三 : 萌芽 - (6) 与四郎
天正二年の織田家の幕開けは、越前から齎された悪い出来事だった。
昨年八月に朝倉家を滅亡させた信長は、桂田長俊(前波吉継から改名)を越前守護代に、富田長繁を府中領主に任じた。しかし、この両名は旧朝倉家の家臣で同格の身分だった頃から犬猿の仲で、さらに元々重きを成す地位になかった長俊が守護代になって偉そうに振る舞っていたのもあり、次第に長俊への不満が高まっていった。武家階級のみならず、長俊の圧政に苦しむ百姓の間にも不満が蓄積されていった。
そして――天正二年一月十八日、長繁は重税に苦しむ百姓や長俊に不満を抱く地侍達と結託して蜂起。翌十九日には長俊の居る一乗谷に攻め込んだ。長俊は守護代に任じられた直後に失明しており、指揮を執る事が出来なかった。結果、長俊は殺害され、その家族も捕縛された後に殺害された。呆気なく長俊が討たれたのは、それだけ旧朝倉家出身者や民衆から深く恨まれ嫌われていた事を物語っていた。
当初の目的を果たした一揆勢だったが、一月二十四日には一揆を扇動した中心人物の長繁が有力国人の魚住景固を謀殺した上で翌日には景固の一族諸共を滅ぼした頃から、風向きが変わり始めた。敵対関係になかった景固を騙し討ち同然に始末した事から、百姓を主体とする一揆勢は隣国の加賀から本願寺の坊官である七里頼周を招いて大将に据えた。これにより、旧朝倉家の国人衆と百姓の一揆衆で構成されていた軍勢は、それぞれ分離してしまった。
二月十七日、長繁率いる富田勢と一揆勢が浅水の地で激突。五万を優に超える一揆勢に対して富田勢は一千にも満たなかったが、早朝に行われた合戦では富田勢が奇蹟的大将を収めた。これに気を良くした長繁は本願寺と敵対する宗派の門徒などから兵を集めて夕刻に再度一揆勢を攻撃したが、圧倒的な兵力差や連戦の疲れもあり形勢は悪かった事から一旦兵を引かざるを得なかった。翌十八日早朝に態勢を整えて三度一揆勢に突撃したが、無茶な戦いぶりに兵達の間から不満が募り、最終的には家臣の裏切りに遭って長繁は討たれた。
その後、越前各地で蜂起した一揆勢は旧朝倉家家臣を次々と倒していき、五月には越前全土を掌握するに至った。この状況に対処したい信長だったが、様々な事情から越前へ兵を送る事は後回しにしなければならなかった。この結果、越前は加賀に続いて武家の支配を受けない“百姓の持ちたる国”となった。
正月が明けてから、信忠は父に呼び出しを受けた。
父が待つ大広間に入ると、一人の家臣が控えていた。信忠はそちらに軽く頭を下げてから座る。
「勘九郎。その者を知っておるか」
開口一番に切り出してきた父に、信忠は「はい」と答える。
「河尻“与四郎”殿……ですね?」
信忠が名前を口にしたら、その家臣は無言で会釈をしてきた。
河尻“与四郎”秀隆。大永七年の生まれで当年四十八。天文十一年八月、秀隆十六歳の時に三河・小豆坂の戦いで初陣を果たすと、今川方の足軽大将を討ち取る武功を挙げている。信秀亡き後は信長に臣従し、永禄元年に清州城で謀反を企てた信長の弟・信行を謀殺した実行役を務めたとされる。また、織田家で編成された黒母衣衆の筆頭に任じられた。母衣衆に抜擢されるのは家中の中でも特に優れた極少数の者に限られ、筆頭を任されたというのはそれだけ実力がある裏返しとも言えた。
その後も着々と実績を重ね、現在では家老に次ぐ位置づけとして文武両面で織田家を支えていた。ただ、一つ年下の佐久間信盛やさらに年下の柴田勝家が家老として重きを成す中、年長者の秀隆が一回り以上も年下の若手と序列が変わらないというのは些か扱いが低いのでは? と思う者も少なからず居た。
切れ長な眼、整えられた口髭、そして何より――陰のある表情。人を寄せ付けない雰囲気が全身から滲んでいる。信忠も何度か一緒になった機会はあるが、和気藹々とした中でも秀隆は一人だけポツンと隅に居る印象が強かった。その包んでいる雰囲気から、近寄りがたい感じを信忠は抱いていた。
やや苦手に感じている秀隆が、どうして今この場に居るのだろうか。信忠は解せなかった。
「これから、与四郎をお主の補佐役に付ける」
唐突に本題を告げるのはいつもの事だが、流石の信忠も非常に驚いた。
岐阜城に移って以来、新左がずっと傅役を務めてきた。新左は武芸の稽古だけでなく、礼儀作法や武家としての心構えを教えてくれ、信忠にとって頼りになる兄貴分みたいな立ち位置だった。その働きぶりに落ち度は無く、不満なんて抱く筈がない。しっかり務めを果たしている新左を替える必要が、どこにあるのか。
異議を唱えようとしたその時、上座の父が先手を打つように声を発した。
「勘違いするな。それとこれは話が別だ」
父が言う“それ”は、信忠が考えている事を指しているのだろう。一先ず新左が傅役を解かれる訳ではないと分かり、腰を浮かせかけた信忠は座り直す。
さらに、父は続ける。
「今後、織田家の将として一軍を率いる事になるが、戦に詳しい者がお主の周りに居らぬ。だから、与四郎を付けるのだ」
父の説明を聞いて、信忠は成る程と思った。
昨年に元服を果たした信忠だが、自身直属の家臣はまだ居なかった。長島攻めでは尾張衆を率いたものの自分の軍ではないし、経験がまだ浅い信忠はお飾り同然で、命令したり指示を出したりするのは気後れした。信忠の後見人的位置づけの新左も実戦経験こそ重ねているが、軍を差配する事は少ないので信忠を戦で補佐するには荷が重過ぎた。
その点、秀隆は実績十分だ。美濃攻めの時から一軍を率いて城攻めに参加しており、上洛以降も城代を務めるなど父の信頼は厚い。経験・能力を兼ね備え、年若な信忠を陰から支える役目にうってつけと言えよう。
信忠が納得したと見た父は用が済んだとばかりにサッと立ち上がり、大広間を後にした。小姓もそれに続き、あとは信忠と秀隆の二人きりとなった。
「……」
顔を上げた秀隆と、目が合う。信忠は様々な人が出入りしていた生駒屋敷で幼少期を過ごしており、その人が何を考えているか、どんな気持ちにあるかを大体分かるようになった。しかし……秀隆の表情や目を見ても、何も分からない。言うなれば、“無”。感情も、思考も、読み取れないのだ。
二人の間に、静寂の時が流れる。暫くその状態が続いたが、沈黙に堪え切れずに信忠の方から声を掛けた。
「……よろしく頼むぞ、与四郎」
「……」
秀隆は無言で頭を下げる。一応は主君筋に当たる信忠への礼儀なのだろうが、言葉を発さないのが不気味に感じる。見方を変えれば、主君である父から命じられたから仕方なく応じたとも、出世街道から外されて内心不満を抱えているとも、受け取れる。せめて表情、目の動きに変化があればどう思っているか見当がつくが、残念ながら顔を伏せていて窺えない。
重苦しい空気に、気まずい思いになる信忠。さらに言葉を継ぐべきか、このまま辞した方がいいのか。判断がつかず、黙り込む。
やがて、秀隆が顔を上げた。
「……では、私はこれにて」
信忠が何も言わないので用は済んだと解釈した秀隆が、軽く礼をしてから辞していった。秀隆は奉行として織田家の内政面でも支えている立場にあり、ゆっくりと話をしている暇は無いのだ。
秀隆が去り、大広間には信忠ただ一人。畳の縁をじっと見つめながら、信忠は気持ちの整理をつけようとしていた。
(与四郎に他意は無い。父上は経験が浅い私に頼りとしている与四郎をつけてくれたのだ。相手をよく知らないだけで、これから距離を縮めていけばいい……)
あまりに素っ気ない態度に信忠の心中は穏やかではなかったが、それを懸命に抑えようとする。これから長く付き合っていくのだから、出来るだけ悪い印象をつけたくなかった。判断する材料が少ないので、どうしても悪い方向へ考えが傾いてしまうけれど、それも良くない事だと自分で分かっていた。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。自分の中の空気を入れ替え、内に溜まっていたモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。
「……よし」
両膝をパンと叩いて、信忠は勢いよく立ち上がる。クヨクヨしていても仕方がない。今は余計な事を考えず、最善を尽くすのみ。少しだけ悩みが薄らいだ信忠は、そのまま大広間を後にした。




