頼が跡を継いでから、外征で連戦連勝が続いた。東美濃も難なく手に入れ、信玄入道でさえ落とせなかった高天神城を落とした。目に見える成果を重ねた事で、自信を深めたのだ。それが強まる内に“自分のやり方は正しい”と勘違いしてしまった。織田など恐るるに足らず、兵力差など何するものぞ、とな。これまでの勝ちは信玄入道が育てた将と兵の力があったからなのに、自分の手柄だと思い込んでしまった」
武田勝頼は、最初から嫡男として傅育されていた訳ではない。天文十五年(一五四六年)に誕生した時、武田家の嫡男は長男の義信と決められており、勝頼は幼い内から母方の諏訪家を継ぐ事が既定路線となっていた。この諏訪家は信玄の謀により滅亡しており、諏訪大社と繋がりの深い諏訪家を再興して取り込みを図りたい信玄の思惑が強く反映されていた。永禄五年六月、諏訪家の名跡を継ぐと共に、元服して名を諏訪“四郎”勝頼と改めた。この時、武田家の通字である“信”ではなく諏訪家の通字“頼”を用いた事から、武田家の家督相続候補から外れた意味合いも含まれていた。
風向きが変わったのは永禄八年、勝頼二十二歳の時。永禄三年の桶狭間の戦いで今川義元が討死して以降、今川家との関係が急速に冷え込む中、今川義元の娘を妻に持つ義信と当主信玄の関係も亀裂が走った。そうした中、永禄七年七月に義信に近い複数の家臣達が信玄暗殺の密談を交わしていた事が信玄に漏れてきた。暫く泳がせていた信玄だったが、永禄八年一月に信玄暗殺の容疑で関わった者達の処罰に動いた。この件に義信は一切関わっていなかったものの、日頃から対立し信玄に意見していた事から不穏分子と見なされた義信は東光寺に幽閉された。この一事により義信は家督相続権を剥奪され、他の兄達は仏門に入っていたり夭逝していたのもあり、四男の勝頼が武田家後継の座についた。
一連の経緯から、勝頼を“正当な跡目”と捉えていない家臣も武田家中には多く存在し、“正当な跡目は(勝頼の嫡男である)武王丸、勝頼は武王丸成人までの繋ぎ”と公言して憚らない者も居た。元は同じ信玄の一家臣の立場だった勝頼が義信廃嫡の形で自分達の上に立つのは筋が違う、と考えるのも無理はない。
また、信玄が今際の際に遺した『自らの死は三年秘匿とし、その間は外征を慎むように』という言葉は、信玄を心酔していた家臣達にとって絶対的なものだった。この遺言を勝頼も当初は遵守しようとしたものの、信玄の死は思いの外に早く他家に知られる事になり、方針転換せざるを得なかった。奥三河の奥平家など信玄が亡くなった後に離反する国衆も続出した事情もあり、これ以上の離反を食い止めるべく攻勢に転じたのだ。この決定に信玄の頃から武田家を支えてきた勝頼より年上の重臣達は信玄の遺訓を盾に反対したが、勝頼は自らの決定を押し通した。
まず手始めに標的としたのが、織田領である東美濃だった。元亀三年の西上作戦の際に確保した岩村城を橋頭保に侵攻する下地が整っていたのもあるが、この先に必ず立ちはだかるであろう強敵に弱味を見せられない側面も含まれていた。この東美濃侵攻は予想以上に嵌まり、ある程度の成果を上げる事が出来た。
次に狙いを定めたのは、遠江にある高天神城。三方ヶ原の大敗でまだ再興途上にある徳川家は武田家と単独で対抗出来る程の力は戻ってきておらず、父・信玄も落とせなかった城を攻略出来れば、正統な当主と思ってくれていない一部の家臣達もきっと認めてくれるだろう……と勝頼は考えた。この難攻不落の堅城を一月程で落とした勝頼は、自らの方向性は間違っていなかったと自信を深めると同時に、織田・徳川両家は必要以上に恐れなくてもいいのでは? と思い始めた。
「加えて、武田家は一枚岩になれなかった。勝頼と力ある家臣達の間に不和があった。耳触りの良い言葉を掛ける者を重用し、諫言する者を遠ざけた。耳に痛い者を使いこなせてこそ、大将の腕の見せ所ぞ」
家臣達との間に生まれた溝は、埋まるどころか広がる一方だった。山県昌景や馬場信春・内藤昌豊など信玄から信が厚かった重臣達は事ある毎に勝頼を諫める傍ら、信玄の時には冷遇されていた長坂“釣閑斎”光賢や跡部勝資が勝頼の信を得て重用されるようになり、武田家中は勝頼と距離を置く者と勝頼に近付く者の二つに分かれていた。
今回の戦でも、それを象徴するような一幕があった。五月十六日に囚えられた鳥居強右衛門の扱いについて“味方を救う為に自らの命を賭して忠義を尽くす”強右衛門の勇気と心意気に感銘を受けた将兵達の間から“助命すべき”との声が上がっていたが、勝頼はこの声を無視して処刑してしまった。この行為により長篠城の士気はさらに上がったのに対し、武田勢の士気は低下して攻城戦に影響を及ぼした。また、設楽原に信長率いる大軍が進出してきた事についても、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊は軍議の場で撤退を主張したが、釣閑斎や勝資など勝頼に近い家臣達は決戦を主張し、最終的に勝頼は一戦交える決定を下した。この軍議が終わった後、先述した三人は死を覚悟して水盃を交わしたとされる。
設楽原の戦いでは、勝頼から遠ざけられていた昌景や信春・昌豊が命を張って勝頼を逃す時間を稼いだ傍ら、厚遇されていた信豊は真っ先に逃げ出し、釣閑斎や勝資は戦場に立つ事すらなかった。真の忠臣はどちらであるか、一目瞭然である。
「勝頼は優れた武将だ。それは認める。しかし、総大将が武勇に秀で過ぎるのは良くない。大局を見て、将兵があるべき力を発揮させることこそ総大将の仕事である。……勘九郎もよくよく覚えておくように」
「……はっ」
総大将が武器を取って最前線で戦えば将兵の士気は大いに上がるが、討たれてしまえば元も子もない。そもそも、総大将の役割は戦う事ではなく、戦をすべきか避けるべきか判断する事や戦全体を俯瞰し適切に手を打つ事だ。戦に強いのは良い事ではあるが強過ぎても自らの首を絞める事になりかねない。
父は盃に酒を注ぎながら、さらに続ける。
「今回はこうした形に持ち込んだから勝てたものの、鉄砲抜きで普通にぶつかっていたら間違いなく負けていただろう。しっかり下準備をした上で様々な手を打ち、鳶ヶ巣山砦の奇襲で退路を脅かした事で、武田をこちらへ向かわざるを得ない状況を作り出したのだ」
戦の前、織田家重臣の佐久間信盛は秘かに武田方の武将へ内応の意思を示していた。『信長の乱暴なやり方に正直ついていけない。戦が始まったら返り忠をする』と約束し、成功した暁には相応の所領を与えられる事も取り決めていた。この信盛から齎された内応も勝頼の決断を後押しする材料となった。しかし、この内応は嘘だった。
父が決戦の場に設楽原を選んだのも、計算の内だった。ある程度の広さがあり、小川や起伏のある地形で騎馬を足止めする要素があるのを事前に調べ、騎馬隊に対抗する為にずっと前から鉄砲や硝石を用意してきたのだ。勝つ為の布石を父は着々と打っていた。恐らく、父の頭の中には、武田勢に勝つ光景が入っていたに違いない。そうでなければ、ここまでの勝利は出来なかった筈だ。
やはり、父の発想には敵わない。信忠は父との器量の差をまざまざと見せつけられていた。
「上様は、今日の日の為にどれだけの金を使ったのですか……」
呆然とする信忠の口から、素朴な質問がポロッと衝いて出た。
鉄砲が種子島に伝来してから三十年余り。国内の幾つかの箇所で量産化されるようになり価格も当初と比べれば大分下がってきてはいるが、それでも高値で取引されている。海外からの輸入に頼っている硝石は需要の高まりで右肩上がりに値が上がっている。鉄砲なら壊れるまで繰り返し使えるが、硝石は一度使えば消えてしまう。今日だけで、どれだけの金額が飛んでいったのだろうか。
すると、父は事も無げに答えた。
「心配いらん。御家が傾くような事はない。戦とは元々金が掛かるものなのだ。尤も、これだけの規模はなかなか出来んがな。毎回こんな戦をしていたら金蔵が幾らあっても足りん」
そう言って、父はニヤリと笑った。
織田家は畿内の主要な経済都市を押さえ、尾張や伊勢の門前町や港も抱えており、毎月かなりの金額が安定的に入ってくる。ここまで経済面で裕福な大名家は、金山や銀山を持つ大名家くらいしか居ないだろう。少なくとも、今回の戦で破産するような事は無いみたいだ。
よくよく考えてみれば、戦とは実に金が掛かることだ。
足軽として徴発した百姓に支給する武器や装備品、戦う為には矢や弾薬を揃えなければならない、荷物を運搬する人足を雇うにも金が掛かる、兵や牛馬を空腹にしておけないから米や食料・秣も要る、傷ついた者や病気の者には薬を用意する、野営となれば薪も必要となる、素晴らしい働きをした者には褒美を与えなければならない、逆に戦死した者の家族や重傷を負った者へは見舞金を支払わなければいけない、柵を組むにも丸太が無いといけない、旗も汚れたり破れたりした物は交換したり補充したりしないと……ざっと思い浮かんだだけでもこれだけ多いが、実際はもっと出費が嵩む。
戦で領土が拡がれば長い目で見ると収入は増えるかも知れないが、短期間で取り戻す事は出来ない。逆に防衛戦の場合は実入りが減る上に戦災に遭った民達への手当が発生する。以前に沢彦和尚は『戦は益がない』と仰っていたが、本当にそう思う。
静かになった信忠に、父はその目をしっかり捉えながらゆっくりとした口調で語り始めた。
「勘九郎よ。これからの時代、銭の多寡で戦の勝敗は決まる。金があれば鉄砲や硝石を揃えられ、多くの兵を召し抱えられ、何ヶ月もの出征に耐えられるだけの物資を確保出来る。個人の武勇が如何に優れていようとも、百の鉄砲には敵わん」
織田家では戦毎に百姓などを徴発するだけでなく、常時から戦を専門とする兵を多数抱えていた。百姓は田植えや稲刈りの時期は(大名家の収入に直結するのもあり)自然と避けられてきたが、常駐する兵ならば農繁期・農閑期に左右されず自由に出兵する事が可能だ。常に召し抱えている兵の難点は平時だと何の生産性もない金食い虫同然であることだ。金と扶持米で雇われている身軽な立場なので、帰る土地がある百姓と比べて劣勢になればすぐに逃げ出すと導入当初は言われていたが、年数が経ち定着してくるとそうした雑音も聞こえなくなった。今では織田家の主力となっており、躍動の原動力の一つとなっている。
尾張の兵は周辺諸国と比べて格段に弱かった。地力の差を補う為に考え出したのが、季節に縛られない兵の常設、優れた武器・鉄砲の導入、大量の物資の確保・運搬だった。美濃攻めの際には稲葉山城を攻める拠点として墨俣に砦を築いたが、これは木下藤吉郎が一夜で築き上げるまでに佐久間信盛や柴田勝家が試みて失敗している。つまり、成功するまで三回行われており、築城に失敗すれば資材は斎藤方に渡ったと考えるのが自然で、その都度用意したものと考えられる。並の大名なら一度の失敗で次に事を起こすまで時間を要するか費用対効果の面で断念するかだが、資金面で余裕のある織田家だからこそ三回も挑戦出来たのだ。
そうした意味では、金の強さを信長は一番理解していると言っても過言ではなかった。
「信玄や謙信のような類稀な武将は滅多に居らん。そうした者の采配で勝てる戦は今後もあるだろう。だが、これからはそうした強者でなくとも戦を制する時代が来るかも知れない。鉄砲は弓や刀槍と違い、動作さえ覚えれば素人でも扱える。照準を合わせて引き金を引くだけだからな。数さえ揃えてしまえば、鉄砲に詳しくない者が指揮しても勝てる」
信長は自らの馬廻出身である若手将校の佐々成政・前田利家・塙直政・野々村正成・福富秀勝の五人を奉行に据え、差配を任せた。佐々成政は鉄砲に精通していたが、他の四人は鉄砲に詳しくない。この事から専門知識を持たない者でも将として機能するような仕組みを信長は構築したのだ。“戦国最強”と謳われた武田の騎馬隊に勝利を収めた事が、信長の目指す方向性が正しいと証明したようなものだった。
今回の戦では、放ち手に敵へ狙いを定めるように指示は出していない。ある程度密集した状態の敵に向けて引き金を引く、ただそれだけだ。今後も全く同じような成果を上げ続けるとはいかないが、それでも戦の才がある程度劣っていても勝てる事例を作ったのは、大きな収穫と言って良いだろう。
そこまで考えていたとは、信忠は夢にも思っていなかった。戦とは兵の数や武略で決まると信じ切っていた信忠にとって、鉄砲を含めた資金力で勝敗が決するというのは、途轍もない衝撃だった。そんな事が本当に実現するならば、戦国乱世の考え方が根底から引っ繰り返るようなものだ。
やはり、父は並外れた才能の持ち主だ。こんな思考を思いつく人物は、この国は疎か唐天竺にも居ないのではないか。発想だけでなく、自らの理想や構想を実現させる能力も兼ね備えている。平凡な自分と比べるのも烏滸がましいとさえ感じる。
完全に沈黙してしまった信忠へ、「勘九郎」と父が呼び掛ける。
「天下布武の実現に向けて、これから忙しくなるぞ。精々、励め」
「……ははっ!」
言うなり、父は空いた手でシッシッと払う。言いたい事は言ったから下がれ、という意味なのだろう。信忠も聞きたい事は全て聞けたので、静かに父の前から辞す。
自分の部屋へ戻る途中、信忠は不意に足を止める。
(今宵の父は、饒舌だったな)
闇の方を見つめながら、信忠はぼんやりと先程まで父と交わした内容を振り返る。
あまり自分の考えを述べない父には珍しく、様々な事について話してくれた。普段飲まない酒の酔いもあるだろうが、長年脅威に感じていた武田家に勝利した喜びが一番大きいのだろう。美濃を制した後は下手に出てでも武田家と友好関係を築き、信玄が上洛を目指して西上してきた時は存亡の危機に怯え、信玄亡き後も勝頼に苦杯を嘗めさせられた。まともに戦えば勝てるかどうか分からなかった相手に完勝出来たのは、相当嬉しかったに違いない。
それでも、上機嫌なことを隠していたのは、家臣達の前だからか。……身内にくらい、素の表情を見せてくれてもいいのに、と思わなくもない。
やや複雑な感情を胸に抱えながら、信忠は再び歩き始めた。このモヤモヤとした気持ちが晴れる日は来るのだろうか、と思いながら。




