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三 : 萌芽 - (16) 嫡男同士水入らずで

 その日の夜。岡崎城の一室で、信忠と信康は向かい合わせで座った。二人の前には酒の入った徳利(とっくり)と盃が置かれているだけだ。

 廊下には伝兵衛と信康の小姓が控えているが、他に人は居ない。信忠は心配ないと言ったものの、「何があるか分かりませんので」と伝兵衛が強く主張したので同行を許した。

「では、まず毒見を」

 そう言うなり、信康は自らの側にある徳利を持ち、盃に酒を注いでグイと(あお)る。続けて、信忠の方にある徳利を手に取り、同じように酒を注いで飲み干す。酒は徳川家が用意した物、どちらも飲む事で毒が入っていないのを信康自らが証明した形だ。

 友好関係にあるから毒殺の心配はしていないが、信康の迷いない行動は見ていて豪胆だな、と信忠は感心した。

 互いに相手の盃に酒を注ぐと、盃を掲げる。

「では、乾杯」

 信康の言葉を合図に、二人は盃を傾ける。一息で飲み干した信忠に、信康は感嘆(かんたん)の声を上げる。

「勘九郎様、いける口ですね」

「いや……これが精一杯でして……」

 毒見も含めて三杯飲んでいる信康は平然としているのに対し、信忠は一杯飲んだだけで既に頬が(あか)くなっている。普段から酒をあまり(たしな)まない信忠とは対照的に、信康はかなり強いみたいだ。

 互いに空になった盃に酒を注いでから、信康の方から切り出した。

「意外ですね。織田家の嫡男となれば、酒席(しゅせき)に呼ばれる機会も多いとばかり思っておりました」

「いやいや、私はそうした席に呼ばれる事は滅多にありません。ほぼ父だけ出ていますが、その父もあまり飲みませんので」

 正月に家臣達を招いて開かれる(うたげ)の場でも、父は盃の(ふち)を嘗めるくらいで飲んでいる姿は殆ど見ていない。信忠も今年十九歳になるが、豪商や公家が居る場に呼ばれる機会がそもそも無く、今井宗久と会った時も酒ではなく茶だった。

 しかし、信康殿はどうして急に二人で飲みたいと誘ってきたのだろうか? 相手の意図が読めず、秘かに警戒する信忠。

 そんな時、衣擦れの音がこちらへ近付いてきた。

「失礼致します。肴をお持ちしました」

 一人の女性が膳を運んできた。連れの女中が運んできた膳は信忠の前へ、女性が運んできた膳は信康の前へ、それぞれ置かれる。

 信忠の膳には、賓客(ひんきゃく)なので焼き魚や幾つかの香の物が載せられているが……信康の膳には味噌が盛られた皿一つだけだ。

 あまりに簡素なものに驚く信忠に、信康は少し恥ずかしそうに明かしてくれた。

「我が徳川家は今川家に隷属してた頃から“質素倹約”の家風でして。家臣達が(つつ)ましく暮らしているのに我等だけ贅沢な生活を送る訳にもいきませんので、あの時の苦しい思いを忘れぬ為にも節制しているのです」

「今宵はまだマシな方です。いつもはもっと少ないのですよ?」

 先程の女性が信康の隣に座りながら付け加える。

「あぁ。それに今宵は上等な清酒(せいしゅ)をお出ししていますが、普段は濁酒(だくしゅ)です。ただ、昔は特別な日にしか口に出来なかった濁酒を毎日飲めるだけでも幸せな事です。それに……味噌を肴に飲むのも、なかなか乙なものですぞ?」

 女性の言葉を引き取り、信康がそう答えた。

 しかし、信康の隣に座る女性、どこかで見覚えがあるような……。じっと見つめていると、女性は微かに笑みを浮かべて言った。

「お久しゅうございます、兄上」

 手をついて頭を下げる女性。“兄上”と呼ばれて信忠はやっと気が付いた。

「――五徳、か」

 くっきりとした目鼻立ち、色白な肌、スラリとした長身。既視感を覚えて当然だ。血の繋がった妹なのだから。

 五徳は永禄二年十月十二日の生まれで、現在十七歳。幼少期は信忠と共に生駒屋敷で暮らしたが、永禄十年五月二十七日に徳川家へ輿入れし、兄達より先に生駒屋敷を出ている。以来、八年ぶりとなる兄妹(けいまい)の再会だ。

「先程、父上にもご挨拶してきました。父上は私に『吉乃に似てきた』と仰せになられ、思わず嬉しくなりました」

 確かに、父がそう言ったのも分かる気がする。織田弾正忠家は美形の血筋だが、目元や口元は母・吉乃の血を継いでおり、全体的に母寄りの印象がある。

「息災にしておったか?」

「はい。九つで全く知らない岡崎に来た私のことを、三郎様はとてもよく気に掛けて下さいました。寂しい思いをしている私に美しい小鳥を捕まえてきてくれたり、甘い物をこっそり差し入れて下さったり……」

(わし)も小さい頃に駿府で囚われの生活を経験してきたからな。辛い気持ちは分からなくもない」

 そう言い、信康は一気に盃を呷る。(ほの)かに顔が赤いのは酔いではなく照れなのだろう。

 桶狭間の戦いで大敗した後、家康は今川家から独立する動きを活発にさせた。一方で、徳川家へ身柄を返還されるまでの三年間信康は肩身の思い狭いをしてきた。時には「裏切者の子」と(ののし)られ、今川家の厳しい監視下に置かれた。多感な幼少期に辛い経験をしてきたからこそ、他人の気持ちを(おもんばか)る事が出来るのだろう。

 信康と五徳が並んで座る姿は、正にお似合いの夫婦だ。八年の歳月を共に重ねてきたのもあるが、それ以上に互いを思いやる気持ちが距離をより近づけているのだと信忠は感じた。

「五徳、ありがとう。これから勘九郎様と話をしたいから、席を外してくれないか?」

「はい。……では、兄上。失礼致します」

 信康に促され、信忠に頭を下げてから五徳は下がっていく。空になった盃を手酌で酒を満たしながら、信康は不意に切り出した。

「さて、勘九郎様。貴殿は父君について、どうお考えですかな?」

「どう、とは……」

 唐突な質問に、信忠は曖昧に応える。今日初めて会ったばかりの信康が、どんな人物かまだ計りかねていた。

 だが、信康は逃すまいとさらに踏み込んできた。

「やや回りくどい言い方でしたね。率直に伺います。当主の座を取って代わりたい、そんな衝動に駆られた事はございますか?」

 あまりに明け透けな問いに、信忠は含んでいた酒を吹き出してしまうところだった。

「……な、何を仰るかと思ったら」

「儂は、ある」

 動揺を隠せない信忠に、さらに爆弾を放り込む信康。これには流石に信忠も慌てた。

 室内には信忠と信康の二人しか居ないが、廊下には伝兵衛と信康の小姓が控えており、発言が外部に漏れないとも限らない。信康がこの場で父である家康を差し置いて徳川家の当主になる意思について言及した意図が何なのか、信忠には全く分からなかった。酔いが回って気が大きくなり口を滑らせたならまだしも、目の前に座る信康は素面(しらふ)そのものだ。

 アタフタする信忠とは対照的に、クククと笑みを溢す信康。

「心配には及びません。彼奴(きやつ)は儂が最も信を置く者、主君を売るような真似は致しません。あとは勘九郎様と連れの御仁が黙って頂ければ、父にも義父殿にも今宵この場の話は耳に入りません。仮に漏れたとしても、今ここに居る者か忍びのどちらかに限られますから」

 不敵な笑みを浮かべながらサラリと言ってのける信康。自分が口を割らないと信頼して話している……訳でもなさそうだ。(むし)ろ、漏洩の可能性も含めた上で話をしていると言った方が正しいか。信康が“忍び”の文言が出てきたのは、間者は敵だけでなく味方も放っている可能性を考慮に入れている事の裏返しか。

 この人、やはり只者ではない――!! 底知れない相手に、信忠は(おのの)く思いだ。

 信忠の思いを知ってか知らずか、信康はニヤニヤとしながら盃を呷っていた。

「さ、儂は素直に明かしました。次は勘九郎様が腹を割ってお答えする番ですぞ」

 軽い口調で返答を促してくる信康。先に信康の答えを聞いてしまった以上、巻き込まれた形だが信忠も答えなければならない。逃げ道を塞がれたからには正直に答えるしかあるまい。

 大きく息を吐いた信忠は、揺さぶられた気持ちを出来るだけ鎮めてから一息に言った。

「――私は、自分が取って代わろうなんて大それた事は、とても烏滸(おこ)がましくて生まれてこの(かた)一度もありません」

 本心を打ち明けた信忠だったが、ふと自分の発言を思い返すと“本音を隠している”ように聞こえても不思議でないように感じた。目の前の御仁は、果たしてどう捉えるか。

 信忠の答えを聞いた信康は、(あご)に手をやりながらしみじみと呟いた。

「ふむ……父が偉大過ぎるとなると、越えられないと考えるのも道理、か」

 信康は味噌を嘗め、盃を傾けると、再び口を開いた。

「儂は、父に物足りなさを抱いた事が幾度もありました。織田が窮地にある時は徳川が総力を挙げて助力してきたのに、我等が存亡の危機に瀕している状況にあっても織田は申し訳程度の兵しか寄越さない。父は弱腰、遠慮が過ぎる」

 最後は吐き捨てる信康。相手が義兄で織田家の嫡男でも気にする素振りは全く無い。

 ただ、信康がそう言いたくなる気持ちも分からなくない。永禄十一年の上洛戦から始まり、永禄十三年の朝倉攻め・元亀元年六月の姉川の戦いでは当時の徳川家が出せる最大限の八千の軍勢を率いて参戦している。それに対し、元亀三年の武田信玄による侵攻で織田家が送ってきたのは、家臣の佐久間信盛などを将とする三千、昨年は信長自ら援軍を率いてきたが間に合わなかった。元亀年間は四方を敵に囲まれ徳川家に兵を割く余裕が無かった事情はあるにせよ、たった三千しか出さないのは流石におかしいという意見は徳川家の中で上がっていた。徳川家の貢献度に織田家の見返りが全く釣り合ってないと言ってもいい。

「徳川と織田は対等な筈だ。それなのに、父は義父殿に対して卑屈になり過ぎている。真に情けない。もっと堂々と振る舞えばいいのだ。“今の織田家の繁栄があるのは徳川の助太刀があったからだ”くらいの気持ちで臨まないと、相手に付け込まれる」

 語気を荒げる程でもないが、信康は滾々(こんこん)と力説する。これが酔いの力が含まれているのか、普段からこういう性格なのか、信忠には判断がつかなかった。分かるのは、信康が父に不満を抱いているという事だ。

 (ひるがえ)って、自分はどうか。父へ明確に不満を(あら)わにしたのは、母・吉乃の墓前で顔を合わせた時だけだ。そもそも幼少期は生駒屋敷で暮らしていたので、たまに訪ねてきた時も他人行儀なやりとりしかしていない。岐阜城へ移ってからも多忙を極める父と会う機会は少なく、この歳になっても父がどういう人か掴みかねていた。何を考えているか分からない事はあっても、苛立ちを覚えたりおかしいと思ったりした事はあまり無かった。ましてや、“父に代わり家督を継ぎたい”なんて、思う訳がない。

 膳に載せられた焼き魚の身を(ほぐ)して口に運ぶ信忠。ゆっくりと咀嚼(そしゃく)して飲み込むと、信忠は意を決して話し掛けた。

「……三郎様は、御自身が父君より優れているとお考えなのですか?」

「まぁ、全てとは言いませんが、半分くらいは」

 信忠の質問に、一拍を置かず即答する信康。その顔に、虚勢を張っている感は一切見られない。

 言葉に迷いが無いのは、常日頃から父である家康に不満を抱いている裏返しだ。一体、その自信はどこから出てくるのだろうか。信忠は自らとは全く異なる思考の持ち主である信康を、盃の(ふち)を嘗めながらまじまじと見つめる。

 一方で、グイグイと盃を空ける信康は、手酌で注ぎながら補足を加えた。

「父は思慮深い反面、短慮な部分もあります。あと、華が無い。良き点も悪しき点も、分かっているつもりです」

 家康が歩んできた道のりは、決して平坦なものではない。今川家の傘下にある時は対織田の最前線で使い潰され、今川家から独立した後も家中を二分する一揆で苦境に立たされ、武田信玄の西上で完膚無きまでに叩きのめされ、その傷がまだ癒えてない状態で勝頼に対処せざるを得ない。舵取りを一つでも誤れば徳川家は今日(こんにち)まで名を残せなかった事を考えれば、家康が辛抱強く耐えてきた精神力の賜物と評価されてもいい。一瞬の閃きもある父と武将の型は異なれど、幾度も難局を乗り切ってきた家康も器量の面で劣らないだろう。

 幼少期に織田・今川の下で人質生活を送ってきた経験がある家康は、人前で声を荒らげたり尊大な態度を見せる事は滅多に無い。しかし、究極に追い詰められた状況に置かれると感情的な行動を起こす事もあった。桶狭間で今川義元が討たれたと知り思い詰めて腹を切ろうとしたり、武田信玄が率いる大軍が浜松城を素通りする動きを見せて激昂(げっこう)したり。そうした(もろ)さを家康は併せ持っていた。

「実の息子である儂が心服していないのですから、家臣の中にも父の器量に疑問を抱く者も少なからず居ることでしょう。家臣達を束ねる存在として覇気に欠けるのです」

 徳川家は家康の祖父・清康の頃に三河統一を果たすなど急拡大した松平家だが、それまでは数多ある国衆の一つに過ぎなかった。今の徳川家を支える酒井家や石川家とも昔は同格だった。下剋上の戦国乱世で何代も続いた名門の武家が次々と滅亡していく中で、主家を凌ぐ程の力を持った家臣が上に立つ逆転現象も珍しくない。当主が相次いで亡くなり衰退する松平家が三河の旗頭としてあり続けたのは松平家に取って代わる勢力が出なかっただけで、未来永劫(えいごう)この関係が続く保証はないのだ。

 織田家は父・信長が絶対的君主として家臣達の上に立っているが、家康は違う。大名家の当主は家臣達の神輿であり、気に入らなかったり相応しくないと見做(みな)されれば替える権利が家臣達にある。家康が自分達の旗頭として(かつ)ぐのに不適当と大勢の家臣が思えば、代わりの人をその座に据えればいい。その候補の一人が、信康なのだ。そして、本人もそれを自覚しており、担がれた時の事も想定している節がある。家中の和を乱す不満分子と捉えられかねないが、そうした野心が戦国乱世で頭角を現す原動力になることも信忠は知っていた。

 そこまで考えて、信忠はハッと気付かされた。自分の中に“野心”と呼べる思いを持ってないことを。

 嫡男の座にあるから安泰だ、という気持ちは一度も持った事がない。父は家臣同士を競わせ、門閥や出自を問わず有能な者を引き立てている。後継者も例外ではなく、“長子だから”という理由だけで継がせてくれるとは思えない。だからこそ信忠は岐阜城に移った頃から、自らを律するようになった。今の所は順当に来ている(と自分の中では思っている)が、この先も大丈夫と捉えるのは時期尚早(しょうそう)だ。今後に大きな失敗を犯して“嫡男には不適当”と父が判断すれば、問答無用で替えられるだろう。後継候補は信忠だけでない。弟の信意(のぶおき)(天正三年に具豊から改名)、信孝、それに父の弟・信行の遺子である津田信澄(のぶずみ)と代わりは幾らでも居るのだ。

 一方で、もし仮に“父を廃して織田家の当主になりたい”という野心を持っていたら、今この場に自分は居なかったと確信を持って言える。出世争いが激しいという事は必ず弾き出される者が一定数出てくるものだ。そうした不満を抱く者が、当主の座を虎視眈々と狙っている嫡男を担ぎ出せば……冷遇されていた者達は表舞台へ返り咲けるかも知れない。しかし、家督を継いでから身内同士の争いで散々に苦労してきた父が、それを許す筈がない。そうした反乱の動きには敏感で、大きくなる前に必ず潰そうとするだろう。そうなれば、当主を廃嫡する意思を持っていようがいまいが、絶対に始末される。謀叛の旗頭になれる人物は、存在するだけで罪なのだから。野心という“牙”を見せていないから、今日(こんにち)まで生かされているのだ。

(……三郎殿と私は、人間の器が全く違う)

 盃の水面(みなも)に映る自分の顔と、目の前に座る信康の顔を見比べ、小さく溜め息をつく。

 野心だけでなく、威厳、器量、思考、視点、様々なものが信忠と信康では規格が違うのだ。信忠は凡才、信康は天才。信康の話を聞く限りでは、家康も天才ではない。だから、信康は『どうしてそんなに苦労しているのか? こんな簡単な事が出来ないのは何故だ?』ともどかしい思いを抱いているのだろう。だが、信忠から見れば家康はよくやっていると思う。従属的な立場から脱却し。バラバラになりかけた家中を再び一つにまとめ、“戦国最強”と謳われた武田家を相手に善戦している。家康の首が繋がっているだけでも凄い事だし、もっと評価されてもいいと信忠は考えていた。でも、実の子である信康はそれでも不満と公言して憚らない。もっと認めてあげてもいいのでは? と言ってあげたかった。

 ふと、年初に会った松永久通の言葉が信忠の脳裏に(よぎ)った。

『凡庸な我々が優れた父を上回れるとは思っていません。才で劣る我々が出来るのは、足を引っ張らないように努める事だけ』

 あの時は、稀代(きだい)英邁(えいまい)を親に持つ凡庸な息子同士で共感し合ったけれど、今宵は違う。そもそも器の大きさ自体が異なるのだ。どんなに努力しても頑張っても才能で追いつかないと分かっていながら、凡才達は何とか食い下がろうと精一杯にもがいているのだ。それを懇々と話をしたかったものの、才気煥発(さいきかんぱつ)な信康には理解出来ないだろうな、と信忠は言葉を呑み込むしかなかった。

 すると、突然黙り込んでしまった信忠の様子に気が付いた信康が、心配そうに声を掛けてきた。

「……勘九郎様、いかがなさいましたか? 御気分が優れないのですか?」

 普段は酒を口にしないと明かしていた信忠が、呷るように盃を重ねる自分に合わせて無理をさせてしまったのでは? と信康は心配したみたいだ。オタオタとする様は実に人間味が溢れているのだが、そうした行動一つでも相手の心を惹かれさせるのは正直ずるいと信忠は内心思った。

 信忠はニコリと微笑みを浮かべ、落ち着いた口調で応える。

「いえ、大事ありません。少し、飲み過ぎました。……申し訳ありませんが、この辺で下がらせて頂きます」

「左様ですか……では、今宵はお開きとしましょうか」

 信康の発言から程なくして、伝兵衛が不安気(ふあんげ)な表情で駆け寄ってきた。手を貸そうとする伝兵衛に信忠は「大丈夫だ」と断り、自らの足で立ち上がる。その際にちょっとふらついたのと、少し頭がボーッとしているのを除けば、(おおむ)ね普段通りだ。

 会釈(えしゃく)をしてから部屋を後にしようと足を踏み出した時、「勘九郎様」と信康から声が掛かった。

「またいつか、余人(よじん)を交えず今宵の続きを致しましょう」

 そう言い、盃を掲げる信康。白い歯がこぼれる、いい笑顔だった。

「……えぇ。そうしましょう」

 信忠自身、今日の話はなかなか有意義なものだったと感じていた。歳の近い次期当主候補同士で、忌憚(きたん)のない意見を交わせたのは良かった。次の機会があるなら、是非ともしたいと思った。

 もう一度、信忠は信康に会釈をして、自室へと歩き出した。頭の中で今日の会話を思い返しながら、信忠は隣国の底知れない器量を持つ信康の事をずっと考えていた。


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