三 : 萌芽 - (7) 分相応
元亀四年四月に信玄が死去してから、四男で諏訪家に入っていた勝頼が家督を継いだ。代替わりの手続きや積極的な侵攻を慎むよう伝えた信玄の遺言もあり、天正元年に武田家は目立った動きを見せなかった。しかし、“領国に籠もっているだけでは他国が不審に思う”という勝頼の意向もあり、年が改まると大規模な軍事行動に出た。総勢一万五千の兵を率いて信濃から美濃へ侵攻すると、天正二年一月二十七日には明知城へ押し寄せた。
明知城は美濃の南東に位置し、信濃・三河方面へ通ずる街道も近くに通っている上に遠江国境からも近い事から、交通の要衝として織田方の重要拠点であった。武田勢襲来の急報を受けた信長は二月五日に三万の兵を率いて岐阜から出陣。信忠もこれに従った。
当初は明知城に籠もる将兵と後詰の本軍とで武田勢を挟撃する算段を立てていたが、二月六日に遠山家家臣の飯羽馬右衛門が造反、敵である武田勢を城内へ引き込んでしまった。城主の遠山一行は辛うじて脱出したものの、一行の叔父である遠山友治を始めとした将兵五百名が戦死、落城した。救援が間に合わなかった信長は、二月二十四日に岐阜へ撤退した。武田勢一万五千に対して織田勢三万と数的優位にあったが精悍で知られる武田勢が相手では分が悪いと判断、決戦に臨むのは避けた形だ。
その後、東美濃で唯一残っていた織田方の城である飯羽山城も武田勢の攻撃により落城。岩村城を含めた十八城の全てを攻略された事で東美濃は武田の手に落ちてしまった。この成果に満足した勝頼は甲斐へ引き揚げたのだが、その道中で武田勢の足軽が『信長は 今見あてらや 飯羽山 城を明知と 告げの串原』と謳った……と『甲陽軍鑑』に記されている。この句は“信長は浅はかにも城を明け渡さないと言っているが、黄楊櫛のよう(に落ちている)”という意味だが、句の中には武田方が攻略した五つの城砦(今見砦・阿寺城・飯羽山城・明知城・串原城)が含まれており、信長の対応を痛烈に皮肉った内容だった。
卓越した武略の才で武田家を一大勢力に導いた名将・信玄が亡くなったものの、その薫陶を受けた家臣や将兵は依然として健在である事を見せつけられる結果となった。
嘗ては尾張半国を治める程度だった織田家も、現在では京を含む十ヶ国を領有する国内有数の規模に成長を遂げた。それに伴い、家中の組織にも変化の兆しが現れ始めた。
元亀二年九月の延暦寺焼き討ちで最も功があった明智光秀に志賀郡五万石を与えられ、坂本城を築いた。これまで有力家臣に城代を任せる事はあっても領地を与える事は無かったので、光秀が織田家中で城持ち大名一番乗りを果たした。朝廷や幕府との折衝役だけでなく武将としての活躍も目覚ましく、その貢献度は比類ないものであった。その後も天正元年八月には羽柴秀吉に北近江の旧浅井領を与えられて長浜に城を築き、九月には丹羽長秀が丹波国を与えられて家中で初めての国持ち大名になっている。
明智光秀や羽柴秀吉は異例の大出世を遂げたが、他の者も活躍している者は着々と地位を上げていた。特に、馬廻衆の中でも特に優れた者が選ばれる黒母衣衆・赤母衣衆の出身者である前田利家や佐々成政・金森長近・塙直政など、次世代を担う人物が頭角を現しつつあった。
その一方で……順風満帆に出世街道を突き進む者も居るが、頭打ちになっている者も少なからず存在する。毛利“新左”良勝もその内の一人だ。
黒母衣衆に抜擢された新左だが、近年は吏僚として信長の側仕えが多くなっていた。苦境にあった元亀年間は多忙の為に信忠の元に来る事も少なかったが、天正に改元された頃から頻繁に顔を見せるようになっている。その変化を信忠は嬉しく思う反面、不安にも感じていた。
(……もしかして、傅役をしていたから?)
今現在、出世している者達と新左で決定的に違うのは、信忠の傅役を務めていたか否か。美濃を制してから織田家は飛躍的に版図を拡げていくが、信忠の存在が足枷になっていたのかも知れない。自分のせいで出世の道が閉ざされたのでは? と考えると、申し訳なく思う。
そんな折、岐阜へ帰ってきた信忠はふと茶が飲みたい気分になった。ちょうどその時に新左がやって来たので、声を掛けた。
「新左。茶の湯の練習に付き合ってくれないか?」
「はい。喜んでお供致します」
信忠の誘いに、新左は二つ返事で受けてくれた。
先日の久秀との一席以来、不甲斐ない思いをしたくないという一念から信忠は時々練習するようになった。茶の湯は当時の流行りで、信忠も将来的に亭主役を務める事も十分に有り得る。その時の為に、気が置けない者を相手に場数を踏もうとしたのだ。
岐阜城内の茶室に移った二人。亭主役は信忠、正客役は新左だ。
「……新左と出逢ってから、何年になるかな」
「永禄十年のことですので、七年になります」
「そんなになるか。……いや、それだけしか経ってないのか」
もっと長い間一緒に居たような感覚だった信忠は、率直に驚いた。早いと思う傍らで、短いとも感じた。それだけ濃密な時間を過ごしてきた裏返しとも言えよう。信忠の反応に、新左は何も言わず微笑んでいた。
信忠は茶を点てる手を止めず、話を続ける。
「新左と茶の湯となると、あの堺のことを思い出すな」
父から『見聞を広めてこい』と送り出されたのはついこの間の出来事のようだが、もう五年も前の話になる。
「懐かしいですね。宗久殿の屋敷で若も私も初めての経験でした」
「そうだな。あの時新左に背中を押された事、今でも覚えておるぞ」
初めての茶の湯に気後れする信忠に、新左が後押ししてくれた事で気持ちが楽になった。それでも茶室に入ると萎縮してしまったのはご愛敬だが。何れにしても、信忠には良い思い出だ。
振り返れば、堺に滞在していた時は新左に背中を押されてばかりだった。伝兵衛の存在が気になった時も『遠回り結構、若がやりたいようになさいませ』と肯定してくれ、前へ踏み出せたのだ。主従の関係ではあるが、信忠は新左のことを頼れる兄貴分のように思っていた。
新左もまた、堺の出来事に思いを馳せているのか目を細めていた。
茶を点てた信忠が、茶碗を新左の前に差し出す。一つ頭を下げてから、器を手に取った新左が口を付ける。室内は穏やかな空気に包まれていた。
「……お上手になられましたな」
茶碗を静かに置いた新左が、しみじみと漏らす。
「いや。無駄な動きも幾つかあったし、手付きも遅い。まだ道半ばだ」
自分の飲む茶を点てながら、首を振る信忠。数寄者で知られる宗久や久秀、さらに父の点前を目にしているのもあり、一流との違いを痛感させられていた。久秀の助言を受けてからは楽しむよう心掛けているが、まだそこまでの境地に達していない。
「そう申されますな。若は着実に上達されております。誰だってすぐに上手くなる訳ではありません、それよりも日々の成長を素直に喜ぶべきです」
「……そうかな?」
「はい。茶の湯の事はとんと分かりませんが、若が努力を重ねている姿は見ておりますので」
そう言って胸を張る新左。その言葉を受け、信忠も「そうかも知れない」と思えてきた。昔からそうだが、新左の言葉を聞いたら勇気や自信を貰える気がする。
岐阜城に来てから、自分のことを一番多く見てきたのは間違いなく傅役を務める新左だ。説得力があるのも頷ける。
自分が点てた茶を、一口含む。……心なしか、いつもより美味しく感じられた。
「……ありがとう。いつも見ていてくれて」
「とんでもないお言葉……」
信忠が感謝を口にすると、恐縮する新左。その飾り気のない反応に、信忠もほっこりする。
今なら、あの事を聞けるかも知れない。気持ちを引き締め、覚悟を決めてから信忠は声を発した。
「……新左は今の地位に満足しているのか?」
やや硬い声で訊ねる信忠に、新左は間を置かず即答した。
「はい。不満はありません」
「……もっと武功を挙げて、出世したいとは思わないのか?」
さらに信忠は質問を重ねたが、新左は「うーん」と唸って少し考え込む仕草を見せる。やがて、言葉を選びながら話し始めた。
「……正直なところ、私自身“偉くなりたい”という欲があまり無いのですよね。多くの者を率いて戦うよりも一人で戦う方が性に合っていると言いますか。それよりも上様や若の近くに居たい気持ちの方が強いです」
出世すれば裁量の幅が広がり部下も多くなるが、個人の自由度は狭まる。地位が上がれば上がる程に、主君の側近くに居る事が難しくなる。新亜はそうした事を望んでないと言うのだ。上昇志向の強い者が多い戦国の世で出世欲に乏しい性格は珍しいが、信忠は本人が満足しているのなら構わないと思っていた。
よくよく考えてみれば、信忠自身も“今すぐに家督を継ぎたい!”という気持ちに欠ける。家督を継ぐのは“自分が嫡男だから”というのもあるが、“先祖代々脈々と受け継がれてきた織田弾正忠家を絶やさない”という使命感が強い。だからこそ当主の座を譲られるその時の為に準備を重ねているのだ。
父の織田家の舵取りに何の問題も無く、着実に良い方向へ進んでいる。そんな状況で、無理に自分が当主となる必要性を信忠は感じていなかった。恵まれた環境にあるのは自覚している、貪欲さに欠けているのも分かっている。でも、だからと言って今の地位が安泰とはこれっぽっちも思っていない。努力を怠ったり器量に疑問符が付けば問答無用で挿げ替えられる可能性を孕んでいるのだ。織田家には信忠以外にも男子が何人も居る。取り替えるのに躊躇する理由など無いのだ。なる気はまだ無いけれど、気を緩めている訳ではないのである。……そう考えると、新左の気持ちも少し分かる気がした。
「それに……」
静まり返った中で、新左が徐に口を開いた。
「もし偉くなれば、もっと良い思いをしているかも知れません。ですが、今の地位にあったからこそ、若の成長を間近でずっと見届ける事が出来ました。だから、私は果報者です。今の立場は私にとって分相応、器以上に背伸びしては不幸を招くものですから」
そう言うと、屈託のない笑顔を見せる新左。当の本人が幸せだと言っているのだから、他人がこれ以上とやかく口を挟むのは野暮だと信忠は判断した。
「……分かった。つまらない事を聞いて済まなかったな」
「いえ。お気遣い頂き、ありがとうございます」
大人な対応をする新左。ふと、信忠は自分の茶碗に手を触れる。話をしている間に冷たくなっていた。
「新左。もう一杯、如何か?」
「はい。頂戴致します」
答えるなり新左は残っていた茶を一気に呷る。その飲みっぷりは見ていて清々しさすら覚えた。
茶の湯の練習よりも、新左の心の内を聞けたのは何よりの収穫。空になった茶碗を濯ぎながら、信忠は充足感に満ちていた。




