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三 : 萌芽 - (8) 叙位、天下布武の先

 大規模な一揆で越前の統治が崩壊したり武田勢の侵攻で東美濃を失ったりと、年初から織田家にとって好ましくない出来事が続いた。それでも、大勢(たいせい)に影響を及ぼす事はなかった。権力の源と言うべき京を(おびや)かされず、手痛くはあるが致命的な痛恨事(つうこんじ)とは言い難く、天下布武の達成が少し遅れるくらいで挽回は十分に可能と捉えていた。

 天正二年三月二十三日。塙直政と筒井順慶が使者となり、『東大寺へ正倉院(しょうそういん)に収蔵されている“蘭奢待(らんじゃたい)”を信長が拝見したい』旨を申し入れた。蘭奢待は“天下第一の名香”と謳われる香木で、天皇家の所有物ではあるが過去に足利義満・義教(よしのり)義政(よしまさ)が拝見した上で一部を切り取っている。

 この申し入れに対して東大寺は「足利将軍家以外に前例がない」と断ったが、「天皇家の許しがあれば……」と回答。そこで信長は正親町天皇に蘭奢待を拝見したい旨を上奏(じょうそう)し、これまで内裏(だいり)の修繕を始めとした天皇家への貢献を(かんが)みて帝は勅許(ちょっきょ)を出した。帝からの了承を得て、三月二十八日に正倉院中倉から出された蘭奢待は信長が居る多聞山城まで丁重に運ばれ、そこでお披露目された。最初こそ「かの有名な蘭奢待はこれか!」と見ていた信長だが、気持ちが(たかぶ)ったのか東大寺の僧三人が立ち会う中で自らの手で蘭奢待を(のこ)で一寸角二個を切り取ったのだ。蘭奢待を過去に切り取ったのは先述した足利将軍家の三人のみで、信長はこれと同等の位置にある事を内外に喧伝(けんでん)する狙いが多分に含まれていた。

 そして、天正二年の四月には、信忠にも大きな変化があった。

 上洛した信忠は妙覚寺に入り、着替えを(おこな)った。(かんむり)を被り、縫腋袍(ほうえきのほう)を着て、手には(しゃく)を持つ。“束帯(そくたい)”と呼ばれる装束(しょうぞく)で、見た目は完全に公家である。鏡に映る自分の姿を見た信忠は、変な感じがした。

 慣れない装束に着替えた信忠は、馬に乗りある場所へ向かう。こうした恰好(かっこう)をしているのは、特別な理由があった。

 信忠一行が向かった先は――内裏。

 この日、信忠への従五位下(じゅごいのげ)叙位(じょい)が執り行われた。

 位階(いかい)は各地の大名が朝廷の任命を受けず勝手に名乗る事例が横行している官位(尾張に居た頃に信長が名乗っていた“上総介”がその例)とは異なり、朝廷の推挙を受けて帝の裁可を仰いで正式に授けられるものだ。その中でも信忠が授けられた従五位下の位が重要で、この当時は従五位下から貴族として扱われた。つまり、信忠は朝廷が認めた存在として権威付けすると共に、世間的にはまだ無名の信忠に箔を付ける狙いがあった。信忠の従五位下叙位には天下人である父・信長の意向や天皇家への貢献度があったからこそ実現したもので、公卿(くぎょう)の家の者を除けば異例の扱いとも言える。

 何はともあれ、信忠に新たな位が加わった。信忠自身は特段何も変わらないと思っていたが、それはすぐに誤りだったと気付かされた。翌日から従五位下叙位のお祝いに多くの人々が信忠へ面会を求めて殺到したのだ。織田家に属する家臣は無論のこと、公家・商人・文化人など様々な職種の面々がひっきりなしに訪れ、信忠はその顔と名前を覚えるだけで精一杯だった。位が一つ加わっただけでこんなに違うものかと、信忠は驚いていた。

 目が回るような忙しさの中、信忠を喜ばせる出来事があった。

「宗久殿!! お久しゅうございます!!」

 今井宗久が叙位のお祝いに、京の妙覚寺に駆け付けてくれた。実に五年ぶりの再会に、信忠の声も弾む。

「末吉も息災であるか?」

「はい。この通り、元気にやっております」

 さらに嬉しいことに、宗久は手代の末吉も伴ってきてくれた。末吉には堺滞在中に何から何まで世話になっていたので、久しぶりに顔を見れて良かった。四つ上の末吉は暫く会わない間に大人びた顔つきになっていた。

「最近は外回りにも行かせ、取引先にも少しずつ顔を覚えてもらっております。将来の番頭候補の一人として、日々商いについて勉強させているところです」

 宗久が近況について説明すると、末吉はやや顔を赤らめて頬を掻いた。目標に向かって頑張っているのが自分だけでないと分かり、少し嬉しく思う。

「宗久殿、商売の方は順調ですか?」

「はい。お蔭様で、儲からせて頂いております」

 話を振られた宗久は臆面もなくはっきりと言ってのける。遠慮や謙遜をしないのは、宗久らしいと言えばらしいか。

 早くから父・信長に接近した宗久は、永禄十二年に堺近郊の五カ庄(ごかのしょう)の代官職や淀川の通行権を任され、信長から信任が厚い事を背景に影響力を拡大していった。また、自らの代官領に河内(かわち)鋳物師(いものし)を集め、鉄砲や火薬の製造にも乗り出している。戦国乱世で鉄砲の価値は年々増加しており、高まる需要の波に乗り鉄砲の製造販売事業は好調が続いていた。

「それもこれも上様のお蔭でございます。この宗久、微力ながら国の発展の為に商いで支えていく所存」

 神妙な面持ちで(こうべ)を垂れる宗久。しかし、今の言葉を聞いた信忠は目をパチクリさせた。

「……ちょっとお待ち下さい、宗久殿。国の発展と商いがどう結び付くのですか?」

 全く解せないとばかりに訊ねる信忠。その反応に「おや、ご存知ありませんでしたか」と自らの至らなさを謝ってから、宗久は説明を始めた。

「上様は様々な施策(せさく)を打ち出して商いを奨励させておられるのは知っておりますよね」

「はい。“楽市楽座”や関の撤廃ですね」

 信忠が答えると、深く頷いた宗久。

 信長は領地を拡大させると、それ以前に設けられた関所を撤廃した。そもそも、関所は外敵の侵入を防ぐ目的で交通の要衝に建てられたもので、時代が進むにつれて通行人から銭(税)を徴収するようになった。延暦寺が巨万の富を築いたのも、敦賀から京を結ぶ街道に設けた関で受け取った関銭(通行税)の収入があったからだ。しかし、信長は“税として懐に入ってくる金額”よりも“関がある事で失われる金額”の方が大きいと考えた。さらに、迅速な移動こそ織田軍の強みと捉えている信長にとって、移動を阻害する関は邪魔以外の何物でもなかった。これ等の観点から、信長は積極的に関を取り払ったのである。

「これまでは輸送に掛かる関銭や市に出店する際の場所代など、物の値段に上乗せされる余分な経費が多く含まれていました。しかし、上様はそうした“必要性のない”金を取っ払う事で物の値段を安くし、商いを活性化させました。物の値段が安くなれば消費も増え、巡り巡って生産者である百姓や職人の実入りが増える事に繋がります。収入が増えれば従来なら手が出せなかった物を買おうという意欲が生まれ、消費に結び付く……上様は経済の好循環を通して、国力を高めていこうとお考えのようです」

「経、済……」

 宗久の発した語句を、無意識の内に呟く信忠。正直、そんな発想は頭に無かった。

 そもそも、武家はどうやって銭を得るか。大名ならば関銭など徴収した税等の直接金銭で入ってくる収入はあるが、家臣達は違う。治める領地から納められた米などの年貢を商人に売り、銭に替えている。なので、武家の大半の者は年貢に依存していた。当然のことながら、その年の獲れ高次第で買い取り値も変動するので、収入が安定しているとは言い難い。

 では、武家の者が収入を増やすにはどうしたら良いか。――領土を拡げる事だ。領土が拡がれば、獲れ高も増える。獲れ高が増えれば、少なくとも収入が減らない。単純と言えば単純な話だ。それ故に、全国の大名達は領地を拡げようと戦に明け暮れている。

 しかし、この考えには一つ問題がある。……天下統一を果たした後のことだ。

 収入を増やす為に領土を拡げてきた武家が、新たに得られる土地が無くなってしまったら。豊作・凶作で獲れ高の変動はあるが、この国の広さは変わらない。年貢に依存している以上、武家が収入を増やす方法は二つ。開墾(かいこん)して田畑を増やすか、海外へ侵攻するか。開墾には長い年月と莫大な労力が掛かる。海外へ侵攻するには人や物を輸送する大きな船を建造しなければならないし、外征に掛かる経費も莫大に(かさ)む。どちらも、現実的ではない。

信長は“天下布武”を掲げて勢力を年々拡大させ、その実現が微かに見え始めている。“天下布武”達成後の将来を見据え、年貢に依存する従来のやり方ではいつか破綻する事に気付いたとしても、何ら不思議でない。

「ですが、“楽市楽座”や関の撤廃だけでは足りません。お武家様にしか出来ない事がございます」

(武家にしか出来ない、事……?)

 宗久の言葉に、信忠は首を(かし)げる。商いを生業(なりわい)としている商人ではなく、全くの門外漢である武家が? そんな事、本当にあるのだろうか。

 大体、武家は侵略する為にあるのではなく外敵の侵略から民を守る為に存在する。戦が無くなれば武家は無用の長物(ちょうぶつ)も同然だ。“狡兎(こうと)死して走狗(そうく)()らる(兎を狩り尽くして猟犬は不要となって煮て食われる、という意味。転じて、敵が居なくなればそれまで尽くしてくれた者達は邪魔になり始末される例え)”の故事成語があるように、戦う必要のない兵達は淘汰される運命にある武家の者達に、一体何が出来るのか。

 一生懸命考え込んで黙ってしまった信忠に、宗久が声を掛ける。

「仕組みを正す、規格を全国で統一する、産業を(おこ)す。お(かみ)としての権限を発揮して頂きたいのです」

 宗久が言及した事柄に、信忠は素朴な疑問を抱いた。

「……そうした事は、商人達の間で取り決めてもいいのではないですか?」

「仰りたい事は分かります。されど、内々でやるとなると互いに利害が絡んでくる関係上、遅々として進まない事が往々(おうおう)にあります。そうなるくらいならば、お上に決めて頂いた方が手っ取り早いのです」

 疑問をぶつけた信忠に対し、さらりと答える宗久。

「まず、仕組みについて。足利家が開いた幕府も昨年滅んだように、長い歳月を経た現在では齟齬(そご)(きた)している仕組みが世の中には多々ございます。そうした経年劣化しながらも放置され続けてきた問題を解決し、大胆に改革していく必要があります」

 市に店を出す際の“座”や場所代もそうだが、その昔は良かったやり方でも時代が移ろう内に弊害(へいがい)が生じてきている。しかし、それを感じていても具体的に変えようと行動に移すのはなかなか難しい。結果、時代にそぐわなくても『昔からやっていた』の一言で不満を封じ込めてきた経緯がある。“楽市楽座”と同等の施策は織田家の他にも取り入れている大名も出ているが、既得権益で旨い汁を(すす)っている勢力による強い反発もあり、全国的な広がりに至っていない。

「次に、規格について。我が国は各地方で様々な規格が使われております。こんなバラバラな状況では、取引するだけでも手間が掛かり間違いを招く要因になります。全国で規格を統一するのは、今後商いを活発にしていく上で必ず行わなければなりません」

 具体的な例を挙げるならば、(こよみ)がある。月日の基本となる暦だが、この時代には主要なものだけで京暦・三島暦・大宮暦など地方で全く異なる暦を採用していた。また、物を計量する際に用いられる(ます)の大きさも規格が統一されておらず、同じ量を計測しても使用する枡次第で数字が異なる……という事も日常的に起きていた。

「そして、産業について。お武家様は米ばかり重んじておられますが、米を育てるのに適さない土地もこの国には多くございます。米以外の特産を作り、それで地元を潤わせている例は幾つもありますから、それを全国に波及してもらいたいのです」

 越後では衣料の原料となる青苧(あおそ)(カラムシ)の栽培が盛んで、日本海航路を通じて京を含む畿内へ輸出されていた。これに着目した上杉謙信は青苧の流通に課税し、そこから入る税収で上杉家の財政を潤わせた。謙信は過去に将軍へ謁見するべく何度も上洛したり関東へ遠征したりしているが、年貢以外の副収入で経済的に余裕があったこそ()せたのだ。

 他にも飛騨国の林業や燈油(ともしあぶら)の原料として西国(さいごく)で栽培されている荏胡麻(えごま)など、力を入れれば地域の特産品として売り出せる原石が各地に転がっていた。

「つまり……(まつりごと)で『こういうやり方にしろ! こういうやり方で統一する!』と取り決め、一方で地域の特性を掴んだ上で特産品を振興(しんこう)させる。そういう事でよろしいのですね?」

「はい。商いが盛んになれば生産者にも還元され、巡り巡って国全体が豊かになります。天下布武の先はこうした国を目指したい、と上様は仰っておられました」

 信忠の言葉に、宗久は頷いた。

 商いの重要性や米の石高ではなく銭の多寡に着目した、当時としては希少な価値観を持っていた信長。その考え方は、信長の父である信秀の影響が大きかった。

 織田弾正忠家は元々尾張国守護・斯波氏の守護代である織田大和守家の重臣に当たる家柄、端的に言えば斯波氏の陪臣の身分だった。信秀が織田弾正忠家の家督を継ぐと、津島神社の門前町で伊勢湾交易で賑わっていた津島を支配、その運上金を元手に勢力を拡大させた背景がある。その後も熱田神宮の門前町である熱田を支配下に置いて経済的地盤をさらに固め、やがて主家を凌いで尾張一円のみならず西三河まで版図を拡げた。信秀は戦に滅法強かったのもあるが、寡兵経済の重要性を見抜く先見(せんけん)(めい)を持っていたのも大きかった。

「……成る程、商いをもっと盛んにする為には(まつりごと)(つかさど)る武家の役割が重要となる訳か。商人と手を(たずさ)えて、この国の未来をより良いものにしていかないといけませんね」

 しみじみと信忠が語ると、宗久はとても驚いたように目を大きく見開いた。傍らに座る末吉も同じような顔をしている。

「……如何(いかが)した? 私が何か変な事を言いましたか?」

「いえ……勘九郎様は、我等商人と対等に扱われるので、少し驚いてしまいました」

「? そんなにおかしな事でしょうか?」

 宗久が説明してもまだ怪訝な表情の信忠。すると、横から末吉が付け加えてくれた。

「お武家様は私共のような商人を見下(みくだ)すと言いますか、軽んじる方がとても多いものですから……」

「そうなのですか? 私はあまりそういう風に考えた事がありませんので」

 末吉に言われてもまだ信忠はピンと来ない。

 この当時の武家の者は、商人のことを『何も生み出さない、そろばかりか利鞘(りざや)で稼ぐ(いや)しい(やから)』と蔑む風潮があった。銭に執着することを良しとしない考え方もあり、同じ町人でも低く見ていた。これは年貢米を銭に替える際に商人が買値(かいね)を低く見積もろうとしたり、物が不足している時に値を釣り上げるのを“阿漕(あこぎ)な仕事”と捉える私怨(しえん)も含まれている。尤も、一部の儲け最優先のあくどい商売をしている悪徳商人を除けば、真っ当に仕事をしているに過ぎない。

 信忠は幼少期を生駒屋敷で過ごしており、商人に対して武家の者達が抱いていた偏見を一切持っていなかった。生駒家は灰や油の商いや馬借業を営んでおり、日常的に出入りの商人や取引の仕事を見てきた環境が大きく影響していた。

「商人は銭を稼ぐのが仕事。儲けが出なければ路頭に迷う。それのどこが悪いのだ?」

 率直に思っている事を信忠が口にすると、宗久は驚きのあまり目を丸くした。

「……上様も『銭を生むのが商人の仕事だ』と仰られておりました」

 宗久がそう答えると、信忠も「そうかも知れない」と思った。

 信長は若い頃から市井(しせい)に出て、庶民の暮らしぶりを(つぶさ)に見ていた。世を動かしているのは武家ではなく商人であること、銭を生み出す商人の影響力の大きさを自らの目で確かめていた。そして、銭を多く持つ者こそ戦に勝てると導き出したのだ。津島・熱田と二つの経済都市を支配した事を足掛かりに尾張一国を()べるまでに成り上がった父・信秀の例も、信長の考えを後押ししていた。

 五年前の正月に、どうして父が『堺を見てこい』と言ったのか、ようやく分かった気がする。堺は少し前まで商人が支配していた町、勢いもあり世を動かしているのは商人である事を自分に知ってほしかったのだろう。実際、堺に行って沢山のことを学んだ。父の目論見通りになったと言っていい。

「勘九郎様とは、今後とも末永くお付き合いしたいと身共(みども)は思っております。何卒、よろしくお願い致します」

 そう言うなり、深々と頭を下げる宗久と末吉。多少の世辞はあろうが、少なからず本心から出た言葉だと信忠は受け取った。

 予期せぬ形で父が目指すこの国の未来に触れた気がした信忠だったが、自分はどういう国を作りたいか改めて考えてみようと思った。


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