表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/127

三 : 萌芽 - (15) 家康と信康

 天正三年五月十二日、信長は三万の兵を率いて岐阜を出陣。その軍勢の中には信忠の姿もあった。

 この時点で武田勢が長篠城を囲んだという情報も届いており、信長は(きた)るべき決戦に向けて気持ちを引き締めていた。

 二日後の十四日、織田勢は三河・岡崎に到着。信長・信忠父子は岡崎城に入った。

 その岡崎城の正門で、一人の若武者が二人の到着を待っていた。

「出迎え、ご苦労である。婿(むこ)殿」

 父が馬上から声を掛けると、頭を下げていた若武者が顔を上げる。

「此度は上総介様に三河まで足を運んで頂き、真にありがとうございます」

 ハキハキと話す若武者に、父は満足そうに頷く。そして、すぐ後ろに控える信忠の方へ顔を向けると、この人物を紹介する。

「この者は、三河殿の嫡男で徳川“次郎三郎(じろさぶろう)”殿だ。お主の妹である五徳の婿でもある」

「お初にお目にかかります、織田“勘九郎”様。徳川“次郎三郎”信康にございます」

 長躯(ちょうく)で爽やかな顔立ちの信康が、溌剌(はつらつ)とした声で挨拶してきた。

 徳川“次郎三郎”信康。永禄二年三月の生まれで、当年十七歳。母は今川義元の(めい)・瀬名姫(現在の築山殿)で、その当時今川家で将来を嘱望(しょくぼう)された松平元康との間に生まれた竹千代(信康の幼名)は、今川・松平の両家の結び付きを強める象徴的存在だった。

 しかし――竹千代が生まれた翌年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、状況は一変する。大黒柱を失い屋台骨が揺らぐ今川家に家康は見切りをつけ、独立を画策し始めた。この造反に怒った今川家当主・氏真は駿府で暮らしていた瀬名姫と竹千代・亀姫を人質にしたのだ。その後、永禄五年(一五六二年)に生け捕りとした今川方の鵜殿(うどの)氏長・氏次兄弟と人質交換で徳川家に取り返され、それ以降は母である築山殿と共に岡崎城で暮らしている。

 竹千代が松平家に復帰した年には織田家と徳川家の間で同盟が締結され、翌永禄六年三月には両家の絆をさらに深める目的で信長の長女・五徳姫と家康の嫡男・竹千代の結婚が決まった。ただ、五徳姫も竹千代もまだ六歳だったので、実際に輿入れしたのは四年後の永禄十年五月二十七日のこととなる。

 永禄十年七月、竹千代は元服。義父である信長から“信”の字を、父・家康から“康”の字をそれぞれ編諱(へんき)を受け、名を“信康”と改めた。元亀元年、家康が本拠を浜松へ移したのに伴って信康が徳川家本貫の地である岡崎城の城主となった。これ以降、“三河衆は信康・主力や新参の国衆は家康”という体制が確立されていくこととなる。天正元年には初陣を果たしてからは、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な戦ぶりで家臣だけでなく家康からの信頼が厚かった。

 ちなみに、信康の別名である“次郎三郎”は松平家当主が代々受け継いできたもので、父・家康と混同を避ける為に信康は“岡崎三郎”と呼ばれている。

「ささ、父がお待ちです。上総介様、勘九郎様、ご案内(つかまつ)ります」

 そう言ってさり気なく奥へと促す信康。その様は、実にそつがない。

 何と言うか……信忠の目から見て、信康は人を惹き付けるというか、華がある人物だなと思う。徳川家の家臣、特に三河衆は朴訥(ぼくとつ)で寡黙な武辺者(ぶへんもの)が多い中で、信康が一人居るだけで場がパッと明るくなる。齢は二つしか違わない筈なのに、信忠と信康で圧倒的な差を感じずにいられなかった。

「上総介様は馬がお好きと伺いました。実を申しますと、私も馬が好きでして……」

「ほう、左様か。ならば、今度良き馬が手に入ったら婿殿に差し上げようかな」

「ありがたき幸せ……」

 普段は言葉数が少ない父も、今日はいつもと比べてよく喋っている。相手が娘婿であろうと実の子であろうと気に喰わないと思えば黙り込む性格なので、信康は相当気に入っている裏返しでもある。しかも、話している父の表情がいつになく活き活きとしている。自分の好きな事を語っているのを差し引いても、これはかなり珍しい。

 盛り上がる二人の光景に、信忠は好ましく思う一方で、心の中がモヤモヤとした感じになった。どうして自分がこんな気分になっているのか、正直分からなかった。


 岡崎城の大広間に通された父・信長は、徳川家の当主である家康から丁重な出迎えを受けた。

「お待ちしておりました、上総介殿」

 深々と頭を下げる家康に、父は大股で近付いたかと思うとその両手を包みながら力強く語り掛けた。

「遅くなり、誠に申し訳ない。三河殿、力を合わせて勝頼を追い払おうではないか」

「……はい」

 父の言葉に、また頭を下げる家康。そのやりとりを、少し離れた所から見つめる信忠。

(……あれが、三河守様か)

 上背(うわぜい)はそんなになく、純朴(じゅんぼく)そうな顔つきをされている。服装を変えれば、農村の名主(みょうしゅ)に見えなくもない。色々な点で、先程会った信康とは似ていない。

 徳川“三河守”家康。天文十一年十二月二十六日の生まれで、現在三十六歳。現在は三河・遠江の二ヶ国を治める大名であるが、今に至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。

 家康が生を()けた松平家は、祖父・清康の代に三河の大半を手中に収める勢力に急成長を遂げたが、清康が天文四年十二月五日に外征先の尾張で家臣の裏切りで殺された事から一気に暗転する。一代で三河国統一を果たすまでに押し上げた当主を失った松平家の影響力は急速に衰え、家康の父・広忠は勢力の維持どころか隣国・尾張で勢力を拡大させていた“尾張の虎”こと織田信秀の侵攻で版図を削られ、存亡の危機に陥った。そうした状況に手を差し伸べてくれたのが、駿河の今川義元だった。今川家の援助もあり何とか三河の大名の座は保てたものの、その代償として半ば従属的な立場に置かれた。

 天文十三年(一五四四年)、竹千代(家康の幼名)三歳の時に母・於大(おだい)(かた)の実家である水野家が敵方となる織田家へ転じた事で、広忠と離縁。於大の方は実家に帰り、竹千代は幼くして実の母と離れ離れになってしまった。

 それから三年後の天文十六年八月二日、今川義元の要求に応じる形で、竹千代は人質として駿府へ送り出された。しかし――広忠の後妻(こうさい)の父で渥美半島に勢力を置く松平家家臣の戸田康光(やすみつ)の裏切りに遭い、老津(おいつ)の浜から出航した船は目的地の駿河ではなく尾張に向かった。敵である織田信秀の手に落ちた竹千代は、人質として熱田の加藤順盛(よしもり)の屋敷に軟禁されることとなる。

 天文十七年(一五四八年)三月、西三河を支配する織田勢とこれを奪還すべく出てきた松平・今川勢が三河国小豆坂(あずきざか)の地で激突。大将・太原(たいげん)雪斎(せっさい)の采もあり松平・今川方が勝利を収め、織田信秀の長子(側室の生まれだった為に嫡男ではない)信広を生け捕りとした。この小豆坂の戦いを機に松平家は三河国で失った版図を徐々に回復させていったのだが……翌天文十八年三月、松平家当主で竹千代の父・広忠が死去。死因は病死とも家臣に殺されたとも言われているが、定かではない。(いず)れにせよ、松平家は当主不在の状況となった、広忠の死去もあり、今川方に囚われていた信広と交換される形で竹千代を織田家から取り返したのだが、今度は息つく暇もなく今川家の人質として駿府へ送られた。従属国の人質という事もあって今川家譜代の家の子から(しいた)げられたり酷い扱いを受けるなど辛い思いも沢山したが、義元の右腕として知られた太原雪斎から教えを受けるなど良い事もあった。

 天文二十四年三月、竹千代は元服。今川義元から編諱を賜り“次郎三郎”元信と名乗った(さらに弘治四年(一五五八年)には祖父である清康から一字を受けて“蔵人佐(くらんどのすけ)”元康と改名)。元服と同時期に義元の姪である瀬名姫を義元の養女となる形で夫婦になった。弘治四年二月五日に初陣を果たすと、今川家の若手有望株としてその地位を着実に固めていった。

 転機が訪れたのは、永禄三年五月。尾張侵攻の先陣を任された元康は、松平勢を率いて進軍。尾張に入ると敵中で孤立する大高城に兵糧を搬入(はんにゅう)する役目を義元から命じられた元康は、織田方の付け城である丸根砦を攻めている隙に兵糧の運び入れを成功させる。敵の目を集めながら兵糧を届け、さらに丸根砦を落とした松平勢は仕事を終えて大高城に入り休息していたが、ここで驚きの報せが飛び込んでくる。

総大将・今川義元、桶狭間で休止中に織田勢の奇襲に遭い、討死――!!

 織田方に属していた母・於大の方の兄である水野信元から送られてきた密使で義元の死を知った元康は松平家の菩提寺である大樹寺(たいじゅじ)まで逃れたものの、将来を悲観した元康は先祖が眠る墓の前で自害を考えるまでに追い詰められていた。そんな折、住職の登誉(とうよ)天室(てんしつ)から“厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)(“現世は(けが)れているからこそ(いと)い離れ、次は清らかな仏の国で生を享けることを願う”という意味)”の教えを説かれ、元康もこの言葉に感銘を受けて自害を思い留まった。この後、岡崎城代だった今川家家臣・山田景隆(かげたか)が桶狭間の大敗を聞いて駿河へ逃げた事から空き城となった岡崎城に元康を始めとした松平勢が入った。命を救ってくれた“厭離穢土 欣求浄土”の言葉は元康の馬印として掲げられる事となる。

 驚天動地の出来事で領国・三河に戻った元康は、今川家の跡を継いだ今川氏真へ義元の仇を討つべく再度の出兵を促した。しかし、家中の建て直しに奔走している真っ只中の氏真に尾張へ出兵するだけの余裕はなく、(かんば)しい返事をしなかった。こうした姿勢に元康は今川家へ見切りをつけ、永禄四年四月に東三河の今川方の拠点である牛久保城を攻撃。松平家独立への狼煙(のろし)を上げた。それと並行して叔父の水野信元を仲介役に隣国・尾張の織田信長との同盟を模索。翌永禄五年に元康は清州城を訪れ、正式に同盟が締結された。この“清州同盟”で西から侵攻される恐れを取り除いた元康は、三河制圧へ注力していく事になる。

 永禄六年、元康は名を“家康”に改めた。この改名は、今川義元から編諱を受けた“元”の字を捨てる事で今川家との訣別を宣言する意味合いが強かった。

 同年、強い影響力を保持していた“三河三ヶ寺”へ与えられた特権を制限しようとした事を発端とした三河一向一揆が勃発。家中を二分し家康も一時追い詰められたが、何とか鎮圧。永禄九年には三河国統一を果たし、それと前後して朝廷から“三河守”を叙任(じょにん)されて名実共に三河国の国主となった。これを契機に家康は姓を“松平”から“徳川”に改め、新たな時代の船出を内外に印象付けた。

 永禄十一年八月、織田信長が足利義昭を擁して上洛戦を起こすと、家康は援軍を派遣。六角氏や畿内制圧などの戦に出る事は無かったが、徳川家が織田家にとって代え難い盟友であることを示した。

 同年十二月、武田勢が駿河に侵攻すると、家康は武田家と今川領を分け合う事で合意。十二月十三日に家康は今川領である遠江へ侵攻し、翌永禄十二年一月までに遠江の大半を手中に収めた。一方で、事前の取り決めに反して武田家の秋山虎繁率いる手勢が境界線である大井川を越えて一時侵入した事で、“武田家は信用出来ない”と同盟関係を解消した。五月十七日、遠江国内で唯一残っていた今川氏真が籠もる掛川城を開城させ、遠江国を掌握した。永禄十三年には本拠を遠江曳馬(ひくま)へ移し、地名を浜松へ改めた。三河・遠江の二ヶ国を領有する大名となった徳川家が東へさらに進める意思を示すと同時に、招待的に衝突するであろう武田家を念頭に置いた措置だった。

 永禄十三年四月に盟友の信長が若狭の武田元明を討伐すべく軍を起こすと、家康も自ら軍勢を率いて加勢。そのまま越前へ攻め入ったが、浅井長政の離反に伴う金ヶ崎の退き戦では殿(しんがり)を務めるなど奮闘した。さらに、元亀元年の姉川の戦いにも参戦し、二倍以上の朝倉勢を相手に互角以上で渡り合って勝利に貢献している。同盟相手の織田家が四方に敵を抱えて苦しい立場に置かれていても、家康は従前(じゅうぜん)通りに同盟を堅持。将軍・足利義昭から信長包囲網に加わるよう促されたが、これを断っている。

 元亀三年九月末、武田家が遂に徳川領の奥三河へ侵攻を開始。“戦国最強”と謳われる武田勢を相手に徹底抗戦の構えを見せた家康だが、徳川領内の城は次々と陥落。十二月二十二日には信玄率いる本軍が浜松城まで迫りながら直前で素通りした事に激怒した家康は、自ら軍を率いて出撃。三方ヶ原で両軍は激突し、徳川勢は善戦したものの大敗。家康は何とか浜松城へ逃げ延びたが、この戦で多くの将兵を失ってしまい徳川家は大きく力を削がれる結果となった。

 浜松で逼塞(ひっそく)するしかない状況に陥り、御家の命運は風前の(ともしび)か……と思われた矢先、風向きは一変する。越年して元亀四年二月、決して大きくない野田城を一月以上を費やして落としたかと思えば、突如として信濃の方向へ引き返し始めたのだ。もしかすると、武田家内部で何か起きたのでは……? そうした可能性が徳川家の家中で囁かれ、六月に入って確証を得る情報が飛び込んできた。徳川家に帰属した奥平家から、信玄死去の確かな情報を提供されたのだ! 偉大な当主を失った武田家は暫く大々的な動きは取れないと判断した家康は、旧領回復に向けて反撃を開始した。

 だが、事はそう簡単に運ばない。信玄の跡を継いだ勝頼は遺言を無視して積極的な外征を(おこな)ったのだ。中でも、信玄存命時も落とせなかった難攻不落の堅城・高天神城を昨年六月に攻略したのは、流石に衝撃を与えた。前回の侵攻で失った徳川家の力はまだ回復していない状態で、勝頼は今回も奥三河へ侵攻してきた。徳川家単独での対処は難しいと判断した家康は、昨年に続いて織田家に助力を申し出た……という経緯がある。

 かつては今川の属国同然だった松平家を建て直し、幾度の困難を乗り越えて現在の地位を確立した家康は、自他認める苦労人と言える。

 同盟を結んだ当時はほぼ拮抗した勢力だった両者だが、十三年の年月を経た現在では全く異なっている。織田家は京を押さえ十ヶ国以上を領有する日ノ本屈指の大大名、徳川家は内紛や強敵・武田家の侵攻もあったが三河・遠江の二ヶ国を治める地方大名。両家の格に大きな開きはあるものの、対等な関係に変わりはなかった。

 挨拶を交わした父・信長と家康は肩を並べて上座に腰を下ろす。次席には両家の嫡男である信忠と信康。以下、片側には織田家の家臣団、その反対側に徳川家の家臣団がそれぞれ向かい合う形で座る。

 全員が座ったのを確かめてから、父が(おもむろ)に口を開いた。

「長篠城の状況は?」

 その問いに、徳川家次席家老の石川数正が答える。

「物見の報せでは、“武田勢が猛攻を仕掛けているが持ち(こた)えている”とのこと」

 石川“与七郎(よしちろう)”数正。天文二年の生まれで当年四十三。天文十八年に家康が駿府へ人質に送られる際に近侍として同行、以来ずっと主君と苦楽を共にしてきた功臣だ。朴訥(ぼくとつ)で口下手な三河武士には珍しく弁が立ったことから、他家との交渉事を任された。永禄五年には今川家と交渉の末、人質交換で駿府に幽閉されていた瀬名姫と竹千代・亀姫の返還を実現させている。また、同年に締結された清州同盟では松平方の交渉役を担当し、以後は織田家の取次を担っていた。また、永禄七年に家中を二分した一向一揆を鎮圧させた後には次席家老に抜擢され、西三河の国衆のまとめ役となった。家康の信頼も厚く、永禄十年に信康が元服した際にはその後見人を任され、経験の浅い信康を補佐していた。

 交渉事のみならず、数正は武将としても徳川家に貢献していた。永禄四年にはまだ同盟が締結していない織田家と石ヶ瀬(いしがせ)川で戦闘になった際に数正は先鋒を務め、永禄六年に勃発した三河一向一揆では親族が敵方につく中で自らは浄土宗に改宗してまで家康に味方していた。

 数正の端的な説明に、頷く父。一同を見回してから再び話し始めた。

「此度は甲斐の山奥に引き篭もっていた武田がのこのこと出てきた。この機を逃さず、徹底的に叩く。積年の恨みを晴らす時は今ぞ、大いに奮え」

「おぉっ!!」

 父の言葉に、居並ぶ両家の家臣達が声を上げる。これまで辛酸を嘗めてきた者達なのでくする思いはあったに違いない。中でも、徳川家随一の武辺者で知られ敵の武田信玄からもその武勇を称賛された本多“平八郎”忠勝は、今からでも敵中へ切り込まんばかりに勢いよく拳を突き上げている。

「恐れながら……」

 そんな高揚した雰囲気の中、声を上げた者が居た。父はそちらの方に顔を向ける。

「何だ、“左衛門尉(さえもんのじょう)”」

 水を差すような発言をされたにも関わらず、父は特に怒るような素振りを見せず先を促す。

 酒井“左衛門尉”忠次。大永七年の生まれで、現在四十九歳。筆頭家老で、先に出た石川数正と共に徳川家を支える重臣である。

 天文十八年に竹千代が今川家への人質として駿府へ送られる際に、二十三歳の忠次も同行。その後に三河へ戻り、弘治二年に三河・福谷(うきがい)城に織田家の柴田勝家が二千騎を率いて攻めてきた時には、忠次が城から打って出て撃退している。永禄三年の桶狭間の戦いが終わってから家老になり、永禄七年の三河・吉田城攻めでは先鋒を務めて無血開城させると、東三河のまとめ役になった。

 外交面でも人付き合いが上手な数正より劣るものの、永禄十二年十二月に武田家が駿河に侵攻した折には武田家との交渉役を任され今川領の分割を取りまとめている。

 比較的若い徳川家臣団にあって、年長者の忠次が押さえ役として重きを成していた。

「上総介様におかれましては、あの武田家に勝つ為の方策はおありなのでしょうか?」

 既に天下人として威厳を放つようになった父を相手にしても、臆することなく訊ねる忠次。一方で信忠もあの武田家相手にどういった戦いをするのか気になっていた。父は自らの考えを事前に周囲へ明かす事は殆ど無く、家臣達は主君が何を考えているか全く分からない事も珍しくなかった。果たして、忠次の問いに父はどう答えるのか。

「左衛門尉の懸念は(もっと)もだ。この場で皆にはっきりと伝えておく――ある」

 はっきりと、力強く断言する父。一切の揺るぎがない発言に、居並ぶ面々からどよめきが上がる。

「だが、仔細(しさい)についてはまだ伏せておく。敵方に洩れては元も子もないからな」

 腹案はあるみたいだが、この場で披露する考えは無いらしい。確かに、相手は強敵の武田勢。信玄は“三ツ者”と呼ばれる情報の収集と流布を任務とする素破(すっぱ)を大勢抱えていたのもあり、敵の間者が紛れ込んでいても不思議でない。または、武田家に内通している者が情報を流す事も考えられる。どちらにせよ、今の段階で手の内を明かすのは得策ではないのは分かる。

 これには皆も理解している様子で、不満を口にする者は居なかった。

 すると、父は家康の方に体を向けた。

「三河殿、一つ頼みがあるのだが」

「何なりと」

「柵を作る為の丸太を、徳川家からも提供してもらいたい」

 この申し出に、信忠は首を(かし)げた。合戦に赴く際には陣地の構築に必要な丸太は必ず持って行くが、わざわざ他家に頼む程のものでもない。これは今回の戦で大規模な作事を行うという暗示だろうか。

 家康は父の申し出を二つ返事で了承した。

「分かりました。資材と、必要な人足(にんそく)も用意致しましょう。明日までに手配します」

「お気遣い、痛み入ります」

 織田家では尊大な態度の父も、相手が同盟を結ぶ家康だと丁重に頭を下げて感謝の意を示す。国力も格も自分の方が圧倒的に上なのに、父は家康を対等に扱っている。数年前まで武田家の侵攻を徳川家単独で食い止めていたのもあるが、欠かせない相手と認識している証拠とも言えよう。

「では、明後日に長篠へ向けて()つ。皆の者、そのつもりで支度するように」

「ははっ!!」

 締めの言葉を発した父は、家康と共に下がっていく。それを見送った家臣達も、各々(おのおの)立ち上がる。

 信忠も下がろうとした時、ふと前に誰かが立つ気配を感じた。

 誰だろうか、と顔を見上げれば――そこに立っていたのは、徳川信康。

 信康はニコリと微笑んでから、こう投げ掛けてきた。

「勘九郎様。唐突ではありますが、今宵二人で酒を()み交わしませんか?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ